第64話 井関vs湯浅
ほぼ同時刻。
こちらは1年A組の教室だった。
ちょっとした事件が起こったのだった。
朝からふさぎ込んだ様子の井関が、昼休みにポツンと1人寂しく弁当箱をつついていた。
井関は、以前までは湯浅に限らず多くの友達を抱えていたのだが、それも僅か2日で周囲から敬遠されるようになってしまった。
ほとんど必要最低限の会話しか交わしていない。
やはり女子生徒たちの噂の広がりっぷりは本当に早い。
原因は勿論、新しい「彼氏」にべったりなせいだ。
その様子を遠目から見ていたのが湯浅だった。
津田は体調不良だと言って今日は休んでいる。
こちらはおそらく精神的な部分の不調だろう。
湯浅も心の中にしばらくつっかえているものが取れない状態が続いていた。
もう井関とともに歩んでいくことはないんだろうなあと感じていた。
しかし、以前津田にも言ったように、まだ心の中で井関を信じている自分がいた。
中学校からの付き合いで、誰よりも時間を長く共有してきた自負がある。
プライドが人一倍高く、意見を一切曲げない頑固さが傷だったが、優しい心の持ち主なのだ。
そして、湯浅は松坂に簡単に親友を捕られてしまった自分自身を情けなく感じていた。
自分がもっとしっかりしていれば、もっと井関に寄り添ってあげられたら、こんな事態にはなっていなかったはずなんだ。
今日がチャンスじゃないのか。
今日はどうやら松坂に一度も会いに行っていない。
おそらく松坂は学校を休んでいる?
それ故に井関の元気がないのか。
湯浅は総理に慌てて確認のラインを打った。
松坂は休みなのかどうか、と。
返信は意外にもすぐに来た。
「休みだが、どうした?」
その返答に湯浅は心の中でガッツポーズをした。
これはチャンスだ。
今日、井関を説得するしかない。
ただ、ここに来て湯浅はどう説得しようか心の中で悩んでいた。
井関を説得するにしてもできるかどうか、頭が良くて考え方に偏りの大きい井関を説得させるのは至難の業だ。
とても自分にできることではない。
しかし、このまま放置しておくと井関は松坂に弄ばれるだけ弄ばれ、本来の目的である井関兄の奪還という目的も達成することができなくなる。
ただ、そこは井関もブレてはいないはずだ。
そこをいかに説得するかがカギとなるのだが、どう説得するのか。
自分よりも数倍、数十倍も賢い井関に対して、だ。
必死に湯浅は無い頭で考えた。
考えに考え、捻り出した。
これは理屈じゃない。
湯浅は首をぶるぶると振って頭を抱え込んだ。
そう、理屈で解決する問題じゃない。
感情だ。
感情で揺さぶるしかないのだ。
自分がいかに井関を心配しているのか、そして、兄を奪還する目的と松坂の危険性を感情で訴えるのだ。
そして、感情レベルでの会話だからこそ、長年の付き合いを経験した自分しかできないのだ。
ようし。
湯浅は拳をグッと握り締めた。
湯浅は背後から井関の席へと向かっていた。
心臓の鼓動がうねり出す。
親友に話しかけるだけで、ここまで緊張しないといけないとは思わなかった。
「ねえ、さ、聡美」
声が上ずって震え出す。
井関はゆっくりと振り返った。
心なしか視線に圧力を感じる。
あからさまに警戒しているのが見て取れた。
「ちょっと話があるんだけどー」
湯浅が絞り出すように続ける。
言葉1つ1つを絞り出すだけでも、これほどのエネルギーを消費するとは思わなかった。
未だにべったりとへばりつくような視線をぶつける井関。
「何?話って」
無味簡素な返答が返ってきた。
湯浅は自身を奮い立たせるようにして言った。
「ちょっと来てー」
半ば強引に井関の腕を掴み、そのまま教室の外へと連れ出す。
廊下にも多くの生徒たちが行き交っているため、校舎の屋上へ連れ出すことにした。
階段をのぼりながら、湯浅は緊張で頭がいっぱいだった。
言い返されるのではないか。
笑われるのではないか。
論理的に話すことができないから、感情に頼って伝えるしかない。
伝わるまで、伝えてやる。
軋むような音を立てて、屋上へと続くスチールの扉が開かれた。
相変わらずの曇天が絶え間なく広がる灰色の空。
空に湯浅を応援している気配はかけらもなかった。
気は進まなかったが、ここまで来てしまったのだから戻ることも考えられない。
「ねえ、何?」
話す心の準備もする間もなく、井関が苛立ちを露わにした。
眉間にしわを寄せている井関。
対してビクッと体を震わせる湯浅。
勝負するしかない。
湯浅は拳をグッと握り締めた。
「聞きたいんだけどさ、聡美は今のままでお兄さんに辿り着けそうなのー?」
振り絞った言葉が風にさらわれていく。
シーンと静まり返る屋上だったが、緩やかな風が2人の間に絶え間なく流れる。
肌寒い。
「何が聞きたいの?」
井関が逆に質問する。
遠回しの質問だったが、はっきり言えということか。
湯浅は意を決して井関に向き直った。
「いや、だからさー松坂さんと一緒になったのはいいけど、結局お兄さんには辿り着けそうなの?って聞いてるのー」
今度は、やや煽り気味に湯浅は尋ねた。
井関は悔しそうな表情を見せる。
「清太さんの言うこと聞いてればそのうち会わせてくれるって約束だもん。心配ないよ」
「そんなことするわけないでしょー。あんなクズ人間が」
湯浅の強烈な言葉に、井関の脳味噌の血管がプッツリと切れてしまったのか。
井関は怒り狂って湯浅の胸に掴みかかった。
「取り消しなさいよ。いくら裕子だからって清太さんをそんな風に言うなんて」
「私、見たんだからねー聡美の手帳の中身」
湯浅は悲しげな表情を見せた。
井関はハッと息を漏らした。
「アンタが盗んだのね?私の手帳」
「聡美が新宿で松坂に弄ばれたことも、それからの感情の変化も。そして、松坂に身も心も捧げる決心をしたことも。全部」
湯浅は何かのタガが外れたかのようにまくし立てる。まるで何かが乗り移ったかのようだ。
「聡美にそんなひどいことする奴なんか、クズ野郎でしかないじゃない」
「やめて」
井関は甲高い悲鳴を上げ、湯浅の口を両手で塞いだ。
「やめないよー。ねえ、もう本当はわかってるんでしょ?あいつがお兄さんをさらった立場だから、自由にお兄さんを出し入れしてるだけなんだって。そのくらいわかってるんでしょ?何でそんなにあいつの肩を持つの?」
「違う」
「違くない」
延々と繰り広げられる口論。
そこに、無情にも次の時間の予鈴が鳴り響いた。
井関が湯浅から手を離し、そのまま屋上から立ち去ろうとした。
しかし、湯浅は負けじと井関の右腕を掴んだ。
「まだ話は終わってないよー」
「離して」
「私はあの手帳を警察に持ち込もうと思ってるよー」
その言葉を発した途端、井関の表情が一気に強張った。
釣り上がった血走る両目。
鬼気迫る表情を見せている。
湯浅は一瞬圧倒されそうになったが、何とかすんでのところで持ちこたえる。
「警察と繋がっている対策委員会の生徒がいるからーその人に相談するよ」
自分は1人じゃない。
そう思い直したせいか、その言葉がスッと出てきてしまった。
その言葉を発してしまってから、湯浅は一気に後悔することとなる。
「誰?」
地底から鳴り響くかのような低い声で唸る井関。
湯浅は全身の血の気が引いていくのを感じた。
自ら犯してしまった失言と、井関の変貌ぶりに戦慄していた。
まずい。これでは仲間を売ってしまったのと一緒だ。
そして、ここにいる人間は本当に私の知っている井関聡美だろうか?
湯浅は目の前の現実に混乱し切っていた。
「え、あ、いや」
湯浅はたじろいでいた。
井関はしばし血走った両目で湯浅を睨みつけていたが、すぐに屋上の扉を押しのけて飛び出していった。
井関が姿を見せなくなってから数分後だった。
湯浅はその場に力なくへたり込んだ。
まるで抜け殻のように、しばらくの間、微動だにできなかった。