第59話 強さの錯覚
総理は不審に思っていた。
一向に和那から何の連絡もない。
ここは総理たちのクラスである、2年B組の教室内であった。
総理は教室内にただ一人、自席に腰かけて机を指でコンコンと叩いていた。
既に窓の外には夜空が広がっており、部活動中の学生たちもいそいそと帰り支度をしているところだった。
和那には松坂と井関の関係剥がし作戦を講じ、作戦が成功したらすぐに2年B組にいる総理と楠田に連絡をするよう伝えていた。
勿論、有事の際も連絡が来る手筈になっていた。
「遅い」
総理は机を叩くのを止めた。
こちらから連絡して良いタイミングかも読み取れない。
和那のキッチリとした性格上、電話が鳴ったら取ってしまう恐れもある。
あくまでも総理と和那は無関係を装っていなければならないのだ。
そして、松坂の女を演じる。
総理としては気持ちの良いものではなかったが、これは致し方ない。
総理がここにいるのも今思うとそういう気持ちがあったためかもしれない。
「大丈夫か」
楠田はというと、先程まで一緒に教室内に座っていたが、電話が来たということで廊下に出ていってしまった。
シーンと静まり返る教室内。
それぞれの冷たい席が明日まで持主を寂し気に待っている。
と、ここで総理の携帯電話が鳴り響いた。
電話の主は大聖だった。
大聖は片岡と共に玲奈を迎えに行っていた。
「大聖どうした?」
大聖は慌てた様子でまくし立てた。
「おう、それがよ。今、玲奈ちゃんが入院してた病院の受付にいるんだがよ。玲奈ちゃんがお母さんたちに連れられて既に帰宅しちゃったって」
「本当か?」
総理は目を見開いた。
「なあ?玲奈ちゃんのお母さんって、この間病室で治療費とか慰謝料払えって言ってたあいつらだよな?マジで最悪なことになったな」
大聖が心配そうな口調で言う。
総理は椅子を跳ね除けて立ち上がった。
「わかった、今からそっちへ」
総理が鞄を拾い上げて教室を飛び出そうとしたその時だった。
突如、後頭部に金属音が弾けたような気がした。
そのまま、総理の意識は奈落の底に落ちていった。
投げ出された携帯が床に容赦なく弾ける。
大聖の声がしばらく響いていた。
しかし、すぐに何者かの手によって、携帯電話の通話を遮断されてしまった。
和那はやっとの思いで昇降口まで辿り着いた。
昇降口には学生がまばらだった。
部活動や図書室での自習を終えた学生たちが、それぞれ複数人で家路についている。
遅い時間での1人下校は当然危険である。
学校側からも再三にわたり注意されていた。
学生たちはそれをしっかりと遵守している。
和那が自分の下駄箱に手を伸ばしたその時、
「あ、浅倉さん。こ、ここにいたんですね」
突如、背中から聞こえてきた頼りない声。
和那はビクッと体を震わせて、ゆっくりと振り返った。
そこには不潔なボサボサ髪を振り乱した小柄の少年が立っていた。
楠田だ。
楠田は心なしか慌てた様子だった。
和那はやや驚いた様子を見せたが、冷静にその名をつぶやいた。
「楠田さん」
「浅倉さん、その、あの。そ、総理が」
しどろもどろになりながら、楠田が身振り手振りを交えて説明する。
「総理さんがどうされましたか?」
「そ、総理が、教室からいなくなってしまったんです」
楠田の言葉に和那は耳を疑った。
「え?」
「あの、浅倉さんがし、視聴覚室でがんばってくれてる間に、ぼ、僕と総理が2年B組にい、いたんです。で、ぼ、僕が電話をするために廊下に出て、も、戻ってきたらいなくて」
「総理さんは帰られたってことですか?」
和那は首を傾げる。
「そ、それが、荷物はまだ、教室に」
状況がよくわからないが、どうやら只事ではないらしい。
楠田はすっかり青ざめた表情だった。
和那は楠田の説明でいまいち事の重大さを捉えることができなかった。
「お手洗いに行かれたとかではないのですか?すみません、私これから予定がありますので失礼します」
「あ、ちょ、浅倉さん。い、一緒にさが」
「失礼します」
和那はぺこりと頭を下げ、そそくさと昇降口を後にした。
校舎が徐々に遠ざかっていく。
ふと、和那は昇降口を振り返った。
そこには未だに呆然と立ち尽くしている楠田がこちらの様子を窺っていた。
楠田のことを悪い人間ではないとは和那も思っているが、今日はどことなく不気味な印象を受ける。
和那はぶるっと身震いした。
関わってはいけない。
そして、そのまま校門の外まで突っ走っていった。
息も絶え絶えに、武蔵大宮駅へ続く住宅街を駆け抜けていく。
街中には下校中の学生はたくさんいた。
賑やかそうな女子グループの後ろについて駅までの道を行く。
周辺は住宅街から繁華街の街並みに変わっていた。
ふと、たい焼き屋が和那の目に留まる。
そうだ、と和那はたい焼き屋の前で足を止めた。
退院祝いとして化粧品を既に用意していたが、玲奈のことだ。
甘い物を心の底から欲しがるだろう。
和那はたい焼きのカスタードクリームと抹茶を計8個ほど購入した。
心の中でワクワクが止まらなかった。
早く玲奈に渡してあげたい。
大聖や片岡という女の子にも渡してあげたい。
玲奈が嬉々とした表情で頬張る姿を見たい。
和那の足取りは徐々に軽やかになっていった。
と、ここでラインのメッセージ着信音が鳴った。
和那はメッセージを確認する。
大聖からのラインであった。
「和那さん、今電話できますか?玲奈ちゃんの件です」
玲奈の件と聞いて慌てる和那。
一体、何があったのだろうか。
和那がそのまま電話を掛けると、大聖が電話口にまくし立てた。
「和那さん、玲奈ちゃんがお母さんに連れていかれた」
血の気が引き、真っ青になる和那。
和那は過去に何度か母親たちの姿を目撃しているため、母親たちの粗暴さを肌で理解していた。
「本当ですか」
言葉を失う和那。
歩く速度が徐々に落ちていき、やがて止まってしまった。
そして、ホクホクのたい焼きを入れた紙袋が力なくコンクリートにバウンドした。
武蔵大宮駅へ向かうサラリーマンや学生は和那を次々に追い抜いていく。
「和那さん?和那さん大丈夫?」
不意に大聖の言葉を脳が捕らえた。
和那はハッと我に返った。
「申し訳ございません。そうしましたら私もそちらの病院に向かってましたので今すぐ」
と、遮断するように大聖が言った。
「いや、今俺たち学校に向かってるんですよ。話はそれから詳しく話します」
「わかりました」
和那はあまり納得がいかない表情でつぶやく。
大聖との電話が切れて、和那は溜息を零す。
玲奈の退院が母親にされてしまった。
最悪の事態だった。想定すらしていなかった。
母親もどこからか退院予定日を確認していたのだろう。
やられた。
和那は失意のドン底に突き落とされた感覚だった。
思わず、和那はその場に力なくうずくまってしまった。
普通であれば、体調不良で1人の女子高生がその場に倒れてしまったように映ったはずだ。
しかし、人の波は誰一人として和那に声を掛けない。
気にも留めない。
人間はこうも自分勝手なんだ。
人間は自分さえ良ければ、それでいい。
なんて冷酷で厳しい世界なんだ。
人間の心の冷たさは、今のこのさいたま市の冬の寒さなど比較にならなかった。
やはり、まだ私には人を救う力なんてないんだ。
総理さんがこの戦いに私を巻き込みたくなかった理由もそうだ。
大切な人たちへの想いの力が強くなっても、それは自身が強くなったわけではないのだ。
瞼が不意に熱くなり、視界がみずみずしく歪んだ。
と、その時、目の前に転げてあったたい焼きの袋がスッと宙に浮いた。
和那はハッとして、たい焼きの袋を見上げた。
「お嬢さま、風邪ひいちゃいますよ」
低いが芯のしっかりとした聞き取りやすい男性の声が和那に降り注ぐ。
目の前には夜にも関わらずサングラスを掛けた、身なりのピッチリとしたフォーマルな濃紺のスーツ姿の30代くらいの男。
和那は何故だか懐かしい感覚に陥りながら、その男をただ呆然と見つめていた。