第51話 嫌な予感
夜の新宿の街は非常に寒かった。
高層ビルの間から差し込むビル風が底無しの寒さを肌身に感じさせてくれる。
ひんやりとした井関の手のひらを、不意に松坂が包み込んだ。
突然の不意打ちに思わず、手を引っこ抜く井関。
心臓がドキッとする。
「もう、勘弁してください」
笑いながら井関は言う。
「ごめんごめん、寒そうだったからさつい」
「そういうのいろんな女の子にやってるんでしょう?」
井関が意地悪に笑うと、松坂は笑って訂正した。
「そんなわけないじゃないか。井関君以外にやったことないよ」
「うそばっかり止めてくださいよ」
2人並んで高層ビル群を歩き出す。
新宿駅に近づくにつれて、多くの買い物客がこぞって改札口を通り抜けていく。
松坂は素知らぬ顔をして、駅のコンコース内を貫いていった。
井関は訝しげに尋ねる。
「あれ?松坂先輩。渡井先輩と会うのは大宮じゃないんですか?」
松坂から一瞬、笑顔が消えたような気がした。
井関はそれを逃さなかった。
しかし、すぐに松坂が優しい笑顔を零す。
「そうなんだよ、今日は新宿のとある場所で約束をしていてね」
「そうなんですか?どこですか?」
あまり遅い時間となると、家族に連絡を入れておかなければならない。
もちろん、朝の時点で夕飯の外食をすることは伝えてあったが、兄が失踪している手前、家族を安心させるためにも早めに帰ることを意識していた。
「まあ、ついてくればわかるさ」
軽快に質問をかわしていく松坂。
この時点では、井関は何の疑念も抱いてはいなかった。
そう、目の前に掴んだ兄への手掛かりを何としてでもモノにしてやろうと。
井関は心の中で意気込んでいた。
やがて、先程の新都心口とは真反対の新宿駅東口に辿り着いた。
こちらは先程のオフィス街というよりは、デパートや商業ビルが多数立ち並ぶお買い物エリアとなっている。
北に進むと歌舞伎町という大規模な歓楽街が広がっている。
間もなく夜9時に差し掛かろうとしているのだが、人通りは途切れることを知らず、長蛇の列をなして街中に行き交っている。
「こんな時間ですごい人通りですね」
「夜の街だからね、新宿は」
松坂が得意そうに笑った。
一介の高校生であるはずの松坂が、何故夜の街新宿を知っているのだろうか。
井関にとっては最大の謎であった。
大通りを渡り終えると、歌舞伎町の歓楽街が広がる路地に差し掛かった。
昼間と見紛うほどに明るいネオンがきらめく。
キャッチの黒服たちが行き交い、高級そうな衣服を身に纏っている者、下品そうなおじさんたち、大学生のグループ、観光目的と思われる外国人など、様々な人間が行き交っていた。
「松坂先輩は何で夜の街をご存知なんでしょうか?」
「まあ、社会勉強もしているからね」
「それはやはりOLの彼女さんがいるからですか?」
「いやあ、今はいないよ彼女なんて」
「そうなんですか?」
「それは今は井関君に夢中だからね」
「もういいですってそれ」
井関が不服そうに言うと、人通りが少なくなったラブホテル街に突入した。
井関はさすがに怪しいと感じ始めた。
その中の南国リゾート風のホテルの前で松坂が立ち止まった。
「集合場所はここだ」
「え?」
井関は素っ頓狂な声を上げた。
「ほ、本当ですか?」
軽蔑の視線を向ける井関。
「ここはラブホテルというよりは、リラックスしてくつろぐスペースだよ」
「変わらないじゃないですか。ほんと最低です。渡井先輩が本当にここに来るんですか?」
「ちょっと待って」
松坂が何やら携帯電話を取り出した。
と、何やら可愛らしい女性の声が携帯電話から漏れてきた。
おそらく声の主は美稀なのだろうか?
「うん、今着いたよ」
松坂は落ち着いた口ぶりで言った。
しかし、井関はまだ軽蔑の眼差しで松坂を見つめていた。
「おっと、今日はお客様がいるんだけど少し替わるよ」
松坂がふと井関に電話を手渡す。
井関が受け取ると、電話口に出たのはまさしく美稀の声であった。
「こんばんは、井関さん」
「こんばんは、渡井先輩」
井関は冷たい眼差しで挨拶する。
クスクスと冷たい笑い声が受話器越しに聞こえてくる。
馬鹿にしているのだろうか。
井関はイラっとした。
「渡井先輩。松坂先輩から聞かせてもらいましたけど、渡井先輩が黒い人だったんですね」
「ふふふ、そうだよ」
小馬鹿にした笑い声が電話越しに響く。
井関は携帯電話を握る力がみるみる強くなっていくのに気が付いた。
「今、本当に新宿にいらっしゃるんですよね?話はたっぷり聞かせてもらいますからね」
「クスクス、馬鹿な奴」
「何ですか?」
「あ、いや、何でもないよ。わかったよ。何でも話してあげるよ」
終始小馬鹿にした態度の美稀に、井関は苛立ちを隠すことができなかった。
松坂に携帯電話を返す。
松坂は落ち着くように言った後、
「よし、それでは中に入ろうか」
「望むところですよ」
井関は自らホテルの敷地内に進入していった。
にやりと不気味に笑う松坂。
井関は拳をグッと握り締めた。
フロントに指示された部屋には淡い黄金色のダウンライトが差し込む寝室が広がっていた。
ベッドは四方をレースカーテンに覆われ、まさに2人だけの甘い夜を過ごすための空間を演出していた。
清潔なシーツと2つの枕。
ベッドの足元には、テレビモニターが配置されている。
手前のテーブルにはアメニティが数品置かれている。
「渡井先輩、どこですか?」
井関の怒声が室内に響き渡る。
と、ここで背後の松坂が口を開いた。
「渡井君はここにはいないよ」
「え?」
井関が松坂を振り返ろうとしたその瞬間、井関は力強くベッドに押し倒された。
何が何やら意味の分からないまま、井関は恐ろしい表情の松坂にすっかり取り押さえられてしまった。
「いったーい。な、何するんですか?松坂先輩」
「決まってるだろ。すぐ終わる」
松坂がズボンのベルトを緩め始めた。
井関は直感した。
騙された。
どこまでが嘘でどこまでが本当なのかわからないが。
井関はショックと怒りの入り混じった感情に襲われた。
「ちょ、冗談は本当にやめてください」
「大丈夫。むしろ君が僕に夢中になってしまわないか、それだけが心配だ」
「な、何を馬鹿なことを言ってるんですか?本当やめて」
松坂は井関の口を手で押さえた。そして、松坂の蛮行が開始されてしまった。
湯浅は自室のベッドに腰かけ、手元の携帯電話をじっと睨みつけていた。
先程から親友である井関に何度も何度も電話を掛けているのだが、一向に出る気配がない。
深夜11時を回っていた。
いつもであれば、電話をしてお互いの今日の出来事を話すのだが、一切連絡は来ない。
湯浅は捨てられてしまったような猫の気持ちでいた。
元々、自分のような中途半端な不良が、井関のような優等生のお手本みたいな子と付き合うのが有り得ないと思っていた。
それ故、湯浅にしてみれば覚悟はできているつもりだった。
だが、実際にこのように連絡が取れなくなってしまったら、そんな覚悟など張りぼてに過ぎなかったということを痛感する。
「おっそいなあ」
溜息をこぼす湯浅。
ここまで遅いとさすがに何かに巻き込まれていないかと不安になる。
井関は兄の失踪以来、必ず早く帰る癖をつけていると聞いていた。
自分は大丈夫でも、両親を心配させるわけにはいかないという気遣いからだった。
そこまで、考えられるのだから自分とはやはり違う。
「もういいやー」
湯浅はベッドにそのまま寝そべった。
嫌な予感だけはしていた。
そして、その予感はやがて的中することになる。