第69話 搾取されるもの
松坂は押し黙って、目の前で映画のように繰り広げられる、一方的な暴行を見つめていた。
傍らには井関、ではなく別の女性が松坂の肩にこうべを垂れている。
小綺麗に整理整頓された、いかにも富裕層の住宅と言った内装である。
シャンデリアやら立派な木彫りの熊の置物、正面にはテレビモニターではなくプロジェクターがある。
ふかふかのソファにだらしなく腰かけているのは、爽やかな笑みを浮かべる松坂とおそらく大学生と思しきギャル風の女性。
女性は松坂にぞっこんの様で、頬を赤らめ、時折いとおしそうに松坂の肩に頬を擦り付けている。
そして、リビングルームの奥で繰り広げられている圧倒的で一方的な暴行。
心地良いくらいリズミカルに拳と血液、悲鳴が飛び交っている。
いかにも筋肉質で体育会系のマッチョ男が、これまた体育会系だが細身の男を、ボコボコに一方的に殴打しているのだ。
しばらく顔面に拳を浴び続けていた男は、1年の津田だろうか。
だが、顔面が変形し過ぎて凸凹、そして血塗れになっているために誰だか判別はつかない。
「早く吐けよコラ」
筋肉質の男が血に染まった両手で、相手の男の襟首を引っ掴んだ。
津田はゴホゴホッと血を噴き出しながら、何かを喋ろうとするも、肩で大きく呼吸するのみになっていた。
どれだけの時間、拳を浴び続けていたら、ここまで顔が変形してしまうのだろうか。
考えただけでも恐ろしい光景がこの一室に広がっている。
「おい細川、さすがにやり過ぎだろう」
ふかふかのソファーに優雅に腰かけていた松坂は鋭い口調でたしなめる。
しかし、心のどこかでそれとなく楽しんでいる様子も窺える。
細川と呼ばれた筋肉質の男は面目無さそうに松坂を振り返る。
「旦那すみません」
「お前の悪い癖だ。手加減しないと尋問にならないだろう。お前の快楽が目的じゃないんだ」
松坂は擦り寄る女性を邪険に振り払うと、目の前のテーブルに置いてあった冷水のピッチャーを手に取った。
そして、2人の男の前へと歩み寄っていく。
すっかり血まみれになった津田の前に立つと、ピッチャーの中の冷水を津田の顔面に叩きつけるようにぶちまけた。
「ごはあ」
津田は傷口に染みる冷水を振り払おうと暴れ出す。
しかし、血染めの顔面は洗い流された。
代わりに両頬も唇も腫れ上がり、鼻はひん曲がって、両目も目蓋が中途半端に閉じた、凸凹の顔が姿を現した。
「おい津田。どこにあるんだ?早く吐いて楽になれよ」
松坂はにんまりと笑って言う。
細川にはあのように説教しておきながら、随分自分も楽しそうな表情である。
津田が呼吸を整えながら言葉を零した。
「し、知るかボケ」
津田が白い歯を見せて笑う。
すると、次の瞬間、津田の左頬に鋭い鉄拳が叩き込まれた。
細川と呼ばれた筋肉質の男が繰り出したのだ。
津田の口内から大量の血が溢れ出すと同時に、歯が3,4本ほど床の上に飛び跳ねた。
津田の口の中が一気に熱くなる。
頬にじんわりとした痛みが広がり、口内を激痛が襲う。
「ぐわあーーーーー」
津田はひん曲がった口を、両手で必死に押さえてその場に倒れ込む。
しばし、床の上でもがき苦しむ津田。さらに細川が右の手を宙に振り上げたが、
「おい、やめろ細川。別の犯罪になるじゃないか」
松坂が右手で細川を制する。
津田は床の上で小刻みに震えていた。
どうやら激痛のあまり、失神してしまったらしい。
「どちらにしてもこのままじゃ生かしておけねえっすよ旦那。俺らの顔も見られてるわけだし、手帳も隠し持ってるかもしれないし」
興奮気味の細川が再び右腕を宙に突き上げた。
すかさず、松坂がその右腕を掴んで止めた。
「やめろ。落ち着け」
語気を強める松坂。
叱りつけられた犬のようにおとなしくなる細川。
振り上げた右腕を細川は静かに下ろした。
と、津田の股間が徐々に濡れていった。
生暖かいその液体に細川と松坂は思わず鼻をつまんだ。
それが終わると、再び津田は小刻みに体を震わせ始めた。
「く、こいつ漏らしましたぜ旦那。床もびしょ濡れだ」
「いいよ。こいつも大澤に浦安へ運んでもらおう」
松坂が女性に携帯を要求する。
女性はテーブルの上の松坂の携帯を山なりに投じた。
松坂は見事にキャッチすると、そのまま大澤教頭へ電話を掛けた。大澤にはすぐに繋がった。
「大澤か?今、どこだ?」
しばし、室内に静寂が訪れる。
細川と女性は松坂に視線を投げ掛けている。
津田は未だに小刻みに震えている。
「新都心中央か。ちょうど良かった。僕の家に来てくれ。もう一体、運んでくれよ」
松坂が細川に右手で合図を出す。
すると、細川が嬉々とした表情を浮かべた。
そして、なおももだえ苦しんでいる津田の体を起こす。
津田の首に鋭いチョップを繰り出した。
津田は再び床の上で悲鳴を上げることもなく、再び苦しみ出した。
喉が潰されようで悲鳴を上げることができなかった。
そして、近くの引き出しから慣れた手つきで結束バンドとブルーシートを取り出した。
細川は手慣れた手つきで両手首と両足をそれぞれ結んだ。
その後、ブルーシートにこれまた慣れた手つきで津田を包み込み、結束バンドで入念に縛り付けた。
電話を切った松坂が細川に言う。
「おい、息はできるようにしとけよ」
そして、女性にも床の上に転がった数本の歯を回収させるよう、指差して命じた。
女性が渋々モップと濡れ雑巾を運んでくる。
松坂は溜息をこぼす。
井関の手帳が見つからない。
それに関して昨日、松坂は井関に罵声を浴びせた。
井関は何が何なのかわかっていなかった。
松坂からすれば井関が松坂と付き合うことになった経緯や、兄と会わせてもらえるかもしれない、松坂がいわゆる「収容所」である浦安に出入りしている、ことなどを事細かに記載している手帳が世に出ることは許されなかった。
井関はただ自分の手帳を失くしたという意識だけで、そこまで深く考えてはいなかった。
つまり、それはロスト・チャイルド現象の実行犯が松坂清太である、ということが世間に広まってしまうということだ。
それは、松坂の人生の終了と言っても過言ではないだろう。
常にエリート街道を突っ走ってきた松坂は、高校を出ても難関大学に入学し、事業を起こし、成功者として生きていく。
松坂はそんな野望を抱いていた。
その計画を崩す者は誰であっても許さない。
その手帳を湯浅にまず奪われたことを井関から確認した。
だが、湯浅の少なくとも学校の荷物には見当たらなかった。
その後、服を脱がせて身体検査までした。
しかし、出てくることは無かった。
そこで、井関や湯浅の友人である津田を疑い、放課後に1人呼び出し、ここ松坂の自宅まで連れてくることに成功した。
どうやら津田は井関に惚れていたらしい。
津田は売られた喧嘩をいとも簡単に買った。
しかし、細川に見事に返り討ちに遭い、尋問しても知らないの一点張り。
本当に津田は知らないのだろうか。
それでは一体、手帳はどこに消えてしまったのか。
考えられるのはあと1人。
「ねえ、清太。今日夕飯を一緒に食べる約束でしょう。お店予約したの?」
モップと濡れ雑巾で床清掃をきっちり終えた女性が、立ち尽くす松坂の腕にまとわりついた。
松坂は鬱陶しそうに振りほどく。
女性は不機嫌そうな表情を浮かべる。
「横山総理」
ぼそりとつぶやく松坂。
「ええ?」
女性が怪訝な表情で松坂を見つめる。
突然、松坂がこぼした聞き慣れない単語に驚いた。
「やっぱり、あいつしかいないな」
松坂は、キッチンの水道で両手の血を洗い流す細川を振り返った。
細川は丹念に両手を拭っている。
「細川。大澤にそいつを届けたら、お前の車を出してくれないか?」
「え?夕飯行ってくれる気になったの?」
女性はうっとりとした表情を見せた。
しかし、松坂の言葉は夕食とは程遠いものだった。
「県庁前の横山総理の自宅に行く。あいつをかっさらうぞ」
女性は大口を開けてうなだれた。
構わず、松坂と細川は会話を続ける。
細川は熱っと短く叫んで両手を引っ込めた。
「場所はご存知ですか?俺は知らないんですが」
タオルで両手をくるんだ細川が尋ねると、松坂は自信ありげに頷いた。
「ああ、この間、ホタルイカ様が一度行ってみたとのことだ。僕が把握しているから大丈夫だ」
細川は不気味に笑って舌なめずりをした。松坂も楽しそうに微笑む。
「承知致しましたぜ旦那」
そして、ブルーシートにすっかり包み込まれてしまった津田に、松坂は悪態を突き始めた。
「残念だったな津田。お前の好きな女は今、完全なる俺の奴隷さ。お前は搾取される側の人間なんだ。好きな女も何もかもな」