第60話 再登校
武蔵大宮駅前のとあるファミリーレストランは今日もざわついていた。
まだまだ高校生たちの間にロスト・チャイルド現象の怖さが浸透し切ってはいない様子だ。
呑気で羨ましいと思っているのは、彼らから少し離れた隅っこの席でコーヒーを口に運ぶ湯浅裕子だった。
その相向かいの席には、意気消沈としている津田の姿があった。
顔面は蒼白で、まるで抜け殻のように微動だにしない津田の視線が、目の前に注がれたドリンクバーのグラス内のメロンソーダに注がれている。
津田は湯浅から全てを聞いていた。
井関と松坂が関係を持ったこと。
そして、2人が付き合い始めたこと。
そして、何よりも松坂がロスト・チャイルド現象の黒幕でありながら、あわよくば自分を無実に仕立て上げ、全ての罪を総理たちになすりつけようとしていること。
そして、その考えを井関が心の底から信じ切っており、すっかり松坂に心酔してしまっているということ。
津田は湯浅から話を聞いているうちに、突如として吐き気を催したが、すんでのところで嘔吐するのを耐え抜いた。
湯浅も話していて反吐が出るくらい気持ち悪かったが、少しでもこの状況を理解してくれるのは津田だけだと信じていた。
津田の精神的ダメージは相当のものであった。
自分の好きな女が他の男に捕られてしまったのはさることながら、すっかり洗脳され切ってしまって、犯人側に言いように使われてしまっているのだ。
胸糞悪いことこの上ない。
湯浅もまた井関との親友関係に終わりを告げた。
今までお互い心の全てをさらけ出していた関係であったからこそ、湯浅はこの井関の変貌ぶりを許すことはできなかった。
しかし、井関が全て悪いわけではないこともわかっていた。
最も悪いのは松坂であることには変わりないのだ。
まだ心のどこかで井関が目を覚まして、考えを改め直し、自分の元に戻って来てくれていることを願っていた。
しかし、一介の高校生に「洗脳」だなんてピンとくることは無い。
井関は真面目過ぎるが故に付け込まれたのは確かだ。
そして、一度決めたら絶対に曲げることは無い性格だ。
そう考えると松坂の人を見る目は凄い。
対策委員会の中でもトップクラスに有能で賢く真面目な井関を見抜き、自分の配下に収めるのだから。
私とは住む世界が違い過ぎる。
湯浅はそう痛感した。
「津田はどうするのー?」
湯浅はのんびりとした口調で尋ねる。
しかし、津田は相変わらずの抜け殻だ。
「津田―」
湯浅の口調にやや刺々しさが現れる。
「男ならしっかりしろー」
まるで氷の中に閉じ込められたかのように、微動にしない津田の肩を湯浅は向かいから力強く揺すった。
津田の肩ににわかに力がこもり、体は思いのほか揺れなかった。
「これがしっかりできる状況かよ」
ようやく津田が力なく口を開いた。
「好きな女を、まともな男にとられたならまだしも、裏でコソコソくだらねえ誘拐なんかやってやがる糞男じゃねえか。何で井関はあんな奴について行っちまったんだよ」
徐々に荒れていく津田の口調に、湯浅はしいーっと人差し指で唇を隠した。
「静かにしてよー他の人に聞こえちゃうでしょー」
「ちくしょうが。世の中おかしいんだよマジでよ」
津田がおいおいと泣き始めた。
そのままの勢いでテーブルに力なく突っ伏す。
湯浅はすっかり困惑した表情だ。
やはり、津田はもう精神的に戦闘不能状態だ。
いや、井関の現状をもし津田が知ってしまったら、怒り狂って松坂に特攻してしまうかもしれない。
それは本望ではない。
何の解決にもならないからだ。
本当の目的は、松坂が警察にしっかりと罪を自白し、逮捕されること。
それ以上でもそれ以下でもない。
湯浅はその証拠になり得ないかと思い、ある物を今日の授業前に井関からこっそりと盗んでいたのだ。
素行の悪かった部分がまさかこんなところで役に立ってしまうとは。
それは、メモ魔の井関が毎日の出来事やらを綴ったピンク色のメモ帳だった。
それには、今年井関の身に起こった全ての事柄がきっちりと書かれていると言っても過言ではなかった。
兄が不登校になった際の心境、兄の失踪時の心境、津田から聞いた話、対策委員会に入った際の心境、そして、松坂との馴れ初めもしっかりと書かれていた。
そこに書いてあったことは想像を絶するものであった。
そう、湯浅が何気なく電話を掛けた、つい先日の週末の出来事だったのだから。
井関がその際に折り返しの電話すら全くよこしてくれなかったわけだ。
その日の夜のこと。
松坂に完全に目覚めてしまったこと。
松坂への想い、これからの将来のこと等。
読んでいて気持ちが悪くなる内容に、さすがの湯浅もトイレに駆け込んだほどだった。
さすがにこのメモ帳を津田に見せるわけにはいかないだろう。
湯浅は隣のソファに転げている鞄に視線を送った。
これを津田に見せてしまった暁には、そうなるに間違いない。
「でも、まだ私は信じてるよー」
誰ともなしに湯浅はつぶやいた。
津田が相変わらず突っ伏したまま、鼻をすすっている。
「私は聡美の親友なんだからさーきっと気づいて戻ってきてくれるってー」
湯浅は鞄を寂し気に見つめた。
「お前、本当に呑気だよなあ」
涙声で津田がつぶやく。
「呑気なんじゃないよー聡美のことを一番わかってるからだよー」
湯浅は津田の頭をポカンと殴った。
いて、と小さな悲鳴を上げる津田。
勿論、根拠があるわけではない。
そして、メモ帳にもそれが残されているわけでもない。
ただ、友情はそういうものだろう。
湯浅はそう考えていた。
私たちの友情はそんな簡単なことで壊れるはずは無いのだ、と。
そして、いずれ洗脳されている状態の井関と相対する時が必ず来る。
その時に、聡美が目を覚まして戻ってきてくれればそれでいいのだ。
そして、その瞬間がすぐにやってくるということを、湯浅はまだ知らなかった。
大聖と片岡は武蔵大宮駅へ降り立った。
改札口まで多くの帰宅者が行き交っている。
もう間もなく夕飯時となり、さらに人の往来は増えることだろう。
大聖が大慌てで改札口を潜り抜ける。
片岡は比較的涼しげな表情で大聖の後を追っていく。
大聖は走りながら、頭の中であらゆる疑問の処理に手間取っていた。
玲奈が母親に連れ去られてしまったことはともかく、総理が急に応答しなくなったことだ。
電話をしていて、急に何かを殴打するような音が聞こえた。
次に、椅子が転げるような音。
最後に、何者かにより携帯電話を切られたような気がする。
それ以降、電話を掛けても繋がらない状態が続いているのだ。
一体、誰がそんなことをやったのか。
松坂に決まっている。
大聖は短絡的にそのように考えていた。
ただし、和那を心配させまい、と先程の電話ではまだ伝えていなかった。
故に、大聖の脳味噌の容量オーバーの緊急事態と言えた。
「マジでこんな時に何やってやがんだあいつ」
大聖は総理への怒りを露わにした。
確かに総理がこれで安全な状態であったのならば、松坂を追い込むなり、玲奈を回収に向かうなりすることができたはずだ。
が、肝心の総理が音信不通なのだ。
そして、駅前ロータリーを人混みを掻き分けて走り抜け、デパートの前の交差点に差し掛かろうとしたその瞬間、
「あ、和那さん」
大聖がうずくまっている和那を発見した。
しかし、何故この場所にいるのだろう?和那は我に返ったようだ。大聖を見上げて口を開く。
「大聖さん」
まるで、魔法が解けたかのように動き出す和那。
何故かきょろきょろと辺りを見回している。
周辺は人通りが多いだけで、特に目立った異変も無い様子だ。
ここでようやく片岡が2人に追いついた。
「どうしたんですか?和那さん」
大聖が唖然とした表情で尋ねる。
と、和那は向き直って優しく笑って立ち上がる。
「あ、いえ。何でもないです」
「体調大丈夫ですか?」
「はい、申し訳ございません」
制服のスカートについてしまったホコリを払って力なく俯く。
「玲奈ちゃんが」
「そうなんです。俺らが到着した頃にはもう」
大聖もまた和那から視線を外す。
急いで総理を助けに行くためにも、このことを和那に伝えなければならない。
「そういえば、和那さんは総理と遭遇してないですよね?」
大聖は誰ともなしに学校に向けて歩き出す。
和那も驚いた表情で続く。
それに片岡も退屈そうな表情で続く。
「え?はい」
「総理が誰かに襲われたかもしれないんです」
「え?」
素っ頓狂な声を上げる和那。
いよいよ和那の顔からすっかりと血の気が失せてしまった。
「急ぎましょう学校に」
大聖が急かす。
和那の脳内で全てのトラブル処理が不可能に陥った。
唯一、涼しい顔で走っている片岡を和那は一瞬振り返って見た。
我関せずと言った表情の彼女だが、冷静で賢そうな印象を受ける。
まだまともに挨拶を交わしていないが、落ち着いたらゆっくり挨拶をさせてもらおう。
今はそれどころではない。
私が、対策委員会を終えて電話でもしていれば。
結果論ではあるが、玲奈を迎えに行くことが叶わなかったのならば、楠田について行って総理を一緒に探せば良かったのかもしれない。
ただ、楠田が何となく不気味だった。
それだけの理由で敬遠してしまったことを情けなく思う。
総理さん、無事でいて。そして、私を許してください。
心の中で和那はそう念じた。
白い息も切れて再びの時間外登校。
制服姿の下校者たちも何事かとこちらを見つめてくる。
そうしていつの間にか冷たい夜もとっぷりと暮れていた。