第50話 名演技
高層ビルの個室の席からは新宿のビル群が一望できた。
井関は初めての感覚に、すっかり目を奪われていた。
高校近くのファミレスや喫茶店とは違い、デザインもシンプルな内装に、落ち着きのあるダウンライト、そして、キッチリと行き届いた接客と品のある言葉遣い、礼の角度も従業員一同ピッチリと整っている。
全てが井関にとって、カルチャーショックであった。
「好きなものをアラカルトで頼みな」
松坂が手慣れた手つきでメニュー表を取り出した。
価格もファミレスとはケタが違う。
というか、写真がない。
ソフトドリンクも500円するが、これはドリンクバーなのだろうか?
わからないことだらけで頭がこんぐらがってきている。
しかし、このままでは松坂のペースだ。
井関は首をぶんぶんと横に振った。
「どうしたんだい?井関君」
ふふふ、と余裕の笑みを浮かべる松坂。
一体、どういう高校生活をしていたらこんな敷居の高いお店をチョイスできるのだろうか。
だからこそ、社会人の彼女ができるのかな。
井関は平静を取り繕って答える。
「どれにしようか迷ってしまってましてね。シーザーサラダにしますね」
「シーザーサラダはいいね。あとは肉料理も頼もうか」
「うーん、ここのおすすめ料理は何ですか?」
「僕は和牛とフォアグラのロッシーニ、オマール海老の包み焼きがオススメだね」
「じゃあ、それにします」
終始、松坂のペースでメニュー選びは進んでしまった。
井関は、500円のソフトドリンクが届いた際にもグラスの小ささに衝撃を受けた。
松坂は優雅なワインを嗜むように、コーラを一口ずつ味わって飲んでいる。
その所作と新宿のパノラマ自体は釣り合っているのかもしれないが、コーラだけはどうにも可愛らしかった。
思わず、井関がクスリと微笑む。
「こういうところ、あんまり来ないかい?」
「まあ、たまにくらいしか」
井関は俯いてうそぶいた。
松坂は井関の心を読み取っているだろうが、あえてそれは触れずにクスリと笑った。
「井関君は本当に気が強いね」
「いえ、そんなことないですよ」
井関は顔を上げて否定する。
「でも、気を強く持っていないと人生やっていけないですよ」
「そんなに強がらなくてもいいのに。君は可愛らしいんだから」
これは口説きにかかっているのだろう。
井関は思わぬ先制パンチに頬を紅潮させた。
心臓がドキッと飛び跳ねる。
「いええ、全然私は可愛いとは対極の位置の人間ですから。それならば渡井先輩とかの方が可愛いくないですか?」
「まあ、渡井君も確かに可愛らしいところあるよね」
「渡井先輩と松坂先輩、私は釣り合うと思いますけどね」
「いやあ、どうかなあ。どういうタイプの男性が好きなんだい?井関君は」
井関が美稀と松坂をくっつけさせようと試みるも、見事に適当にあしらわれ、井関自身の質問に移る。
「えー私ですか?私は勿論、引っ張ってくれる人がいいですね」
「へえ、結構わがままで彼氏を振り回すタイプかと思ったんだけどね」
松坂が嘲るように笑う。井関はまたしても首を横に振った。
「そんなことないですよ。まあでも、わがまま聞いてくれるのは嬉しいですけどね」
「男の子にどんなわがまま言うんだい?」
松坂がコーラをそっと口に運ぶ。
「買い物していても、すぐにあれ買ってーとかは普通に言ってしまいますけどね」
「ふふふ、男の子もタジタジだね」
「結局、私のわがままに付き合い切れなくて別れてしまうことが多くて」
「それは可哀そうだね。僕だったら井関君のわがまま、聞いちゃうかな」
同情するような表情を見せる松坂。
これで松坂がモテる理由がわかった。
相手の女の子の心情の引き出し方が見事である。
思わず、周りの空気に飲み込まれ、松坂のペースに持っていかれ、そのまま心を開いてしまう。
今まで何人の女の子を骨抜きにしてきたのか。
井関は興味を持ってきた。
「それ、他の女の子にも言ってるんですよね?松坂先輩は」
「いやあ、僕も選ぶよ」
ふふふ、といたずらに笑う松坂。
その笑顔が子供っぽくてむしろ井関からすれば好感が持てた。
徐々に徐々に松坂という人間に対して興味を持ってきてしまっている自分がいた。
そう、松坂は津田とは違い、大人なのだ。
頼んでいた料理も次から次へと運ばれてきて、いつの間にかテーブルの上に豪勢な料理が陳列されていった。
量はファミレスよりも少ないが、味が今まで食べたどの料理よりもおいしかった。
すっかり井関は場の雰囲気と松坂の大人な対応に酔っ払ってしまっていたが、ふと我に返った。
そう、本来の目的である松坂の正体を明確にしなければならない。
それができなければここに来た意味が全くない。
「松坂さん、そういえば」
「何だい?」
フォークとナイフを巧みに操っていた松坂が手を止めて答える。
「先程の、黒い人の正体についてお聞きしたいんですけども」
「うん」
「誰なんですか?黒い人は」
井関が唾をごくりと飲んだ。
そう、今日はそれをまさに聞きに来た。
松坂は手を止めて思案するような仕草を見せていたが、すぐに口を開いた。
「実はね、その人は井関君もよく知っている人だから、伏せておいて欲しいと思うんだけど」
「はい」
「黒い人は渡井君なんだよ」
「え?」
井関は言葉を失った。
まさかあの渡井先輩が。
いつでも優しい笑顔で接してくれて、何でもできて、尊敬できるあの渡井先輩が黒い人だったとは。
井関は驚きのあまり、フォークをその場に落としてしまった。
「すみません、フォークを取り換えてください」
松坂がすぐさま店員を呼び寄せ、落としたフォークを手渡した。
店員はすぐに真新しいフォークを井関の手元にそっと置いた。
井関は何度も頭を下げた。
「あの、渡井先輩が黒い人だったんですか?」
「うん、そうなんだ。僕は何回か2人で食事に行ったことがあるんだけど、そういうふうに聞かされたんだよ。僕もびっくりしたよ。実際に彼女が人を捕らえた場面や捕らえた人を閉じ込めておく場所、捕らえられた人が送られてしまう場所、全て聞かされたよ」
そうか、渡井先輩もおそらくこの聞き上手な松坂のせいで自分の正体を明かしてしまったのではないか。
そして、松坂がその黒い人の素性や場所を全て調べ切ってしまったのか。
それであれば井関も納得できる。
「いろいろ渡井先輩から話を聞いた感じですね」
「そうなんだよ。僕もいろいろと見聞きしたけれども、本当に衝撃的だった」
松坂の体がぶるぶると震えている。
恐怖からなのだろうか。
井関は美稀への苛立ちを抱いていった。
私の兄をよくもひどい目に遭わせてくれたな。
それだけじゃない。
私や私の家族もマスコミに追われる日々が続いた。
コソコソ犯罪者家族のように暮らしたのだ。
「そしたら、いろいろと辻褄が合いますね」
今思えば、ある一時から美稀の様子がおかしかった。
視聴覚室で突然、何かに操られたかのようにホワイトボードでロスト・チャイルド現象の「講義」を開始したり、対策委員会の実施項目の選挙の際にも全員分の投票用紙をさっさと処分したり、全ては渡井美稀が黒い人だった故なのか。
井関がそれらを松坂に伝えると、松坂は神妙な面持ちで頷いた。
「そうだったのか。やっぱりおかしいと思ったんだよ」
「私と裕子はスクールバス1位で投票したんです。残りの女子2人もスクールバスを最下位にはしていないことがわかりました。その時点で、スクールバスの上位は確定だったはずなんです。なのに、スクールバスは上位から漏れて、実施項目から漏れてしまったんです」
「おそらくだけど、スクールバスが当選となってしまうと、放課後に誘拐することができなくなってしまうから、なんだろうな。僕はてっきり実施項目には羅列されて、その後、コスト的に不可能だという手順だったのかなと思ったんだ。まさか、選挙の時点で除外されていたとはね」
松坂は何度も深く頷いた。
「やっぱりそうですよね?おかしいと思ってました。渡井先輩、本当に最低です」
井関は歯ぎしりをしてみせた。
手に握り締めたフォークがギリギリとうめき声をあげる。
苛立ちと悔しさがふつふつと込み上げてくる。
今、ここに美稀がいるのならば間違いなくビンタの1つでも食らわせてしまうだろう。
「そろそろスイーツの時間だね」
松坂がメニュー表を拾い上げて、誰ともなしにつぶやく。
井関が慌てて腕時計を確認すると、時刻は既に午後8時半を回っていた。
「え、早いですね」
「そろそろ井関君は帰るかい?」
「いえ、もっとお話聞きたいです」
「でも可愛い女の子はこの時間危ないよね。どうしよう」
「大丈夫ですよ、私なんかそんな」
「うーん」
突如、松坂が腕組みをして悩み始めた。
そして、ポンと手を叩いて口を開いた。
「実はね、この後に渡井君と対策委員会の話し合いをしようと集まる予定があるんだよ」
「え?渡井先輩、この期に及んでそんなことするんですか?」
井関が眉間にしわを寄せた。
「表と裏があるからねえ、人間は」
松坂は意味深な笑みを浮かべる。
しかし、井関はそれに気が付くことはなかった。
怒りのあまり、井関は感覚が鈍っていた。
もはや、ふつふつと湧いてくる美稀に対する怒りは憎悪に変貌を遂げていた。
そう、井関としては、渡井美稀とすぐに直接会うことができるこのチャンスを逃すまいと思った。
こっちには彼女の正体を知っている松坂がいる。
兄の奪還と美稀への断罪を一気に叶えるチャンスだ。
これこそ、私の求めていた最高のシチュエーションだ。
井関は右手をグッと握り締めた。
「松坂さん、その話し合いなんですけど、私も参加していいですか?」
「え?」
「渡井先輩にもいろいろとお伺いしなきゃいけないことがありましてね」
松坂が一瞬ニヤリと不敵に笑ったことを、井関は気づいていただろうか。
「ふふふ、構わないよ。僕は」
「ありがとうございます。松坂さん、援護射撃してくださいますよね?渡井先輩にはしっかり罪を償っていただかなければいけないです」
「もちろんだとも」
松坂は優しく微笑んで見せた。
「それでは、僕はフォンダンショコラにしよう」
松坂は井関にメニューを手渡して、そして、舌なめずりをした。
それは甘い甘いスイーツへの期待なのか、
それとも、松坂の描く甘い甘い今後のシナリオ展開への期待なのか。
それはこの時点では誰にもわかるはずがなかった。