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五章

五、触れ合う心、疼く傷跡



 旅が始まってから、五日が経った。

 早朝に出発し、夜には休息所で休む。休息所がない場所では、ナジムが張ってくれた簡易の天幕で夜を明かす。そんな道程も、およそ半分。目指すクルハ・サクルまであと五日を残すところとなった夜、ナジムとイーリスは二晩ぶりの休息所にたどり着き、ラクダを下りた。

 辺りには薄闇が立ちこめ、ほっとしたように天幕へ入っていく人々で賑わっている。うまく下りられないイーリスをナジムが下ろしてくれるのも、既に習慣と化していた。天幕に落ち着き、食事を済ませ、寝床を整えたところまでは今までと同じ流れ。だが、この夜に違っていたのは、外からわっと歓声と拍手が沸きあがったことだった。続いて響いてくるのは太鼓の音。規則的でありながら、徐々に盛り上がりを演出するような叩き方だった。男たちの歓声は大きくなり、無視できないほどになる。

「あれは……?」

「旅芸人でもいるんだろう。待ってろ、見てくる」

 言い置いて出て行ったナジムは、しばらく経っても戻ってこなかった。その間に音も歓声もどんどん賑やかさを増していき、イーリスはついに立ち上がった。

(何かあったのかしら……?)

「変装もしたままだし、少しくらい平気よね?」

 自分に言い聞かせるように呟くと、そうっと天幕の垂れ布を持ち上げる。既にとっぷりと闇に沈んだ砂漠――その中で目前の広場だけは、煌々と篝火に照らし出されていた。

「いいぞ、いいぞ!」

「もっとだ、もっと見せろ!」

 いくつか置かれた篝火のちょうど中央、丸く開けられた部分を残し、後は全て男たちがぐるりと取り囲んでいる。中で何が行われているのか見えないまま、叫ばれる歓声の凄さに興味を惹かれ、イーリスは少しずつ歩み寄っていった。

「あ、ナジムさ――」

 見知った背中を見つけ、ほっとして声をかけようとした、その瞬間。

「おお、剣舞だ! 剣舞が出たぞおっ!」

 誰かが興奮をあらわに叫び、観衆が一斉に口笛と拍手で沸き立つ。激しくなっていた太鼓の音が少し抑えられ、つられるように観衆たちが一人、また一人と地面に座り込む。ついにはほとんど全員が座り込んだことで、立ったままのナジムと、その後ろのイーリスに自然と周囲の視線が集まった。

「お前――」

 振り向くなり目を剥いたナジムが、急いでイーリスを座らせる。が、少し遅かったらしく、輪の中心で一人佇んでいた注目の的――癖のある長い黒髪に、象牙色の肌をした少女は、二人を目で捉えた。

 思わず開いたイーリスの口を、ナジムが手で覆う。そうされなければ、驚きの声を発するところだった。なぜならその少女――イーリスより少し上ぐらいだろうか――の格好は、今まで目にしたこともないほど、挑発的だったからだ。

(まあ……肌があんなに!)

 すらりと長い手足に、豊かな胸と細い腰。その完璧とも言えるだろう肢体にまとっているのは、胸元と腰の回りを隠す焦げ茶色の布切れだけ。逆に言えば、それ以外の素肌は全て露出されているのだった。

 驚くイーリスの視線をまっすぐに受け止め、見下ろしているのは濡れたような黒い瞳。大きく印象的なその目尻には、ほくろが一つ。

 赤い唇に嫣然とした笑みを湛えた少女は、手にしていた長剣を高く突き上げた。

「待ってました!」

「踊り子ガザーラの剣舞、興奮して震えが来るぜ!」

 イーリスたちから少女がすぐに目を逸らしたことで、意味ありげな視線に観衆は気づかなかったらしい。太鼓ではなく妖しげな笛の音が奏でられ、それに合わせて彼女が魅惑的に腰をくねらせ始める。妖しく美しい剣舞をただただ見上げていたイーリスは気づいていなかったのだ。隣に座ったナジムが、少々複雑な顔をしていたのを。

 頭上に昇った白く大きな月。細くたわんだ弓のようなその形を連想させる、湾曲した長剣を手に、少女――踊り子ガザーラは世にも不思議な舞を披露していく。

 もちろん不思議なのはあくまでもイーリスにとって、であって、熱狂している観衆たちからすれば期待通りのもののようだった。彼女の一つ一つの動きに歓声が上がり、また拍手が沸き起こる。どうしたらあれほど長い剣を持ち、しかも自由自在に振り回してまで、軽やかに舞うことができるのか。

 いつしか魅入られるように見つめていたイーリスの前で、ガザーラは鞘からすらりと刀身を抜き放った。ナジムの短剣のような磨き上げられた鋭い光ではないが、十分に怪しげな輝きだ。

「ついに抜いたぞ! 誰だ、誰が選ばれるんだ!?」

「くそう、もしてめえだったらぶっ殺すからな!」

 男たちの何やら物騒なやり取りにイーリスは首を傾げ、ナジムは頭を抱える。そしてそんな彼の前で、少女の足は止まったのだ。指差すように縦に向けられていた切っ先が横にされ、刃の側面がナジムの顎を持ち上げる。

「今夜はあんたに決まり。お相手、願えるわね? 若くしなやかな、黒豹みたいなお兄さん……?」

 ガザーラが艶やかな笑みと共に言った途端、期待に目を輝かせていた残りの男たちは肩を落とし、盛大にため息をついた。

「仕方ねえ。踊り子の決定には誰も文句を挟めねえ決まりだからな」

「あーあ、悔しいがあんたに譲るよ兄ちゃん。せいぜい熱い夜を楽しんでくれや」

 ひとしきりあれこれと声をかけてきた男たちがあきらめたように去っていき、伴奏者たちも引き上げていく。広場が無人になったのと同時に、イーリスはナジムの服の裾を引く。疑問のこもった遠慮がちな動作に気づいているはずなのに、ナジムはちらりと面倒くさげに見返しただけだった。切っ先を引っ込めたガザーラのほうへ、嘆息しながら歩み寄る。

「あ、あの……お相手、って? ナジムさん、これは一体どういう――」

「こういうことよ、お嬢ちゃん」

 鞘に収めた長剣をあっさり砂地に放り出し、ガザーラは笑みを深めた。そのまま、ナジムの首に両腕を回す。

「ああ、やっぱり素敵。その冷たい目、余計に興奮しちゃう」

 すぐ近くで彼を見つめ、うっとりとした様子でガザーラが顔を傾けた。ナジムが何か言おうとするよりも、少女の動きのほうが一瞬早かった。かろうじて保たれていた距離を刹那にして縮め、彼に深く口付けたのだ――!



 突然の口付けに驚きも、動じもせず、ナジムは少女の肩を無造作に押しやった。

「どうしてお前がここにいる?」

 まだ至近距離で腕を絡めたまま、踊り子ガザーラは肩をすくめる。

「ご挨拶ね、相変わらず無愛想なんだから」

 尖らせた唇を今度は耳元へ寄せ、囁くのは恨み言だ。

「口を開けるぐらい、してくれたっていいんじゃない?」

 言って、先ほど差し入れようとしてきた赤い舌を小さく見せる。そんな仕草を喜ぶ男はいくらでもいるだろうが、ナジムは無表情に流しただけだった。

「なら、そういう男を誘惑するんだな。お前ならお手のものだろう」

「冷たいのね。あたしがあなただけに夢中だって、ずっと前から知ってるくせに」

 恨みがましい目つきは冗談めかしたものだったが、そこに本気が込められていることは承知している。

「知ってるからお前と関係を持つつもりはない。仕事以外ではな」

 今度こそぐいと強く体を離させ、ナジムは意地悪く笑った。何度も繰り返されてきたやりとりに不満を見せつつも、ガザーラも微笑む。久々に会った、仲間の顔で――。

「で、そこで固まってるお嬢ちゃんは何なの? 泣く子も黙る盗賊団『金の雨』の首領ともあろうあなたが、ついに子供のお守りでも始めたってわけ?」

「ガザーラ!」

 あわてて口を塞ぎ、問題のイーリスを見やる。が、ガザーラの言った通り彼女はすっかり固まってしまっていて、今の言葉も耳に入っていないようだった。最大限に見開かれたままの大きな瞳の前で、ナジムは手を上下させる。

「おい、どうした? しっかりしろ」

 ついには肩をゆすって、やっとイーリスが瞬きをした。ナジムの顔を見とめ、視線を唇の辺りまで下げたかと思うと、いきなり慌てふためいて目を逸らされる。

「何なんだよ一体、具合でも悪いのか?」

 この少女にはその可能性も大いにあることを思い出し、額に手を伸ばした。

「ちょっと熱いな。夜風に吹かれてぶり返したか。とにかく早く天幕に――」

 手で熱を確認し、少し覗き込むようにしただけでイーリスがびくりと震え上がる。

「だっ、大丈夫です! 何でもありませんから」

「それが大丈夫って顔かよ。いいから先に戻って……」

「平気です!」

 肩にかけようとした手を思いきり振り払われ、ムッとした。

「お前なあ、人がせっかく――」

 文句の一つも言ってやらなければと口を開いた時、言葉を止めたのはガザーラだった。ナジムの肩に寄りかかり、嫣然と笑んでイーリスを見やる。

「もしかして、驚かせちゃったかしら? さっきの……」

 自分の唇に触れた指でナジムのそれをつついてみせ、意味ありげに続けたのだ。

「お子様には少々刺激が強すぎたんじゃなぁい?」

「さっきの? ……刺激……」

 あ、とナジムが思い出すのと、イーリスが俯くのは同時だった。

(そういや、口付けられたんだっけか)

 自分にとっては何の意味もない挨拶程度のことだったので、あえて避けることもしなかった。が、確かに『聖女様』には少々、どころかかなりの刺激だったのかもしれない。

「それで急に態度がおかしかったわけか。にしたってあれはないだろうが」

 サディークがいれば『お前が言うな』とでも突っ込まれそうな文句で、ナジムはぼやく。珍しく紳士的な気遣いを見せてやったというのに振り払われ、まだムカついていたのだ。

「ご、ごめんなさい。私、そういうつもりじゃ……」

「じゃあどういうつもりだったんだよ?」

 あえて意地悪く聞いてやると、イーリスは更に俯いてもごもごと口ごもる。

「聞こえねえ。何だって?」

「あ、あの……驚いた、だけですから……」

「何に驚いたんだよ」

「え、えっと……その、ご、ごめんなさい!」

「はあ? だから何が――」

「ナジムさんに恋人がいらっしゃること、し、知らなかったので……驚いて、しまって……」

 前半だけ叫ぶように言っておいて、徐々に声が小さくなる。その内容に驚いたのはナジムのほうだった。近くで覗き込んでもイーリスは懸命に目を逸らし、なぜか小さく震えている。

「ごっ、ごめんなさい! 私、やっぱり先に戻ります!」

「あ、おい!」

 引きとめる間もなく駆けていったイーリスは、天幕の入り口を前に思いきりつんのめった。あわてて起き上がって砂をはらい、垂れ幕を押し上げて中へ姿を消す――少女の一連の動作を呆然と見守っていたナジムは、思わず吹き出した。

「よくこける奴……」

 呟き、くっくと笑っていたナジムは、ガザーラの目線を感じて口をつぐんだ。あわてていつもの顔を装うとしても、時既に遅し。ものすごく物言いたげな半眼を向けられる。

「随分仲良しになったみたいじゃない。どういうことだか、説明してほしいものだわねえ」

「説明? 何のことだよ」

「だーって、あの子なんでしょう? 奇跡の水の王国ヒュドールの『虹の乙女』様で、あなたの今の獲物」

「商品、と言ってもらいたいもんだな。ってやっぱり知っててからかったのか、趣味の悪い女。さすが踊り子ガザーラ、いや、砂漠一の情報屋って呼んでやるほうがいいか?」

 鼻で笑って言い足すと、ガザーラは嫌そうにそっぽを向いた。

「おかげで珍しい見世物を楽しめたわ。あなたともあろう人が、あんな小娘と馴れ合ってる、なんてね。一体全体どういう風の吹き回し? 獲物でも商品でもどっちでもいいけど、もうすぐ売りさばいてやるモノの相手なんかまともにする必要ないじゃない! それがあなたの信条だったはずでしょう? 冷たく無情な『色違いのナジム』の――」

 声を荒げて言い募ろうとするガザーラを、ナジムは鋭くねめつける。たった今彼女が口にした通りの双眸に剣呑な光が浮かんでいることを知りながら。

「……っ、本当にお笑いだわ! 自分を売り飛ばそうとしてる男に恋なんかして、そんな間抜けな商品がある?」

「恋、だと?」

「そうよ、もしかして気づかなかったの? あの子のあなたを見る目、あれは完全に恋する女の目じゃない。そうじゃなきゃ、あんな風に嫉妬して駆け出して行ったりしないわ」

「嫉妬――」

 唖然として、ただ繰り返すだけのナジムを、ガザーラは悔しげに睨みつけた。

「自分の正体も知らせず仲良しごっこなんて、あなたらしくないにもほどがある。ちゃんと真実を言って、あの女を絶望に突き落としなさいよ。お前はすぐに売り飛ばされる身だって、誰に恋焦がれようと無駄だってね! そうじゃなきゃあたし、協力してやらないんだから……!」

 駄々っ子のように足を踏み鳴らし、拳を握り締めて叫ぶ。ガザーラの突然の我がままを止めたのは、目を剥いたナジム、ではなく――、

「おいおい、そりゃあいくらなんでも短慮ってもんじゃあねえのかい?」

 そうのんびりと問いかけ、象牙色の肩に後ろから手をかけた、大柄の男。

「サディーク……!」

 しばらくぶりに見た相棒の笑顔を、ナジムはほっとしたように迎えた。



「今の俺たちはただの商人、でもってお前も俺たちの隊商の一員ってことでいいよな? ガザーラ」

 サディークが念を押すと、頬を膨らませたガザーラはそっぽを向いた。

 ちなみに、篝火を囲んで三人腰掛けての話し合いの最中。今までの事情やイーリスの性格などを合わせて説明し、そのほうが仕事がやりやすいのだと、サディークがあの手この手で説得している。しばらくしてうまく結論が出たのか、ガザーラが渋々、といった様子で頷いた。それでもまだ気分が収まらないらしく、一人篝火の向こう側へ座り込んでしまう。

「よっしゃ、これで解決。感謝しろよ? ナジム」

 がっし、と肩を組まれてはじめて我に返る。

「あ? 何だって?」

「だーかーらあ、この俺がちゃーんとガザーラを言いくるめ……いや、その何だ、きっちり説得してだな、あの嬢ちゃんにはこれからも今まで通り接する、ってことになったんだよ!」

「あ、ああ。そうか」

「そうか、じゃねえよ! 何ぼんやりしてんだ? あ、さてはお前、さっきの話気にしてんだろう」

「さっきの話?」

「嬢ちゃんがお前に惚れてるっていう、ガザーラの話だよ!」

 サディークに背中をばしっと叩かれ、ナジムは飲みかけていた水をぶっと吹き出した。

「きったねえなあ、おい。何だその動揺っぷりは。冗談のつもりだったんだが……お前、もしかして本気で――?」

「何ふざけたこと言ってやがる! どいつもこいつもくだらねえ! あんな女がどう思ってようと知るかっ」

 怒鳴りながら手の甲でぐいと口を拭く。唇に触れ、思い出すのはガザーラとの先ほどの口付け――だけではなく。

「ふ~ん、ガザーラとのより、もっともっと親密で濃厚な口付けを交わした間柄でも、かあ?」

 にやにやと訊ねるサディークに、ナジムは目を剥いた。

「だ、誰が……っ!」

「おんやあ? 忘れたとは言わせねえぜ? してたじゃねえか、それはそれは熱~いやつを俺の目の前でぶちゅううううっと」

「お前なあ!」

「……熱~い、なんですって?」

 げっ、と思わず声を揃えた二人をひと睨みし、ガザーラは鼻を鳴らした。長い髪をはねのけ、ひどく挑戦的な笑みを浮かべる。

「そう……あの女と熱い口付けをねえ~……あたしのことは何年もふり続けておいて、そう……そういうこと」

「いや、ちょっと待て、誤解だ」

「そうだぞガザーラ、えっとアレはそういう意味を持たない――ってあくまでもあの時点では、と注釈は付けとくがとにかく! 何も下心なんかない救命のための行為であってだな! って待てよ、下心が完全になかったかどうかはさすがに保証してやれんが、ええっとだな……」

「サディーク、余計にややこしくすんな!」

「だってさあ~あんなかわいこちゃんとぶちゅうっとやっちまったら、どんな男でも全く下心なしってわけにゃあいかんだろう」

「下心なんて持ってねえっ!」

「ほんとか~?」

 ぎゃあぎゃあと、段々本筋から離れていく二人をわき目に、ガザーラは勢いよく立ち上がった。

「もういいっ! それ以上言わなくても大体検討ついたわよ!」

「ガ、ガザーラ?」

 おそるおそる呼びかけたサディークと、微妙な顔のナジム。それぞれの視線を受け、突然ガザーラはにっこりと微笑む。今までの不機嫌さが嘘のような、奇妙に優しい笑みだった。

「そうよね。確かにあんたの言うとおりだわ、サディーク」

「え」

「『商品』の特性に応じて扱いを臨機応変に変える。それこそ有能な首領の仕事のやり方ってもんだもの。それに……ナジムともあろう男が、よもや大事な目的を忘れるわけがないんだし」

 でしょう? と同意を求められ、ナジムは咄嗟に首を縦に振る。

「いいわ、あたしも協力する」

「本当かガザーラ! さっすが『金の雨』の知能担当、仕事に私情は持ち込まねえってことだよなあ」

「当然よ。というわけだから、ナジム、今回もよろしくね」

「あ、ああ……」

 いきなりにこやかに握手を求められ、応じてはみたものの、笑顔の中で瞳だけは笑っていないような気が――、

(き、気のせいだよな)

 イーリスだけで十分面倒なのに、それ以上のごたごたは御免だ。ナジムは一抹の不安を打ち消し、砂を払って立ち上がる。

「じゃあ俺は戻るぞ。サディーク、お前も来い」

「いや、でもさ、お前が先に行ったほうがいいんじゃないのか? 何なら俺は別の天幕に泊まったって――」

「妙な気遣いは無用だ」

「あ、そうかお前、一人で行くのが嫌なんだな? 嬢ちゃんと二人きりだと気まずいから俺を――」

「そんなんじゃねえよバカ!」

 バシッと頭を叩いて促すと、サディークも付いてくる。ひらひらと手を振っているガザーラはまだ満面の笑顔だった。

 そうして二人はイーリスの待つ天幕へ戻り、月夜の広場で一人残されたガザーラの笑顔は、瞬時に消えた。

「仕事に私情は持ち込まない……わけないでしょうが。何よ、あのふざけた態度! あんな顔、あたしに見せたことなんてないくせに」

 唇をきつく噛み、ガザーラは拳を握り締める。

「見てなさいよ、ナジム。絶対絶対許さないんだから、あの女――!」

 激しい怒りと呪いの言葉は、誰にも届くことなく夜の砂漠に吸い込まれていった。



 六日目の朝がやってきた。

 目を覚ましたイーリスが触れたのは、編んだままの髪。いつもなら少しは寝乱れたりほつれたりしているのに、今朝に限ってはまるで崩れていない。あまりよく眠れなかったからかもしれなかった。

 無意識にため息をつきそうになって、イーリスははっと口を押さえる。

(私、どうしてがっかりしているの?)

 自分自身に問いかけずとも、答えはもうわかっていた。乱れていたら、あの人が直してくれるからだ。少々剣呑な見た目とは裏腹に器用な手つきで、綺麗に編みこんでくれる。髪に触れてくれる手と、背中に感じる気配。そのどちらもに慣れてきていたから、無意識に寂しく感じてしまうのだ。

「おはよう、お嬢さん」

 振り向くと、明るい笑顔で手を上げているのはサディークだ。イーリスの沈んだ様子に困ったような顔で頭を掻くと、彼は外を指差した。

「ナジムならちょっとヤボ用でさ。えっと、そうそう、朝食持ってきたから食べてくれな」

「ありがとう……ございます」

 なんとか微笑んで言ったつもりだったのに、サディークは苦笑する。

「そんな顔しなくてもすぐ戻ってくるから、熱いうちに食べて食べて」

「ええ。あら……これは?」

 パンとスープ、干し肉などが主だった食事の中、サディークが持ってきたものはイーリスが初めて目にする料理だった。汁の中に、何か穀物のようなものがふやけて沈んでいる。

「ああ、これは東方の料理でな、粥ってんだ。知らないかい? 干した米を湯で戻して味付けして作る」

「まあ、おいしそうですね」

「気に入ったかい?」

 ええ、と頷いて笑い返し、イーリスは湯気を立てている粥をさじですくい、少しずつ口に運び始めた。もちろん、食事の前にウルへの祈りを捧げることも忘れない。

「あの、サディークさんはお食事されたのですか?」

「ああ、うん。俺はナジムと交代で先にな。外で食べてきたからさ」

「そうですか。よかった……」

 では、彼もちゃんと食事をしたのだ。それにサディークと合流できたことで夜の見張りも交代していたようだった。少しは眠ることができたなら、いいのだけれど――。

 まだ浮かない顔で食事の手を止めていたイーリスの向かい側で、サディークがぽつりと言った。

「こりゃ、本気で気を付けにゃならんかもな……」

「はい? 何か、仰いましたか?」

「いやいや何でも、独り言だ。あんたは本当に優しい、いい子だって思ってな」

 どういう意味かと瞳を瞬かせると、サディークはガハハと笑って頭を掻く。

「どうにもがさつな連中に慣れちまってるもんで、感心してんだ。なんといっても、一時的な旅の仲間ってだけの俺やナジムのことも真剣に気遣ってくれるんだからなあ」

「一時的な、仲間……」

 彼の何気ない言葉の一部に、イーリスの微笑みが強張る。表情の変化に気づかないのかどうなのか、サディークは明るい口調のまま話し続ける。

「だってそうだろう? クルハ・サクルまでもう残り四日。あんたとはそこまでの付き合いだ。そんな短い間だけの関係なのに、そうも優しくできるってのはすごいことだぜ。昨夜も、俺との再会を心から喜んでくれてたしなあ。あんたは本当にいい子だよ」

 まだ続いていたサディークの言葉は、既にイーリスの耳には入っていなかった。食事を済ませるべく手と口は動かしているのに、頭の奥がぼんやりとして何も考えられない。

(そうよね。もうすぐで、ナジムさんとの旅も終わり。クルハ・サクルに着いて、王宮に保護を願い出たら、それで――)

 お別れなのだ。そう気が付いた瞬間、胸がちくりと痛む。いや、しくしくと、昨晩から続いていた痛みが、また蘇ったのだ。

 あの後、戻ってきたナジムは何も話してくれなかった。踊り子のガザーラが本当は彼らの隊商の一員なのだと教えてくれたのもサディークだ。実のところ彼女がナジムとどういう関係であるのか、そこまではイーリスにはわからない。ナジムはすぐ出て行ってしまい、何も説明してはくれなかったから。

 夜遅くには戻ってきて眠ったようだったが、イーリスが目覚めるのを待つこともなくまた出て行ってしまった。サディークが来てくれたことは心強くもある。けれど、心のどこかで、少しがっかりしていることも確かで――。

(嫌だわ、私……何を考えてるの?)

 ナジムと二人で、いつまでも旅をしていられるような気がしていた。あの力強く、大きな手に引かれて、ずっと一緒にいられるような気持ちでいたなんて。

「嬢ちゃん? どうかしたかい?」

 気づけば心配そうなサディークに覗き込まれていて、イーリスはあわてて笑った。

「い、いいえ何でも。あの、そう……サディークさんが無事戻ってくれてよかったと思っていたのですわ。私、熱のせいで意識がなくてよく知らなかったのですけれど、何か他の仕事のために一度別行動をされていたそうですね。でも無事に再会できて、本当に……よかっ……」

 なんとか別の話題を、と早口で話していた声が、途中で止まってしまった。抑えても込み上げる熱い滴が、ぽたりと膝に落ちてしまったのだ。握り締めていた手が、小さく震える。

「嬢ちゃん……」

 サディークの気遣わしげな声が聞こえるが、顔を上げることができない。そうしたら、もう止まらなくなってしまいそうだった。

「――何事だ?」

 涙を堪えて俯いていたイーリスは、はっと顔を上げた。入り口の垂れ布を持ち上げたナジムが、ちょうど入ってきたところだったのだ。つう、と流れ落ちた滴を見たナジムが目を見開く。

「どういうことだ、サディーク」

 低い声で問われ、サディークは困りきった顔をする。

「あ、あの……何でもないんです。私が、勝手に……」

 あわてて言いかけたイーリスの手首を、ナジムが強く掴んだ。鋭い双眸が、イーリスを見据える。

「何でもないなら、これは何だ」

 突然伸ばされたもう片方の手。その指がまだ濡れたままの目元に触れ、涙を拭いとる。無言のイーリスの心中を探るように、ナジムの目線は鋭く厳しかった。それなのに頬に触れたままの手は温かく、イーリスの鼓動は乱れる。

 永遠に続くような気がした時間は、すぐに終わりを告げてしまった。サディークに呼ばれたナジムが、手を離したのだ。

「……もうすぐ出発する。準備しとけ」

「あ、あのっ!」

 出て行こうとした背中に呼びかけてしまったのは、どうしてだったのか。振り向いたナジムの冷たい顔つきに、理由もわからず搾り出した勇気は消えてしまった。力なく首を振り、何でもないのだと曖昧に笑ってみせた。それが成功したかは、自信がなかったけれど――。

(バカな私、もっと、触れていてほしかったなんて……)

 どうして、ずっとそばにいてくれるような錯覚をしていたのだろう。彼にとっては自分などただのお荷物で、大切な相手でも何でもないのに。自分は『虹の乙女』で、国を離れていても決して役目を忘れてはいけない存在で。それなのに、どうして夢を見てしまったのだろう。普通の少女でいられるような夢など、見てはいけなかったのに。

 イーリスはそっと両手で顔を覆い、目を閉じた。もう彼の指の感触も体温も、残っていなかった。


 ナジムが出て行ってから、入れ替わるように入ってきたのはガザーラだった。あわてて顔を覆っていた手をどけたイーリスをねめつけてから、その視線が嘘のような笑顔を見せる。

「これ、着替え用意したの。どうかしら?」

 言って彼女が絨毯の上に広げたのは、砂漠の民が身に着ける衣装。ちょうどナジムやサディークが着ているものと似た、ゆったりした長めの上着と腰穿きだった。

「まあ、ありがとうございます。でも、あの、これは男性用ではないのですか?」

「あら、腰穿き(シャルワール)自体は女だって身に着けるのよ? ほら、あたしだってはいてるでしょう?」

 確かにガザーラも、似たものをはいている。だがその色は淡い赤で、生地も少し透けているし、同色の上着は胸の形がわかるほどぴったりとして、腹部が見えるくらいに短い。自分に用意された麻の上下とは、まるで違うもので――。

「何かご不満? 言っておくけど、これも仕事のためよ。いくら外套アバヤを着ているとはいえ、下に着ているのがあなたのお国の衣装ではねえ。どうぞ疑ってください、って言ってるようなものじゃない。あたしと違ってあなたはとにかく身元がばれたら困るんだから、男物でも不安なくらいでしょう?」

「あ……」

「そういうこと。まあ今までは男手ばっかでそこまで補えなかったかもしれないけど、このあたしが加わったからには安心よ。あなたのことはナジムによーく頼まれてるから、任せてちょうだい」

 最後のところをやたらに強調されたような気がしたものの、イーリスは素直に頭を下げた。

「ありがとうございます、ガザーラさん」

 感謝し、早速身に着けるべく内衣キトンの留めフィブラに手をかける。内衣を脱いだ上半身に上着を着込むところまでは一人でできた。だが、問題は腰穿きのほうだった。上着はかなりだぶついていてもなんとかなるが、腰まわりと明らかに合わない大きさのため、何度引き上げても落ちてくるのだ。

「……あなた、それわざとやってんの? もしかして、嫌味のつもり?」

 腕組みをして見守っていたガザーラに言われ、イーリスは瞬きを数度する。

「え? 何ですか?」

「……いいわよもうっ。まったく手間がかかるわねえ。これはこうやって紐を絞るの! 男用の腰帯じゃ長さも合わないだろうし、少しきつめに結んで」

 よく見れば内側に通された紐があり、見かねたらしいガザーラがさっさと結んでくれた。

「やだ、紐がまだあまってる。なのに思ったより胸もあるし、お尻だっていい形してんだから。むかつくったらありゃしない」

 言うなり露骨に触り方をされ、イーリスは飛び上がった。

「きゃっ、な、何を……!」

「やあね、何驚いてんのよ。女同士でしょ? 着替えは堂々としてたくせに」

 呆れたように鼻を鳴らし、ガザーラは堂々と笑う。女同士とはいえ、イーリスが知る乙女たちとはまるで違う態度だ。

「い、いつも沐浴で体を見られることには慣れていますけれど、触られたことはないですから」

「沐浴?」

「水の恵みを受け、体を清めるための水浴びですわ」

「それ……もしかしてこの旅に出てからもやったの?」

「はい?」

「ああもう話の通じない子ね! だからっ、ナジムの前でもやったのかって聞いてんの!」

 髪をかき乱して叫んでから、ガザーラははたと我に返ったように咳払いする。

「やだ、そんなわけないわよね。あたしったらつい興奮しちゃって……」

「沐浴なら、しましたけれど」

「は?」

「ですから、ナジムさんの前で沐浴しましたと……砂漠の泉で、一度だけですが」

「ナジムの前って――あ、目の前って意味じゃないんでしょう? どうせナジムは見張りかなんかしてて、あなたが一人で……」

「いいえ、ナジムさんの見ておられる前です」

「……ぜ、全裸で?」

「はい。素肌でないと水の恵みが染み渡りませんから……って、あの、ガザーラさん? どうかなさいまして?」

 床に崩れ落ちているガザーラの肩に手をかけると、きっと物凄い目つきで睨まれる。勢いよく起き上がるなり逆に両肩を掴まれ、イーリスは息を呑んだ。

「あんた、彼とどこまで行ったのよ!?」

「え……あ、あのっ、くるし……っ」

「そうよ行くとこまで行ったのね! ああ、ナジムの態度がおかしかったわけがこれでやっとわかったわ……!」

 それなのにごまかして、などと悔しげに続ける。あまりの勢いに圧倒されていたイーリスは、ゆっくりと首を傾げた。

「行くところってどこのことですか?」

「ああもうその腹の立つ返し方やめてくれない? わかってるくせに!」

「ナジムさんと行った場所って、休息所……?」

 困ったように呟いていると、ガザーラがついに地団太を踏んで叫び返した。

「だからっ! 彼に抱かれたんでしょって聞いてんのよ!!」

 瞳を見開き、固まっているイーリスに彼女は続ける。

「まだとぼける気ならもっとわかりやすく言ってやるわ! 夜の秘めごと、男女の情事、肌と肌を合わせてのめくるめく甘い時間! ナジムと体の関係持ったんでしょってことよっ!」

 息が切れるくらいに叫びきったガザーラは、さあどうだ、とでも言わんばかりに挑戦的な目をする。当のイーリスは、かなりの長い時間無言でいた。

「ちょっと、聞いてんの?」

 眉を寄せて額を小突かれ、初めて覚醒したかのように何度も瞬きをする。それはもう哀れなほどの動揺がはっきりと浮かんだ、潤んだ瞳で――。

「そんな……そんなことがあるわけありませんっ! な、な、な、何をいきなり……!」

「いきなり、って、あんたが自分で言ったんじゃない。ナジムの前で水浴びしたって」

「そ、それは言いましたけれど、水浴びだけで何もしていません!」

「……え?」

「私は女神ウルに仕える『水の乙女』、そのような淫らな行為をするはずがないではありませんか……っ!」

 ほとんど泣きそうになりながらそう断言され、ガザーラは顔をしかめる。

「よく言うわよ、自分から全裸になっておいて。それが淫らじゃないっての? 男を誘惑する行為以外の何ものでもないじゃないのさ」

「ゆ、誘惑――そ、そうなのですか!?」

 蒼白になったイーリスに逆に問い返され、今度はガザーラが固まった。これまたかなりの時間が経った後、頬を引きつらせた彼女は口を開く。

「本当に何にもわからずにやったわけ?」

 イーリスは必死に頷く。確かにアナやドーラが異性に肌を見せないようにと言っていた。けれどそれはただ無作法にならないようにという気遣いかと思っていた。まさか、自分の行為が相手を誘惑するものと取られるなんて。

 男女の営みについての話だけは聞きかじっても、自分には関係がないものだとしか思っていなかったのだ。それが、まさかそんな風に――。

 既に衝撃で何も考えられなくなっているイーリスの前で、ガザーラが思い出したように言った。

「でも、したんでしょ? 口付け」

「はい?」

「だからナジムと、ぶっちゅうううっと熱い口付けを交わしたって、あたしはこの耳でしっかりと――」

「わ、私が……ナジムさんと、く、口付け……!?」

 これ以上ないほど瞳を見開いて、繰り返すイーリス。「え、ちょっと何なのよ、どういうこと?」と顔をしかめるガザーラの言葉も、もう聞こえなかった。

 だが哀れなイーリスは、更に大きな衝撃に襲われてついに限界を迎えた。様子を見に来たらしいナジム本人と目が合ってしまったのだ。

(わ、私がナジムさんを誘惑して淫らで、熱い口付けを交わして――)

 一気に高まった鼓動と熱で混乱の極致に陥り、体からふっと力が抜ける。

「ちょ、おいっ! しっかりしろ! こらっ! どうなってんだ一体――」

 がしりとナジムの強い腕に抱きとめられ、彼の戸惑う声を聞きながら、イーリスは眠りに身を預けたのだった。



「で、嬢ちゃんはまだ目え覚まさないのかい?」

 隣を進むラクダの上から聞かれ、ナジムは深いため息をついた。サディークの質問に答える代わりに、もう一人に怒りをぶつける。

「ガザーラ……お前、なんでそういう余計なことを……」

「だ、だってさあ! てっきり同意のもとでやったと思ってたんだもん! 悔しいじゃない、あたしの口付けにはまるで応えようともしないくせに、あんな出会ったばかりの女とは熱いやつを交わしてたなんて!」

「交わしてねえっ! っていうか、救命行為だって言ってただろうが!」

「それだけでわかるわけないじゃないの! 意識のない相手に水を飲ませるためだったって、ちゃんと説明してくれないと――」

「なんでわざわざお前にそこまで……」

「それが誤解を生むのよっ」

 一向に引かないガザーラの相手に疲れたのか、ナジムはそれきり前を向く。揺れるラクダの上で、ずり落ちないようイーリスの体を支えなおした。

「っとに、面倒くせえ女……」

 思わずポツリともらした言葉に、サディークが眉を上げる。

「それはガザーラか、それともそっちの嬢ちゃんか、どっちのことだ?」

「――両方だよ」

 無愛想に答えたきり、ナジムはそれ以上の質問を避けるように前を向いた。

 後は黙々と道程を消化し、ついには太陽が中天に近くなる頃。

 ここからは休息所の数も少なく、砂地の起伏も激しくなるために、さすがのナジムたちも歩みを止めた。ひときわ高い砂山の影となる場所に簡易の天幕を張り、午後まで休むことにしたのだ。

「まだ起きないのね、その子」

 ナジムと、ついでにサディークの日除け布まで重ねて敷いた上で、イーリスはまだぐっすりと――というよりも、ぐったりと眠っている。

「どっか、また具合でも悪いんじゃねえのかい?」

 心配そうにサディークが言うよりも早く、ナジムは額に触れて熱の有無を確かめていた。黙って首を横に振ると、水袋を取りに行く。そのまま手際よく布を濡らし、額にのせてやるナジムを、ガザーラが不満そうに眺める。

「なんであんたがそんなにしてあげるわけ? そこまで面倒見てやる必要ないんじゃないの」

「おいガザーラ……ナジムはあくまでだな、ちゃんと仕事をしようとしてるだけで」

「ふうん、仕事ねえ~それにしちゃあ、どうも手つきが丁寧っていうかさあ……その子を見る目だってなんか優しいし、まるで――」

「まるで、何だよ?」

 ぎろりと睨みつけるナジム。言葉を詰まらせたガザーラは、それでも強気で対峙した。

「まるで大切な女でも相手にしてるみたいだって言ってんのよっ! 仕事に私情を挟んでんのはあんたのほうじゃないのっ? バカナジム!!」

 激しく叫ぶなり、天幕の外へ飛び出していってしまう。サディークが目配せをして、追いかけていった。自然、眠るイーリスと二人きりで取り残される。

(……私情? 俺には、最初からそんなもんありゃしないさ)

 感情と呼ばれるものさえ、押し殺して生きてきた。このメルハリ砂漠に瀕死で倒れ、一人で逃げてきた七年前のあの日から――。

 信じていたものも全てなくし、世界の何もかもから切り離されたのは十五の時だ。

 色違いの瞳、魔性憑き、化け物。そう蔑まれることがあっても、まだ絶望することはなかった。いや、絶望だけはすまいと自分に言い聞かせていた。

 優しく逞しかった父を亡くして後も、自分を唯一認めてくれたもう一人の肉親。彼に応えたいと、必死で努力していた。教えられる全てを身に付け、それ以上の成果を出し、褒められるために。その人が笑ってくれるから、自分も笑えた。そんな日々がずっと続くのだと、信じて疑いもしなかった。

 まさかその張本人に、笑顔も感情も、心の全てが凍る生涯の傷を負わされることになるなど、想像さえできなかったのだ。

(信じていた俺がバカだったんだ。世界というものが、そんなに優しくも綺麗でもないなんてこと、もっと早く気づくべきだった)

 もう、絶対に同じ過ちは繰り返さない――。

 ターバン越しに、額の傷跡に触れていたナジムは、ふと見下ろしたイーリスの様子がおかしいことに気づいた。

「……ま……っ、て……ないで」

 小さくいやいやをするように首を振り、閉じたままの瞼から涙が流れ落ちる。

「おい、どうした」

 肩をゆすり、起こそうとするが、夢でも見ているのか更に眉根を寄せて苦しげな顔になる。

(夢? もしかして、例の託宣とかいうやつか?)

 結びつけるように思い出したのは、合流できた時のサディークの言葉。

 ナジムたちを逃がし、ヒュドール軍と対峙したあの瞬間。さすがの奴さえ傷を負うこと、いや、もしかしたら死さえもあり得ると覚悟したのだと。なのにナジムが逃げるのを見届けると、軍はそのまま退却していったと言うのだ。

(どう考えても不自然な点ばかり。こいつを狙ってるのは――)

 そこまで考えたナジムは、半ば予想していた悪夢とは違うものをイーリスが見ていたことを知ることになった。頬を新たな涙に濡らし、彼女が呼んだのは、他でもない自分の名だったのだ。

「いか、ないで……!」

 かすかな呟きを聞き取ろうと、寄せた耳に届いた言葉の続き。ナジムが思わず目を見開いたその瞬間、濡れた瞼がゆっくりと持ち上がった。

「ナジム、さ……」

 かすれた声に、かろうじて頷いてやる。と、ほっと安堵の息をはいたイーリスが、突然しがみついてきたのだ。あんまり急で避けることもできず、受け止めるしかなかった。引き離そうかと掴んだ肩も、腕も、小さく震えていることに気づく。嗚咽を堪えようとしているのか、背中までも小刻みに震わせて。

 ためらいがちに添えたナジムの手に、ほんのわずかな力がこもった、次の刹那。

「ど、どうしたんだ? 二人とも」

 戻ってきたサディークに聞かれ、ぱっと体を離す。イーリスも少し落ち着いたらしく、抵抗しようとはしなかった。

「夢を……見て」

 まだ涙を拭きながらも、なんとか話し始める。

「夢? そいつあ、その、託宣とかいうやつかい?」

「それが、わからないんです」

「わからない?」

「いつもはもっと鮮やかに、現実と同じように見えるものなんですけれど、今見たものはそうじゃなくて。ただ……」

 そこで言葉を区切ったイーリスは、そっとナジムのほうを見、少し照れたように続ける。

「ナジムさんの背中がどんどん遠くなって……見えなくなって、しまう夢、です」

 最後は消え入るように言い終え、俯いてしまった。

「ご、ごめんなさい。子供みたいですよね……私ったら」

 サディークの物言いたげな目線にも、ナジムはあくまで無言を貫いた。彼女のほうこそ、一瞬消えてしまいそうに儚く感じたことも、そんなばかげた錯覚に流されるように動いてしまった手も、自分が一番理解できなかったからだ。

「ただの夢だろう。それより、肝心の託宣はもうないのか? 最近何も言わないが」

「ええ、あの時以来、何も……」

「あの時?」

「ああ、サディークさんはご存知なかったのでしたっけ? 私がナジムさんと泉に――」

「ないならもういい! 目が覚めたんならちゃんと水飲んどけよ。いちいち重い体抱いてラクダに揺られる役は御免だからな」

 あわてて水袋を押し付け、そう言うと、イーリスは恥ずかしそうに返事をした。どうやら、「重い」という部分を本気にしたらしい。

 ついでに干した果実や携帯食の一部を与え、無理やりに休息を命じたナジムは、サディークと共に天幕を出る。少し離れたところでラクダに水をやり始めるなり、サディークは苦笑した。

「……邪魔だったか? もう少し遅く戻ってくりゃよかったかな」

「ちが――」

「まあ、さっきの嬢ちゃんの様子見りゃ想像はつくが」

「わかってんならいちいち言わせんな! それよりガザーラは?」

「見てると腹が立つからって、あそこで天幕張ってる」

 指で示された方角には、小さめの簡易天幕。しっかり自分で持ってきていたらしいガザーラが、ちょうど布の下でナジムに舌を出したところだった。

「なんだかんだ言って、ガザーラのことは心配してねえんだが……なあ、ナジム」

「何だよ」

「一つ、今更気になりはじめたことがあるんだ。こりゃあもしかしてもしかすると、結構な重要項目なんじゃねえのかと……」

「もったいつけてねえでさっさと言え」

 苛立ち混じりに急かすと、サディークがへらりと笑いながら言った。

「水の乙女って、男と口付けとかしても力がなくなったりしねえもんかな?」と――。

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