陰陽師(2)
ガキは近くの角を右に曲がったところで立ち止まっていた。
マンションと民家の間にある袋小路だ。
そこには自動販売機が置かれていて、その裏から鈴の音が聞こえている。
「マヤ、帰ろう。こっちにおいで」
手を広げて愛猫に呼びかけると、自動販売機の方に近づいていく。
「危ない!」
追いつくと、咄嗟にパーカをつかんで引っ張る。
直後に何かがガキのすぐ前を薙いだ。
パーカから流れている二本の紐のうち右側が、鋭利な刃物のようなものに切られたように地面に落ちた。
「え……」
何があったかわからなかったのだろう。ガキはぽかんと口を開けた間抜けな表情で立ちすくむ。
「馬鹿、離れろ!」
肩を掴んで無理矢理後ろにひっぱると、ガキを庇って前に立つ。
直後に俺のすぐ前方で何かがぶつかる激しい衝撃があった。
飛んで来たアルミ缶が印術で張った結界に干渉した音だが、それを知らないガキは悲鳴を上げて尻餅をつく。
「な、なに……マヤ?」
ゴミ入れの裏から出てきたそれを見て、疑問系の声をあげる。
エメラルドグリーンの瞳を光らせながらこちらを見つめるそれは、確かに猫、だったのだろう。
だが頭から角が生え、小さな口からは牙となんらかの液体をしたたらせていた。
グレイに近い体毛をトゲのようにいからせ、大きな体躯で威嚇してくる。
同じ猫科でもライオンなど猛獣のような雰囲気であった。
「鬼にとり憑かれてやがる」
「鬼ってなにさ!」
「妬み、憎しみ、無念とか。そういう陰の残留思念が形をもった存在のことさ」
「そんなものが……」
「いるんだよ。見たとおりな」
ごくりとつばを飲み込んだ音が足下から聞こえる。
納得してくれたなら話が早い。
たまに見たままを信じられなくてわめきたてる奴がいるんだ、これが。
「でも、なんで! マヤは鬼なんかじゃ」
「もちろんさ。奴らは身体を乗っ取ることがある。動物、特に猫というのは下等な鬼に憑かれやすいんだ。ああいう風に」
簡単に説明をすると同時に、鬼はゴミ箱を粉砕しながら飛び上がった。
おおおおおおおおおおお
空中に浮いたまま身の毛もよだつような奇妙な声を上げる。
同時に全身のトゲを針のように飛ばしてきた。
足下の悲鳴を気にすること無く、霊符を取り出し術を発動させる。
霊符とは前もって札に術を込め、こういうときに取り出して中の術を発動させるものだ。
札ごとに込めた術しか使えないのが難点だが発動も早く、威力も印術より遙かに高い。
霊符に入れてあったのは結界術。
俺と足下のガキを中心に結界が展開され、無数の針を受け止めた。
「そして鬼を退治するのが、俺の仕事だ」
手早く印術を唱え、指で五芒星を描く。
一筆書きにて陽の気を高め、魔障を祓う陰陽師の『祓い』の術。
直後に衝撃音が響き、鬼を吹き飛ばす。奇妙な叫び声を上げながら壁に激突した。
「マヤ!」
「何をする気だ」
「だってマヤが!」
「鬼に憑かれているっていっているだろう」
立ち上がって駆け寄ろうとする飼い主を何とか押さえた。
ガキってのは何をするかわからないから困る。
「マヤ、マヤ。聞こえる。お前そんなことをする子じゃ無いだろう? ほら、早く帰ろう」
壁の前でうなる鬼に、必死で声をかける。
無論そんな声に反応することはなく、生き物ではとうてい出すことの出来ない不気味な声を上げるだけだ。
「鬼に何を言っても無駄だ、下がっていろ」
するとくるりと振り返って顔を近づけてくる。
こいつ瞳、黒じゃないな。
「お願いだ、マヤを助けてよ。大切な家族なんだ」
「助けるもなにも」
「あんたなら出来るんだろ?」
とにかくお前が邪魔なんだが。
それを伝える前に鬼は再び飛び上がる。
「ええい、どけ」
噛みつきそうな形相の飼い主をひっぱって視界からどかし、再び霊符の結界を発動させる。
呪詛のこもった鳴き声が結界にぶつかり、互いに干渉し合った。
勢いは止めている。だが手に持った霊符がゆっくりと黒ずんでいく。
「長くは持たない、か」
多少危険だが一気に片をつけるか。
ちらりと飼い主の方を見て決断すると、霊符の結界から飛び出した。
そこに鬼が飛びかかってくる。
全身から針を飛ばしてきた。急所だけは術で守ったがそれでも数が数だ。
体の表層を貫く痛みに顔をしかめてしまう。
だが術をかける声はやめるわけにはいかない。
別の霊符を取り出し、それを地面へと突き立てる。
霊符から術が発動し、鬼を半径数メートルの「水の檻」に捉えた。これで逃がすことは無い。
飼い主が名前を呼ぶのを背中で聞きながら、鬼に向かって一気に突っ込んだ。
それに対して鬼は爪を振りかぶってきた。
虎やヒョウのような巨大なかぎ爪で。
「だが悪あがきだ」
正面から立ち向かう。
爪の攻撃は俺を捉えて引き裂いた。
ように見えただろう。
実際「うわああああ」と悲鳴が背後で聞こえている。
神行業の術。
一時的に身体能力をあげ、瞬間的な移動を行う術だ。
修行によって身体の中にチャクラを練り上げ、それを一時的に解放したのだ。
攻撃を空振りした鬼はいきおいよく突っ込んでいく。そのまま「水の檻」にぶつかり、檻はそのまま収束して奴をがんじがらめに捕らえる。
そこに手で印を結びながら突っ込んだ。
「令・百・由・旬・内・無・諸・衰・患!」
・・
正確に九度指を打ち付けた。
確かな手応えが手に伝わり、鬼は地面へと落ちた。