第73話 奪還
翌朝、出鼻をくじくように薄暗く寒い朝となった。
灰色の雲から雨粒がしとしとと降り注いで窓ガラスを叩いている。
雨音に叩き起こされた総理は、もぞもぞと分厚い掛布団から抜け出した。
室内はすっかり冷え切っていたので、速やかに寝間着から制服に着替える。
そのまま薄暗い廊下を出て、雨音がリズミカルに響く階段を降りていく。
リビングルームの窓ガラスにも雨粒のノックが響く。
そして、奥のキッチンではすでに制服姿に身を包んだ和那が、静かにご飯をよそっていた。
「おはよう」
総理が声を掛けると、寝ぼけ眼の和那が振り返った。
「総理さん、おはようございます」
雨音に掻き消されんほど小さい声であった。
「あんまり眠れてなさそうだな」
無理もない。
昨夜は手帳の情報が少々パンチの効いた内容となっていたはずだ。
総理はそのように考えていた。
実際は和那の中で1つの葛藤があったのだった。
雨音を聞きながら静かに朝食をとり、その後はニュース番組を一緒に観る。
さいたま市内でまたロスト・チャイルド現象の発生、行方不明者の発生が数名あったと報道された。
今回はさいたま市内のはずれに住む男子高校生らが行方不明となって1週間経過しているとの報道だった。
これももしかしたら、松坂が絡んでいるのだろうか。
おそらく違う学校なので、松坂本人が直接手を汚しているとは思わないが、松坂が指示出しをしている可能性もある。
そう思うと苦い気持ちになってくる。
総理はのそのそと学校用鞄に手を伸ばした。
これを警察の手に渡すことで、そんな世間に少しでも変化をもたらしたい。
再燃してきたやる気。
今日はこれからすぐに警察署へ行き、学校には寄らず、そのまま自宅へ帰ろうかと総理は考えていた。
「じゃあ和那、俺は先に行くぞ。昨日今日とありがとう」
総理がソファから立ち上がって、台所で皿洗いしている和那に声を掛ける。
和那は元気の無い顔を上げて、屈託ない笑顔を送ってくれた。
「いえ、進展がありましたらまたご連絡お願い致します」
「もちろんだ」
進展という言葉を聞いて、総理はソファに再び腰かけ、大聖に電話を掛ける。
時刻は7時を回ったところだ。
そろそろさすがの大聖も起き出してくる時間だろう。
案の定、大聖が寝ぼけた声色で電話に出た。
「大聖、今日は俺学校休む」
「おう。何だよ?どうした?」
ふああっと大きな欠伸が聞こえる。
この寝ぼけた状況なら、簡単に説明すれば大聖もわかってくれるだろう。
総理は口を開く。
「松坂がまた何か仕掛けてくる可能性が高いだろう?」
「あーまあ、そうだな。昨日お前ん家来たのって松坂だよなどうせ。そしたら、俺も今日は対策委員会出ないことにするわ。お前のこと絶対聞かれるだろうしなあ」
「そうした方がいい。ただ、和那は普通に学校に行くからそれだけ頼む」
「おっけー。何かあったら必ず連絡しろよ」
大聖はあっさりと総理の欠席を認めた。
担任の橋本にも、総理の欠席は大聖から伝えてくれることになった。
さて、これで今日の準備は全て整った。
玄関へと向かい、靴ひもをしっかり結び直す。
その間も、しとしとと玄関周辺を雨が叩いている。
靴ひもを結び終えたところで、総理は大きく溜息をついた。
そして、傘を持ち直し、鞄を背負い直すと、扉の外へと勢いよく飛び出していった。
新都心中央駅に1人で降り立つ総理。雨は先程から強さを増していた。
スーツ姿の人々がこぞってホームへと降りていく。
改札を潜り抜けたところで、総理は携帯電話を取り出した。
電話帳から中村警部を引き出す。
呼出音が緊張感を増幅させる。
と、すぐに中村警部の快活な挨拶が鼓膜をつついた。
「やあ総理君、朝早くにどうしたんだい?」
「ロスト・チャイルド現象の犯人について知り得そうな物を手に入れたから、中村警部に見て欲しいんだ」
「ほお、それは何だい?」
中村警部が興味深そうに尋ねる。
「犯人グループに寝返った女の子の日記なんだ」
「犯人グループ?日記?」
中村警部が怪訝そうに聞き返す。
総理は構わず続ける。
「ああ、証拠にはならなくても捜査の参考にならないかと。この日記にロスト・チャイルド現象で失踪した学生を収容している施設に、出入りしている人物の名前が書いてあるんだ」
必死に強い口調で説明する総理。
何とかまずは警察に一目見て欲しい。
そして、松坂へ事情聴取くらいは行ってほしい。
そうすれば、絶対にこちら側に流れが来る。
総理はそう考えていた。
総理は心の中で念じる。
と、根負けしたのか、中村警部は息を漏らした。
「わかった、ともかく一度見せて欲しい」
パッと明るい表情になった総理。
拳をグッと握り締める。
「すぐ大宮警察署に行きます」
総理は嬉々として電話を切って、傘を両手で持ち直した。
一刻も早く中村警部にこの日記帳を見て欲しくて、雨の中を総理はドタバタと短距離走のごとく疾走した。
途中、水溜まりを誤って踏んでしまい、誰かに怒鳴られたが気にしない。
と、ここでビルインのコンビニが目に留まった。
一応、日記帳の該当箇所のコピーを一部取っておくか。
総理は逸る気持ちを抑えて、念には念を入れるつもりでコンビニの中へと入って行った。
ややあって大宮警察署へと辿り着いた。
庁舎は大量の雨を浴びながら、そびえたっていた。
総理は出入口で立ち止まった。
何気なく4,5階はあろう建物の最上階部分を見上げる。
灰色の雲がうねりながら大量の雨を吐き出している。
思わず、ゴクリと唾を飲み込んだ。
意を決した総理は、1階の受付へと向かう。
どうやら準備をしている様子の中年女性が1人いるだけだった。
どうも早く来すぎてしまったらしい。
そこは反省しつつも、総理はその中年女性に刑事課の中村警部への訪問を伝えた。
すると、中年女性は怪訝な顔で総理を見つめていたが、言われるままに内線で中村警部に繋げた。
と、すぐに驚いた様子で総理に奥のエレベーターを指し示す。
「2階の応接室でお待ちください」
子供のいたずらくらいに思われていたのだろう。
ちゃんと約束していたのだ。
総理は何となく勝ち誇った気持ちで、エレベーターに滑り込むように乗り込んだ。
行先は、2階の応接室だった。
2階のボタンを連打する。
2階に辿り着くと、薄暗くシーンと静まり返っていた。
誰もいない廊下。
やはり、早すぎたか。
総理は恐る恐る廊下を進んでいった。
刑事課の大きな部屋。
そして、その隣には取調室があり、その隣に応接室の扉が静かに佇んでいた。
総理はすぐさまその扉をこじ開けた。
中には、まだ中村警部の姿はなかった。
部屋の中央には来客対応用のテーブルと、粗末なパイプ椅子が相向かいに2脚ある。
そして、壁際には分厚いファイルが何冊も乱雑に置かれた本棚がそびえる。
一体これは何の資料であろうか。
総理がしばらく立ち尽くしたまま見つめていると、神妙な面持ちをした中村警部が現れた。
「やあ、総理君。この間の玲奈君の病院の時以来だね」
「久しぶりです、中村警部」
総理は軽く一礼すると、目の前のパイプ椅子に腰かけた。
中村警部も奥のパイプ椅子にどっかりと腰かける。
「さて、早速なんだけど、犯人グループの女の子の日記とやらを手に入れたと」
中村警部が突如、鋭い目つきに切り替わった。
総理は何故か寒気を感じた。
しかし、ふと我に返って鞄の中からピンク色の手帳を取り出した。
中村警部はそれを受け取ると、うーんと息を漏らす。
そして、紙をやや乱雑にめくり出す。
何かがおかしい。
中村警部ならばもう少し丁寧にものを扱う気がするのだ。
これが中村警部の仕事モードならば仕方ないのかもしれないが、総理は嫌な緊張感を覚えた。
「これのどこが捜査の参考になりそうなんだね?」
中村警部が手帳から顔を上げることなく、尋ねる。
総理は我に返った。
「ああ、先週の日記ページだ」
総理は中村警部が手に持つ手帳の紙をめくって指し示す。
昨日確認した文章を指し示しながら、総理なりの推察も交える。
「このページにある通り、うちの大宮聖征高校2年B組の松坂清太がロスト・チャイルド現象の何らかに絡んでいるのは間違いないんだ」
総理の言葉を無視するように、中村警部が鋭い目つきで該当箇所を睨みつけていた。
何やらとてつもない憤怒のような感情を感じる。
そして、何故か恐怖を覚える程度の憤怒だ。
総理はすっかりと圧倒されていた。
「わかったありがとう。これは預からせてもらうよ。近く警察署から署員を送って松坂清太に事情聴取をしてみよう」
「ありがとうございます」
総理はようやく晴れやかな気持ちに戻れた。
ようやくこれで警察の力を借りて、松坂を追い込むことができる。
松坂もロスト・チャイルド現象の関係者と立証されるのも時間の問題だろう。
がんばった甲斐があった。
「それでは私はそろそろ失礼するよ」
中村警部がまるで左手で顔を覆い隠すようにして応接室をそそくさと出て行った。
右手にピンク色の手帳を抱えたまま。
そのスーツの後ろ姿を総理は黙って見つめていた。
総理は嫌な予感がした。
中村警部が立ち去るまで、何故か胸騒ぎがしたのだ。
しーんと静まり返る応接室。
雨粒がパチパチと外の窓ガラスを叩いているのがようやく聞こえてきた。
総理はスッと立ち上がると、そのまま応接室を飛び出した。
と、その飛び出した廊下で遭遇したのは驚いた表情の中村警部だった。
総理はハッとした。
「総理君、どうしたんだい?こっちの取調室にいたのに」
「え」
中村警部が指差したのは、応接室の隣にあたる取調室だった。
頑丈な扉で中の様子が把握しづらい。
総理はサッと血の気が引いていくのを感じた。
「そんな。俺は今さっき、この応接室で警部と」
「応接室?そんな僕は確かに取調室と」
「まさか?やられた」
総理は全てを察した。
俯き、震え出す。
ここまで用意周到にできるのは、ホタルイカだろうか。
変装の達人。
まさかこの警察署内にも侵入しているとは知らなかった。
ただ、先程、応接室で話をした中村警部に対して感じた違和感や圧力については納得がいく。
そう、総理が話をしていたのは中村警部ではないのだから。
総理は背中に冷や水を垂らされた感覚に襲われた。
「おい、一体、どうしたんだね?総理君」
がっくりとうなだれる総理の体を揺する中村警部。
そこへ、藤原が千鳥足で現れた。
言っておくが、これは決して酔っ払っているわけではない。
藤原の歩き方がなよなよしているだけなのだ。
中村警部がすぐさま藤原に怒鳴りつける。
「おい藤原君。君は今日、駅前交番の勤務だろう?」
「え、ああ、はい。わ、忘れてました」
鼻水を垂らしながら、気持ち悪い笑顔を浮かべる藤原。
「忘れてましたじゃないだろう。勤務交代の時間なんだからさっさと行きたまえ。よその部署に迷惑をかけないでくれ」
「へ、ああ、は、はーい」
中村警部が怒鳴り散らすも、藤原は反省したのかしていないのかわからない様子でヘコヘコしていた。
そして、とても急いでいるようには見えないスローな動きで廊下をトボトボとと遠ざかっていく。
その間も、総理は唖然として立ち尽くしていた。