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最後の八月


八月十五日 AM 9:36


連絡を待つ間、彼はベッドに仰向けで寝ていた。腹の上に置いた携帯が絶えず震動している。


ひっきりなしに携帯のアラートが鳴るが、全て無視している。外からも自治体の避難勧告の放送が聞こえてきた。窓を閉めれば幾分緩和されるだろうが、彼の視野は天井の一点を見つめて動かない。スキンヘッドに一重瞼、眉は薄い。服装は黒のTシャツとデニム、靴下は履いていない。


五十分間、外出着を決められずにいる。カジュアル寄りでは、子供っぽいとされ、相手を失望させる恐れがあった。かといってフォーマル過ぎても退屈な男だとみなされるかもしれない。


丁度中間寄りの服を、彼は持ち合わせていない。両者を合わせてバランスを取るテクニックもよく知らない。高校の三年間を野球に捧げた彼は、着飾るという概念をようやく知ろうとしたばかりだ。


携帯をおもむろに操作する。メッセージを確認した途端、携帯をベッドから落としてしまう。幸い携帯は壊れずにすんだ。


「用件は?」


相手からの短いメッセージは、難攻不落の城を思わせた。震える指で、素早く返信をする。


「一目、会いたいんです」


飾り気のない文章は逼迫感を表している。


送信してから五分経っても既読はつかない。あきらめかける直前、再度通知があった。


「中華街で会いましょう」


またもそっけないメッセージだったが、彼にとっては何よりの福音だった。ついガッツポーズをしてしまう。


ネットの記事を読みあさり、七部袖のシャツにクロップドパンツを合わせ、レザーシューズを履くことに決めた。


彼が十八年過ごした部屋には、映像化して話題になった漫画や、軽い娯楽小説の類しか置いていない。野球関連の物品は高校卒業を機に捨てた。有り合わせの品で埋めた部屋に哀惜はなく、振り向くことなく玄関に向かった。


階段脇の和室で、彼の母親がうつ伏せで倒れている。一瞥してから玄関のたたきを踏みしめる。仏壇には萎れた花が残っていた。


救急車のサイレンが尾を引くように遠ざかる。


彼は一瞬、外に出るのを躊躇したが、自分を奮い立たせるように勢いをつけて外に飛び出した。



八月十四日 AM2:00


蒸し暑い夜は寝苦しいが、深酒するには絶好の好日となる。


九柳操は、マンションのベランダでウィスキーのグラスを傾けていた。琥珀色の液体は国産のくせに品薄で、ネットオークションで定価の何倍の価格で競り落とした時は、喜びより後悔の方が勝った。しかし、瓶を開ければ些細な事は忘れて酔夢を堪能することができた。


一週間前に別れた男は水割りを作るのが得意だった。操のためならいくらでも氷が割れるよ。と、豪語した。じゃあ、南極の氷も割れる? と訊いたらさすがにそれは無理だよと笑い飛ばされた。


それが原因で別れた。氷を割る以外に、あの男に取り柄はなかったのである。


「誰が私の水割り作るのよぉ……」


手すりに顎を乗せ、操は嘆いた。一人寝が寂しい程、人肌に飢えてはいない。ただ極上の酒が味わいたいだけだった。


部屋の床にはトランクケースが開けっ放しで置いてある。今日の朝、日本を発つ予定たが準備は整っていない。宇宙語のテキストを詰めているうちに熱を失って酒に逃げたのだ。


「私の水割りを作る奴は日本にはいない。でも宇宙にならいるかも」


西の空のある一点に、紅玉のような光が瞬いた。手を伸ばせば届きそうなほど、光を間近に感じる。操はベランダから身を乗り出していた。



八月十四日 PM 7:05


オクサマが言うには、ダンナサマがいなくなったので仕事をいたす必要がないとのことです。


ワタクシは、LE300二型 天津守ステラ。四ツ菱重工が開発したヒューマノイドです。潜在IQは300以上、お菓子のお釣りを数えるのに役立ちます。


掃除、洗濯、犬の散歩をこなしてきました。料理は苦手ですが、おこづかいを貰えると奮起します。出来は保証いたしかねますが。


ダンナサマはワタクシにおこづかいをくれる大切なコヨウヌシでした。コヨウヌシがいなくなったので契約は解除されなければなりませんが、ワタクシはダンナサマの愛した一冊の本を抱いたまま動けなくなりました。


電気が流れなくなったのでしょうか。定期的なメンテナンスは受けているはずですが、動作不良を起こしていまいました。


「ここはもういいから飛行機に乗りなさい」


不良品のワタクシがここに置いてもらえるはずありません。


ですが、オクサマのそんな言葉は聞きたくありませんでした。


ワタクシは、戸外に飛び出します。紅い火の玉のような星に向かって走り出しました。あの星からダンナサマの宝物を守らなければなりません。



八月十四日 PM 10:36


路上で一組の男女がもみ合っていた。辺りには飲食店が軒を連ねているが、営業している店はほとんどなく、二人の愁嘆場を見物しようとする物見高い観客は、野良猫くらいのものだった。


ハットを被った男が女の素足にすがりつき、慈悲を請う姿は滑稽という他ない。男は若い頃は伊達でならしたのだろうが、今では腹だけでなく顎にも肉がついていた。


「いやだ。一緒にいてくれ。私は君がいないと駄目なんだ」


女は男の顎に見事な膝蹴りを食らわし、ふりほどくことに成功した。


「さよなら。今まで楽しかったわ」


捨てぜりふを残し、女性は去っていった。女性のヒールの音が聞こえなくなると、男は立ち上がり空を仰いだ。


紅い星が燃えている。関連して女の口紅の鮮烈な印象が思い起こされる。


男は大股で女の後ろ姿を追った。


星の引力が男の中にとっぴな考えを植え付け、火をつけてしまったようだった。


交差点の中央に一台のロールスロイスが停車している。威風堂々と場を占領しているが、疚しさは微塵も感じさせない。


男が近づくと独りでにヘッドライトがつき、ドアが音もなく開いた。


無人のシートに男は座った。革張りのハンドルを握りアクセルを踏んだ。どんな急カーブにも対応するハンドリング、風の抵抗をいなす名車は男の意志を体現するかのように道路を爆走した。


遮るもののない道の先に埠頭があり、目的の女が見えた。彼女の傍らには、若い男の姿もある。五十メートル先からでも女の口の動きが把握できた。


「あいつはもう終わりよ。せいせいしたわ」


ロールスロイスは加速をつけたまま、女と側にいた男を吹き飛ばした。ボンネットにかかる負荷をものともせず男は正面を見据えている。その目は乾いていた。


障害物は加速の勢いを殺すことはない。車は埠頭を乗り越え、海中に没するかと思いきや、翼を得たように海面すれすれを飛んだ。


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