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四章

 四、砂にしみこむ透明な水 



 疾走させ続けたラクダが勢いを失う頃、ナジムは何度目かで後方を確認した。

(追ってこない……? サディークがうまくやり過ごしたのか?)

 腕は信用しているものの、軍馬を持つ兵隊たちと一人でまともにやり合うのは無茶だ。普通に考えて、なんとかごまかしたか、あえて捕まることを選んだか、どちらかが妥当なところだろう。どちらにしろあの時追っ手がナジムたちに気づかなかったとは思えないし、数人は追ってくることを覚悟していたのだが。

 駆けてきて一刻は経っただろう今も馬影の一つも見えないのは予想外で、ナジムは首を捻った。

 あの矢は一体何だったのだろう、単なる警告にしては妙なやり方だ。まるでナジムたちに追っ手の存在を知らせ、逃げ出す時間を与えてくれたような――。

「……わざと逃がした? まさかな」

 ラクダを止め、思案していたナジムは、前に乗せたイーリスの額に手をやる。つい顔をしかめるほど、体温がまた上がっていた。競駝の時以外は疾走することなどないラクダも、さすがにばてたのか苦しそうに息を切らし、コブもしぼみかけている。逃げることを選択したはいいが、これでは水不足で人もラクダもやられてしまう。おまけに方向がずれて、休息所からは更に遠ざかった。ここは、熱砂漠のど真ん中だ。

 さて、どうする――難しい顔になったナジムは、小さく身じろぎしたイーリスを抱き寄せた。落ちないようにしたのだが、近づいたイーリスが何かを呟いていることに気づく。

「……東、へ……に、……がある……」

「ん? 何だ、気が付いたのか? 何を言ってる?」

 口元に耳を寄せると、イーリスが熱い息でうわごとのように告げる。

「東に、泉だと? こんな砂漠の真ん中にそんなものあるわけ……」

 すぐに否定しても何度も繰り返される呟き。その内に、イーリスはぐったりと力尽きたようにナジムの胸に倒れこんだ。話しかけても頬に触れても反応がなく、ナジムは舌打ちする。

「ああくそ、わかったよ。行ってみりゃいいんだろう」

 むしろ行ってみるしかない状態だとわかっていたから、手綱を取った。そうして東へしばらく進んだところで見えてきた光景に、思わず息を呑んだ。

 最初は、蜃気楼かと思った。それほどに現実離れした景色が――緑豊かなオアシスが、ほんの小さなものとはいえ、本当に存在していたのだ。

 ナツメヤシの木々と低い潅木にぐるりと囲まれ、日陰となった円状の土地。木々の隙間から、きらきらと光る水面らしきものが見える。

「幻、じゃねえよな……?」

 しばし呆然としていたナジムは、それどころじゃないとラクダを飛び降りた。大股で砂を踏み、たどり着くなり乱暴に木々の葉を掻き分ける。そこにきらめいていたのは、確かに泉だった。ひたひたとゆらめく水面から、水の涼やかな香りが漂っている。

「本当にありやがった……」

 無意識に額を抱え、首を横に振りながら、ナジムは呟く。おそるおそる泉に差し入れた手は、ちゃんと水の感触と冷たさを感じる。信じられない思いのまま、それでも次の動作は素早かった。

 ラクダにもたせかけておいたイーリスを抱えてきて、木の下にそうっと下ろしてやる。木陰があるだけで、照りつける日差しも暑さもかなり和らいだ。

(幻でも何でもいい。今この水が消えてしまわないなら……!)

 急いで取り出した布を濡らし、イーリスの額にのせる。汗と熱のせいでまだらになっていた塗り粉をもう一枚の布で拭いてやると、美しい白い肌まで赤くなっているのがわかった。

 とにかく体を冷やしてやるのが先決だと、ナジムは肩から巻いていた自分の日除け布を取り、水に浸した。十分に濡れたそれを、外套アバヤと覆いヒジャーブを脱がせ、薄手の衣装姿になったイーリスにかけてやる。

(『商品』を死なせるわけには行かないからだ。それだけだからな……!)

 もうサディークもいないのに、そんな風に自分に言い聞かせながらナジムは淡々と作業を続けた。布がぬるくなってくると再び新たに濡らし、かけてやることを繰り返すこと数回。いつしか呼吸が穏やかになり、イーリスの顔色もよくなった。後は目覚めたらもう一度水を飲ませ、食事と休息を取らせればなんとかなるだろう。

「とりあえず安心、か」

 はあ、と息を吐き出して、思いのほか自分が緊張していたことに気づく。

(冗談じゃねえ。なんで俺がこんな女――)

 出会ってこのかた、苛々させられてばかりの不可思議な言動。どれだけ冷たくしても罵っても信用し続け、意識がはっきりしない状態でさえ自分の無事を喜ぶ。理解不能な少女の無事を喜んでいるのなら、自分も同じことではないか。

 寝顔を見下ろしていたナジムはあわてて首を振り、現実に戻った。次にするべき行動は、この水をきちんと確保しておくことだ。ラクダに乗せうる限りの水を袋に入れ、結びつけてから、ナジムは泉に両手を浸した。自分も相当喉が渇いていたのだ。

 喉を鳴らしてたっぷりと水を飲み終え、ついでにターバンを取って頭と顔を濡らす。ほっとしたところで振り向くと、イーリスがちょうど目を開けたところだった。陰になった草地から半身を起こし、こちらをぼんやりと見つめている。

「ナジムさん……? 私、どうして……ここは?」

「あんたが言ってた泉だ。なんでここにあるのかは俺にもわからんが、とにかく助かったな」

 色々と複雑な感情を隠して歩み寄ったナジムに、イーリスは首を傾げたのだ。

「私が? 何か、言ったのですか?」

「覚えてないのか、東に進んだところに泉があるってはっきりと言っただろう」

 先ほどあれだけ繰り返した言葉を、イーリスはまるで覚えていないらしかった。しばらく考えた後、おそらくは、と切り出す。

「託宣?」

「ええ。意識が朦朧としていたから覚えていないのですが、そうとしか思えません。きっと女神ウルが導いてくださったのですわ」

「……もしかしてあの時、矢が飛んでくるのがわかったのもそうなのか?」

「ああ、あの盗賊の方たちに襲われた時ですね。そうです、映像が視えたので」

 素直に答えてから、思い出したようにイーリスが顔色を変える。

「怪我はありませんでした? 私、とても心配で……」

「平気だ。見ての通りな」

 短い返事だけして、なんとなく目を逸らしてしまう。無意識でも、目覚めてからも、すぐにこんな自分の心配をするイーリスが心底理解できなかった。

 なぜこうも純粋になれるのだろう? 人を疑い、欺き、騙し、奪い、挙句の果てには無残に殺してきた。お前が信用し、心配しているのはそんな最低の男なんだと、大声で怒鳴ってやりたい衝動が込み上げるのをすんでのところで堪える。

 結局ナジムにできたのは、半ばやけくそでイーリスの隣に寝そべることだけだった。自身の両腕を枕にし、瞼を閉じると、どっと全身に疲労が行き渡った。

「ナジムさん? 大丈夫ですか? どこか具合でも……」

「少し休んだら出発する。眠り込んでたら起こしてくれ」

 言うなり、本当に眠気が襲ってきた。眠るまいと瞼を持ち上げても、段々と視界が狭まり、ぼんやりとしていく。砂漠の真ん中にいるとは思えないほどに優しい風が頬を撫で、泉が発する水の香りと潤いを運んできた。ナツメヤシの葉が、頭上遠くでさらさらと穏やかな音を立てている。心地よい木陰が、眠気を更に増強した。

「おやすみなさい、良い眠りを――」

 イーリスのひんやりとした手が額に触れ、そう囁かれたような気がした時には、ナジムは静かな寝息を立てていたのだった。



 隣で眠るナジムの寝顔を、イーリスは優しく見つめていた。

 こうして寝ている姿を見るのは二度目だけれど、完全に気を緩め、熟睡しているところは初めてだった。最初に天幕の入り口で座り込んでいた時は、眠っていてさえも張りつめた緊張で全身を覆っていることが感じ取れたからだ。でも今のナジムは、本当に心地よさそうに眠ってしまっている。よほど疲れていたのだろう。

 泉で濡らした手のひらをもう一度彼の額にのせ、イーリスは祈りの文句を唱えた。先ほど試みた時よりも更にしっかりと、温かな力が自身の手を通して伝わっていくのがわかる。イーリスは両手を重ねて更に祈った。ナジムの疲労が、どうか癒されるように。

 再び開いた視界には、そばに置かれたままのナジムの日除け布。水を含ませたこの布で、彼が何度も体を冷やしてくれていたことは夢うつつの記憶に残っている。他にも、ラクダに乗せて運んでくれたり、熱で倒れた自分の口に水袋を押し当ててくれたことも断片的に思い出せた。意識のないイーリスに、どうにか苦労しながら水を飲ませてくれたのだろう。おかげで、あの喉の渇きも苦しさも治まっている。

(やっぱり彼は優しい人だわ。例え私のことを嫌っていたとしても、こうして見捨てずに助けてくれるのだもの)

 我知らず微笑み、それから少しうなだれる。どうしてかすっかり嫌われて、またこんな風に迷惑をかけたのだ。きっと余計に心証が悪くなったに違いない。

「ごめんなさい……ナジムさん」

 そして、ありがとう。規則正しい寝息を立てる彼の耳元に、そっと囁く。せめて夢の中にでも、届いてくれたら――そんなことを願いながら顔を上げると、ナジムが辛そうに眉を寄せたことに気づいた。呼吸も少し乱れ、小さく開かれた唇からかすれ声が漏れる。

「やめろ……やめ、てくれ……」

 起きている時には聞いたことのないほど、すがるような苦しげな響き。一瞬自分に言われたのかと思った言葉は、夢の中の他の誰かに向けてのものらしい。よくは聞き取れないが、うなされている以上いい夢ではなさそうだった。

 額に滲んだ汗が、つう、と頬へ流れていく。まるで涙のように見えた滴を、イーリスは思わず指で拭っていた。はりついた砂色の髪をかきわけると、その下に走る三日月型の傷跡が嫌でも目に入る。

(何があったのかしら……本当にひどい傷)

 その時のことでも思い出しているのか、ナジムは浅い呼吸を繰り返し、うなされるばかり。少しでも楽になれるかもしれないと、再び水で癒そうとする。が、まだ自身も完璧に回復したわけではない状態では、ここまでが限界だった。無力な自分に唇を噛み、見やった先には小さな泉。上に覆い被さるように生えているナツメヤシのおかげで厳しい太陽光も遮られ、水面を優しくきらめかせるばかり。揺れる水は涼しげで、十分な深さもあるように見える。

「そうよ、そうだわ。水があるのだもの」

 イーリスは両手を合わせ、呟いた。一瞬振り返り、ためらいはしたが、うなされていてもナジムは深く寝入っている。

(すぐに済ませれば平気よね。他には、誰もいないし)

 延々続く砂の大地、その中央にぽっかりと姿を現した緑のオアシスと清涼な泉。これこそウルが与えてくれた恵みに違いない、とイーリスは一人頷く。

 そのまま、すっと立ち上がり、肩に手をやる。瀟洒な模様が彫りこまれた丸い留めフィブラを二つとも外し、腰帯を解くと、まとっていた内衣キトンがするりと足元に落ちた。水辺に歩み寄り、静かに裸身を沈めるうち、イーリスの顔は喜びに輝いた。

 水は思った以上に深く、中心に進むと胸の辺りまで到達する。ひたひたと押し寄せる水の冷たさ、感触、そして香り。全てがイーリスを歓迎し、身も心も優しく包み込んでくれた。何とも言えない安堵に息をつき、ウルの恵みに感謝した、その瞬間だった。

「何をやってる?」

 低く、かすれた声がいきなり背後からかけられた。弾かれたように振り向くと、目を覚ましたらしいナジムが泉の前に立っている。驚き、足を滑らせたイーリスの体が水に沈むと同時に、咄嗟に踏み込んできたナジムが強い力で抱き起こした。

「ご、ごめんなさ……」

 言いかけて咳き込むイーリスを支えて立たせたナジムは、何も身に着けていない素肌を直視したらしく目を剥いた。

「あ、あの、沐浴を……水の恵みを全身に受けたら、早く元気になれると思って」

 消え入るような説明に彼が答えたのは、急いで脱いだ上着を乱暴に手渡してからだった。キョトンとしたイーリスに背を向け、とにかく着ろと急かす。

「早く元気になって、俺が寝ている間に逃げようとでも思ったのか? 悪いが、逃げたところでこの砂漠をあんた一人で乗り切れるとは――」

「逃げる? いいえ、私はナジムさんを癒したくて」

「……は?」

 不慣れな動作で彼の上着を着込んだイーリスは、遠慮がちに笑みを浮かべた。

「私を助けてくれたせいでナジムさんが疲れてしまって、それに……ひどくうなされていて辛そうだったので、そう思ったのですけれど……私、やっぱり何かいけないことをしてしまいましたか?」

 思わず振り向いたらしいナジムと目が合い、イーリスは自分の姿を見下ろした。ナジムの大きな上着で腿の付け根辺りまでかろうじて隠れた状態の――。

「いけない……」

 繰り返すように呟いたナジムが、あわてたようにまた顔を背けた。突然の動作を不思議がるように、イーリスは後ろから覗き込む。

 また足が滑りそうになり、しがみついたナジムの背中がぴくりと強張った。そんな反応には気づかず、イーリスは驚愕に息を呑んだ。

「傷が――こ、こんなにたくさん、一体どうしたのです?」

 自身の白とは違う、褐色の逞しい肩。筋肉の付いた腕にも、広い背中のあちらこちらにも、ナジムの体にはたくさんの傷跡があったのだ。小さく薄いものから、痛々しいほどひきつれたものまで、あまりの多さに言葉を失ってしまうくらいに。

 振り向いたナジムの胸や腹部にまで似たような傷があることに気づき、イーリスは思わず手を伸ばした。これほどの傷を負って彼がどれほど苦しんだだろう。その苦しみに触れたくて、少しでも癒してあげたくて――そんなイーリスの手首を、ナジムが掴んで止める。見上げたナジムの瞳には、今までで一番冷たい光が浮かんでいた。

「あ、あの……少しでも、どうか癒しの祈りをさせてくださ……」

「必要ない」

「でも」

「いらないと言ったらいらないんだ! わかったか!」

 掴んでいた手首を思いきり振り放し、ナジムはばしゃばしゃと泉を出る。衝撃と困惑の中、立ち尽くしていたイーリスに内衣キトンを投げつけ、「早く着ろ!」と叫ぶ。あまりに激しい怒りをぶつけられ、混乱しながら内衣を身に着けてはみたものの、一体どうして彼がここまで激昂するのかがわからない。ただ感謝して、ほんの少しでも自分にできることをしたいと思ったのに。ナジムのために何かしたいと、助けたい、癒したいと考えることが、そんなにいけないことなのだろうか……?

『虹の乙女』と敬われ、崇められる立場にあっても、たった一人の人のために何もすることができない。目の前にこうしてウルの恵みがあるのに、それを分け与えてあげたくても断られ、伸ばした手は振り払われる。

(そんなに、私のことが嫌いなの……?)

 衝撃に震えていた手は、今は悲しみと痛みのために震えている。あれほど安心感を与え、優しく包み込んでくれていた水まで冷たく感じ、イーリスは唇を噛み締める。

「……っ、うっ……えっ」

 ずっと堪えてきた涙がこぼれ落ちると同時に、抑えようとしても嗚咽がもれた。また怒られるかもしれない。そう思って必死で我慢しようとするのに、震える肩も声も止められなかった。

「お、おい」

 いきなり泣き出したイーリスに気づき、ナジムが声をかける。それでもイーリスは、両手でぎゅっと握り締めた彼の上着で顔を覆ったまま、泣き続けた。

「おい、聞こえないのか」

 少しの沈黙の後、またナジムが呼ぶ。困惑を示すように、声音が少し弱くなっていたが、イーリスは気づかなかった。

「早く出て来い。そんなとこでずっと立ってたら体が冷えすぎるだろうが」

 低く抑えたような三度目の呼びかけ。いつものイーリスならばすぐに従い、心配してくれたと感謝さえしていただろう。が、一人でずっと耐えてきた心細さや不安、恐れや不慣れな旅の疲れ――諸々の感情が、あまりに冷たいナジムの態度への反発となって、イーリスの中でついに爆発してしまい、とても聞き入れられる状態ではなかった。

 顔を覆った状態でぶんぶん首を横に振り、拒絶の意を示す。あまり強く首を振ったせいで、濡れてかなり崩れていたまとめ髪が、ついにばさりと落ちてしまったほどだった。

「塗り粉も落ちてるし、か、髪も……それじゃ虹色なのが丸わかりだ。万が一誰か通りかかったらどうする! 早く出て……」

「嫌です」

「い、嫌だと?」

 こくり、と頷き、手を下ろすと、驚いているナジムを精一杯睨みつけた。涙声で、それでも強く繰り返す。

「嫌です。ナジムさんが出してくれないなら、私はここから出ません」

「はあ!? 何馬鹿なこと言ってんだ。ふざけんのも大概に……」

「ふざけてなんかいません! 私はずっと、あなたと出会ってからずっと……感謝して、その気持ちを伝えたかった。ただ、役に立ちたいと思っただけなのに……」

「おい、ちょっと待――」

「待ちませんっ! 私のことがそんなに嫌なら、もういいです! 嫌いな私なんてここで見捨てて、どこへでも行ってしまえばいいんだわ。あなたなんて……あなた、なんて」

 ナジムに負けず大声で言い返したせいで、息が切れる。怒りの後にはまた悲しみと痛みが戻ってきて、イーリスは胸を抑えながら涙を零した。

「あなた、なんて……っ」

 大嫌いだと、彼のように言ってやりたいのに、言葉はどうしても続かなかった。だって自分は、この恐ろしくて強くて、自分とは正反対の青年が嫌いではないのだ。嫌いになりたくても、できない。あの時、一番怖かった瞬間に手を取ってくれた。しっかりと握ってくれた手の温かさが、忘れられないのだから。

「ふ……えっ、うっ……」

 後から後からあふれる涙で、再び嗚咽がもれる。もう何が言いたかったのかもわからないのに、自分を拒絶するナジムが悲しくて辛くて、泣くしかなかった。

 恥ずかしくてナジムを見ることもできず、俯いたままどれほどそうしていただろう。ふと気づいて上げた視界――涙で潤んだ景色の中、ナジムがすぐ目の前に立っていた。唇を引き結び、憮然とした顔をしてはいるものの、少し逸らされた瞳にもう怒りはなかった。ゆっくりと、大きな手のひらが差し出される。

「早くしろよ。ぐずぐずしてたら気が変わるぞ」

 その無愛想な言葉の内容が、先ほど自分が駄々をこねるように言ったことへの答えだと、しばらくしてからやっと気づく。瞳を見開き、戸惑いながらもそうっと伸ばした手を、苛立ったようにナジムが掴んだ。そのまま、荒々しく引っ張られながら泉を出る。それでも元の木陰に連れて行ってくれたナジムの動作は優しく、全身から立ち上っていた強い気のようなものも姿を潜めていた。

「あ、ありが……」

「まったく、聖女が聞いて呆れるぜ。ウルだか何だか知らないが、さぞかし女神とやらも驚いてるだろうよ。こんなにわがままで泣き虫で、頑固な娘だったとは、ってな」

 お礼を言おうとしたイーリスを遮り、どかりと隣に腰を下ろしたナジムが笑う。どこか冷めたいつもの笑い方に、ほんの少しだけ本当に可笑しく思っているような響きがあって、イーリスは真っ赤になって俯いた。

 謝ろうと開きかけた口は、「でも」とナジムが続けたことで止まる。琥珀と水色の瞳が、穏やかにイーリスを映していた。

「俺は、どっちかといえばさっきのあんたのほうがいい。いつもおどおど顔色を窺われ、変に気を遣われるよりは、言いたいことを言ってくれるほうが楽だからな。さっきのあんたは……普通の、どこにでもいる年頃の女って感じだったぜ?」

 扱いがややこしいことには変わりはないが――などと付け加え、ふっと頬に笑みを刻む。そんなナジムを驚いたように見つめていたイーリスの顔が、みるみるうちに明るくなる。

「まあ、ナジムさん……! 先ほどの私の振る舞いはとても恥ずかしく、消え入りたいと思ってしまうくらいだったのですけれど、そんな風に優しい言葉を下さるなんて」

「や、優しい?」

「私のこと、もう『大嫌い』ではないのですね? いい、と仰ってくださるということは、少しでも認めてくださったと……嬉しいです、ナジムさん!」

「いや、ちょ、待っ――」

「先ほどの失言を取り消しますわ、どうかお願いします。これからも私を助けてください。見捨ててほしいなんて嘘です」

 ぎゅう、とナジムの両手を握り、イーリスは懇願した。

「だから、ずっとそばにいてくださいね」

 すぐそばで、見つめながらの訴えを、ナジムはひどくうろたえたような顔で聞いていた。その表情こそ、どこにでもいる『普通』の青年の、混乱と動揺のそれだったのだが――残念ながらイーリスには、そこまで読み取れなかったのだった。



 休息を取ってから出発し、次の休息地に着いたのは夕刻だった。

 また変装させ同乗していたイーリスの手を取り、ラクダから下ろしてやる。

「ありがとうございます、ナジムさん」

 にっこりと微笑まれ、頬は引きつるものの、今までほど反発は感じなかった。大国の『虹の乙女』と呼ばれ、敬われてきた聖女として――ではなく、ただの十六歳の少女として見ることができたからかもしれない。

「どうかなさいましたか?」

 首を傾げられ、「何でもない」と目を逸らす。つい目で辿ってしまった細い首の線から、華奢な体の輪郭まで思い出してしまったのだ。

 水に濡れ、日に透けるように美しく見えた裸身。女の体が、あれほど完璧な美に見えたことなどなかった。まるでヒュドールの女神像のように、滑らかに彫り整えられたような線。ほどけて垂れ落ち、その体に張り付いていたきらめく虹色の長い髪。自分が――予定外とはいえ――口付けたのは、これほどまぶしい女の唇だったのだ、と。

 がらにもなく狼狽したところへまた裏もなく清純に過ぎる発言をされ、かっと来た。そんな自分にいいかげん腹を立てたらしい彼女の、予想外の反撃。それは思いがけず子供っぽく、素直な反応だった。逆にナジムを落ち着かせ、つい反省させてしまうほどに。

(別に――反省したのは仕事を忘れるような真似をしたことだけだ。言葉を荒げ、大事な商品のご機嫌を損ねて仕事がうまく行かなくなったら困ると、思い直しただけで)

 首を振り、そんなことを考えていたナジムは、潅木の幹にラクダの手綱を結わえ付ける。ふと視線を巡らせた先で、イーリスは優しくラクダの首を撫でていた。

「ありがとう。あなたも疲れたでしょう? ゆっくり休んでね」

 これまでの行程を労ったのだろう彼女の言葉。どこかで聞いた覚えのあるような優しい響きが、あの泉で自分にもかけられたものと同じだと気づく。

(おい、ちょっと待て。俺はラクダと同等の扱いだってことか?)

 ふと浮かんだ答えはナジムの頬をひくつかせた。別に自分を特別扱いしたものだとは思わなかったが、それにしたって、ラクダまで同じように労わるとは。

「ナジムさん?」

 キョトンとして見上げられ、我に返る。そうだ、別に今に始まったことじゃない。それがこの少女が聖女たる所以で、その清らかなる思いやりは、きっと誰にだって等しく向けられるのだろう。そう結論付け、ナジムは作業に戻った。背に結び付けていた荷を全て解き、辺りを行き来している例の少年たちを呼びつける。

 水袋も多いことから念のために三人を雇い、天幕と食事の確保、それからラクダの見張り役にしておいた。一人ならばあちらで食事と酒でも楽しみたいところだが――と賑やかな通りを見やるが、何も疑わずに待っているイーリスの元へため息をついて戻る。

 案内された天幕に入ると、ほどなくして少年が食事を運んでくれた。ずらずらと並べられた料理の数々に目を瞠り、イーリスは小さく驚きの声をもらす。少年が出て行った後、またしても向けられたのは純真な微笑み。

「どうしてこんなにたくさん……? もしかして、私を気遣って下さったのですか?」

「ああ、また倒れられたら困るからな。しっかり食って元気を出してくれ」

 笑い、答えながらそっと懐を確かめる。

(盗賊たちからぶんどった金がたんまりあるからな)

 ナジムの内心など知らず、イーリスはふわりと嬉しそうな笑みを広げた。

「ありがとうございます。……でも私、本当にたくさん食べられないのです。だから、ナジムさんがどうぞ」

「遠慮でもしてるのか? まあそんな細っこい体じゃ食べる量は知れてるだろうが」

「あ、えっとそれもそうなんですけれど、そうじゃなくて――」

 何と説明すればいいのか、とでもいう風に困った顔をしてから、イーリスはそばに置かれた水の杯を取った。ナジムが注いでやった水が、ひたひたと揺れている。

「私には、水が食事の代わりのようなものなのです。食事も少しは取りますけれど、何よりも水が私の栄養源なのですわ」

「水さえ飲んでりゃ、生きていけるってことか?」

「まあ、極端に言ってしまえばそういうことですね。口から飲む分も大切ですが、日々の沐浴も欠かせないのです」

 驚きに目を瞠るナジムを、イーリスは遠慮がちに見上げる。一拍を置いて、ナジムは大きく息を吐き出した。

「そうか……それであれほど消耗が激しかったのか」

 慣れない砂漠の旅だろうからと水分補給には気をつけていたし、諸々の事情を考慮してもあそこまで体調を崩すことには疑問を感じていたのだ。

(だから俺のいる前でも沐浴とやらをしたわけだ……)

 納得が行くと同時に、またぼわんと浮かびかけた光景をあわてて脳裏から消す。白すぎるあの肌は、思い出すだけでもなぜか落ち着かなくなるのだ。考えないに限る、とナジムは言葉を継いだ。

「なら遠慮してねえでさっさと飲みな。水なら十分確保したし、ここでも買える」

 ほれ、と固まっているイーリスに水の杯を押しやると、薄紫の瞳がぱちぱちと瞬いた。

「何だよ、変な顔して」

「い、いいえ……」

 俯き、ゆっくりと水を飲む頬が少し染まっていて、ナジムは眉根を寄せた。もしかしてまた熱でも出たのだろうかと、無言で手のひらを額にのせたのと、イーリスが顔を上げたのとは同時だった。

「気持ちが悪いとは、思わないのですか?」

「……何だと?」

 質問の意味が理解できず、聞き返す。額に当てた手は、役目を終えても離すきっかけを失ってしまった。

「私のこと、です……あの、水だけで生きていけると聞いたら、大体の人は驚きますし、中には……気持ちが悪いと、思う人もいるので」

 消え入るような声は、小さく震えている。引っ込めそびれた手は彼女の怯えまでも伝えてきて、ナジムは言葉を失った。

 怖がっているのに、すがるように見上げてくる瞳。それは自分の中の遠い過去まで呼び覚ましてしまうほどに心細げなものだった。

「――別に、その程度で気持ち悪いなんて思ってたら、世の中渡っていけねえよ」

 なんとか搾り出した声が、平静な響きを取り繕えたのかどうか、イーリスはあからさまにほっとした顔をする。行き場を失っていたままの手で軽くその頭を押さえ、ナジムは食事を始めた。内心では、今垣間見た意外なイーリスの一面に驚きながら。

『気持ち悪い』『何を考えてんだかわからないんだから』『ああ、恐ろしい目だこと』

 ――化け物の、魔性憑きが。

 最後は必ずそう締めくくられた、あの幼い日々の陰口。面と向かってなじられたことも数え切れないほどだった。こんな風に生きているのは、自分のような『呪われた者』だけだと思っていた。だから神なんて信じられず、それどころか恨んで生きてきた。望まずとも与えられた平穏を享受し、当然のように異質な存在を排除する人々。全てを恨み、心の中に憎しみの炎を燃やしてきた自分にとって、異国のものであっても、彼女は紛れもなく神に祝福された者だ。

(そんな人間も、気味が悪いと言われることがあるってのか)

 純粋な驚きに浸っていたナジムの意識は、いつのまにか目前に差し出された水の杯に向けられる。嬉しそうな笑みを浮かべたイーリスが、「どうぞ」と手渡したのだ。

「……豆のスープ(サルタ)、なかなかいけるぞ。それぐらいなら水の仲間みたいなもんだ。飲めるだろう」

 なんとなく間を持たせるために言ったら、イーリスはくすりと小さく笑う。

「何笑ってんだよ。変なこと言ったか?」

「い、いいえ。何でもないです。いただきますわ。ありがとうございます、ナジムさん」

 何度目かもわからないほどの、感謝の文句。それはナジムから余計に落ち着きを奪う。こうして向かい合っているからいけないのだと、さっさと食事を済ませてしまうべく頬張り続ける。パン(ホブス)を力づくで千切り、羊肉の串焼きを咀嚼し、ついでに青葡萄の粒まで口に押し込むと、たまらない、とでも言うようにイーリスが笑い出した。

「ナジムさんったら、そんなに急いで食べなくても誰も盗りませんわ。もっとゆっくりどうぞ」

 まるで子供に言うように優しくなだめられ、憮然とする。無言でそのまま乱暴に食べ続けていたら、喉に詰まって咳き込んだ。

「大丈夫ですか? ほら、だからゆっくりって言ったのに」

 あわてたように隣へ来て、背中をさすろうとする。

「構うなって。これぐらい何でも――」

 振り払おうとした腕は、イーリスの悲しそうな瞳を見たことで中途半端に固まる。また泣かれでもしたら面倒だと、咳払いして水を飲んでみせた。

「ほら、もう平気だ。そうだ、それよりお前、塗り粉がまたとれかかってるぞ。塗りなおしとけよ」

 少しは自分でできるようになったイーリスに、塗り粉の容器を差し出してやる。できるだけ口調を優しくしたことでほっとしたのか、イーリスは素直に従った。

(まったく、面倒な女だぜ)

 笑ったり泣いたり、怒ったり――そう、今のイーリスは、面倒な普通の少女に過ぎないように思える。それなのに、奇妙な託宣とやらで未来を知ったり、水だけ飲んで生きていける、希少で貴重な少女。この少女を手にしようとする輩が、一体どれほど多くいることか。邪な思いを抱いて虎視眈々と少女、ひいてはヒュドールを狙っているのはこの砂漠地帯の国々全てであるかもしれない。

 圧倒的なヒュドールの国力、それは砂漠の命綱である水を掌中に握っているからだ。いくら神秘の乙女たちとはいっても、水そのものを自在に生み出すことができるわけではないらしい。が、ひとたび水がそこにあれば、それを操り、人を癒し、神の声を聞く。ヒュドールでしか生まれない乙女たちを、これまでにも幾多の国々が手に入れようとしてきた。

 しかし乙女たち自身の力で、或いはヒュドールの軍隊により、ことごとく忍び込んだ時点で捕らえられた。運よく国外まで連れて逃げても、不思議なことに乙女たちは力を失ってしまったという。ヒュドールの地から離れたことで女神の加護を失ったのだという言い伝えはあるが、圧倒的な水の不足で健康を害したのかもしれない。イーリスの話を聞いて浮かんだ新たな結論を、ナジムは再考していた。

(だが、それがヒュドール最高位の『虹の乙女』であったなら?)

 今まで捕らえられたことがあるのは、いずれも下っ端の乙女たちばかり。ヒュドールの長い歴史上、『虹の乙女』が他国へ奪われたことは皆無だ。そして、今それが自分の手によって成し遂げられようとしている。

「一か八かの賭けのつもりだったのにな……」

 思いがけぬ幸運に恵まれた、と呟いたナジムの言葉は、いきなりイーリスが上げた叫び声にかき消された。決して大きな声ではなかったが、瞬時に振り返り、駆け寄る。

 目前の光景を確認し、短剣ジャンビーヤの柄にかけていた手を下ろした。何のことはなく、ただ絨毯の上にべたりとイーリスが突っ伏していただけだったのだ。

「何やってんだ、お前は」

「ご、ごめんなさい。衣装の裾につまずいてしまって……」

 呆れ声で聞くと、顔だけ上げたイーリスがえへへ、と困ったように笑う。打ったらしい鼻が赤くなり、丸く塗り粉がとれてしまっている。よく見たらあちらこちら塗れていないまままだらになり、つまずいた拍子にひっかけたのか、額やこめかみから虹色の毛束が幾筋も飛び出してしまっていて――思わずナジムはぶっと吹き出した。

 髪はぼさぼさ、まだらの肌でキョトンとこちらを見上げる。こんな間抜け面の少女のどこが『虹の乙女』だと、おかしくておかしくてたまらない。声を上げて笑い続けるナジムを呆然と見ていたイーリスは、ついに自分までも嬉しそうに笑った。

「なんでお前まで笑うんだよ、その間抜け面、自分で見えないだろうが」

 なんとか笑いを収めて突っ込んでやると、自分の状態を手で触って確認したらしいイーリスが頬を染める。気恥ずかしそうにしながらも、微笑む表情は明るかった。

「ナジムさんが楽しそうに笑うところ、初めて見たんですもの。いつもの強いナジムさんも頼りがいがあって、素敵ですけれど……私、笑ったナジムさんも大好きです」

「だ――」

 思わず繰り返しかけ、ナジムは唇を引き結んだ。

(素敵? だ、大好きだと? 何をとち狂ったこと言ってんだこの女は)

「お前は本当に……」

 上ずりかけた声を必死で抑え、何かを言ってやろうとする。それなのに、やはり続く言葉は出てこなかった。一体何を言えばいいかさえもわからなかったのだ。

「私、何か変なこと言いました?」

 小首を傾げるイーリス。その姿は先ほどと変わらずに間抜けそのものだ。それなのに、乱れていてすらなお輝く髪は美しく、まだらであっても肌は滑らかで、澄みきった薄紫の瞳はただ自分だけを信じ、見つめている――。

 一瞬でも見惚れかけたことをごまかすように、ナジムは首を横に振った。無意識の仕草を、イーリスも単純に質問の答えと受け取ったようだった。

「よかった……で、あの、本当に申し訳ないのですけれど」

 言って、おずおずと差し出されたものは塗り粉の容器と櫛。「やっぱり自分ではうまくできなくて」と微笑まれ、ナジムは嘆息した。



 冷たい塗り粉が、頬にゆっくりと広げられていく。

 塗ってくれるのは、ナジムの太い指だ。

「動くなよ」

 こくりと頷きかけ、あわててやめる。たった今言われた言葉をすぐに破りかけたイーリスに苦笑しつつ、ナジムは作業を続けてくれる。

 すぐ近くにある色違いの瞳も、指の動きも以前より優しい。それが彼の心境の変化を示しているのかはわからないけれど、イーリスにとって嬉しいことだ。

(嬉しい、のに……どうしてかしら)

 骨ばった大きな手が触れるたび、心地よさと同時に感じる奇妙な気持ち。決して嫌なのではない。嫌ではなく、むしろその逆――であることはわかるのだが、なぜか居心地が悪いような、落ち着かないような気にさせられる。ともすれば間近で見つめあうような状態で、イーリスはできるだけ瞳を伏せ、じっとしていようと努力していた。

 以前は彼の手際の良さにひたすら驚き、感心しているうちにすぐ終わった時間が、なぜかひどく長いように思える。気のせいか、前よりも丁寧に塗ってくれているようだった。

「……目、閉じろ」

「えっ?」

「何驚いてる、瞼の上にも塗るんだよ」

「あ、は、はい!」

 そうだ、確かに今までもそうだった。それなのに、どうしてこんなに緊張してしまうのだろう。変に大きな声を出してしまったことを恥ずかしく思いながら、イーリスは言われた通り目を瞑った。

「ナジム、さん……?」

 少し待っても何もされないので、目を閉じたまま呼ぶ。一瞬の沈黙の後、返されたのは予想外の言葉だった。

「お前、熱を出した時のこと覚えてるか?」

 目を開けると、ナジムがすぐ近くで自分を見つめていた。

 静かな静かな夜、二人きりの天幕には、ランプの明かりだけが薄く広がっている。色鮮やかな絨毯の上、向き合ったままの状態で、ナジムは低く続ける。

「何も、覚えてないのか……?」

 映りこむランプの光で、琥珀のほうの瞳が濃い金色にゆらめいたような気がして。何を聞かれているのかわからないまま、イーリスは小さく首を振る。その動作を静かに見ていたナジムは、ふと我に返ったように苦笑した。

「ま、そうだろうな。って、覚えてられても困るんだが――」

「え?」

「いや、別に。髪を結い直すから後ろを向いてくれ」

 言われるままに背を向けて座りなおすと、長い髪の束をまとめていた革紐を外される。ふわりと落ち、流れていく髪を、大きな手が再びすくいあげる。櫛で丁寧に梳いてくれながら、ナジムが独り言のように呟いた。

「本当に、虹色の水みたいだな」

(どういう意味かしら? 褒めてくれたの? それとも……?)

 きらきらと光を反射する細い流れは、自分で見ても虹色の川のようだ。イーリスにとっては見慣れた光景でも、感嘆してくれる人々は数多い。それは『虹の乙女』としての力と合わせた感嘆でもあったから、単純に喜ぶだけの反応は返せないことも多かった。褒め言葉の裏に秘められた、畏怖までも感じ取ってしまったからだった。

「……一応言っとくが、けなしたつもりはないぞ」

 わずかに肩を縮めかけたことに、気づかれたのだろうか。思いがけなく付け足されて、イーリスは頬を緩めた。

「ありがとうございます、ナジムさん」

「だからいちいち細かく礼はいらねえって。反応に困る」

 ふてくされたような彼特有の言い方は、本当に困っている時のものらしいとわかっていたから、小さく笑うだけに留める。

 どんどん編みこまれていく髪、出来上がっていく変装。これはイーリスを守るためのものなのだ。あんな風に盗賊と対峙してまで、無事に戻ってきてくれるナジムがとても強いらしいということは、さすがにわかる。商人という仕事がそんなにも危険と隣り合わせなのだとは、今まで知らなかったけれど――。

「ナジムさん」

「あ?」

「……いいえ、何でもありません」

「……変な奴」

 またもふてくされたように呟き、ナジムは革紐を結び終える。作業の終わりは、二人の距離が離れる合図でもあった。再び向かい合ったイーリスは、言葉にできない問いかけを思い浮かべる。

『傷はもう、痛まないのですか?』

『どうしてあんなにたくさんの傷跡があるのですか?』

『あの時見ていた夢は、どんなものだったのですか?』

『あなたは今まで、どんな風に生きてきたのですか?』

 何を思い、何に苦しみ、何に喜び、どうやって彼が暮らしてきたのか。なぜ自分は、こんなにも気になって仕方がないのだろう。なぜ、彼のことが知りたいと思ってしまうのだろう。

(なぜ……?)

 無意識にナジムの袖を掴んでしまったせいで、距離はまた近づいていた。すぐ目と鼻の先で見つめあったまま、何も言えないでいるイーリスを、彼も見つめ返している。少し驚いたように、あるいは何かに気を取られているかのように見開かれた水色と琥珀の瞳が、彼の褐色の瞼が――ゆっくりと伏せられていく。

 その瞼の上に痛々しく走る三日月の傷跡を、イーリスはそっと指でなぞった。びくり、とナジムの体が震える。それでも逸らされないでいる視線は、まるでイーリスの心に応えてくれているようで。

 この人の、心に触れたい――。

 唐突に湧き上がった強い想いが、イーリスに次の動作を取らせる。無意識のうちに、傷跡をゆっくりと撫でていたのだ。触れていた指が、いつの間にか手のひら全体に変わり、気づけば彼の頬を包むように添えていた。

 固まっていたナジムの体が、急に動く。イーリスの手を、彼の強い手が掴んだのだ。吐き出されたナジムの息が少し震えていて、瞬間体を縮める。

「明日も早い。……もう寝ろ」

 手を離すと同時に軽く頭を叩かれ、イーリスはほっと体の力を抜いた。怒らせたわけではなかったのだ。ナジムが整えてくれた寝具に身を横たえながら、ふと彼の背中に呼びかける。

「あの、ナジムさんも一緒に寝ませんか?」

「――何だと?」

 弾かれたように振り向いたナジムが、かなりの間の後、聞き返す。イーリスは少し考えてから、もう一度言い直した。

「ナジムさんもこちらで眠られてはいかがですか? いつも見張りをされたりして、ろくに眠っておられないのですもの。お疲れになってはいけませんから」

 きっとよく聞こえなかったのだろう、とわかりやすく説明したつもりだった。対するナジムの表情は、何とも言えない複雑なものだった。

「そっか……そうだよな。こいつはそういうやつだった」とか、「そうじゃなきゃ例え意識がなくても男の前で水浴びなんて……」とか、ぶつぶつと呟いている。今度はイーリスがよく聞こえずに聞き返したが、ナジムは疲れたように片手を振っただけだった。

「俺はいい。あんたと違って体力には自信があるし……そっちのほうが疲れそうだからな」と、寝具とイーリスを見比べ、背を向けてしまう。

「ナジムさん」

「……何だよ」

「眠るまで、お話してくださいませんか?」

 体は疲れているはずなのに、なぜか眠れない。掛け布にくるまりながらそっと言うと、背中越しに呆れたようなため息が返された。

「やっぱりだめ、ですよね……」

 あきらめて眠る努力に戻ろうとしたイーリスは、ふと、小さな呟きを聞いたのだ。

「こんな言い伝えを知っているか」

 そんな問いかけで語りだしたナジムの声は、いつになく静かで優しい。ランプの薄い明かりが照らす天幕で聞かせてくれた話は初めて聞くはずなのに、なぜかひどく懐かしい気がした。


 ――太古の昔、人々が崇める神は一つだった。

 平和で穏やかなその世界は長く続いたが、他でもない人々自身がその平穏さに飽いてしまった。恐れ多くも神にさえも飽き、人々は各々好き勝手に暮らすようになった。長い歴史の中で人々は分裂し、世界のあちらこちらに散り、そこで国を作った。それでも人々の中にわずかに残った良心が、それぞれ異なる神の物語を生み、崇めるようになった。忘れ去られた本当の神は、それでも人を愛していた。だから神は祈りの声を聞き、応えることを続けているのだ。わずかにも残された清き土地に、清き人々の手に自らの恵みを残し、力を託して――。

「言い伝えが本当ならば、お前は神に力を託された者、ということになるな」

 ふっと笑み、振り向くと、黙って話を聞いていた少女は眠っていた。掛け布にくるまり、子供のように安心した寝顔で。

「何だ、すぐ眠れるくせに」

 柄にもなく頼みを聞いてやったことが気恥ずかしくなって、余計ふてくされた声を出す。昼には容赦のない熱砂漠となる大地も、太陽が姿を隠しただけで夜には肌寒くさえなる。少し身震いしたイーリスの肩にもう一枚布を被せてやりながら、ナジムは続けた。

「神は待っているそうだ、背を向けた人々が自分を思い出し、再び戻ってくることを。幾百、幾千もの昼と夜を繰り返し、涙を流しながら、な」

 その積もり積もった涙が乾き、大地を覆った。神が憂いたその大地は、悲しみの大きさと同じくらい広大な、乾いた土地と成り果てた。いつしか人々はその土地を『乾いた砂』――メルハリと呼ぶようになった。

 遠い昔、勇壮な砂漠の民を統べる長として尊敬されていた父が、純粋だった頃の自分に語り聞かせてくれた言い伝えだ。

 

 遥かに続く砂は、神の流した涙

 乾いた土地の広さだけ、神は憂いた

 涙の砂の多さだけ、神は焦がれた

 いつか来たる日を待ち

 いつか来たる時を夢見て

 虹が想い、砂が震える奇跡を

 金の雨降るその時を――


「……なんて、眉唾もいいとこの詩、まだ覚えてる自分が一番笑えるぜ」

 ふっと口の端を緩め、呟く。言葉の内容とは裏腹に、ナジムは笑わなかった。その詩を共に暗唱していた存在を思い出し、古傷が疼いたからだった。

 天幕の入り口に戻ろうと浮かせた腰は、小さな違和感に留まる。眠ったイーリスが、服の裾を掴んでいたのだ。離そうと伸ばしかけた手は、幸せそうな寝言に遮られた。

小さく、ほとんど吐息のようにもらされた自分の名。

 夢の中でまで優しく呼びかけてくるイーリスを見つめ、ナジムは何度目かのため息をつく。その場から動くことを諦め、長い長い夜を彼女のそばで過ごしながら。それでもナジムの瞳は、決して冷たいものではなかった。


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