絶望
「ダメだ。帰すわけにはいかない」
去ろうとする俺たちの背中から声がかけられる。
この声、小角か。
さっきから姿が見えなかったが、どうやら散らばった動ける仲間を集めていたらしい。後ろからぞろぞろと着いてくる。
俺たちの緊張感が高まる。
「何の用事だ? 最初の侵攻は終わったはずだぜ」
「そう話は簡単では無い。そんなものなら八年前に静乃を犠牲にしたりはしなかった」
そうなのか? と周囲に目を向けたが全員微妙な表情だ。
階位的にも八年前に参戦しているのは、この中ではもしかして小角だけか?
「門が今日にもまた開くって言うのか?」
どういうことだか訊いたら、
「くくく……」
と神経を逆なでするような笑い声をあげる。
「国語教師なら擬音語で説明せずに、美しい日本語を使えよ」
「八代、空をみろ!」
小角への文句は清十郎の声で中断する。
反射的に空を見上げる。そこには一見何もない。ただ夜空が……。
「夜空が……欠けている」
星空が一部見えない。雲一つないにも関わらずだ。
自然、星が見えない所に意識が集中していく。
その時、空がわずかに輝いて、その一帯を照らす。
「なんだあれは!」
そして俺は、いや全員が見た。
空から巨大な手が地上へと伸びていた。
更にその上に何がついているか、一瞬解らなかった。
いや信じられなかった。
それは人型の鬼だ。
空を覆い尽くすほど巨大な。
そいつは胸部分が何かに締め付けられていて、頭と右腕だけをこっち側に、現界に具現化していた。
見かけだけではない。
今更ながら恐ろしいほどの瘴気を感じる。
間違いなく修羅とおれたちが呼んでいる、そもかなり高位の存在だ。
「あんなのがこちら側に……」
誰かが声をあげる。
その巨大な悪魔は見るものを恐怖に陥れるような顔で、ただ地上を見おろしていている。
この場にいる全員が、唖然としてただ空を見上げていた。
「あいつが挟まっているのって、まさか門か?」
「そうだ」
清十郎の声に小角が応える。
「先程のはワルプルギスの夜の前兆、いや前兆ですら無い。台風の前に小雨が少し降る。その前の雨の一滴にしか過ぎない」
うるせえよ、とは言い返せなかった。
月雲も、飛輪の鬼祓師達も青い顔をしている。
そして小角本人も。
「夜はまだまだこれからだ。今はあの悪魔が栓となってたまたま塞がれていただけ。だがもう少しゲートが安定すればいずれ降りてくるし、その背後から先程とは比べものにならない数の悪魔達が降ってくるだろう。次から次へと際限なく、な」
誰も声を発しなかった。
先程の戦いですらギリギリだった。
ほとんど全員が死力を尽くし、戦う力が残っていない。
「本部からの応援は……」
「予定を遙かに超えた三週間前倒しなのだぞ。充分な兵力を集めてすぐ来れるとでも? 最も被害を減らすのは我々を見捨て、万全の準備を速やかに整えることだろう」
「そんな……」
誰かが絶望にひしがれて声を上げて膝をつく。
それは次々と伝染していった。
月雲も茫然自失で持っているお祓い棒を地面へ落とす。
呪禁師も、ただ真っ青な顔で立ち尽くしていた。
「は、てめえ等みたいなおっさんと一緒にするなよ。俺たちは若いんだぜ。まだまだいけらあ。なあ清十郎」
「ああ。さっきのはいい準備運動だった」
そういって不敵に笑い合う俺たちだけだろう。
元気なのは。もちろん空元気だが。
「若さだな。だが夜通し戦い続けながら言ってられるかな? しかも朝が来たからといって終わりでは無い。幾度ともなく門は開かれ、何度ともなく現れる。しかも門がいつまで開き続けるかなんて誰にもわかりはしない! 一ヶ月か? 一年か? それとも十年か? もしかしたらどちらかが完全に滅びるまで続くかもしれない。それがワルプルギスの夜だ」
小角は気がふれたように大きな声で笑い声をあげた。
その哄笑を止める者はいない。
ただただ奴の言う意味がじわじわと俺たちを締め付けてくる。
絶望という名の鎖が。