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六章

 六、虹の涙と金の雨



 遥かに続く砂は、神の流した涙

 乾いた土地の広さだけ、神は憂いた

 涙の砂の多さだけ、神は焦がれた

 いつか来たる日を待ち

 いつか来たる時を夢見て

  虹が想い、砂が震える奇跡を

虹の心に宿りし愛に、砂が応えて涙する、

 金の雨降るその時を――








ついに見えた街並を、イーリスは嬉しげに指差した。

「ナジムさん、見てください! ほら……木も家も、人もたくさん……! 街ですよ! ちゃんと街があります……!」

「そう、クルハ・サクル王都の街ラザだ。って、さっきから同じことを何度言わせる。もう五回以上は言ったぞ」

「ご、ごめんなさい。つい……」

 苦笑し、謝ってはいても、頬が緩んでしまうのは抑えられなかった。

 国境を越えてから、実に二日以上。ラクダを馬に乗り換え、より速度を上げて進んできた結果、やっとたどり着いた王都だ。とはいえ、その間イーリスは深く布を被って顔を上げることもほとんど許されず、景色どころではなかった。おかげで国境を守る兵士や役人に見つかることはなく、無事旅も九日目を数えた今日、夕刻になってやっと王都に入ることができたのだ。

 生い茂るナツメヤシの木々、砂色の家々の壁、その周囲で走り回る子供や荷を運ぶ男たち、立ち話をする女たち――。全て、変わりばえのない一面の砂の海とは大違いの光景に、イーリスの顔も明るい。のんびりとしたラクダの旅とは異なり、次々移り変わっていく風景を馬上で見るのもまた新鮮だった。

「……そんなに嬉しいか」

 背後で低く呟いたナジムの声は、ちょうど吹いてきた風に巻かれてイーリスには届かなかった。

「え? 何か仰いましたか?」

「いや、別に。そんなに元気なら別の馬に一人で乗ってもらえばよかったかな、と言っただけだ」

 意地の悪い言い方に笑顔が消えかける。そんなイーリスの表情を見たナジムは、わずかに目を逸らして付け足した。

「冗談だよ。そうすぐ本気にすんなっての」

「じょ、冗談……ですか。よかった……」

 また戻った笑顔をちらりと見て、ナジムは曖昧に笑った。

 いよいよ砂漠の旅も終わり、というところで彼が同乗を決めたのは本当のことだ。ラクダと違って馬は乗り方も難しいし、何があるかわからないから用心しているのだと。確かに、砂漠を越えて旅自体は楽になったが、人も多くなり別の意味の危険は増えたと言えるだろう。

「王宮には明日訪問の約束をしてる。あと少しなんだから、目立つような真似はするなよ」

 髪が見えないよう殊更気を遣い、布を深く引きおろしながらイーリスは頷いた。

 そのままなぜか黙ってしまったナジムを遠慮がちに見つめるが、ターバンの影になっていつもの瞳はよく見えない。そういえば彼は、休息所など他の人がいるところではこうして瞳を隠しているようだった。

(砂漠の国々では、あまり好かれないものらしいとは聞いたけれど……)

 おそるおそる手を伸ばし、触れた途端、ナジムが目を剥いた。

「何のつもりだ?」

 イーリスが少しだけ上にずらした布を、むっとしたように再び引き下ろしてしまう。不機嫌そうな様子に遠慮しながらも、気づけば本音を口にしていた。

「あの……見ていたくて」

「あ? 何をだ」

 苛立ち気味に聞かれても怯えず、イーリスは微笑む。恐ろしげに振舞っても彼が優しい人なのはわかっているし、怯えて言いたいことも言えないのは悲しいからだ。

「ナジムさんの、瞳です。もう、見られなくなってしまうから……」

 そう、旅の終わりは、彼との別れを意味している。

(もう、会うことはない――会えない)

 その事実があるから、もうすぐ到着なのに喜びきれない自分がいた。

「この、強くてあたたかい手を握ることも、一緒にラクダや馬に乗ることも、広い腕に支えてもらうことも……できなくなるのですね」

 痛む胸を押さえ、イーリスは寂しげに続けた。

「――最初から、それだけの関係だ」

 かなり長く黙っていたナジムの無愛想な返答。唇の動きを追ってしまっていた目を、あわてて伏せる。頬が紅潮するのも、胸が騒ぐのも、きっと自分一人なのだ。

 あの泉に辿り着く前、口移しで水を飲ませてくれたらしいと聞いて、しばらくは彼の顔を見ることも恥ずかしかった。もちろん熱を出して危険だった自分のためにしてくれたことで、他意はなかっただろう。感謝こそすれ、自分が何を言うべきことでもない。それに、言わずとも沐浴のことやそれ以外の自分の振る舞いに変な意図がなかったことは、ナジムも理解してくれているようだった。

 だから何も気にすることはないのだ。それなのに、イーリスだけが彼のふとした言葉や態度にどきどきして、一喜一憂してしまう。そんな自分が恥ずかしく、また悲しくなる。落ち着かない心と、それに――気のせいだろうか。体の感覚まで、どこか以前と違ってきているような思いに駆られるのは。

「……何か、託宣はないのか」

 ナジムに突然訊ねられ、思考にふけっていたイーリスは顔を上げた。

「託宣、ですか? いいえ、まだ……」

 この前から、たびたび思い出したように聞かれる質問だった。「そうか」とだけ頷き、それきりまた黙ってしまうナジム。今までは深く聞きもしなかったのに、この頃こうしてイーリスの力のことが気になっているようだった。

(それにしても、本当にどうしたのだろう、私――)

 今まで、長くてもせいぜい三日程度を置いて、頻繁に与えられていた様々な託宣。それが確かに、ぱったりと途切れている。自分が変わってきたような気がしたのは、その頃ぐらいからにも思えるのだ。

(沐浴をしていないから? でも、体に不調はないのに)

「お前、さ……もしかして」

 ナジムが何かを思い切ったかのように口を開いた、その時。

「おいナジム、着いたぞ」

 前を進んでいたサディークが指差したのは粗末な宿。ここで最後の夜を過ごし、明日に備えようという話に、イーリスは素直に同意した。手を取り、馬を下ろしてくれながら、ナジムは目を合わせようとしない。その寂しさと重なるようにイーリスが感じたのは、妙な違和感だった。

 賑やかな街道沿いでは気づかなかったが、裏道らしきこの宿屋街は、どうにも寂れている。先ほどのように木々もあり、人々の往来もあるのにも関わらずそんな印象を受ける理由はすぐにわかった。

(あら? 木々が……緑が、枯れている)

 ヒュドールから遥かに南下したこの地方の暑さだけではない、乾ききった道。ナツメヤシの木もその荒廃と枯渇を示すのと同様に、人々の疲弊も濃いように見える。

 訊ねる機会を失い、それでも芽生えた小さな不安は、嫌な予感となってイーリスの胸に広がっていった。



 ナジムが寝台に入ったのは、夜半を過ぎてからのことだった。隣室で眠るイーリスの警護をサディークに交代し、短い休息を取るべく目を閉じる。しかしそんな眠りは、小さな物音と気配に邪魔されることとなった。

「どういうつもりだ? ガザーラ」

 ぎしり、と狭く硬い寝台を軋ませ、ナジムの体をまたぐようにしてのしかかっていたのは、見知った踊り子の少女。薄く目を開いて、動かずにただ問いかけたナジムに、ふっと艶やかな笑みを見せる。そのまま近づいてきた唇を、受け入れることはしなかった。今までと同じように、彼女の情熱に応えるつもりもなかったし、この夜ナジムに迫ったのは、唇だけではなかったからだ。

「ついに俺を殺す気にでもなったか? なら、相手をしてやるが」

 ニヤリと言って、突きつけられた剣を素手で掴む。ふっと力の抜けたガザーラの手から落ちたのは、剣舞に使う偽物の剣だった。

「勘が鈍ってないか試しただけよ。あたしがあんたを殺すわけないでしょう」

「どうだかな。大事な情報を隠し持ってるとこ見ると、どうにも信用できない」

「隠してるって、なんでわかるのよ」

「お前が俺に迫るのは、余裕なくらい暇な時か、状況が切羽詰ってる時のどっちかだからな。どっちかは、目を見りゃわかる」

 苦笑しながら起き上がると、ガザーラは悔しげに目を逸らした。その目が笑っていないことも、真剣な色を宿していることも、隠しきれていなかった。

「……ねえ、抱いてよ」

 窓辺に立ったナジムの背中に、ガザーラが身を寄せる。無言でいると、苛立ったように激しい声が続いた。

「なんでよ! なんで――あたしじゃだめなの!? ずっとあんたと一緒にいたのはあたしなのに……あんたの傷を癒したかったのに、なんであたしにはできないのよ!」

「……ガザーラ」

 振り向くと、涙を溜めた目が睨みつけている。体中に走るどの傷跡よりも、しくしくと痛み続ける古傷。皮肉にも今夜の月と同じ、細くたわんだ三日月のそれに触れられそうになって、思わず身を引いた自分。ガザーラは、唇を噛んで背を向けた。

「どれだけ奪おうが、どれだけ殺そうが、あんたがあんたでいれるならそれでいいって思ってた。誰より強い背中を、そばで見ていたかった。なのに――あんたが望むのは、あたしじゃない」

「俺は、望んでなんか――」

「そうよ、でも望まないんじゃない。望めないのよ! 血に濡れたあんたと、お綺麗で高貴なあの女に、未来なんかあるわけないから……!」

 叫び、ガザーラは顔をゆがめる。あふれ出しそうになった涙は、背を向けられて見えなかった。

「一つだけ忠告しとくわ。王宮には、行かないほうがいい。それでもどうしてもって言うなら、その傷跡からまた血が流れるかもしれないって、覚悟して行くことね。あんたも、もうわかってるみたいだけど」

 言い置き、ガザーラが去ってしまってもまだ、ナジムは窓辺に立ち続けていた。もう、どう努力しても眠れそうになかった。


 

 翌朝、イーリスが起きた頃にはガザーラの姿はなかった。問いかけてもナジムは答えをくれず、サディークは困ったように笑っただけ。

「ま、あいつは自由気ままな踊り子だからな。そのうちまた戻るさ」

 自分たちは元々こんな風に適当な仕事のやり方をしているから、と言われ、イーリスは釈然としないまま納得するしかなかった。明け方までなんとなく寝付けなかった自分のように、疲れた顔をしたナジムもまた眠れなかったのかもしれない。

 そして迎えた夕刻、ついに目の前に広がった光景は、今度こそ完全なる旅の終息を告げていた。

 ヒュドールの建造物とは異なる、壮大で豪勢な金色の宮。幾つもの丸い尖塔を持つきらびやかなそれこそ、クルハ・サクル王の住まう王宮だった。

 巨大な門の前で立ちすくんだイーリスとは裏腹に、ナジムは平静に自分の名を告げ、すぐに通り抜けることを許された。その様子を見て、やはり約束を取り付けてくれていたのだと安心したのだ。

 そして今、イーリスたち一行が通されたのは、王との謁見を待つ控えの間。王に失礼にならぬようにと、侍女たちがイーリスの格好を整えてくれているところだった。

 塗り粉を落とし、編まれていた髪を解き、丁寧に櫛で梳かれていく。それだけでまっすぐな流れを取り戻した虹色の髪は、金色の王宮に負けぬほど輝いていた。

 大きな鏡の中に映る自分の姿は、久々にきちんとした『虹の乙女』の様相を取り戻したように見えた。

「国王、クタイバ陛下がお見えになりましてございます。どうぞ、御前に」

 使者に案内され、絹の内衣キトン外衣ヒマティオンを身に着けたイーリスは謁見の間へ進む。目前には高い段上に備えられた玉座。宝石をいくつも飾りつけたターバンを巻き、豪華な正装を着込んだ王が厳かに腰掛けていた。

 いよいよ、目的を遂げる時が来たのだ。安堵、そしてそれに次ぐほどの複雑な想いを胸に、イーリスはそっと振り向いた。

 腕組みをし、佇んでいるのはナジム。隣ではサディークが、頭を垂れている。

 最後にお礼を言おう。様々にひしめく感情をなんとか押さえつけてそう決意し、イーリスが口を開いた、その瞬間だった。

「ご苦労だったな、ナジム」

 長いひげを撫でながら満足げに言ったのは、国王クタイバだったのだ。もちろん、その言葉自体は何も不自然なものではない。もし、彼の表情がにやにやと締まりのないものでさえなかったなら。

「待ちかねていた『虹の乙女』がついに手に入ったか。さすがは有能にして残虐非道な盗賊団『金の雨』、悪党の頭なだけはある。好きなだけ褒美を取らそうぞ」

 不思議そうに瞬いていたイーリスの瞳が、ゆっくりと見開かれる。そのまま、もう一度後ろを向いた。

「盗、賊……悪党……? ナジムさんが……?」

 何を言っているのかわからない。イーリスのすがるような眼差しに、ナジムは決して応えなかった。すいと冷たく目を逸らし、静かにクタイバの足元に膝を付いたのだ。

「お褒めいただき、至極恐縮。約束通り、一生遊んで暮らせる金をもらいましょうか」

「ふふ、はははは……金などいくらでもくれてやる。この娘が掌中にある限り、わたしの栄光は世々約束されたようなものだからな……! よくぞあの憎きヒュドールから奪い取ってくれたものだ! まったく痛快だ、神の声を聞く乙女は、このわしのものだ……!」 

 クタイバの笑い声が上がる中、イーリスはただ首を横に振る。床にくずおれ、兵に腕を捕らえられながらも、イーリスは必死で振り返っていた。

「嘘――こんなこと、嘘です。違う、ナジムさんは……お願い、何かの間違いだと言って……ナジムさん……っ!!」

 泣き叫ぶ声に、サディークが彼を見やる。が、ナジムは膝を付いた体勢のまま、じっと俯いていた。その手が硬く握り締められていることは、イーリスにはもう見えなかった。涙にゆがんだ視界の中、ナジムが立ち上がる。向けられる背中、歩き去ろうとする後ろ姿。だが絶望の一瞬は、更なる悲劇の始まりだったのだ。

「どこへ行く? 褒美がまだだぞ、ナジムよ」

 そばに連れて来させたイーリスを満足げに迎えたクタイバが、彼を呼び止めた。その言葉と同時に両側からナジムを囲んだのは、他でもないクタイバの兵だったのだ。行く手を遮られたナジムが、無表情に鼻を鳴らす。

「予想はしてたが、呆れるくらいにわかりやすい手だな」

 動揺するどころか小ばかにしたような言い方だった。が、クタイバはにんまりと笑みを刻む。

「予想済み、か。これならばどうだ?」

 冷たく狡猾なその声に呼応するように柱の後ろから現れた人影は、クタイバの隣に並び立つ。見開かれた色違いの瞳に映ったその人は、混乱の極致にあったイーリスにさえも驚きを与えた。すらりと背が高く、砂漠の民特有の褐色の肌をした彼は――瞳だけが両方黒であること以外、向かい合ったナジムとひどくよく似た顔をしていたからだった。



「久しぶり、とでも喜ぶべきかな? ナジム、我が弟よ」

「……ヤクザーン」

 喉の奥からもれた声は、低くこもったものだった。微笑みすら浮かべた、自分と似すぎたその顔が、記憶の奥底から忌まわしい光景を引きずり出したからだった。忘れようと封じ込めてきた過去が、鮮烈に脳裏に蘇る。

 天幕に押し入ってきた賊、放たれた火、逃げ惑う部族の仲間。父亡き後、彼らをまとめる立場にあった、自身にとっても頼れる唯一の存在だった兄を探し、必死で駆けた。駆けて駆けて見つけた姿にほっとして、同時に飛び込んできた賊に怯え、かくまってもらおうとしたナジムは――その兄に斬りつけられたのだ。

 鮮血で染まっていく視界の中、ヤクザーンは今と同じように微笑んでいた。何が起きたのかを理解したのは、全てが終わってからだった。賊と共にヤクザーンは姿を消し、砂漠の勇壮なる民ターヒル一族は途絶えた。瀕死で捨て置かれ、逃げ延び、生き長らえたナジムと裏切り者の兄以外――。

「見ての通り、この計画を立ててくれたのはお前の兄ヤクザーンだ。さすがはターヒルの血というべきか、見事に将軍アーミルとしてわたしの玉座を支えてくれている」

「引き立ててくださった陛下に報いるためならば、どのようなことでも」

 優雅に一礼して見せるヤクザーン。一つに束ね、背に流した砂色の髪は記憶にあるより長く、背格好も大人のそれとなっているが、幼い時を共に過ごした兄に間違いはなかった。

「噂は聞いていたが、本当にお前だったとは。よく生きていたな、ナジム」

「砂色の髪と色違いの瞳、か? そんな風貌の奴が、そういてたまるかよ。お前の言うとおり、呪われた『魔性憑き』の化け物……しかも実の兄に三日月の傷跡を付けられた、間抜けな奴がな……!」

 憎しみを込めて、低く答える。ぎり、と噛み締めた唇から血の味がし、それさえも舐めてナジムは笑った。

「さあ、因縁の邂逅も成ったことだし、余興の舞台は整った。ただ始末をさせるのでは面白くない。兄弟同士、決闘でもしてもらおうではないか。殺せヤクザーン! わたしの玉座を美しく、甘美な血の色に染めるのだ……!」

 既に狂ったようなクタイバの言葉など、ナジムの耳には入らなかった。ただひとえに睨みつけるのは、自分を切り捨てた兄だけ。

 お膳立て通りに王宮の砂庭に舞台を移動し、ナジムは剣を抜き放った。

「上等だ。言われなくともそのつもりだったんだからな……抜けよ、『兄さん』」

 わざと言ってやったはずが、口にした途端悲しみと憎しみがあふれ出た。壮絶なほどの憎悪が、我を忘れさせる。笑みを消したヤクザーンが言葉通り剣を抜き、ナジムに対峙した。

 暮れ行く夕日と幾つもの篝火に照らされながら、兄弟の戦いは始まったのだ――。


『どうしてなんだ、兄さん……っ!!』

 血を吐くような叫びは、冷たい笑みで跳ね返された。

『どうして? 愚問だな、ナジム』

 決まっているだろう、と兄は言った。血のつながった弟の、色違いの瞳を指して。

「どうした? 不吉で呪われた魔性憑きは嫌いなんだろう? ずっと、憎んでいたんだろうが。あの夜、そう言ったよなあ!?」

 そうだ。信じていた兄はそう吐き捨てるように言って、背を向けた。流れ落ちる血に震えながら、ナジムは叫んだのだ。

 ――嘘だ、と。

 短剣と長剣、二振りの武器を手に、兄の攻撃を交わす。突き出されるそれは鋭く、そして冷たかった。父の代わりに彼自身が手ほどきしてくれた剣術で、今自分は戦っているのだ。

 あの時の絶望と同じ言葉を自分に叫んだ少女は、蒼白になってこちらを見ている。

わずかの間気を取られたナジムに、ヤクザーンは笑った。

「一つ、教えてやろう。昔、お前に言ってやった言葉だ」

 覚えているか、と剣を繰り出しながら彼は続ける。

「魔性憑き――それが本当かどうかは誰にもわからん。だが、確かに色違いの瞳を持つお前は強い。武に長け、身は軽く、複雑な剣術もすぐ体得する。尋常ではないと思えるほどの、強いて言うならば悪運……それがお前に味方していると」

「忘れてないさ。だから気を落とすな、人々の悪口になど負けるな。お前の強さも瞳も誇りに思え。そう言った相手に裏切られたんだからな」

 その夜を境に、自身の瞳も境遇も、本気で呪うようになったのだ。例え父も母も持たなかった色違いの瞳を持とうとも、その理由がわからずとも、やっていけると信じていた。その信頼も何もかも粉々にした張本人が何を言うのだと、ナジムは怒りのまま思いきり剣を突き出した。

「その口聞けなくしてやる、裏切り者――っ!!」

 刃は、ヤクザーンの喉を突くぎりぎり手前で止まった。

「ナジムさん、だめ……っ!」

 バカな。ナジムが一番そう思ったのは、悲痛な叫び声で一瞬でも手を止めてしまった自分だった。涙をいっぱいに溜めたイーリスの瞳には、今までと同じ――いや、今まで以上に自分を想う心が見える。ナジムのわずかな躊躇を見て取った兵が、ヤクザーンを守るように立ちふさがった。また、クタイバの高笑いが響く。

「気でも違ったか、ナジム……! お前ともあろう男が、たかだか一人の女の言葉に惑わされるとはな……!」

(うるさい、うるさい、うるさい……!)

「俺は、惑ってなどいない……!!」

 キイン、と甲高い音を立てて、ナジムが弾きあげたのは自分を囲む兵の剣。刹那の空白を埋めるかのように、凄まじい速度で次々と剣を振るっていく。

 あの十五の時から今までずっと、こうやって生きてきたのだ。

 これからだって自分は変わらない。変わることなどあり得ない。例え、たった一人、自分のために本気で涙を流す女がいたとしても――!

 斬って、斬って、自分さえも鮮血に染まって。そうやって生きる。生き残ってみせる。それが何より唯一の、あの男への復讐なのだから。

 たどり着いた先で、ヤクザーンは剣を構える。来い、とまるで呼ばれているような気さえした。

「だめ……ナジムさん……っ、もうこれ以上、罪を犯さないで! 自分の心を、斬ってはいけません……!」

 叫びは、直接心に突き刺さった。

 誰かを斬るたび、自分の心も血を流してきた。考えるまいと努力しても、命を奪うたびにまるで自分が傷つけられていくような痛みを感じながら。それでも、気づかないふりをしてきた。なのに――。

(なぜ、お前が涙を流すんだ……!)

 自分に代わってその痛みを感じてでもいるかのように、美しい顔を涙でくしゃくしゃにして。その泣き顔が心を刺して、どうしても刃をそれ以上動かせない。ヤクザーンは、ただ静かに構えていた剣を引いた。

 目を剥いたナジムに並び立ったのは、今まで静観していたサディークだった。いつもの飄々とした態度が嘘のように、彼は強い瞳をヤクザーン、そしてクタイバに向ける。どこまででも加勢する、その決意が現れた目だった。

 強力で剣を振り回すサディークが加わって、兵はどんどん数を減らされていく。謁見の間は血に濡れ、残ったのはクタイバとわずかな兵だけ。サディークと対峙したヤクザーンを焦ったように見やり、助けが期待できないと知ったクタイバはついに動いた。兵から奪い取った剣を自ら突きつけ、イーリスを盾にしたのだ。鋭い切っ先がもう少しで彼女の喉を傷つけそうなほど、強く押し付けて。

「どうだ、これでもわたしが斬れるか? たかが女一人に惑った愚か者に……!」

 ぐっと喉の奥が鳴る。柄を強く握り締めながらも、ナジムは足を止めたのだ。まさにクタイバの言葉通り、何よりも知りたくない真実を示すかのように――。

「あら、愚か者はどちらかしら?」

 突如響き渡った明朗な声が、その場の空気を一変させる。姿を消したと思っていた、もう一人の仲間の姿が広間の入り口にあったのだ。長い黒髪が、風になびく。

「お前は、踊り子ガザーラ――奴の仲間だな? ふん、下賎の者が、何を負け惜しみを……」

「負け惜しみなんかじゃないわよ。すっかり勝ったつもりでいるおバカさんに、親切にも真実を教えてあげようとしてるんじゃないの」

「真実だと?」

「そうよ」と艶やかな笑みを見せ、ガザーラは意味深に腕組みをする。

「あんたが盾にしてるその女だけど、もう『虹の乙女』なんかじゃないのよ。だからナジムは動かなかったの。盾にもならない、既に価値を失った商品だからよ」

「何、だって……? どういう意味だ!」

「言葉通りよ。あんた、偉そうなわりに頭が良くないのね。『虹の乙女』の価値といえば、その聖なる力……でも身も心も純潔を保っていなければ、力は失われる――」

 怒りで顔を紅潮させていたクタイバは、段々表情を失っていく。

「ま、まさか……!」

「そ。だからもう彼女は普通の、平凡な女でしかないってこと。さあてご気分はどう? あんたのご大層な計画とやらが、たかが女一人のために台無しになったご感想は?」

「く……くそ、くそ、くそっ! 何てことを……! ナジム貴様ああああ!」

 蒼白だった顔を憤怒に染め、クタイバはイーリスを突き飛ばした。既に交渉価値などないと踏んだのか、それとも理性を失ったのか。剣を手にそのまま向かってくる捨て身の男を、ナジムは冷たい目で見据える。意味のわからぬ言葉を叫んでいる喉笛を一撃で切り裂くべく、狙いを定めて。

 残りの兵の邪魔を払いのけ、身をかがめ、目前に迫ったクタイバの腹をめがけて鋭く突き出した刃は――、

「……嬢ちゃんっ! バカな――!」

 サディークの叫び声も、ガザーラの驚愕も、何もかも聞こえなかった。

 ただ見えたのは、傾ぎ、倒れ行く少女の体。その胸を染めていく鮮血。乾いた砂庭に染み込んでいく、赤い色。

 剣を扱い始めてから今まで、初めて手から力が抜けた。鈍い音を立てて、三日月の剣が砂上に落ちる。

「イーリス……?」

 嘘だろう、と無意識に首を振った。そばに転がっていたクタイバがゆっくりと起き上がり、今の状況を把握したように笑い始める。

「わ、わたしをかばった……? は、はははあ! たとえ力を失っても、お前に罪を犯させまいと体を張ってくださったというわけか! なるほど、とんだ『聖女様』もあったものだ!」

 狂ったように笑い続けながら、クタイバは等間隔に置かれていた篝火を次々と倒していく。乾ききっていたそばの潅木に燃え移った火は一気に勢いを増し、みるみるうちに王宮の建物へと広がっていった。逃げるクタイバを、サディークが追う。

 燃え盛る炎とは裏腹な静けさの中、ゆっくりと膝を付いたナジムが、イーリスの体を抱え上げる。止まらぬ血がナジムの衣服をも染めていくが、まるで見当違いなことをぼんやりと考えていた。

(そうか――こいつも、普通の血が流れるんだな)

 はっ、と笑いが漏れる。この状況で、何を考えているのかと。

 それなのに次々と蘇ってくるのは、無垢で純真な少女の言葉や態度の数々。出会ってからずっと呆れ、苛立ち、腹を立ててきたはずの振る舞い。そうやって突き放しても冷たくしても、変わることなく接してきた少女の、優しい微笑み――。

 乾ききっていた笑いは、すぐに消えてしまった。血に濡れた震える指で、おそるおそる頬に触れる。撫でるように、静かに包み込む。

「……おい」

 動くことのない頬から首、首から肩へ手をやって、そっと揺らした。

「……ふざけんなよ、このやろう……!」

 罪を犯すな、だと? 人を――誰も惜しまぬような悪党を斬らせずに、自分ならばいいとでも言うつもりか。初めて自分のために泣いた女の命を、あえて奪わせるような真似をするのが、正義だとでも――?

「だから、お前なんかだいっきらいだと言ったんだ……っ!」

 誰もが忌み嫌う色違いの瞳を、たった一人綺麗だと言った。見ていたいのだと別れを惜しんだ。もう触れられなくなるのが寂しいと、まっすぐで素直な目をして。

 ずっと否定して、拒絶して、押し殺しても隠し切れずに沸きあがった感情。いくら締め出そうとしても、水のように心にまで染みこんで、いつの間にか広がっていった存在。今頃気が付いても、認めても、もう遅いのに……!

「イーリス――!」

 血に濡れた体を、華奢でやわらかなその全てを、初めてきつく抱きしめた。今まで抑えてきた、想いのままに強く。呼んだ名の響きそのものが、まるで彼女のように優しいと感じた、その瞬間だった。

 透明な涙の滴が、彼女の髪色のように虹色に輝く。燃える火の熱さも恐ろしさも忘れるほどに、清冽なほどの光がイーリスを覆った。

 同時に襲い来るのは、頭の奥が揺さぶられるような、熱く燃やされるような、奇妙な感覚。それは急激にナジムの体内へ広がり、瞳までもが凄まじい熱と痛みに支配される。

「う……あああっ……!」

「ナジム! しっかりしてナジムッ!」

 駆け寄ってきたガザーラの声も届かず、悲鳴も出せずに体を折った。抱えていたイーリスの体をより強くかき抱かなければ耐えられぬほどの痛み。それが、どれくらい続いたのか。頭の奥に、声が響いたのだ。

「二つの瞳を持つ者よ、解き放たれよ」

 今聞こえたばかりの声が、現実の世界にも二重に発せられた。弾かれたように顔を上げたナジムが目にしたのは、うっすらと開いたイーリスの唇だった。

「二つの瞳を持つ者よ――かの者に宿る、古の精霊よ。悪しく傾いたその力を、今こそ洗い清めん……!」

 彼女のものであって、彼女のものでない声が言い終えた途端、信じられない感触に頭上を見上げる。ぽたり、と落ちた最初の滴が三日月の傷跡を辿り、流れて。徐々に量を増やしていく滴の連続、それは信じられない事実を示していた。

「あ、雨……!? 雨だわ……っ!」

 この季節の砂漠地帯であり得るはずのない光景が今、目の前で繰り広げられていた。 しかもその雨は、勢いを弱めている炎のせいだけでなく、確かに淡く金色に輝いていて――。

「金の雨、奇跡だ……! 神の、恵みの雨だ!」

 駆けつけていた残りの兵たちさえも驚き、いまや全身を濡らす大雨となった水の奇跡に沸く。その中でナジムは、呆然と見つめていた。ゆっくり、ゆっくりと持ち上がる少女の瞼を。開いたそこから自分を捉えた、澄んだ薄紫の眼を。

「ナジム、さん……?」

 唇が、今度こそ普段の口調で紡いだ刹那、更なる驚愕がナジムを襲う。今も降りしきる雨で流されていく赤い色。絶えぬはずの血の流れは止まり、そして少女は静かに身を起こした。まるで傷つけられたことなど、ないような仕草で――。

「ナジムさん、泣いて、いるのですか……?」

 そっと頬に触れた温かな手を、ナジムはきつく握り締めた。痛みは嘘のように引き、ただ優しく不思議な感覚で体は満たされている。少女の無事を確かめた、心までも。

「誰が泣くか、この――」

 一気に手を引き、目と鼻の先で睨みつけると、イーリスは一瞬怯えた目をする。また何か怒らせるようなことをしたのだろうか、とでもいうような顔だ。今起きたすべてのことも、それまでに彼女がしてくれた様々な許せぬ出来事も、今この瞬間だけは後回しでいい、とナジムは笑った。

「やっぱりお前なんかだいっ嫌いだ……だから、泣くよりこうしてやる」

「ナジムさ――」

 最後まで言わせず引き寄せた体を腕の中に収め、苦しげな声を漏らすほどに強く抱く。既に互いの服はびしょぬれで、髪も体も恵みの雨に打たれながら、ナジムが両手で捕らえたのは滑らかな頬。驚き、見開かれる瞳も気にせず、ナジムは一気にその唇を奪った。猛々しいほどに強引で、深く熱い。今度こそ正真正銘の、口付けだった。



 金の雨は王宮の火を消し止めると同時にやみ、クタイバは拘束された。

 混乱の中、命を下したのはなんと、将軍ヤクザーンだったのだ。王を失い混乱に陥りかけた軍の主導権を見事に掌握し、彼はクタイバ失脚を証明した。自らが、新たな王となる宣言を立てることによって――。

「あの時、賊を差し向けたのがクタイバだった。奴は、勇壮なターヒルの民を恐れていた。父が、先の国王にも仕えた将軍だったことは知っていたか?」

 当然知らないだろうな、とヤクザーンは苦笑した。自分と同じく、強く生きてほしいと願った父その人の遺言を守ったのだと。

「色違いの瞳ーーそれは呪われた者であると同時に、その呪いから人々を解放する力を秘めた者である。そんな言い伝えが古にはあった。父から、私はそれを伝え聞いた」

ヤクザーンは優しく微笑んで言った。ナジムとよく似た風貌で、彼は続ける。

古からの言い伝えはそのうちすたれ、呪いの話だけが残った。だが確かに言い伝えには続きがあったのだと。

「色違いの瞳を持つ者が、呪いから解き放たれるには、真の強さを持たねばならない。真の強さと、勇気だ。だが、お前がその瞳に囚われている限り、本当の意味で強くはなれない。だから私はあえてお前を斬ったのだ。クタイバの手から遠ざけ、守るためでもあり、お前自身の強さを見つけてもらうためでもあった。致命傷にならず、それでも追っ手には死んだと思わせるような派手な斬り方はこれしかなかった。長く、苦しい思いをさせたな」

本当に、すまなかったーー。

 真摯に、重く伝えられた、信じられない言葉に、ナジムは瞳を見開いているしかできなかった。そっと触れられた額、そこに昔のままの温かさを感じたことが、真実の証明だったのだ。

 そして混乱を収めるべく現れた援軍は、水色の旗印を掲げていた。なんと国王オレスト本人が、馬から降り立つという事態に、さすがのナジムもイーリスも、ただ驚くのみ。

「辛い目に合わせてすまなかった、『虹の乙女』よ。だが今、こうしてヒュドールとクルハ・サクルの新たな歴史の始まりを見せることで許してくれ」

「新たな、歴史……?」

 イーリスの問いに、オレストは頷く。

「民を区別せず、また一つの神のもとに集えるような世界を取り戻すために。それがわたしと彼――クルハ・サクル新王の願いだったのだよ。そうだろう? エルピス……いや、ヤクザーン新国王」

「エルピス、様――!?」

 どこかで聞いたような立派な思想と、それを提唱した人の名前。実は彼こそが正体を隠したヤクザーンであったのだと知り、壮大にして無謀なる両王の結託が成されたとようやく理解できた。

「さて、君は愛を知り、真の『乙女』ではなくなったと聞いたが、本当なのかね? イーリス」

「それは……!」

 真っ赤になった彼女の代わりに返事をしたのは、既に平静さを取り戻したナジムだった。

「本当です、親愛なるヒュドール国王陛下」

「ナジムさん……?」

「ですから、彼女を『虹の乙女』の役割から下ろしてくださいますね? いや、能力がなくなったのだから、そうせざるを得ないはずだ。今まで仕えた彼女の信仰に免じて、女神様もきっとすぐ次代の乙女を与えてくれるでしょう。だから、ヤクザーン新国王陛下との協定を踏まえてお願いします」

 わざとらしく呼ばれ、ヤクザーンは眉を上げる。優しい瞳を、ナジムは挑戦的に見上げた。

「そういうわけだ、イーリス」

「は、はい?」

「俺は面倒な仕事の代わりに、自由気ままな旅に出る。お前はどうする? 俺と、離れたいか――?」

「もちろん……離れたくありません……!」

 試すような、意地の悪い瞳に見つめられ、イーリスは即答した。

「選んだのは、あくまでお前だからな」

 ニッと口角を上げて笑んだナジムが、片手を差し伸べる。掴んだ刹那、イーリスの力よりも強く、彼はその手を引き寄せた。

「もう盗賊も『虹の乙女』も廃業だ。言っておくが、それでも俺は狙った獲物は逃がしはしないぞ」

「その獲物は、ずっとナジムさんと一緒にいられるのですか?」

 まだよくわからない言い回しで囁かれ、イーリスは問い返す。ふっと笑みを深めた色違いの瞳は、ひどく優しく、それでいてあくどい光を湛えていた。

「当然だ。嫌だと言っても、もう離さない――」

 天上の三日月に照らされ、始まった二度目の旅。一度目とは異なる意味で危険に満ちたものになることを、イーリスはまだ知らない。いや、何も考えることができなかったのだ。苦しいほどにきつく抱かれ、何度も繰り返される、熱く甘い口付けに、唇ごと答えも奪われたから――。



                                 (了)




 

読んでくださり、ありがとうございました( ´ ▽ ` )ノ

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