第43話 片岡の姉
「総理ー夕飯にピザでも奢れよ」
先程の緊張感がまるで嘘であるかのように、平静を取り戻したリビング。
わいわいと賑やかな雰囲気さえ漂う。
大聖がようやくいつもの調子を取り戻してきたのだ。
「俺はお前に疑われて心がズタボロなんだよ。慰謝料と思ってピザくらい奢れ。あ、もちろん和那さんにもな。和那さんがいなけりゃ俺ら下手したら絶交だったぜ?」
「はいはい」
総理は安堵の溜息をこぼす。
この調子の良さこそが大聖の代名詞である。
総理は携帯電話を片手にピザ屋へと連絡を入れる。
「あの、私の分は自分で払いますよ」
「いいんすよー和那さん。これはおしおきです」
お構いなくと言う和那に対し、得意げに言う大聖。
「仲直りなさったんですよね?」
和那は首を傾げた。
その様子を見て大聖は笑い飛ばした。
「仲直りも何も別にそんな大した喧嘩してないですよ」
「え?」
いよいよ訳が分からなくなる和那。
純粋な和那からしたら、やはり大聖が総理にいじめられているように映っているようだ。
「和那さんにはわかりづらいかもしれませんね、俺らの友情は」
ニカッと無邪気に笑う大聖。
和那はわかったようなわかっていないような表情だ。
「ピザ2つ頼んだぞ」
「コーラもだぞ」
「頼んでないぞ」
「じゃあ自販機で買って来いよ」
大聖が笑顔で追い詰める。
総理は面倒くさそうな表情を浮かべる。
大聖は胸に手を当て、大袈裟に苦しんだ素振りを披露する。
「あーあーあー心が痛いなあ」
「やかましい奴だな本当に」
吐き捨てるように言って、財布を片手にリビングルームを出ていく総理。
大聖はというと笑いをこらえるのに必死であった。
和那はまだ2人のやり取りをぽかんとした表情で見つめていた。
扉を開けると、既に外は夕刻の雰囲気が漂っていた。
住宅街の中を、烏が数羽、泣き喚いている。
既にもう息が白く、肌寒い。
ひとまず大聖がいつもの大聖に戻ってくれて良かった。
総理は心の底からホッとした。
そのまま庭を駆け抜け、重たい門を開いて住宅街へと飛び出す。
周囲からはほのかに夕食の香りが漂う。
今日も念のため、家族に電話をしておいた方が良いだろう。
家族にもまだ美稀のことは話していなかった。
ただ、そのまま美稀の家で遊んで寝てしまったとだけ伝えた。
家族は美稀の家に電話が繋がらなかったことを随分不審がっていたが、総理が無事に戻ってきたことでそこまで問い詰められることもなかった。
おそらく、いずれ美稀の家族がいなくなったと知ることになるだろう。
今日の外出もいつも通り許可されたのだ。
自販機を探してきょろきょろと歩いているうちに、交番を通り過ぎ、公園まで差し掛かってしまった。
しかし、公園のベンチ横に自販機がずらりと並んでいるのが見えた。
総理はコーラのスイッチを押した。
と、ここで、自販機の裏から人の気配を感じた。
総理が恐る恐る覗き込もうとすると、自ら小さな黒い影が自販機の脇に姿を現した。
「あれ?」
総理は思わず息をつく。
目の前に現れた小柄で痩せた、黒いワンピースで金髪のボブカットの欧米少女。
左目に比べて半分ほど閉じた状態で瞳を失っている右目を持つ少女。
まるで、総理は珍獣を見つめるような表情になっていた。
少女もまた何も言葉を発することなく、総理をじいっと見つめている。
「お前は確か」
記憶を手繰っていくといとも簡単に思い出せた。
以前、大聖と立ち寄った武蔵大宮のゲームセンターで熊のぬいぐるみを渡した、何とも不思議な雰囲気を放った少女である。
「この近くに住んでいるのか」
総理が中腰になって少女と同じ目線で話をする。
しかし、少女は一向に口を開く気配もない。
ただただ、同じ場所、総理の鼻のあたりをじいっと見つめているだけだ。
「そろそろ気を付けて帰れよ」
柔らかい少女の髪をくしゃくしゃと撫でまわす総理。
少女は嫌なのか嬉しいのか読み取りづらい表情だ。
ただ、空虚に総理を見つめている。
そして、突如、少女は総理の胸の中に飛び込んできた。
「お、おい」
少女の柔らかい感触が伝わってくる。
香水だろうか。
甘い香りが鼻を突く。
総理は何が起きているのかわからなかった。
「ちょ、ちょっと」
と、ここでおどおどした様子のなよなよとした声が右耳の鼓膜を叩いた。
総理が声の方向に目を向けると、そこには爬虫類顔で色黒の男が立っていた。
男の隣には警察署の自転車が立てかけられていた。
その瞬間、少女は総理から離れた。
「たしか、藤原刑事」
総理が意外な表情を浮かべた。
何故、ここに1人でいるのだろうか。
パトロールなのだろうが、この人が1人でパトロールしていても何かを守ることができるのだろうか。
「あ、あ、あ、確か君は、あの、かわいい女の子の屋敷にいた、えっとお」
どもりながら笑う藤原。
「横山総理です」
しびれを切らした総理は自分からさっさと名乗った。
「あ、あ、そうだ」
ニヤリと黄ばんだ歯を見せつける藤原。
と、総理の手が少女の頭に伸びているのを見つけた藤原はうろたえたように言った。
「よ、幼女に手を出した容疑で、た、逮捕」
「は?」
何と、ぶるぶると震える手つきで総理の手に手錠をはめようとしたのだ。
総理がその黒い手を払いのけようとしたその時、
「藤原さーん」
突如可愛らしい女性の声が響く。
総理は衝撃を受けた。
そこに現れたのは腰までの黒髪を優雅にたなびかせる色白の女性だったのだ。
ジーンズに清潔感のある白いロングコートを羽織り、ギンガムチェックのマフラーが印象的だ。
何故、この薄汚い刑事にこんな美女が声を掛けるのだろうか。
だが、この女性もどこかで見たことがあるな。総理は思った。
「はあん、ああ、か、片岡さん」
気持ち悪いように喘いで振り返る藤原。
片岡?総理はどこかで聞き覚えのある名前だと脳味噌の中の履歴をあさっていた。
「どうされたんですか?藤原さん」
「え、あ、いや、ちょっとね」
手錠をあくせくと仕舞いこむ藤原。
総理は不信感に満ちた表情を藤原に注ぐ。
それに勘付いたその女性は溜息をこぼす。
「藤原さん、また何かトラブルでも起こしたんですか?いっつも同僚や後輩にセクハラばっかりだし、そろそろ仕事もしっかりやらないと本当に遠方に異動させられちゃいますよ?」
「え、え?ち、違うよ」
藤原は鼻水を垂らしながら首を横に振った。
やはり、セクハラとかするのか。
総理は合点がいった。
「この間も杏子のアパートに行きたいってしつこくラインしてたみたいですね?杏子が気持ち悪がってましたよ?いい加減に良い年なんですからしっかりしてくださいよ」
ズバズバと心に深手を負いそうなくらい追い詰めていく女性。
片岡、そうか。
同じ対策委員会にも確か片岡って女の子がいたな。
大聖が、その片岡のお姉さんが現役警察官と言っていた気がするが、そういうことか。
目鼻立ちは似ているが、性格はうってかわってとてもしっかりしている印象だ。
「い、いや、そんなこと、し、してないよ」
「履歴もちゃんとスクショ取らせてもらってますよ?確認します?」
片岡の姉は自身の携帯電話を取り出して、藤原にズイッと近づけた。
藤原は息が止まったかのような声を絞り出し、そのまま自転車に乗って猛然と走り去っていった。
と、総理が我に返って右手の先を確認する。
いつの間にか自販機の脇から欧米風の少女が姿を忽然と消してしまっていた。
「ふう、ごめんね坊や」
片岡の姉が優しい笑顔を見せる。
「あの人、馬鹿でどうしようもないしすごく変わってるけど、根っからの悪い人ではないからさ。許してね」
「ああ」
気の抜けた返事をする総理。
「お姉さん、もしかして妹いる?」
「え?いるよ。もしかして君、大宮聖征?」
「はい」
総理がこくりと頷く。
片岡の姉は嬉々とした表情で笑う。
「わーそうなんだね?私の妹は人見知りでマイペースだから友達もそこまで多くないかなって思ってたけど。嬉しいなあ」
妹の片岡とはうってかわって感情表現も豊かだ。
見た目は何となく似てなくもないが、性格が全く違う。
不思議だ。
総理の姉、愛理と性格が似通っている部分が何となくあるが、この姉妹は正反対だ。
「おっと、そろそろ家に帰らないと。では、うちの妹をよろしくね。気を付けて帰ってね」
片岡の姉は元気良く手を振って公園を後にした。
どうやら、家はここから歩いて帰れる範囲にあるらしい。
総理は呆然と1人、立ち尽くしていた。
先程の喧騒はすっかりと収まり、公園内はシーンと静まり返っている。
しかし、ピザ屋のバイクと思しきエンジン音が聞こえたところで、金縛りが解けたように動き出した。
コーラを両手いっぱいに掬い上げ、総理は公園を抜け出していった。
もう間もなく日没の時間だ。




