第35話 黒い人
「聡美―どうしたの?機嫌良くなさそうだけど」
授業が全て終了し、湯浅が井関の席へと歩み寄った。
井関は鞄に教科書を詰めているが、あからさまにムスッとした表情である。
周囲の生徒たちは話しかけづらい雰囲気だが、湯浅は臆することなく話しかける。
「またあいつとの時間が始まるなあって」
「あいつか」
湯浅も声のトーンを落とす。
「そう、あいつ」
井関はムスッとした表情のまま、鞄を背負う。
昼休みくらいまでは井関の機嫌は良かったが、5限6限と時が経つにつれて明らかに機嫌が悪くなっていった。
それほどまでに相方の楠田が嫌いらしい。
「いこうか」
「うん」
井関と湯浅は教室を後にする。
行き先は勿論、視聴覚室である。ロスト・チャイルド現象対策委員会である。
井関は精神的限界を感じていた。
楠田という相方を得てからというもの、頭と要領の悪さを思う存分見せつけられた。
井関はその都度指摘するタイプだが、1学年先輩ということもあり、今のところは楠田に対して何も指摘はしていない。
そろそろ堪忍袋の緒も切れそうである。
いくら自分よりも1学年先輩ではあっても、駄目なものは駄目である。
改善しようとしている努力さえ見られれば話は別だが、とてもその気配は感じられなかった。
「聡美は怒ると容赦ないからなあ」
湯浅がのんびりとした口調でつぶやく。
「そんなことない。言いにくいことを言ってあげるのが本当の優しさでしょ」
「まあ、それもそうかもだけどさー今後、そんな関わらないような人にまで強めに言うじゃん」
「甘えている人は特に嫌いだから、私も手加減しないで言ってしまうのかもね」
2人は視聴覚室に辿り着き、扉を開け放つ。
既に津田が1人、中央寄りに着席していた。
「津田ーお疲れー」
湯浅がのんびりと手を振る。
津田も顔を上げ、元気に応える。
「おう井関と湯浅」
井関と湯浅は津田の前の席に腰かける。
「順調?」
津田が話しかける。
「私らは順調ー」
湯浅が後ろを振り返りながら言う。
しかし、井関は溜息をこぼす。
機嫌の悪い感じは未だに出ている。
「どうしたんだ?井関」
津田がきょとんとした目で井関を見つめる。
湯浅が笑う。
「聡美はね、相方の子守が大変なんだってー」
「あ、ああ。あの挙動不審な人か」
「それより、津田のところは順調なの?」
井関も後ろを振り返って尋ねる。
津田はガッツポーズを見せた。
「順調だぜ。片岡ちゃんて女の子が警察とコネ持ってるし、大聖さんも突破力があるからスムーズに話が進んでいく」
「すごいんだねーあの片岡って子」
湯浅が感心する。片岡は地味な印象だったが、まさか警察にコネがあるとは思わなかった。
「そう。ちょっとマイペースなところあるけど頭も良いし、良いグループに入ったと思う」
「あ、じゃあ私みたいな感じだー」
「お前は頭良くないだろう湯浅」
津田が笑いながら言う。
湯浅も自虐的に笑う。
井関が口を開いた。
「そういえば裕子の相方の人も頼りがいがありそうだよね」
「そうだね、クールで頼りがいあるねー私は全然付き合えるなあー」
湯浅が鼻歌交じりに言う。
ヒューヒューと津田が口笛を吹く。
「いいなあー私も引っ張ってくれる人の方がいいのに。ほんと」
井関は唇を尖らせた。
湯浅も携帯をいじりながら、ガムを口に入れる。
「ほんと最悪」
井関が溜息交じりにつぶやく。
「井関、何か困ったことがあったら俺に言ってくれよ」
津田が真剣な表情で井関に言う。
湯浅はそれを見てクスリと笑う。
「困り過ぎてもう最悪よ」
くたびれた表情で井関は言った。
と、ここで前の扉が開かれて松坂と美稀が教室内に姿を現した。
「あ、お疲れ様です」
津田が元気に挨拶をする。
「お疲れ様」
松坂が爽やかに言う。
一方の美稀は病み上がりだからなのか、青白い顔をしている。
どことなくふらついている。
間髪入れずに後方の扉が開かれ、総理と大聖、そして片岡の3人が現れる。
「お疲れーっす」
大聖の景気良い声が室内に響き渡る。
湯浅が振り返り、総理に手を懸命に振ってくる。
総理は軽く手を挙げる。片岡は無表情のまま自席に腰かける。
「これで全員揃ったかな?」
松坂が周囲を見渡す。
「ああ、今日は楠田が来れないらしいぜ。体調不良で病院に行くとか何とか」
大聖が着席しながら、松坂に伝える。
松坂はうーんと唸っていた。
どうやら欠員に対して何か思案しているようだ。
と、井関が手を挙げた。
「松坂さん、私は別に1人でも大丈夫ですよ」
「そうかい。すまないね」
「いえ、今日はむしろはかどります」
皮肉ともとれる井関の反応であった。
湯浅は思わず笑ってしまった。
「それでは本日も各グループに分かれて作業をお願いします。ひと段落しましたら、必ず報告をした上で、早めの帰宅をお願いします」
松坂はそう告げると、全員は一斉に作業に取り掛かった。
静まり返る夕暮れ時の視聴覚室内。
1人取り残されたのは井関だった。
他のグループは外出のため、全員出払っていた。
仕切り役の松坂と美稀も職員室に用事があるとのことで、出払っていた。
井関はスマートフォンを操作して次から次へとバス会社へ電話し、その都度見積書の依頼を掛けていた。
作業は順調そのもので、既に依頼していた見積書メールの確認も捗っており、残りは今日送付した3社の見積書を受け取って一番良い条件の業者に正式依頼するのみとなっていた。
井関はメールを送付し終えたところで、大きく伸びをした。
静まり返る夕暮れ時の教室内。
ロマンティックな時間と場所であったが、もの寂しい空間であった。
井関はぼうっと窓の外を眺めた。
部活動中のグラウンドが見えて、軽快にランニングをこなす生徒たちで溢れていた。
兄と同じ野球部も白球の行方を追っていた。
井関は心が洗われる感覚に陥った。
と、ここで机の上の携帯電話がけたたましく鳴り響いた。
津田だ。
一体どうしたことだろうか。
井関は携帯電話をひょいと拾い上げた。
「もしもし、どうしたの?」
「いや、ちょっと手が空いたからさ暇電」
津田の陽気な声が響く。
「何それ?」
井関が怪訝な表情を見せる。
「いま警察署なんだけど、待たされてるからさ。なんか怪人ホタルイカの事件が起きたみたいで担当警部が出払ってるみたいでさ」
「ホタルイカってあの高校生連続殺人の?」
「そうそう。殺人ではないらしいんだけどさ」
途端に津田は声を潜めた。
「あのさ井関、昨日の返事を聞かせて欲しいんだけどさ」
津田が顔を赤らめる。
井関も言葉に詰まったような様子。
「いや、でも私は今兄さん探すので手一杯だし」
「兄さん探し終えたら、考えてくれるってこと?」
「え」
井関が再び言葉に窮する。
津田はふふふと笑いでごまかす。
「でも前向きに考えてもらいたいんだ」
「うん、まあ考えておくね」
「俺は本気だからな」
「わかってるって」
と、井関が電話口からやや離れた。
そして、小声でこう言った。
「生徒会長の伊東先輩と五十嵐先輩がいらっしゃったから切るね。じゃあ」
プープーと携帯電話が間の抜けた鳴き声を上げる。
津田も長い溜息をこぼして携帯電話をしまい込んだ。
津田は井関のことが好きであった。
1週間前くらいに井関を呼び出して告白していた。
しかし、井関からの返事は「兄を探すので手一杯だから」という理由で断られた。
諦めきれない津田は何度かこのように催促みたいな電話を掛け続けていた。
「うまくいかない」
津田はそうこぼすと、警察署内へと踵を返した。
一方の井関は電話を切った後、黙々とノートPCに向かって作業を続けていた。
教室内は井関ただ1人のままだった。
先程の会長来訪は津田の告白を退けるための嘘に過ぎなかった。
井関もまた、自分自身の調べ物をする時間に使用していた。
SNSやPCメール、掲示板などを閲覧し、ロスト・チャイルド現象の失踪についての情報をかき集めていた。
井関はとにかく早く兄に会いたい、その一心だった。
津田の告白については何の感情も抱いていなかった。
掲示板を漁っている最中に、誘拐を執行する「黒い人」という掲示板があることに気が付いた。
井関はクリックして中身を閲覧する。
こちらの記事には「黒い人」の正体についての考察とその根拠なるものが書き連ねられていた。
井関は黙読する。
「誘拐を執行する『黒い人』に関しては、いろいろな推察が今でもなされている。最近最も有力な説として挙がっているのが、①家族説②友人・教師説③警察説である。根拠としては、都市部で人が多い地域での失踪であるはずなのに目撃談があまりにも少なさ過ぎるということ。また、繁華街での失踪も見られることから、被害者に対して話しかけても何ら不自然が無い上記の家族、友人、教師、警察が執行の有力者として挙げられるのではないかと考えられる。ただし、こちらも所詮状況からの推測に過ぎず、物的証拠は全くもって存在しない。そして、当然このロスト・チャイルド現象の動機でさえも」
それ以降はこの記事に対する推察コメントが賛否両論唱えられている。
井関はゆっくりと顔を起こした。
と、次の瞬間、井関の後頭部が何者かの腕に触れた。
「きゃ」
井関は短い悲鳴を上げて背後を振り返る。
心臓がろっ骨を容赦なく叩く。
椅子が跳ね除けられて斜め後ろの席まで吹っ飛んだ。
背後に立っていたその女子生徒もまた突然のことに短く悲鳴を上げる。
シーンと静まり返る教室内。
「あ、ごめんね井関さん」
背後に立っていた少女は渡井美稀であった。
美稀は申し訳なさそうな表情で頭を下げる。
「わ、渡井先輩」
井関は胸を撫でおろした。
人の気配は全くなかった。
心臓の鼓動のうねりは徐々に減速していく。
「びっくりするじゃないですか。背後にぴったりついて」
「ふふ、井関さんがすごく集中してたから驚かせようと思ってね」
美稀はにっこりと微笑む。
それは果たして本心なのか。
井関は動揺し過ぎて頬を汗がそっと伝う。
制服の襟元がずれたので、丁寧になおす。
「驚かせ過ぎですよ」
井関は倒れた椅子を拾い上げて、元に戻す。
そして、ドッカリと腰を下ろす。
美稀は教壇の方へとゆっくり歩を進める。
「井関さん、情報は集まってきた?」
美稀がホワイトボードをじいっと見つめながら尋ねる。
「情報、ですか?」
「うん」
美稀はホワイトボードを綺麗に消していく。
異様な雰囲気だ。
いつもはほんわかしたイメージのある美稀だったが、今はどことなく張り詰めた空気が宿っている。
病み上がりだから仕方ないのかもしれないが。
ここはあまり刺激させないように嘘をついておくとするか。
「いえ、全然ですね」
「そうなんだね」
美稀はホワイトボードを消す手を止めた。
にわかに緊張感が跳ね上がる。
美稀がゆっくりと井関に向き直る。
美稀の目はいつもより冷たい感情が宿っている気がした。
「意味わからないよね。ロスト・チャイルド現象ってよくわからないよね」
「え?」
少し感情的にまくし立てる美稀に驚く井関。
美稀は咳ばらいをして、今度は落ち着いた声で尋ねる。
「井関さんは、何で失踪するのが高校生なんだろうって思わない?」
「ええ、それは思いますよ」
再び美稀はホワイトボードに向き直る。
井関はやや緊張感を解く。
今日の美稀のテンションは明らかにおかしい。
安定感がなく、何が引き金になるのかわからない。
「私も自分なりに考えるんだけど、おそらく高校生って犯人側からしたらいろいろと都合がいいんじゃないかなって、思うんだよね」
美稀はホワイトボードに高校生と丁寧に書き出す。
井関は戸惑っていた。
これから一体何の授業が始まるのだろうか。
井関は強張った表情でホワイトボードの行く末を見つめる。
「若いし、時間もたくさんあるし、自分以外で守るものも少ないし、何より実名が出ないし」
それらを全て箇条書きで、美稀は淡々と書き留めていく。
この異様な授業が何を現しているのか、井関には全くわからなかった。
親族に失踪者がいる井関への、美稀なりの優しさなのだろうか。
それとも美稀はロスト・チャイルド現象について何か知っているのだろうか。
美稀とあまり深い関わりのない井関からしたら想像すらできなかった。
「私としては、犯人たちは高校生を何かに利用していると思うんだよね」
「何ですか、それは」
井関はゆっくりと問いかける。
しかし、美稀は両手を肩まで上げてお手上げのポーズを見せる。
「さあね、私もそこまではわからない」
美稀はホワイトボードに書き留めた文字を全て綺麗に消していく。
井関は黙ってその様子を見つめる。
ごくりと唾を飲み込む。
「人間って自分の都合の良いように他の人を振り回すよね。結局は我可愛いというか。井関さんみたいに心優しい、他人を思いやれる人って本当に少ないと思う」
美稀はホワイトボード消しをポイっと投げるようにして置く。
「いえ、私はそんな人間じゃないですよ。私も前者の人間です」
「そう?」
「ええ、私も兄に会いたいっていう自己都合で、この対策委員会に湯浅を巻き込みました。それに、私は思ったことをぬけぬけと相手に言って傷つけてしまうことがあります。私は自己都合でしょっちゅう相手を振り回しています」
井関は俯きながら言う。
「私は少なくとも湯浅さんに関してはそのように感じなかったけど」
「そうでしょうか?」
「うん、あの子自身の意思で参加したんだと感じたよ」
井関はその言葉を受けて少し救われたような心地がした。
私は我がままで頑固で、いつも裕子を色々と巻き込んで、嫌々あの子はついてきてくれているものだと思っていた。
「私とは違って、あの子はちゃんと自分を持っているでしょ」
美稀が遠くを見つめるようなまなざしでこぼす。
何か深い意味を孕んだ言葉に思えた。しかし、事の真意はやはり付き合いの浅い井関にはわからなかった。
「私は他人から言われないと何もできないし、他人の気持ちを深読みして、ただその人の気分を害さないように言葉を選んだり、行動したりしているだけ」
「そんなことないですよ」
井関は強く否定したが、美稀はふるふると首を横に振った。
「そんなことあるんだよ。私は操り人形。感情を持ってはいけないの」
美稀は悲し気な表情を浮かべた。それにしてもこの人は先程から何を言っているのだろうか?
井関はただただ呆然と聞いていた。
言葉の真意が読めなさ過ぎてあまりにも不気味である。
「ごめんね、今の忘れて」
美稀が軽快に後方の扉まで歩き出す。
井関を通り越し、後方の扉を美稀はゆっくりと開けた。
「今日はもう遅いから、危ないから早めに帰ってね。鍵だけよろしく」
美稀はにっこりと微笑んだ。
その笑顔はいろいろな感情を含んでいるようで、とても複雑な笑顔に映った。
「はい、ありがとうございます」
井関が答えるや否や、美稀は扉を閉めて立ち去っていた。
不思議な時間だった。
まるで、一瞬だけ夢を見ていたような、しかし1人取り残された教室に井関は呆然と立ち尽くしていた。
そろそろ帰ろう。
窓の外はすっかり日も暮れて暗闇がせせりだしていた。