第47話 デートの誘い
同じ土曜日の夕刻。
井関は自室に籠もって学習机の椅子に腰かけて、携帯画面をただ一心に見つめていた。
画面に映し出されているのは、松坂からのラインであった。
そして、手元には相変わらずのピンク色の手帳が開かれた状態で置かれていた。
「井関君のお兄さんについて、もっと話をしたい」
その携帯の文字ばかりをじいっと見つめる井関。
珍しく生産性のない無駄な時間を過ごしている。
井関はふうっと溜息をこぼした。
このことを湯浅に伝えるべきか否か。
松坂からは念入りに口外するな、と言われていた。
それでも湯浅に相談するくらいなら、とずっと迷っていた。
昨日の放課後からずっと考えていた。
湯浅の家は東京都内であるため、基本的に休日に2人が会うことはほとんどなかった。
だから、この週末では携帯電話で連絡を取ることでしか、2人が会話を交わすこともない。
明日はいよいよ津田の設定してくれた、ロスト・チャイルド現象からの唯一の逃亡成功者である渡邉という生徒との会食だった。
津田も同席してくれる手筈になっているため、湯浅は呼んでいなかった。
会食した際に見聞きしたことを結果で伝えることにはなっていたが。
「はあーわかんない」
井関はぐっと背を椅子にもたれかけた。
本当に誰が正しくて、誰を信じたら良くて、誰を信じたら幸せになるのだろうか。
兄はそれを小さい頃、独自の哲学で教えてくれた。
必ず甲子園に連れていくと約束してくれたが、それもついに叶わなかった。
「約束を守ってくれる人は、絶対に手放してはダメだぞ」
兄はそう何度も井関に言い聞かせていた。
井関の中で、少なくとも高校生活の中で、最も約束を守ってくれるのは湯浅と津田であった。
兄のその教えを全うするつもりで、湯浅と津田は自分なりに大切に付き合ってきたし、これからも一緒に生きていきたいと井関は願っている。
しかし、その兄が失踪してしまい、井関の高校生活を揺るがしかねない事態が起きてしまっていた。
松坂を信用するか否か、である。
井関は他人からこそ、大人っぽいだのしっかりしているだの言われるが、意外と重大な局面での判断は苦手であった。
真面目であり、馬鹿正直である井関はそもそも判断力には自信がなかった。
ロスト・チャイルド現象対策委員会に加入する際も迷っていたし、湯浅や津田にも相談していた。
そして今も、同様の状況に陥っている。
井関とすれば、松坂を信用してみたいという気持ちが大きくなっている。
あの人はロスト・チャイルド現象の何かを掴んでいる。
そう思わざるを得ない。
ただ、もしも湯浅と津田に相談してしまえば確実に止められてしまうだろう。
だからこそ、この判断はその後の井関の人生にとって大きいのだ。
「どっちを信じればいいかなんて言われたら」
湯浅と津田、そして松坂。
通常であれば付き合いが長く、裏も表もなさそうな2人を信じるに決まっている。
でも、そうすると兄の尻尾を掴みかけているのに、やすやすと手を放してしまうことになってしまう。
「迷うな」
井関は机に突っ伏した。
昨日の夜、帰宅してからこんな調子であった。
家の周囲を取り囲むマスコミはだいぶ減ってきた。
おそらく他のロスト・チャイルド現象の被害者宅へ移っていったのだろう。
今頃おそらく菅原の自宅が集中的に狙われているのだろうか。
「私はどうすれば」
井関は頭を抱え込んだ。
と、携帯電話がけたたましい音を立てて鳴り響いた。
表示されたのは津田の名前だった。
井関は顔を上げて、携帯電話を掴んだ。
「もしもし」
冷静な口調で携帯電話を耳に押し当てた。
津田の快活な声が響き渡る。
「おう井関、明日13時半に池袋に集合な」
「うん、わかってる」
「何だよ?随分元気ねえなあ」
突然の津田の指摘に、井関は強がった。
どうもこういう時にプライドの高い性格が邪魔してしまう。
「そんなことないよ」
「そうか?まあ、ゆっくり休めよ」
「うん」
両者の間にピリピリとした緊張感が走る。
「なあそろそろ告白の返事をさ」
「あ、電池切れる。また明日ね」
津田が告白の返事を要求しようとしていたのを察し、井関は先手を取って電話を切ってしまった。
これではやはり、津田は頼りにならない。
湯浅については頼りがいというよりも、友情を求めているから気にならないが、津田には男子らしくリードしてもらいたい。
そう思っていたのだが。
溜息をこぼす井関。
そして、再び携帯電話を起動させる。
そう、論点はそもそも「あれ」が本当に「私の兄」だったのかということが全てだ。
それが証明できさえすれば、松坂を信用すればいい。
もう一度。
だからもう一度兄に会わせてほしい。
それが達成できれば、今後の展開が見えてくるのだ。
井関は松坂の番号を探し出した。
緊張する。
心臓の鼓動がうるさい。
コール音すら聞こえない。
「もしもし」
電話口から聞こえた爽やかな声に、井関はハッと我に返った。
「お疲れ様です。松坂さん」
「お疲れ様、井関君」
「今、お電話のお時間宜しいですか?」
「ああ、いいよ」
余裕そうな声色で答える松坂。
「あの、兄に説得していただきたいんです」
「お兄さんに?何の説得?」
意外なことを聞かれた様子だ。
松坂は声のトーンを上げた。
「はい。兄をうちに帰らせていただきたいんです。それを説得できるのも、状況的に松坂さんだけなんじゃないかと」
しばしの沈黙。
そして、松坂が頭を掻きながら答える。
「あーなるほどね。いや、僕はいいんだけども」
「はい」
「お兄さんがね、事を大きくし過ぎてしまったから、今更家に帰るのが憚られると常々言っていてね」
「はあ」
確かに、兄が変貌する前ならばそのように考えていてもおかしくはない。
やや腑に落ちなかったが、井関はさらに要求した。
「では松坂さん、もう一度兄に会わせていただけませんか?」
「もう一度?」
「はい、お願いします」
井関は懇願するように言った。
再び黙り込む松坂。
「約束通り、君は誰にもこのことを他言していないよね?」
「もちろんです。裕子にも何にも言ってません」
「なるほど」
松坂がニヤリと笑った、気がした。
井関は不気味な寒気を覚えた。
この人は何故だか本当に何を考えているのかわからない。
「それでは、もう一度だけお兄さんに会わせてあげよう」
「本当ですか?ありが」
井関が高揚した声色で言いかけたが、
「ただし、条件がある」
「え?」
井関は怪訝な表情を浮かべた。
「一度僕とデートをして欲しいんだ」
「は?」
井関は気の抜けたような声を出す。
まさか、思いもよらぬ条件だった。
松坂とデート?一体、何を企んでいるんだ?この人は。
それに確か、噂によると社会人の彼女がいたと記憶している。
さらに夏祭りにも別の女の子を連れていたとか何とか。
それにもかかわらず、私をデートに誘うのか?
普段の温厚そうな松坂のイメージと相反する行動に、井関は困惑の嵐だった。
「え、でも松坂さんは社会人の彼女さんがいらっしゃるんじゃなかったでしたっけ?」
「いや、別れるんだよ近いうちに」
「え?」
もはや、どの話が本当なのかわからない。
「僕は君が対策委員会に参加してきた時から、君のことが好きだったんだ」
突然の告白。
井関の心臓は大きな衝撃を受けた。
何が何やら話の展開に脳味噌が追い付いていない。
「え?冗談ですよね?さっきから。松坂さんとは言え、私にそういう冗談言ったら本気で怒りますよ?」
「本当さ、今でもこれからも僕は君だけを愛している」
「……」
言葉を失う井関。
「だから、一度だけでいいんだ。夜景の綺麗なデートスポットに君を連れていきたいんだ。1時間くらいでいい。明日の夜、一緒に行こう」
「ちょ、ちょっと待ってくださいってば。もう何が何だか」
「明日は都合悪いかい?」
変わらず、冷静に追い詰めてくる松坂。
「そ、そういう問題じゃないです」
「じゃあ予定自体は大丈夫?」
明日はその津田と渡邉の用事が昼間に入っているだけだった。
その後、夜は特に予定も入っていない。
「まあ、大丈夫ですけど」
「それなら予約しておくね。明日、新宿駅に19時によろしく」
「そ、ちょっと待ってくださ」
プツーっと既に電話は切れてしまっていた。
随分と強引な松坂であった。
井関はすっかり困惑していた。
夜景の綺麗なデートスポットだなんて、完全に落としにかかっている。
私利私欲、下心しかないだろう。
そんな人だとは思わなかった。
井関はもっとしっかりした男性をイメージしていただけに、がっかりだった。
しかし、これも全て兄のため。
1時間くらいなら我慢できるか?
でも、手を出されたらどうしよう。
誰にも相談ができない。
あーどうしよう。
松坂への返事を曖昧にしてしまったことを、井関は心の底から悔いた。
井関は再び、座ったまま、頭を抱え込んですっかりと悩んでしまった。