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嘘つきは夢の始まり


中華街の高い門をくぐっても、逃げ惑う人とぶつかったりはしなかった。


太一が道の真ん中で立ち止まっても、みな少し嫌な顔をするくらいでよけてくれる。しまいには申し訳なくなり、太一は声を出して謝っていた。その前にどけよ。


制服姿の修学旅行生が通り過ぎていく。中華街は観光地なのだ。この末期的状況においても。


赤を基調とした雑多な街並みは逆説的に計算された大陸のミニチュアに過ぎないと思わされる。扁平型の掃除ロボが修学旅行生の捨てたゴミを平和的に吸い込んでいた。


湯気の立つ蒸籠から肉まんの匂いが漏れてくる。気持ち引かれるが、約束の時間に遅れそうなことに気づく。占いの館を通り過ぎ、路地にある中華料理店の前に立つ。手の甲で汗を拭い、自動ドアをくぐった。


さっそく太一は、店内に目を走らせる。テーブル席に女性が一人座っていた。


「お待たせしました」


太一はできるだけ砕けた笑みを浮かべたつもりだったが、効果的だったかどうか。黒のワンピース姿の女は屋内でもサングラスをかけストローに口をつけている。


ストローをついばむ肉厚な唇の動きに、太一は目が離せなかった。


二人の立ち位置はごくシンプルだ。夢破れて燻っている男と、夢に骨を埋めて帰れなくなった女。これはどこにでもいる二人の男女が、カタストロフに立ち会うありふれた物語である。




葛木太一は高校時代の全てを野球に捧げた。補欠ではあったものの、甲子園の土を踏んでいる。


十九の今となっては、何を捧げたのか彼自身もよくわからない。


肌を焼く直射日光と、溢れ出る蛇口の水をよく夢に見た。夢の中ではいつも喉が乾き、蛇口に近づこうとすると横暴な先輩に襟首を掴まれて邪魔される。


自分はバットが振りたかったわけでも、ボールを投げたかったわけでもなく、喉の乾きを癒したかったのだ。それがわかった途端、目が覚める。水は野球をしなくても飲める。そのため、高校卒業を機に野球をきっぱり辞めた。


サングラスの女、九柳操は太一の所属していた野球部のマネジャーだった。Fカップの肉体と、謎めいた性格に撃沈した男は数知れない。


太一もまたその一人だった。といっても、太一が操と会話したことはほとんどない。操の方も太一のことは記憶になかった。


操が野球部にいたのは単に男を観察したいがためだった。異性に関する関心というよりも、社会学的な関心によるものだ。男女平等を謳ってはいても、依然社会は男が支配している構図には変わりない。そういった真実は授業では教えてくれない。実地で学ぶ必要がある。


昆虫学者は、蟻の巣箱を観察する。操は思い切って、巣箱に飛び込んだ。働き蟻、兵隊蟻、子育て蟻、働かない蟻を間近で見た。


操は自分が女王蟻の器とは思わなかった。そういった存在は羽が生えており、下々とは違う空を飛んでいるものだ。自分は違う。この狭い世界で生きていくしかないと知っていた。


操の知見は間違っていなかったが、巣箱の混沌は予想を越えて小さく単純であった。そこで生きることに疲れた操は、よく覚えていない部員Aの求めに応じて中華街にやってきたのだ。


「俺、今日誕生日なんすよ」


照れたように笑う太一を見ようとせず、操は店のテレビに目を向けていた。


銀河評論家 深見太一氏というのが出演していて、日本は宇宙条約に批准するべきだと熱弁を振るっていた。


「ねえ、君名前なんて言ったっけ」


冷や水を浴びせるような操の言葉に、太一の頬はひきつった。


「えっと、言いませんでしたっけ」


「ごめん、社会人の倣いで名刺交換しないと覚えられなくて」


しれっと嘘をつくと、太一はそうですよねーと、追従した。今度は覚えてくださいと名乗ったが、操の意識は別に向いている。


「あのテレビに出てる人と名前一緒。親戚?」


「あ、えー……」


操の横顔に見とれ、太一は悩む。そもそも名字ではなく名前が同じなだけでは同族とは限らないのだ。それでもせっかくの会話を途切れさせたくなかった。


「神戸の親戚に似た人がいたような」


「この人、横浜出身だって。ねえ、何か食べないの?」


操は、固まる太一の目の前にメニューを放る。かさついた音が太一を責めるように響いた。


「ゆっくり食べてていいよ。私これから船でサンフランシスコに行くんだ。山下公園からピストン輸送してるんだって。難民みたいだよね」


「俺と!」


大声と急に立ち上がった太一にも操は動じなかった。時間が惜しいと思うばかりだ。


「最後の時を過ごしてくれませんか」


前かがみになり歯を食いしばる太一にも、操の心は動かされない。呼び出された時点で予想はついていた。


男に告白されるのは何度目か知れない。操から告白したことは一度もなかった。


サングラスをテーブルに置く。意思のつよそうなくっきりとした目元が露わになる。太一は目を逸らしそうになるのを必死で堪えた。


「太乙君は氷割れる?」


「は……、はい!」


条件反射的に答えた太一に、操は満足したように頷く。それだけで答えは既に変わっていた。


「何か頼みなよ。私は逃げないからね」


操は実験が好きだ。

墜落するのがわかっているからこそ、刹那の嘘は美しく羽ばたく。

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