第74話 変装
取調室のテーブルに目を落とす総理。
まさに犯罪者の尋問を受けている様子と酷似していた。
窓の外は変わらず、雨が窓を叩く音が響いている。
中村警部は落胆した様子の総理を慰めた。
買ってきたジュースの缶を総理に手渡す。
総理は顔を上げることなく、断った。
悔しい。
今はその思いで頭がいっぱいだった。
「ありがとう、大丈夫」
総理はか細く言った。
中村警部は総理の向かいの席に腰かけた。
「ホタルイカはそういう奴だ」
中村警部は窓の外を睨みつけて言った。
総理は未だにショックから立ち直れず、テーブルに視線を向けていた。
「この程度で落胆していては、身が持たないよ」
中村警部も窓の外を鋭く睨みつけている。
そして、目を瞑った。
「私は、奴に父を殺されている」
その言葉に、総理は心が跳ね上がる思いだった。
普段は凛とした中村警部の声色も、今回ばかりはどことなく弱々しさを感じた。
思わず、総理は顔を上げて中村警部を見つめた。
珍しく感傷に浸るような面持ちだった。
「そう、忘れもしない今から7年前の夏の日。上尾市での警察官殺人事件。黒衣のホタルイカに対して、職務質問をしようとした警察官である私の父を振り切る際に、取っ組み合いになり銃殺。たまたまその様子を目撃していた男子高校生も重傷を負わされている。全国でまだロスト・チャイルド現象が発生しておらず、東京都と大阪府を震撼させていたホタルイカ事件の発生直後のことだ」
中村警部は再び視線を窓の外に戻す。
感傷的な面持ちは変わらない。
窓ガラスを叩く雨に、瞬き一つしない中村警部の両目。
中村はその報を聞いて絶句した。
そして、その高校生にホタルイカ逮捕を誓った。
確かに頑固者で正義感の強い父だった。
しかし、中村にとっては心の底から尊敬できる父でもあった。
中村にとって父に追いつくことが目標だった。
その目標を失ってしまった中村は、その後はホタルイカの関わったであろう事件には積極的に介入していった。
ホタルイカを追うために、渦中の高校生にも積極的に接近し、会話を重ねて地道にホタルイカの情報を収集していった。
しかし、ホタルイカを知れば知るほど自分たちとは異次元の存在であることを思い知らされた。
例えば、ホタルイカはともかく証拠をしっかり残していく点であった。
殺人現場には必ず自分がやったとほのめかす手紙を置いていく癖があった。
さらに、使用する銃器も銃声が響き渡るタイプを好んで使用する。
そして、変装や予め用意していた脱出路を駆使して、追手からあっという間に逃げのびてしまうのだ。
まるで、追い掛ける者を嘲笑うかのようだった。
中村警部はこれまでホタルイカを何年間も追いかけていながら、未だにホタルイカの尻尾すら掴めない非力さを心の中で嘆いていた。
同僚らに、また逃げられてしまったことを話しても、「それは仕方ない」で済まされてきた。
変装技術に秀でており、銃器も所持しており、あらかじめ自身の逃げ道を準備しておく用意周到さ。
さらに、ここ数年はメイクのアシスタントを務める欧米風の少女を引き連れている。
ますます奴の逮捕が異次元なみに遠ざかっていたのだ。
「この世に、仕方ないことがあるだろうか」
中村警部は拳をグッと握り締めた。
総理はぼんやりとその様子を見つめている。
「いつか奴を捕らえて父の敵をこの手で討つ。そして、この不可解なロスト・チャイルド現象に終止符を打つ。この命を懸けても奴を死刑台に送ってやる。相手は同じ人間だ。できないことではない、ただ少し無謀なだけなんだ」
中村の握っていた拳がビキビキと軋むような音を立てた。
総理は壮絶な怒りの念を中村警部から感じ取った。
この感情は、それこそ一朝一夕で芽生える程のものではないだろう。
7年という歳月が育て上げた憤怒に他ならなかった。
ふと、中村警部は振り返って優しく笑った。
「勿論、協力してくれるよな総理君」
「もちろん」
総理はコクリと頷いた。
先程、俺を騙したことを後悔させてやる。
俺を本気にさせたことを。
と、ここで総理は先程の警察署到着からのやり取りでの違和感を思い出した。
総理は両目をカッと見開いた。
心臓が激しく揺れる。
「そういえば、中村警部。まだ、ホタルイカの仲間が警察署内にいるかもしれない」
「ほ、本当かい?総理君」
中村警部もつんのめりになって尋ねる。
総理は顎に右手をやって淡々と話し始めた。
「俺は確かに受付の中年女性に『2階の応接室に行ってください』って言われたんだ。そいつに案内されるまま、俺は2階の応接室に向かった。数分ほど待ってから、中村警部に変装したホタルイカが現れて、まんまと騙されたっていう流れだった」
「受付の中年女性だって?」
中村警部がしかめ面をする。
「今日はそうか、さっき私に電話してきたのは西口さん。おそらく君の言う中年女性だろう」
「ともかく受付に行ってみよう」
総理が椅子を跳ね除けて立ち上がる。
中村警部も椅子を蹴飛ばすように立ち上がった。
中村警部が先陣を切って、扉を勢いよく開けた。
時計は9時を回ったのだろう。
気だるそうに歩く署員の数が先程よりも増えていた。
2人はそういった呑気な署員たちを掻き分けて、廊下を突っ走っていく。
閉まりそうなエレベーターに慌てて駆け込む中村警部。
総理もすんでのところで追いつき、エレベーターの扉は静かに閉まった。
2人で汗だくになりながら息を切らしていると、この場にそぐわない同乗者が立っているではないか。
黒いサングラスにだらしなく太った体躯。総理は思わず身構えた。
「あ、兄貴。おはようごぜえやす」
見てくれにそぐわない丁寧なお辞儀で中村警部を振り返った。
安藤巡査である。
同時にエレベーターが1階に辿り着いたようだ。
「安藤か。後で手伝ってくれ」
そう中村警部がつぶやくと、エレベーターの扉をこじ開けるようにして、飛び出す。
総理もそれに続く。
「え?兄貴?何を手伝うんすかあ?」
安藤が遅れて飛び出そうとするも、エレベーターの扉に肉を挟まれてしまった。
中村警部と総理は1階受付に辿り着いた。
しかし、先程の中年女性とは別の中年男性と若い女性がそれぞれの席に座っていた。
「おはようございます、中村警部」
若い女性がまず頭をペコリと下げる。
その隣の中年男性も軽く頭を下げた。
息を整える中村警部と総理。中村警部がゆっくりと尋ねる。
「今日の出勤は西口さんじゃなかったのかね?」
中村警部の問いかけに、2人は顔を見合わせた。
「はい?今日の出勤は私、平尾と原ですが」
「西口さんは非番ですよ」
中村警部と総理は思わず、顔を見合わせていた。
どうやら、これもホタルイカの仕込んだトラップなのだろう。
「そうか、ありがとう」
中村警部が声を震わせた。
「間違いない、受付の女性にも変装していたようだ」
「そんなバカな」
総理は青ざめた表情を見せる。
中村警部が冷静に思考を巡らせた。
「おそらく受付の女性に変装して応接室に君を通し、その後、どこかトイレなどで僕の姿に再度変装し、君のいる応接室に現れたってところだろう」
「くそうっ」
総理もまた怒りが込み上げてきて、床を力いっぱい蹴り飛ばした。
どこまで俺たちをコケにすれば気が済むのか。
しかし、中村警部はどことなく嬉しそうな表情を見せた。
どうやら、総理もホタルイカに対して恨めしい気持ちを持ってくれたことが嬉しかったようだ。
「総理君、とりあえず戻ろう」
中村警部は優しく言った。
総理は未だに鬼のような形相を浮かべていた。
「一旦落ち着きたまえ総理君。まずは、例の日記のことを私に話してくれ」
総理はその言葉に我を取り戻した。
そうだ、それが目的だったのだ。
すっかりホタルイカの小細工に惑わされていた。
総理の表情がみるみるうちに冷静さを取り戻していく。
あやうく総理はここに来た真の目的を忘れてしまうところだった。