【2018年9月18日-03】
傷を癒す術を知らぬ少女がもう一人。
水瀬弥生は、珍しく零峰学園高等部での授業を真面目に聞いていた。科目は英語、苦手な科目であり、どうしても自習するだけでは実力不足を感じてしまった結果、こうして授業をしっかりと受けているというわけだ。
自発的な勉強は辞めたと言っても、それは進学や就職などで有利になる為の勉強を止めただけで、今でも彼女の趣味は勉強だったりする。
だからそうして授業を受けている間だけでも、それなりに勉強へ没頭できる。
「今日は真面目なのね」
女性の英語教師、柴沼の言葉に返事をする事無く、彼女はシャープペンシルを走らせる。
板写と自分なりの使い方を軽くまとめるている分かりやすいノートを見据え、柴沼は「やっぱり頭は良いのよね」といらぬ言葉を遥香へ向けた。
「ねぇ水瀬さん。私、貴女の事をそれなりに評価してるのよ」
「へぇ、嬉しいっすね」
授業の進行を止めている柴沼に内心 (はよ授業進めろや)と思いつつも適当に返答し、遥香は続けてプリントを取り出した。
「貴女ならそれなりの大学に今からでも目指すことは出来る。他の先生方は貴女の事を放っているけどね、貴女にはそうした将来に可能性があって」
「将来かぁ……アタシは興味ないっす。だから他の真面目に勉強してる子たちの将来を鑑みて、アタシなんか放っておいて授業を進めてやってくださいよ」
「貴女、そんな態度でこれからどうやって生きていくつもり? 他の先生方は貴女のそうした所に低評価を付けているのよ」
「あのさぁ、そーゆーお説教したいなら放課後呼び出してした方がいいんじゃん? だって周りの子たち、授業進まないから全然ノート取れてないじゃん。たまの気まぐれで真面目に授業受けたアタシのせいで授業進まないの、それこそやる気無くすっつーか」
ため息をつきながらシャープペンシルを机に転がした遥香に、柴沼はまだ何か言いたげではあったが、確かに彼女の言う通りだと授業を再開する。
やる気を少し削がれてしまった遥香は、授業を受けているフリだけはしつつ、先ほど柴沼が言っていた言葉を反芻させる。
(将来……ね)
ベネットにも言われた事だが、遥香にとって将来という言葉は希望ではない。
むしろそうした将来に関してを考えるだけで、昔の事を思い出すから、なるべく考えないようにしていたことは間違いない。
――昔の遥香は『素敵な大人になりたい』という目標を持っていた。
だから真面目に勉強し、良い高校に、良い大学にと奮起できた。
その先にある数多の可能性を鑑みて、大人になった時に一つでも多くの選択肢を選べる事が出来る様にと。
だが今はどうだ?
両親を亡くし、母の中で生まれる事を祝福される筈だった妹を亡くし、三人を殺した男を、ベネットの力で殺めてしまった遥香に、そうした目標を追いかける権利は無いと、自発的な勉強は辞めた。
ならば、今の遥香は何を目標とすべきなのだろう。
どんな将来を思い描けばいいのだろう。
そう考える度に、彼女は何時も自己嫌悪に陥ってしまうから考えないようにしていたが、それなりに色んな出来事があったからか、それとも弥生やウェスト、蓮司と言った古い知り合いに今の自分を知られてしまって吹っ切れたかは分からないが、嫌悪感は少ない。
(……少しはそーいう将来って奴を考える時が来たのかもねぇ)
だが遥香はこれまでの時間を不真面目に生き過ぎた。もう昔の自分に後戻りなんか出来ないし、かと言ってこのままでいいというわけでもない。
(今の成績維持してれば、内申点はともかく零峰学園の大学部はイケるかな。そしたらそれなりに卒業後の就職先も見つかるかもね。それか、思い切って県外の大学でも行く? 今の家売っぱらって、お父さんとお母さんの思い出も、全部……全部捨てて……捨てる……?)
そこまで考えた所で、嫌悪感が強くなってきた。
強く握り過ぎたシャープペンシルが砕け折れ、その音が教室中に響いてしまった事により、皆の視線が遥香に集中する。
「あー、ゴメン。何でもないっす。続けて続けて」
ちょっと失礼と言いながら折れたシャープペンシルをゴミ箱にだけ入れ、予備のシャープペンシルを取り出して、勉強を再開。少々ざわついていたクラスメイト達もやがて勉強に集中し始め、遥香はホッと息をついた。
(最低だよアタシ。お父さんとお母さんの思い出、全部捨てようなんて)
これまで育ててくれた両親の死んだ現場となった家を売却しようかという話は、これまで何度もあった。
ベネットからも提案されていれば、祖父母にもそうした方が良いのではないかとも言われたし、何であれば父と母が死んだ事を聞きつけた不動産屋が、遥香を言いくるめようと提案してきた事もある。
けれどあの家は、遥香の父がローンで購入したマイホームで、家族の幸せを、この一軒家から紡いでいこうと願った家だったのだ。
遥香の母は、そのマイホームを見て最初こそぶっきらぼうな態度を取ったけれど、しかし家具の配置などを嬉々として決めていた事を今でも思い出せる。
そうした思い出を、全部、捨てるなんて出来ない。
それを捨てたら、それこそ遥香は二度と立ち直れない。
今何とか辛うじて繋ぎとめている精神が、崩れてしまってもおかしくない。
「将来……か」
何度も「将来」という言葉を、繰り返す。
けれど、遥香には考える事が出来なかった。
幼いころに夢見た『素敵な大人になりたい』という目標を、二度と叶える事が出来ない自分の生に、これ以上の意味を見出せない。
(アタシは……今、どんな大人になりたいんだろう?)
漠然とした目標も、どうなりたいという詳細の夢も、彼女は今、見据える事が出来ない。
(アタシは……ホントに空っぽになったな)
シャープペンシルが机の上に転がる音。
それが、今の遥香に聞こえる、唯一の環境音だった。




