第41話 葛藤
のどかな土曜日のお昼どきだった。
住宅街は静かに休日の時間がゆっくりと流れていた。
その住宅街の一角にある、和那の洋館のリビングルームのソファに相向かいに腰かける2人。
総理と和那はそれぞれ神妙な面持ちで腰かけていた。
「何でしょうか?総理さん。お話とは」
和那の落ち着き払った表情とは裏腹に、総理はソファに深く腰掛け、俯いている。
そして、どことなく怯えたような表情を見せている。
「和那を信じて、話したいことがある」
ぼそりと言葉を紡ぐ総理。
和那もまた固唾を飲んで見守る。
「……」
口を開こうとするも、やはり口を閉じてしまう総理。
珍しく総理の両手がふるふると震えている。
誰かには言わなければ。
このままでは人間不信になってしまいそうだ。
総理は心の中でそう思っていた。
高校生にはあまりにも重い現実を昨日、突き付けられた。
大聖ももしかしたら?あの美稀がいわゆる黒い人であったのだから、大聖もまた黒い人である可能性はある。
そして、目の前にいる和那でさえも。
誰を信じてこれから生きていけばいいのか。
総理はわからなかった。
でも、心を軽くするためには言いたいのだ。
すっかりと心のやり場に困ってしまったのだ。
「……」
同じように片時も総理から目を離さずに、決して急かすことなく言葉を待つ和那。
「美稀が」
総理が言葉を紡ごうとするも、突如、視界が涙でかすむ。
しかし、総理はそれを悟られないように脇を向いた。
もはや涙が自動で出てきてしまうくらい、精神的に参ってしまっているようだ。
「美稀ちゃんですか?」
和那が心配そうな表情で総理の顔を覗き込もうとした。
「ああ、美稀がさ」
脇目を向けたまま、総理は答える。
「黒い人、だった」
涙で視界が、目の前の扉がかすんでいる。
ようやく絞り出した声もまた、息が苦しそうであった。
「黒い人というのは、ロスト・チャイルド現象の」
和那が目を見開いた。
こくりと頷く総理。
やや鼻をすする仕草を見せる総理。
和那は脳天を杭で討たれたような衝撃を味わった。
え?嘘でしょう。
あの美稀がロスト・チャイルド現象の実行犯の1人?
冗談と思いたいが、この総理の反応を見るにつけ、冗談でないことが否応なしに伝わってくる。
和那はグッと拳を握り締めた。
「昨日のあの電話ですね」
昨日のあの電話というのは、総理が最期を確信して和那に電話を掛けたあの電話だ。
総理自ら、私の声を聞きたいなんて言うとは正直思っていなかった。
「あの電話の後に、誘拐された」
「そんな。本当ですか?」
落ち着きを取り戻した総理が、和那に向き直った。
総理の両頬に涙の轍が若干ついていた。
和那は言葉を失った。
そんなバカな。
美稀が総理を誘拐しようとしていたなんて。
ショックだった。
「嘘ですよね?それに、そんな重要なこと、私に話してしまって大丈夫なんでしょうか?」
和那は放心したような表情だったが、総理に尋ねた。
総理はふるふると首を横に振った。
「いや、お前だからこそ話した」
ドキッと和那の心臓が震えた。
「まだ、大聖にも話さないでいてくれ」
総理は力なくつぶやいた。
「大聖さん、にはまだ話していないんですか?」
「ああ、何となくな」
その総理の意図が和那にはわからなかった。
何故、仲の良い大聖さんには話さず、私には話してくれたのか?
「……はい」
和那もまた力なく頷いた。
「これから、玲奈のところに行くのか?」
「はい、そのつもりです」
和那は頷いた。
「俺も行っていいか?」
「はい」
和那は冷静さを保っていたが、心にはやはり澱みが生まれたのか。
美稀が黒い人だということにショックを受けているのだろうか。
再び沈黙が支配するリビングルーム内。
和那はただただ悔しかった。
美稀が黒い人であったことももちろん悔しいのだが、何よりも総理が自分に相談に乗ってくれなかったこと。
それ故に言葉を失っていた。
しかし、和那にはまだ腑に落ちないことがあった。
「大聖さんに話さないのは、何故ですか?」
総理は意外とあっさり言った。
「まだ、整理がつかない。本当は誰にも喋らない気でいた」
だが、総理は表情を曇らせた。
「これでもし大聖までもが黒い人だったら、俺はもうどうすればいいのか」
「そういうことですね」
和那だからこそ話した、という部分に大きく納得できた。
おそらく一番最初に話してくれたのだろう。そこは嬉しかった。
「でも次からは私にも一言相談してほしいです。あの電話の時にはまだ誘拐されていなかったですよね?こんな私にも何かしらできたんじゃないかなって思います」
「ああ、そうだな」
総理は勿論、和那が黒い人でないことを理解していた。
いや、黒い人でないと信じたかった。
ここまで純粋な和那に人を騙すことなどできはしないだろう、そう思ったからだ。
美稀や大聖ならば、人を騙すこともできなくはないだろう。
和那は純粋で天然なところもあるが、頭が切れないわけではない。口も堅い。
これからの戦いを考えれば、仲間にしておく必要性は十分にある。
松坂を倒すための秘策とも言える。
「そろそろ、行きましょうか」
スッと静かに立ち上がる和那。
総理もまたゆっくりと立ち上がった。
時計の針は間もなく正午を指そうとしていた。
外は憎たらしいほどに鮮やかな快晴であった。
陽光差し込む病室内。
玲奈は元気であった。
まだ頭の包帯は痛々しく巻きつかれていたが、看護師の説明によれば傷はほぼ完治しているという。
体調がまだ安定しておらず、発熱が日によってはあるとのことだ。
ただし、来週の月曜日には退院予定となっていた。
テーブルには高校受験用の教材が転がっている。
どうやら本気で高校受験に向けて始動しているらしい。
玲奈は手土産のフルーツを勢い良く頬張る。
「美味しい」
ニッコリと微笑んでカットされたリンゴにかぶりつく。
それを見た和那はフフフと笑みをこぼす。
「慌てなくてもまだありますから、大丈夫ですよ玲奈ちゃん」
「総理は何で元気ないの?」
玲奈が無邪気に尋ねてくる。
総理はそこでハッとした。
この悲壮感が年端も行かぬ玲奈にすら漏れ伝わってしまっているのか。
総理は情けないと感じた。
和那は気にしない素振りをしてくれている。
玲奈は美稀のことを知らない。
大聖とは何度か会っているが、ついに美稀と会うことがなかった。
「ちょっと風邪ひいてな」
総理はゴホゴホとわざとらしく咳をした。
玲奈はふーんと納得したのかよくわからない返事をした。
それ以上は追及してこなかった。
「勉強教えてよ」
玲奈がベッドに引っ掛けたバッグから、数学の問題集を取り出した。
総理は丁寧に玲奈に問題を説明していった。
和那の言っていた通り、玲奈は呑み込みが早く、一度説明すればそれ以降は自分で解けてしまう。
問題にかじりつく玲奈を見つめていると、総理はふとあることを思い出した。
玲奈はホタルイカを心の底から恨んでいる。
恋人であったプロボクサー熊田を殺害された恨みを抱いている。
ホタルイカ自身がどのように黒い人に関わっているのか知らないが、目線としては間違いなく総理と同じである、と。
玲奈こそ味方につけていなければいけないだろう。
ただし、玲奈を味方につけると言ったところで、和那のストップがかかってしまうのではないだろうか。
玲奈をこれ以上危険な目に遭わせるわけにはいかないという気持ちは強いだろう。
事実、それが理由で怪我をさせられ、入院までしてしまっているのだから。
「ためになった」
玲奈はパタンと問題集をとじた。
「このままのペースでいけば、年内までには大宮聖征高校の普通科コースの合格ラインが見えてくるかもしれません」
和那が嬉々とした表情を見せた。
勉強を始めてからまだ1ヶ月も経っていないが、玲奈の成長速度の速さには本当に驚いた。
「お姉も大学受験の勉強しなきゃ」
玲奈の言葉に、和那はにっこりと微笑んだ。
「今も必死でがんばっていますよ。2人一緒に合格できるようがんばりましょう」
そうだ。
2人は受験生だったのだ。
総理は思った。
2人の将来のためにも邪魔してはいけない。
やはり自分1人で松坂を追い詰めるしかないのだ。
「総理、また勉強教えてね」
玲奈もまた嬉々とした表情。
「あ、ああ」
総理は空返事をした。
「総理さんも無理はなさらなくていいですので、時間が許されるときに玲奈ちゃんの面倒をぜひお願いしますね。私は理系があまり得意でないので」
「おう」
結局総理は黒い人の話を切り出すことができなかった。
心の中で仕方ないと言い聞かせ、総理が椅子から立ち上がった。
総理と和那は病室を後にしようとしたその時。
「アポ無しで悪いね。相内玲奈さんの病室はここかな?」
落ち着いた男性の声が病室に姿を現した。
3人が病室の扉に目を向けると、そこにはおでこの広い男性がシックなグレーのシャツと紺のジーンズで立っていた。
「あれ?あなたは中村警部」
和那が思い出したようにつぶやく。
突然の思いもしない訪問者に3人ともポカンと口を開いている。
「今日は勤務ではなく、完全に個人的なお見舞いだよ」
中村が手にしていた花束と洋菓子の入った袋を和那に手渡す。
和那も恐れ多そうに受け取る。
「何でまた?中村警部がいらしてくださったんですか?」
「玲奈君にはね、親近感が湧いてしまうんだよ」
意味深な照れ笑いを浮かべる中村。
中村が玲奈に親近感とは意外だ。実は元ヤンキーだったとかそういうオチなのだろうか?
それとも、もっと深い部分にシンパシーを感じているのだろうか?
育ちの良さそうで聡明さを感じる中村と、元ヤン玲奈に親近感を抱く人間などいないだろう。
「お座りください。今、フルーツを切りますね」
「あ、和那君構わないでくれたまえ。少ししたら出るからね」
中村は扉を閉めると、扉に寄りかかるようにして立っていた。
総理はこれをチャンスだと思った。
埼玉県警の警部が自ら来てくれるとは思わなかった。
この人脈は構築しておくに越したことはない。
「捜査は進んでいるの?警部」
玲奈が顔をしかめて中村を見つめた。
どうやらホタルイカへの執念は未だに消えていないらしい。
「いや、それがね」
中村は咳払いした。
「奴の尻尾は未だに掴めていない」
その言葉に玲奈が厳しい表情を浮かべた。
「警察は何をしているの?早くとっ捕まえてよあいつ」
「玲奈ちゃん落ち着いてください」
和那が玲奈の両肩に手をやって制する。
「中村警部がしっかりやってくださってるじゃないですか」
「中村警部」
総理が俯いたまま、ぼそりと口を開いた。
「どうした?総理君」
「警部を信用して話すけど」
「ありがとう」
「俺のクラスメイトに黒い人がいるんだ」
シーンと静まり返る病室内。
中村警部は武者震いなのか、右腕がぶるぶると震え出す。
「それは本当かい?総理君」
「ただ、証拠はまだない」
「それでもかまわないよ。ぜひ教えて欲しい」
「教えます。その代わり」
総理が中村警部を振り返った。
凛とした目つきだった。
「俺たちに力を貸して欲しい」
「具体的には?」
「警察の捜査で得た情報だとかを俺たちにも教えて欲しいんだ。中村警部にとって言いづらいことまでは言わなくてもいい。もしかしたら、ホタルイカについてある程度目星はついているのかもしれないし、それは俺たちには言わなくてもいい」
総理は中村の挙動を窺った。
中村は寄りかかっていた扉に再度寄りかかりなおした。
そこで総理は確信した。
中村は何か知っている。
「知っているなら教えてよ」
突如、玲奈が叫ぶ。和那が玲奈を落ち着かせた。
「中村警部の職務を妨害するまではしたくない。でも、教えられる範囲でいいから教えてくれ」
総理が頭を下げる。
「わかった。そうしよう」
中村の言葉に、一同は安堵した。
「君たちは真摯にロスト・チャイルド現象を憎み、ホタルイカを憎み、立ち向かおうとしている。そんな君たちだからこそ、信用して話そうと思う。ただ、他言はしないで欲しい」
「それはもちろん」
総理と玲奈は力強くこくりとうなずく。
和那は遠慮がちにうなずく。
「警察内部にも教育委員会にもロスト・チャイルド現象の関係者がいるんだ」
中村は長い息をついた。
「勿論、誰が関与しているかまではわからないがね」
総理らは息を呑んだ。
想定されたこととは言え、中村のように説得力のある人間から言われると残酷なものだ。
「さいたま市だけじゃない。他の東京や大阪、名古屋もそうさ。どの地域も同じように教育現場、警察内部に関係者がいることがわかっている。マスコミには混乱を避けるために報道を禁じていることだ」
「やっぱりというか、その頂点におそらく」
「ああ、ホタルイカがその頂点にいるのが大方の見方だよ」
病室内がしゅんと静まり返る。
「そんな重要なこと俺たちに言って大丈夫だったのか?」
総理が中村に尋ねる。
「なに、推測の域では十分に出回っている話だ。根拠づけはされていないけどね。でもこの推測はほぼ間違いないってことを私は言っただけさ」
中村は言った。
「警察官は結局、内部や同じ公務員である教育委員会を疑って捜査するのも忍びない。だから、その頂点にいるであろうホタルイカを捕らえることにだけ躍起になっているんだ。そして私自身もそれを望んでいる」
「というと?」
総理が尋ねると、中村はギリっと拳を強く握った。
玲奈もベッドから中村の確固たる意志を感じ取った。
「実は私もホタルイカに身内をやられていてね。玲奈君には勝手にシンパシーを感じていたのさ」
「そうだったんですか」
和那が力なくこぼす。
玲奈もまた拳をギリギリと握り締める。
再びシーンと静まり返る病室内。
「さて、そろそろおじさんは去ろうかね。総理君、私の携帯電話の番号を伝えておこう。何かあったら遠慮なく連絡してくれたまえ」
総理と中村はその場で携帯電話を取り出し、連絡先の交換を行った。
「ありがとうございます。中村警部」
立ち上がってぺこりと頭を下げる総理。
そして、和那も立ち上がって丁寧に深々と頭を下げた。
「こちらこそ。これからもよろしくね」
中村警部は穏やかな笑みを浮かべて、病室を後にした。




