第76話 訪問
総理は警察署の正面玄関前で抜け殻のように立っていた。
雨はやや強さを増していて、肌寒い。
屋根を叩く音が一際力強く感じられた。
傘を持つ手がかじかんで、自分の意思で動かすことを許さない。
手が言うことを聞かない苛立ちからか、いつまでも総理はひたすらに自分のミスを悔いていた。
やすやすと奪われてしまった大事な証拠。
コピーを取っていたとは言え、原本である桃色の手帳をいとも簡単に盗まれてしまった。
奴こそが、ホタルイカ。
総理は恐怖と怒りの入り混じった複雑な心情に支配されていた。
確かに中村警部の容姿、間の取り方、言葉遣い、雰囲気までもが瓜二つであった。
間近でホタルイカに接し、違和感を覚えたのもつかの間、完全に奴のペースに呑まれ、結果的に大事な証拠品を失ってしまった。
総理は事の重大さを認識し、ようやくふつふつと心の中に自分への怒りがより一層湧いてくるのを感じ取った。
かじかむ手で傘を何とか握り締めた。
ちくしょう。俺は何をやっているんだ。
「すまん、和那」
ぼそりと、雨音にかき消されんばかりにつぶやいた。
このままではいけない。やられっぱなしではいけない。
何かしら反撃の手立てを立てなければ。
松坂の取り調べは午後から実施される。
その時には学校で大聖や和那と合流したいところだが。
昨日、自宅を訪れた「友達」の正体も掴んでいるとは言え、確認しておきたいところだ。
そうだ。一度、自宅に帰ろうか。
総理は、地面に膨れ上がる水たまりを見つめていた。
このまま、負けてたまるものか。
再び総理は、かじかんだ手で傘を握り締めた。
「ただいま」
総理はやっとの思いで我が家に辿り着いた。玄関は心なしか暖かった。
本来ならば、当然学校で授業を受けている時間である。
その時間に現れた総理を目の当たりにしたのは、母と姉の愛理だった。奥よりドカドカと慌てた様子で現れる。
愛理も普段大学のはずだが、今日は休講でも入ったのだろうか。準備半ばでだいぶリラックスしている様子だった。
2人は疲れ切った表情の総理を、顔を見合わせて迎える。
「どうしたのよ総理?こんな時間に帰ってきちゃって。まさか、サボり?」
「夕方から学校行くよ」
「何で夕方なのよ」
愛理が首を傾げる。総理は構わず靴を脱いだ。
「それまでは、安全な場所にいないといけないんだ」
「はあ?」
母と姉は総理の言葉の真意を当然、理解できずにいた。
総理がリビングルームに足を運ぶと、心配そうな表情の母と愛理も金魚の糞のようについてきた。
総理はどっかりとソファに体を沈める。自宅のこの解放感は言葉にならなかった。長く溜息をつく。
と、愛理も相向かいのソファに心配そうに腰かける。母は何かしら家事をするためだろう。
廊下へと引っ込んでいった。
取り残された姉弟。時計の時間を刻む音だけが静かに室内に響く。このままうたた寝してしまいそうだ。
だが、総理は愛理に尋ねなければならないことがあった。総理は愛理に言葉を投げ掛けた。
「姉貴。質問に答えてくれないか」
「何?どうしたのよ」
「昨日、俺を訪ねてきた奴らのことなんだけど」
「ああ、あの?飯尾君と和田君だっけ?」
「そいつらは本当の名前は違うはずなんだ」
「へ?な、何言ってんのさっきからアンタ」
「そいつらのうちの1人は、キザそうなニコニコ顔の少年じゃなかったか?」
「あー言われてみたらそうね。キザそうだけどちょっと落ち着きがあってニコニコしてたわね」
総理はそれを聞いて溜息をこぼした。
「やっぱりそうか。もう1人はどんな奴だった?」
「うーん、だいぶ体格の良い男の子だったかな?太っていると言えば太っているけど、スポーツはやってそうだね。ラグビーとか?なんか高校生離れした顔だったけど」
愛理の言葉に、総理はわからなくなった。体格の良い?太っているがラグビーをしていそう?どうにも誰のことなのか、皆目見当もつかなかった。ただ、体格が良いだけならば本物の飯尾かもしれないが、飯尾はスポーツをやってそうな雰囲気は無い。ましてや、優等生の松坂と不良の飯尾がつるむとは到底思えない。
一体、そいつは誰だ?もしかして俺たちの知らない誰か?なのか。
「てかあんた、何でそんなこと聞くのよ?いつも会ってる友達なんでしょ?その友達に対して悪いかもしれないけど、あの子たちなんかちょっと不気味だったよ。だから、借りてる物さっさと返しなさいよ」
総理は愛理の言葉に面食らった。
「は?借りてる物?」
ふーっと愛理は長い溜息を零す。
「何か?ノートか何かって言ってたよ?」
「ノート?」
総理は顎に手をやった。まさか。総理の脳裏に桃色の表紙の手帳がよぎる。ここは一度、家族を安心させておく必要がある。総理は嘘をついた。
「ああ。それならもう、返した」
言い放った総理の言葉に、愛理は安堵の表情を浮かべた。
「そう。それなら良かった」
よっと掛け声を上げて、ソファから立ち上がる愛理。その足でキッチンの方へと足を運んだ。
「何かあの子たち、ノート一冊でやたら殺気立っていた気がするのよねえ」
これはさすが横山家の血なのだろうか。愛理もさすが鋭い。愛理は冷蔵庫から栄養剤を取り出して一気に飲み干した。
総理はごくりと唾を飲み込んだ。
時刻は午後3時を回っていた。先程まで降り続いていた雨はようやく収まっていた。
ところ変わって聖征高校の校舎内。5限までを何事もなく消化し終えた校内に、1台の白黒のセダンがゆっくりと入っていった。
帰宅する生徒たち、部活動へと足を運ぶ生徒たち、各々のゆったりとした時間が流れていた。そこに現れた1台のパトカーはやはり異質であっただろう。生徒たちは好奇の目でその行く末を見つめる。
運転席にいるのは、絢音の姉である片岡。そして、助手席にはヤクザのごとき風体のサングラスを掛けた安藤。後部座席には中村警部がずっしりと構えていた。
「もう5限まで終わっているはずなので、ちょうど放課後の時間帯ですね」
優しい口調で言葉を紡ぐ片岡。
「けっ。世間は大変なのに、部活に恋愛に呑気な奴等だぜ」
安藤はガラスにいかつい顔をさらにしかめる。それをふん、と鼻で笑ったのは中村だった。
「それが普通なんだよ安藤。校内はあくまでも安全地帯。そして、校外が彼らにとっては危険地帯ってことさ」
中村も目の前の、校内ののんびりとした生徒たちの群れを見つめる。
中村の心はワクワクとしていた。ロスト・チャイルド現象の元凶を知る者に今日、近づくことができるのだ。
「そして今日、この安全地帯に潜む脅威に迫る」
拳をグッと握り締める中村。安藤もまた歯を食いしばる。片岡はハンドルを握る手に力が入る。
パトカーは職員用の駐車場に静かに停車する。意気揚々と降り立った3名は、そそくさと職員室へ通ずる通用口へと歩を進める。中村を先頭に、後ろから片岡と安藤が続く。
扉がやや軋むような音を立てて開かれた。傍らの昇降口には複数の生徒たちの談笑が響いている。3人がそれを横目に歩を進めると、正面の廊下に人影があるのがわかった。
その人影、直立で待ち構えていたのは初老の男性だった。
「お世話になります。教頭の大澤でございます」
大澤は不敵な笑みを浮かべて一礼した。
「埼玉県警の中村です」
中村は自らの警察手帳を大澤に示した。後ろに控える2人もそれぞれの警察手帳を差し出す。
「2年B組の松坂清太君はいますね?」
楽しい緊張感とでも例えられようか。中村はワクワクした気持ちを抑えきれずにいた。
「はい。松坂ともどもお待ち申しておりました」
大澤は皺だらけの口元をさらに歪めた。そして、廊下の奥へと来客3名を静かにいざなった。
昇降口では相も変わらず、生徒たちの快活な談笑が響いていた。




