02 ミラーハウス
『もも、もも――』
――ある声
「ここが、ミラーハウスか」
ミラーハウスは、裏野ドリームランドの最奥にあった。食事ができる場所からも離れていたので、あまり人気が出ないまま終わってしまった施設でもある。しかし以前から、ここにも、桃をねだる女の子の霊が出ると噂だった。
「西日がきついなー、大丈夫か、橘」
「うん。それよりその重いの、置いて帰ったら?」
「厄除けだって言ったろ! ま、まぁ確かに重いし、このあたりにおいておくか」
ゴトン、という大きな音に反応して、黒いカラスが飛び立った。
「ひぃ!」
「いちいちビビらない! ほら、行くよ!」
ミラーハウスの周辺には、手入れされていない雑草や木々が好き放題に生えていた。近くで、さっきのカラスが不吉に鳴いた。
かつては魅惑の鏡の世界に招待してくれた明るいライトも、チカチカと不規則に点滅するだけだった。
足を、踏み入れた。
タイルが敷き詰められた、四角の床。1歩踏み出すと、正面にあった4つの鏡が同時に、ピキ、と音を立てた。
「ひぃ!」
「私から離れないで」
「お、おう……」
気丈と反比例する大きな図体を縮こませながら、おそるおそる私に隠れる七尾。普段ならみっともないと呆れるところだけれど、確かに尋常じゃないほど恐怖心を煽られる。
それはきっと、私が彼女を怒らせてしまったからだ。
また1歩、踏み出す。さらに鏡にヒビが入る。右足を踏み出せば右側が、左足を踏み出せば左側の鏡がひび割れていく。コツ、コツ、ピキ、ピキ――一定のリズムで呼応し合っているようだけれど、歩み寄る私と、拒絶するあの子は対照的だ。
「おい、やめとけって、橘!」
「ここまで来たんだもの。今さら引き下がれない」
「だが……」
右側の目の前までやってきた。ひび割れた鏡は、彼女の心を映しているのだろうか。私は、無意識にそれに触れた。
その瞬間、激しく鏡が割れる音が聞こえた。殺される――! とっさに目をつぶって、音が止むのを待ってから、おそるおそる目を開ける。痛みを感じない。何も――起きていない?
私は目の前の鏡で自分の無事を確認しようとした。だけど、目の前に、もう鏡はなかった。
「なに……これ……」
「鏡が……なくなってる……?」
私の目の前には、ぽっかりと黒い穴が開いているだけだった。
「今の音、聞こえた……?」
おそるおそる七尾の方に向き直り尋ねた。だけど、七尾は私の求めていた答えとは違うことを言った。
「音……? な、なにも聞こえなかったぞ……。それよりお前、顔色が……!」
「え? 顔?」
知らず知らずのうちに、限界が近づいているのかもしれなかった。でも、ここで歩みを止めるわけにはいかなかった。
彼女の、ためにも。
「おい、橘? 橘!」
目元がくらりとした。そして次の瞬間、私の意識は闇に消えた。
**
目が覚めると、目の前にはいくつもの鏡――いや、遺影が飾られているのが見えた。
「これは、工事現場の作業員……?」
もちろん、ミラーハウスにこんなもの飾ってあるわけがない。全部彼女がやったことだ。でも、彼女とこの人たちになにか関係があるとは思えなかった。あるとすれば――。
ジェットコースターだ。
彼女は自分の怨念で、そこまでして――あのジェットコースターを、あの思い出を、守ろうとしたんだ。
「七尾は!?」
私は必死で七尾の姿を探した。けれどそれ以前に、身体の自由が利かなかった。私もこの人たちと同じように、鏡の中に封じ込められてしまったらしい。
「こんなことって……」
特別な日の彼女の霊力を見誤っていた。あれから何年も経っているのに、ここまでやってのけるなんて。焦る私の目の前を、七尾が後ろ歩きでそろそろと歩いている。彼の前には、私の身体をのっとった、彼女がいた。
その手に、大きなガラスの破片を持って。
『もも……もも……』
「桃か? 桃が欲しいのか? おじさん持ってるんだ、だから、だからさ」
七尾のことだ。あの姿でも私ではないことは分かっているだろう。それでもなお彼が冷静さを欠くのは、小さな女の子が持つには重すぎた、大いなる恨みのせいだ。
『もも、もも……』
桃が入った箱は、ミラーハウスの入り口に置きっぱなしになっていたはずだ。彼女に誘導される形でミラーハウスの奥に進んでしまった私たちにとって、取りに戻るのは困難だった。
もっとも、彼女は桃なんて望んでいない。
『どうして、私を置いていったの?』
『約束、破ったの?』
彼女の言葉に、はっとする。
その言葉を皮切りに、邪気が一層強まった。七尾に向かって、信じられないスピードで私の身体が跳んだ。彼女は何のためらいもなく、七尾の眼を狙っている。
「七尾!」
私に、成す術はなかった。怖くて、眼をつぶる。
「七尾……?」
眼を開けた。七尾の両目は、生きている。とっさに横に差し向けた右手から、血が垂れた。
「やっと、あんたの声が聞けて嬉しかった。それがあんたの本心か」
『あんたは、ももじゃない』
「ああそうだ。俺は桃とは何の関係もないし、約束した覚えもない。だけどなお嬢ちゃん、帰るべき場所を間違えた人をほっとくわけにゃいかねえんだ。いわばあんたは、生きてる奴と死んでる奴の約束を破ったことになる」
『約束……?』
「そうだ。生きてる奴には生きてる奴の、死んでる奴には死んでる奴の場所がある。その境界線を越えちゃあいけねぇ。それは決め事だ」
『……』
七尾が温和な顔になる。いつも頼りない彼がこんな表情を見せたのは初めてだ。
「あんたは報われない子供だったんだろう。寂しかったろう、辛かったろう。でもそれでも、しちゃいけねえことをしちまってる。それは境界線を越えることだ。いつまでも家に帰らねえことだ。暗くなったら家に帰れって言われたろ? もう、あんたの陽は」
暮れて、ずいぶん経った。
その言葉を聞き終わった瞬間、彼女はガラスを落とした。パリン、と激しい音を立てて破片はさらに細かく砕け散った。
**
「大丈夫か、橘」
「七尾!」
「うおっと! 生きてりゃいいこともあるもんだ」
意識が戻った瞬間、私は思わず七尾に抱き着いた。私の魂は、私のもとへと帰ってきてくれた。
「大丈夫か、橘」
「うん」
七尾への返事もそこそこに、私は目の前の少女に向き直った。
私にだけ視える、私の少女。
『観覧車で、待ってる』
彼女はそう言い残し、消えた。
しばらくの沈黙の後、七尾が口を開いた。
「とりあえず、桃、食うか?」