第72話 分岐点
総理と和那は神妙な面持ちで目の前のテーブルに置かれた一冊のピンク色の手帳を見つめていた。
和那は髪の毛を乾かし終え、後ろ手に髪の毛を結んでいる。
時刻は既に午後10時を回っていた。外では猛烈に冷たい風が窓ガラスを叩きつけている。
「これが、俺が松坂に追われている理由だ」
緊張感に満ちた表情で総理は手帳を見つめる。
和那には何が何やら掴めずにいた。
顎に手をやって思案している。
目の前のピンク色の手帳をまるで珍獣を見るような目で見つめる。
「これは、松坂さんの手帳ですか?」
「いやいや、男が使わないだろうこの色」
総理が手帳を手に取って、裏表紙を開いた。
すると、備忘録のページに氏名や住所、電話番号が几帳面に書かれていた。
「いせき、さとみ?まさかこれは、対策委員会の井関さんの手帳ですか?」
和那は驚いた。
何故、後輩の女子生徒の手帳を総理が持っているのかわからなかった。
「ああ。実は湯浅が井関から盗んで、ある方法で俺に渡してくれたんだが」
総理が手帳を表向きに戻し、数枚めくって見せた。
入手経路にやや安堵する和那。
緊張感が2人から滲み出ている。
「この見開き2ページで1週間の予定が書き込めるページに、びっしりとその日起きたことが書かれているんだ。実際、井関は普段からこの手帳を持ち歩いていて、事あるごとにメモをするくらいのメモ魔だった」
開かれたページは今年の初めつまりは中学生時代の記述だが、受験勉強で実施したことや先生からのアドバイスなどが几帳面に書き込まれていたのだ。
もはやここまでびっしりと書き込む姿勢には驚嘆する。
しかし、これを見て総理が松坂に狙われる理由が和那には見えてこなかった。
「これのどこが、総理さんが松坂さんに追われる理由なんでしょうか?」
和那が回答を急く。
総理は再びページを大量に進める。
「おそらく、先週末くらいに井関は松坂によって支配されたんだ。その方法やら経緯がここに記載されているんじゃないかと」
「支配」
和那がつぶやく。
手帳には今週分の記載が全くなく真っ白だった。
湯浅が月曜日、つまりは昨日のどこかでこの手帳を手に入れたのだから当然だ。
そして、先週の見開きページを開くと、そこまでは黒々とした文字の羅列が認められる。
「問題の記述がこの辺りにあるはずだ」
総理はゴクリと唾を飲み込んだ。
そして、駆け足で黒い文字を流し目で追う。
和那も恐る恐る文字を目で追う。
金曜日。つまり総理が美稀に連れ去られてしまったその日だ。
兄にようやく巡り会えたという旨の記述が目に留まった。
ここでは井関の驚きの心境が中心に書かれていた。
そして、ようやく自分が報われたと。
松坂さんが救出し、引き合わせてくれたとの記述が認められる。
そして、土曜日。ここから目に見えて文章量が増えていた。
池袋で渡邉という人物に津田と共に会食。
「松坂さんが黒い人ではないか」と尋ねると態度が激変。
そのまま帰ってしまった。
その後、松坂さんと遭遇し、新宿の高層ビルで夕飯。
そして、半ば強引にホテルに詰め込まれて襲われる。
失神して何も覚えていない。
でも、とても気持ちが良かった。
完全に清太さんに骨抜きにされた。
清太さんのロスト・チャイルド現象に対する意見に共鳴した。
清太さんはロスト・チャイルド現象撲滅に向けて真剣に考えている。
清太さんが誘拐された人とコンタクトを取れるポジションなんだってよくわかった。
私は清太さんを信じて生きていくことを決めた。
「ここがやはり、分岐点か」
総理は土曜日の欄を指差した。
松坂の呼称がファーストネームになっているのも関係の深さを示している。
と、和那には刺激が強すぎたためか、慌ててトイレへと駆け込んでいった。
総理も気持ちの悪さを覚えていた。
まさか、松坂が強引に井関を襲っていたというのには驚きだ。
男として最低の行為だろう。
思わず、拳を強く握り締める。
わなわなと震える拳。
ややあって和那が具合悪そうに戻ってくる。
口元をペーパータオルで拭っている。
和那が力なくへたり込むように座ると、深々と頭を下げた。
「お見苦しいところを申し訳ございません」
「いや、仕方ないさ」
和那が青白い顔を上げる。
そして、軽蔑するかのような目つきでピンク色の手帳を睨む。
「本当にひどいです」
「松坂はそういう奴さ。優等生の仮面を被った、最低な男だ」
総理は手帳から目を離さず、次の日曜日の欄を読み進めた。
ここから松坂の記述と総理を目の敵にする記述ばかりが目立つ。
日曜日の欄。清太さんの家の近くの新都心中央で買い物デート。
清太さんを貶めようとしている横山たちがいた。
本当に許せない。
家に戻って、清太さんが夕方から求めてきて夜まで。さすがに疲れた。
明日からまた学校だけど、こんなに勉強しなかったの久しぶり。
宿題だるいけど、片付けよう。
清太さんのためになるなら仕方ないかなあ。
「なるほどなあ。俺が松坂を貶めようとしているわけか。傑作だ」
ふふっと笑う総理。
上等である。
よくもここまで平然と嘘を言えるなと感心した。
総理の心に宿る怒りの炎。
これを湯浅も間違いなく目を通しているだろう。
湯浅もこれを見てどう感じたのか。気になるところである。
再び拳を強く握り締める総理。
和那は不安そうに総理の拳を見つめる。
「決めた。明日、俺は学校を休む」
「え?何故ですか?」
両目を見開いて和那が尋ねる。
総理は拳を握ったまま、唾を飲み込んだ。
「まだまだこれを読み込んでみるが、これを明日警察に持って行こうと思うんだ」
「証拠とかになるんでしょうか?」
「証拠にはとてもならないだろうけど、警察の捜査の助けにはなるんじゃないか?松坂が誘拐された人たちとコンタクトを取れるポジションとまで書いてあるんだぜ」
「そうですね」
和那もゆっくりと深く頷く。
「絢音ちゃんに言うのはまずいんでしょうか?」
「ああ、あの子か」
総理がうーんと唸る。
絢音ちゃんとは対策委員会の1年生である片岡のことである。
優秀な判断力や観察眼があり、警察官の姉を持つ人脈力もある。
要は片岡に伝えたことがそのまま、現役警察官に話が行くのだ。
が、片岡には短所もあった。
レスポンスが異様に遅いのだ。
総理はそれを危惧していた。
「あの子、やたらとマイペース過ぎないか?別に強要する気はないけど、連絡とか一切向こうから無いし。こういう急ぎの案件には合わないだろう」
「確かに全然来ないですね」
和那もこれには同調する。
「まあそれに、何人か介してしまうと松坂やホタルイカにどこで情報を掬われるかわからない。やはり中村警部直通ってのが一番安全だろう」
「そうですね。それなら私も明日、警察署へ行きますよ」
和那が真摯な目を総理に向けた。
しかし、総理は首を横に振った。
「いや、和那は普通に学校に行ってくれ」
「え?私を信用してくださらないんですか?」
両目をうるうるとさせる和那。
総理が落ち着かせようと宥める。
「信用してるよ。だけど、言ったろ?お前はもう少し自分を大切にしろって。受験勉強がある実だろう。それに、俺と和那が2人で急に休んでたら、松坂がお前も狙い出すかもしれないだろう?せっかく安全に対策委員会を抜け出せたんだし」
「でも、そもそも楠田さんが、私と総理さん、大聖さんとの関係を知ってません?それを松坂さんが耳にしたら結局私は狙われますよね?」
総理は一瞬迷ったが、ここでも首を横に振る。
「松坂はもう楠田を信用していない。俺の捕獲に失敗した翌朝に、楠田は顔面ボコボコにされて登校してきたんだ。おそらく、松坂の仲間にやられたんだろう」
「そうなんですか?本当にひどい方ですね、松坂さんは」
和那は息を呑んだ。
総理は咳払いして和那に言った。
「だから、そのうち楠田の気持ちも切れるかもしれない。いや、もう切れているかもしれない。そこで一気に勝負を掛けたいんだ」
「うーん、そういうものですか?本当は私のことが信用できないだけじゃないですか?」
和那が珍しく不信感を忍ばせた視線を総理に向ける。
総理は再び和那を宥める。
「本当だ。明日、学校が終わったらまた和那の家で合流するから。な?」
「わかりました」
和那が納得していない様子で立ち上がった。
やや頬を膨らませている。
どうやら総理の言葉をあまり信じてくれていない様子だ。
ここまで和那がわかってくれないのは珍しい。
一体どうしたことだろうか?
和那が無表情で振り返る。
「おやすみなさい」
扉が心なしか乱暴に閉められた、ような気がした。
総理は溜息を零した。
和那は扉に寄りかかって肩を落とした。
総理さんはわかってくださらない。
私は、総理さんと一緒に行動していたいだけなのに。
作戦だから仕方ないけれども。
言葉では信用してると言ってくれているが、本心ではどうなのか。
そもそも総理は美稀と両想いなんじゃないか、と和那は思っていた。
それを感じた時がある。
和那と美稀が2人で初めて遊んだ日に恋バナをする時間があった。
総理と大聖の2人が幼馴染であることを告げた美稀の目。
本人は気づいていなかったろうが、あれは明らかに恋をしている時の目だった。
おそらく、美稀は総理のことが好きなのだろう。
そして、総理も「美稀が黒い人だ」と和那に暴露した時のうろたえよう。
あそこまで精神的に余裕を無くした総理を見たのが初めてだった。
それらのことから、この2人は両思いだ。和那はそう感じ取っていた。
勿論、和那にはわからないことだが現実は違う。
しかし、和那の知り得た情報ではそう感じ取っても自然だった。
気が付くと両目に熱い雫が溜まっていた。
和那が驚きのあまり、体をビクッと震わせた。
すると、いとも簡単に熱い雫が廊下の床を叩いた。
「馬鹿ですね、私」
和那は右腕で両目を力いっぱい拭う。
そして、そのまま自室へと静かに入っていった。




