ネコと陰陽師
俺達の顔は、ほんの少しで接触するところまで迫る。
そして――。
振りかぶった右拳の一撃が、深夜の頭に決まった。
「いっっっっっったあああああああああ!」
深夜が悲鳴をあげ、その声に驚いたマヤが鳴き声をあげてベッドから逃げ出す。
「え、え? いきなり何を?」
全く訳がわからないといった表情で深夜は涙目を泳がせながらキョドる。
何って子供をしつけるのに、最終にして最後の武器はゲンコツだろ?
「どうして? え? この展開でなんであたし……ずったあああああ!」
二撃目が頭頂部に決まり、色気も何もない叫びを上げる。
痛いのは当然だ。
人体でもっとも堅いと言われる、頭での一撃だからな。
問題は俺もすごく痛いということで、ぶつけたところがじんじんしている。
「何しやがるんだ!?」
「それはこっちの台詞だ。なんでも勝手に決めやがって」
「なんでって、あたしはあんたが死なないようにって……」
「それこそ勝手な決めつけだ。誰が頼んだ? 誰がそれで喜ぶんだ!」
「誰がって……あたしだって考えて」
「それが勝手な決めつけだってんだ。だからお前、友達がマヤしかいないんだ」
「そ、それは今関係無いだろ!」
「関係大ありだ。お前が死んだらマヤをどうするつもりだ?」
「え? 八代が世話してくれるんじゃあ、ないの?」
「馬鹿か、俺んちは動物が飼えないんだよ。小さな動物だと霊的に清浄になりすぎて、外に出たときに却って鬼とかに取り憑かれやすくなるからな」
「待て! そんな話聞いていなかったぞ!」
「言わなかったからな」
「なっ! あのときマヤに何かあったら、どうするつもりだったんだ?」
「あのときは怖がっている子供をなだめることを優先していたんでな。すまん、忘れていた」
「だ、誰が怖がってたって言うんだよ!」
「そうなのか。すがりつくような目だったから怖がっているとばかり。俺の勘違いだったのか。わりいわりい」
「全然心がこもっていないじゃないか!」
「そうか? 俺は割と真剣なんだが」
「お前! それでもしマヤに何かあったら承知しないからな!」
「承知? 何を承知するってんだ。大体お前今から死ぬんだろ? 死んだ後に猫がどうなったかなんて知る術なんかないだろう」
「ど、どうする気なんだよ!」
「そうだなあ……そういや俺、知り合いに保健所の所長がいるんだけど」
「てめえ、それ以上その言葉を口にしたらぶっ殺してやる!」
後はもう互いに罵りあいだった。
しかし、こいつ罵詈雑言が出るわ出るわ。
そりゃ俺だって「友達いないくせに人の気持ちわかるのか?」とか。
「胸がみじんもないくせにどこをみて女だと思えるんだ?」とか。
少しばかり口が過ぎたのは認めよう。
でもよ。
こいつが俺に対する悪口は「お前等三人が並んだらお前だけ一人失敗面で見ていて痛々しい」だとか。
「言動がいちいち寒い。今年冷夏で農家の人が困ったらお前のせいだ」とか。
女子高生が口から出す言葉としては際どい、テレビだったら放送禁止のピーって修正が入るような言葉もてんこもりだった。
なんでこいつ、こんなに他人をけなす言葉のボキャブラリーが豊富なの?
そしてやっぱり俺のこと実は嫌いなの? と本気で考えてしまうほどだった。
俺が気の弱い人間なら自殺しているぜ、これ。
「うるせえよ、てめえなんか勝手に死ね!」
ゼーゼーと息も絶え絶えになりながら何十回目かのその言葉を吐き出した。
白い顔は真っ赤になっていて、その肌と赤い髪の毛にべっとり汗がへばりついている。
俺を睨むその瞳は元々変わった色だが、月の光りに照らされて邪悪な光りを放っているようだった。
顔が整っているだけに、かなり怖い雰囲気を漂わせている。
弟ならそれを見ただけで泣きそうになるだろう。
恐怖で。
でも、先程とは違って間違いなく生気に溢れていた。
「ああ、お前に言われなくても死ぬときは勝手に死ぬさ」
言葉を切ると、笑って見せた。
俺たちはベッドの前で顔をつきあわせて罵り合っていたので、顔がすごく近いところにある。
自分の表情が深夜の目を通して映っていた。
「スッキリしたか?」
そう問いただすと力なくベッドに座りこむ。
張っていた糸が切れたようだった。
荒い呼吸音がだけがしばらくつづき、少し落ち着く頃に避難していたマヤが飼い主の膝へと戻ってきた。
ほとんど無意識で深夜は抱き上げ、その頭を撫でる。
「全く、マヤにも心配かけさせやがって」
文句を言うとゆっくりと首を上げ睨んでくる。
涙の跡こそ残っているものの、いつもの深夜がそこにいた。
「お前の言うとおり俺は死ぬときは自分の責任で勝手に死ぬ。だから、お前が無理して何かをする必要なんて無いってことだ」
静乃といい、こいつといい、どうして自分一人で抱え込むんだろうね?
残された人間がどんな気持ちになるか、もっと想像するべきだと思うぜ。
「ええ、と……」
なんだか恥ずかしそうにもじもじして、上目遣いで訊いてくる。
「いいの? あたし生きていて……」
「馬鹿か。死にたくないなら自己犠牲を発揮するんじゃねえ」
「ば、馬鹿とはなんだよ。あたしなりにいろいろ考えた結果なんだよ」
「それで考えた結果どうだった?」
深夜は考える込むように額に皺をぐっと寄せる。
だがそれも一瞬のことですぐに弛緩させると、
「わからねえや」
とはにかむような笑い顔を向けてきた。
ああ、そうさ。
解るわけねえんだよ、正しい答えなんて。
だったら自分と、自分を心配してくれる人間や猫の事を考えようぜ、全く。
「じゃあ言ってやる。生きろ。もう心配かけさせるんじゃあねえぞ」
深夜は「子供にたいに言うなよ」とぶつぶつ文句を言ってきたが聞かなかったことにする。
ま、ともあれ。
「帰るぞ」
「ああ……」
手を伸ばすと今度こそしっかりと俺の手を握り、立ち上がった。
その手は細くて小さい女の手だったが、しっかりと力が込められていた。




