悪魔 アバドン
術の発動と共に、まず浮遊感があった。
それから足下の熱が消え去り、背後で液体が落ちる音。
そしてすこし離れていた深夜の顔が、手を伸ばすところにあった。
神行業の術の一つで身体を浮き上がらせたのだ。
続いて第二の術を次々と打ち出す。
第一に、刃が深夜を拘束する舌を切り裂き、
第二に、天井から俺たちに流れ込む液体を水で流し、
第三に、深夜を守るように木が彼女を覆い、
第四に、深夜に巻き付いていた部分を炎が焼き払い、
第五に、足下から飛び出そうとした何かを土豪で止めた。
五行同時術。
単に五枚の霊符を解放しただけじゃあない。
それを術で調整し、合成することで威力を底上げしたものだ。
術を重ねれば重ねるだけ、わずかでも術のにミスが許されなくなる。
この速度でやれるとは自分でも確信がもてなかったが、さすが俺。本番に強いぜ。
解放された深夜を空中で受け止めると、そのまま作った足場に降り立った。
「すまん、待たせて。痛いところはないか?」
「……お、おう」
この数日で見たことが無い表情をして、口をぱくぱくさせている。
よほど驚いたのだろう。
「……ところでお前軽すぎないか。やっぱ飯足りてないんじゃあ」
「い、いいだろうそんなこと。早く下ろせよ!」
「ああ。わかったから暴れるな」
蹴飛ばされては敵わんから、そっと地面に下ろした。
この土はいわば術による霊的な保護なので多少は安全だ。
「倒したの?」
「まだだ。本体がどこかにいる。お前を狙っているんだから離れるなよ」
制服の内ポケットから新しい霊符を取り出す。
結界の術を発動させると、六壬式盤を取り出し術をかけた。
……駄目だ。陰の気はそこら中に充満していて、対象がしぼれに。
もっと深く術をかけないと探せないか。
「なんか変な音が聞こえないか?」
言われてみて耳を意識してみた。
確かにかすかに音が聞こえる。
いや、かすかだった音がだんだんと、大きくなっていく。
「ここか!」
印を結び、その方向に軽い術を放つ。
赤黒い肉がはじけ、音の正体が姿を見せた。
それはやや赤みのかかった黒い虫だった。
それが無数に、部屋の肉っぽい部分を食い破りながらでてくる。
ぐちゅ。
ぐちゅぐちゅ。
ぐちゅぐちゅぐちゅぐちゅ。
嫌な音を立てながら、次から次へとそいつらは溢れでてきた。
蜘蛛の子が親の腹から、あるいはゴキブリが一斉に卵から孵るような。
両方見たこと無いけど、たぶんインパクトとしては同系列で、しかもこっちの方がグロテスクだろう。
「い…………」
すうと深夜の髪の毛が逆立ち、見える限り身体全てから一斉に鳥肌がたつ。
「いやあああああああああああああああああ!」
深夜が悲鳴を上げると同時に、更に音が大きくなった。
それは俺たちがいるところ以外の全ての床、壁、天井からだった。
恐ろしい速度で周囲を埋め尽くし、次々に空を飛び始める。
「深夜、眼を瞑ってうつむいていろ!」
印術による結界を張る。
呪符の結界は数が多すぎて、すぐに駄目になってしまったのだ。
虫たちは数を増やしながら、俺たちの周囲を飛び回る。
俺は術を唱えながらも本体を探る。
音はいつの間にか虫が飛び回る、不快な耳鳴りへと変わっていた。
深夜は耳をふさいでうずくまっている。
悪い、もう少し辛抱してくれ。
やがて式盤が大凶を、本体の場所を探り当てる。そこは――
「真上か!」
護身剣を天井に向かって投げつける。
確かな手応えがあった。
続けざまに霊符を投げつけ術で発動させていく。
人には聞こえぬ断末魔があがった。
そこを中心に、天井から床へと光が室内を照らす。
同時に虫たちが次々と消滅していった。
「脱出するぞ、シンヤ!」
五芒の星を紡いで術を唱えると、まだうずくまっていた深夜を立たせ、手を引いて走る。
俺が入ってきた扉から外へと。
次の瞬間――
見慣れたマンションの入り口が現れた。
やれやれ、ようやく終わったか。
「もう大丈夫だぞ」
深夜は俺の声に顔をおそるおそるあげる。
眼はぎゅっと閉じたままだ。どうやら眼を瞑ったまま走っていたらしい。
よくこけなかったな。
俺の声にゆっくりと震えながら眼を開ける。
俺が後ろを指差すとそっと振り返る。
いつものエレベーターがあった。
俺たちが今まで入ってきた扉は、無残に壊れていたが。
「はははははははは……」
「おい、もう人が戻ってくるんだから座り込むな」
乾いた声を上げながら尻から床に座り込んだ深夜を、視線を外しながら手を引いた。
なぜ眼をそらしたかというと、スカートで足を開いた体勢なので、長い足の奥が見えそうになったからだ。
見ていないよ?
水色なんて知らない。
なんとか深夜を立たせ、今日は部屋の前まで送ることにする。
さすがにエレベーターを使う気にはなれなかったらしく、部屋があるという六階まで手を引いて階段を登ることにした。
それにしてもなんでさっきはなんでゲートがここで開いたんだ?
ゲートは陰気が集まるところに現れるとされる。
おおよその見当はつくが、確実にいつ、どこで開くなんてことは予想がつかない。
ましてこのマンションの辺りに、そんな陰気が溜まっていないことは確認しているのだが。
そんな風に考えていたら六階にたどり着いた。
こいつの部屋は六○八号室だとのことで、その前までついていく。
念の為に視てみたが、結界はきちんと作動していた。
小角の奴かなり強力な結界を張ってある。
これは複数の術士で行った複合結界だな。これなら安心だ。
「また明日な」
さっき悪魔を倒したが、能力自体がなくなったわけでも判明したわけでもない。
当面はまだ護衛が必要だろう。
それで部屋の前で「じゃあ」手を上げたんだが、動こうとしない。
……てかこいつ俺の服の裾握ったままじゃねえかよ。
さすがに少し恥ずい。
どうしたもんだと頭をか?いていたら、ようやく口を開いた。
「よ、夜になったらあんなのが一杯でてくるのか? 前みたいなのとか」
「そりゃ鬼の方だ。逢魔の刻は本来なら鬼が現れる夜の時間をさす。陰気は夜に集まりやすいからな。悪魔はもう倒したし、どっちにしろ部屋にいる限りは大丈夫だ」
「あ、あたし、いや、あたしだけじゃなくて、マヤもいるけど。その……」
「もしかして怖いのか?」
「べ、別に怖いわけじゃ……」
怖いんだな。
……ま、こんなこと普通に生きていたら体験することなんか無いわな。
まして女の一人暮らしだし。
――ふむ……仕方が無いか。
「ちょっと待っていろ」
深夜の手を無理矢理はがすと、俺は携帯電話を取り出す。
何回目かの呼び出し音の後、「もしもし」と定型な返しが聞こえた。