三章
三、乾いた風と二つの心
「隊商、『砂漠の雨』……ということは、ナジムさんはお一人でお仕事されているわけではなかったのですね」
三頭に増えたラクダで早朝の砂漠を移動中、イーリスは隣を進むサディークに話しかける。出発前に突然合流することになった、旅の新たな『仲間』である大柄の男はにっかりと笑う。
「そうそう。ちなみに『砂漠の雨』ってのは、それほどの幸運と商売繁盛を願っての命名。こっちが本来の名なんだが、最近じゃもう一つのほうが有名になっちまってるんだよなあ。あれは俺たちが付けたんじゃないんだが世間の奴らが勝手に――」
「サディーク、お前は喋りに来たのか、仕事しに来たのか、どっちなんだ?」
ナジムに鋭く遮られ、サディークは肩をすくめた。
「なんだよ、これぐらい挨拶みたいなもんだろう? お前に任せてたらろくな説明もしてやってなさそうだしな。ナジムの奴、行き先がどことも言ってないなんてことないかい? お嬢さん」
「あ、いえ。ちゃんと教えていただきました。南のクルハ・サクルへ向かうのだと」
「聞いてるならよかった。いやあそれにしても、思ったより元気そうで安心したぜ。もっと悲しみに暮れてるもんだとばかり……とにかくあいつと一緒で大変だったろう? なんか嫌なことがあれば言ってくれよ。今からはこのサディークさんがついてるし、何でも手伝ってやるからさあ」
ドン、と広い胸板を叩いて言うサディークに、前を進んでいたナジムが振り返る。 あいかわらず厳しい目つきに射抜かれ、イーリスは思わず身を縮めた。
「おいおいナジムよ、その態度なんとかならねえのか? お嬢さんが怯えてるぞ。いくら仕事が仕事だっつっても、それまでは快適に旅させてやんのがせめてもの……」
「うるさい。俺のやり方に文句があるならいつでも抜けてくれて結構だぞ、お節介やろうが」
「なんとなんと、五年も一緒に旅してるとは思えねえ冷たい口ぶり。いくら仕事ができてもその短気と口の悪さは直さねえと、女にもてねえぞ?」
「ふん、言ってろ。少なくともお前よりは女に困ったことはない」
「そうなんだよなあ~こんな可愛げのない奴のどこがいいんだか、悲しくなるぜ」
何を言われてもまるで気にする様子もなく、がはは、と大笑いするサディーク。呆れたようにナジムはまた前を向き、砂漠の旅の舵取り役に専念するつもりのようだった。自然、並んだサディークがイーリスの世話をしてくれる。
彼はナジムと相棒のような間柄で、他にも数名の仲間がいるらしいこと。ナジムを頭役とし、砂漠地帯のあちらこちらを旅して回っているらしいこと。サディークが知る限りでも、もう五年以上はそんな暮らしをしているのだということ。
全ては当人のナジムではなく、サディークが教えてくれた話だった。イーリスを連れたナジムとここで合流することになっていたのだというサディークの説明に、イーリスは首を傾げた。
「あら、でも……どうやって約束したのですか? 私とナジムさんが旅をすることになったのは、とても急なことだったのに」
「ん? 急ってそりゃあんたにとっちゃあ急だろうが、俺たちは……」
「ヒュドールで仕入れた水を運ぶために呼んであったんだよ。ま、仕入れ分はあんたを運ぶためにイーアオマイで売っちまったがな。あそこでも他に売りに行くやつらには入用だから」
サディークが答えるよりも早く、ナジムの声がする。
「まあ、そうだったのですね……!」
そういえばあの火事の時、水を買いに来たと言っていたような気がする。今頃思い出すほど余裕がなかった自分に、改めて気づいた。
「おい何言ってんだよ、今回は水運びなんて――」
首を傾げ、言いかけたサディークは、突然「あいでっ」と頭を押さえて呻いた。いつの間に拾ったのか、ナジムが投げた小石が命中したらしい。何をするんだとわめく声を無視し、またナジムが続けた。
「水運びは単調だが砂漠じゃ結構な重労働でな。バカでも助けになる」
「誰がバカだ! さっきから何なんだよお前、俺にけんか売ってんのか?」
「わざわざ売るほど暇じゃない。暑苦しいからとりあえず黙ってろ」
まだ言い返そうとするサディークを、ナジムが冷ややかにねめつける。その手にはまるで警告でもあるかのように、先ほどより大きめの石が握られていたが、サディークはわけがわからないという顔で大きく肩をすくめてみせる。ナジムは顔をしかめ、舌打ちした。
しかしこんな二人のやりとりは、申し訳なさげに肩を落としていたイーリスには見えていなかった。
「ごめんなさい、私のために色々とご迷惑をおかけしてしまって……」
自分のせいでナジムたちの予定を狂わせてしまったのだ、と心から謝る。驚いたのはサディークだ。
「め、迷惑だあ? とんでもねえよお嬢さん、俺たちにゃあこれ以上いい仕事はないんだぜ? 何しろ水なんかよりよっぽどの実入り――」
「実入り?」
小首を傾げたイーリスの隣でまたも打撃を受けたサディークが、涙目で頭を抱える。
「だから何なんだナジムてめえ!」
「うるせえいいから顔貸せこのバカ!」
怒っているサディークよりもすごい剣幕で、ナジムが叫ぶ。ラクダから飛び降りてほとんど強引に連れて行かれたサディークを、イーリスは心配そうに見つめていた。
しばらく二人で話をした後、またラクダの旅は再開された。
何をどう話したのかは不明だが、戻ってきたサディークはすっかり大人しくなっていた。といっても、飄々とした笑顔や独特の暢気な態度はそのままで、話しやすいことに変わりはない。いや、むしろ更に気を遣ってくれているような気がするほどだ。
イーリスの隣で再び進みながら、今もサディークは天候や次の休息所までの距離など、当たり障りのない話を続けてくれていた。
「それにしても、思ったよりも休息所というのは数があるものなのですね。メルハリ砂漠は広大で厳しい場所だと聞いていましたから驚きましたわ」
「ん? いや、休息所自体は決して多くないんだぜ? ただ、俺たちみたいな旅慣れた隊商の人間は最短の道と進み方を知ってるから、困らねえ程度に到着できるってだけで」
「そうなのですか?」
「ああ、特にナジムは誰よりメルハリに詳しいからなあ。あいつと一緒なら楽な旅だと感じるのも無理はねえかもなあ」
彼の名が出た途端、思わず目で追う背中。また前を進んでいる彼は、もう振り向くことはない。
「ナジムさんは、そんなに砂漠のことをよくご存知なのですか?」
「そりゃあずっと砂漠で生きてるから……何せ俺が出会った時にはもうここら一帯を――!」
勢いづいて何かを語ろうとしたらしいサディークは、そこでハッとなったように言葉を止めた。「やべえやべえ、また余計なこと言うなって叱られちまうぜ」と苦笑いする。
「そんなに叱られたのですか? あの……先ほども?」
おそるおそるイーリスが訊ねるのは、石を投げられていた時のことだ。なぜあんなに怒ったのかはわからないしサディークも語らないが、かなりの剣幕だった。
「自分の話はしたがらねえ奴なんだわ。へへ、それだけそれだけ。別に嬢ちゃんが気にするこたあねえよ」
(それだけでは、なかったような気がするのだけれど……?)
心配そうに見上げたイーリスから少し目を逸らし、サディークが苦笑した。
「えーっと、何の話だったっけか。そうそう休息所! まあ数が限られててもあれがあるから、こうして旅もできるってわけだよなあ。まさにヒュドールさまさまだぜ。これで水がもう少し安けりゃ文句はねえのに」
言ってから、再びハッとしたように口をつぐむサディーク。砂漠地帯でヒュドールの水が有料で売られていることは知っていた。自然の河川などの恵みでかろうじて自国の分を維持している大国とは違い、そのような手段のない地帯ではヒュドールから買うしかないのだと。けれど、たっぷりと水を使った沐浴や儀式を日々行うことを当然としていたイーリスには、初めて実情として耳に入る話だった。
「あの……そんなに高く売られているのですか? 人々が、手に入れるのに困るぐらいに?」
「あ、えーっと、まあ、困るといやあ困る値段なような、そうじゃないような……ひ、人それぞれかもなあ」
困ったように言葉を濁して、サディークは「そうだ」と手を打つ。
「水の乙女ってえのは、水を自在に操るって言うじゃねえか。ならあんたに今ある水を増やしてもらってだな、たっぷり売りさばいてもうけるってのはどうだい? それなら砂漠のみんなも助かるし、俺たち『砂漠の雨』の懐にもがっぽがっぽ稼ぎが入って一石二鳥じゃねえか」
「……ごめんなさい。それは、できないのです。確かに私たちには水の流れや量を整えたりという『調節』の力はありますが、そのものの量を増やす力は与えられていません。ですからお役には……」
「何だ、そうなのかい。てっきりヒュドールの豊富な水ってのはその乙女が増やしてくれてんのかと思ってたぜ」
「そういう風に思われる方も多いようですね。でも、あくまでも水はウルの恵み。私たち人間が自由にしてよいものではありませんから」
「へえ~、じゃあ俺たちみたいなヒュドール外の人間は、神に見捨てられてるってことなのかねえ。ヒュドールだけが潤って、俺たちゃ乾きっぱなしなんだからなあ」
何の気なしに呟かれた言葉に、イーリスは思わずラクダの手綱を落としそうになった。
(神に、見捨てられた……?)
イーリスが考えたことのない発想は、衝撃と共に心を突き刺すものだった。
奇跡の水の王国ヒュドール。女神ウルの恵み。その全ては当事者にとっては素晴らしい祝福である。けれど――、その恵みを受けられていない人々にとっては?
「ご、ごめんなさ……私、そういう意味で言ったのでは……!」
「んあ? いやいや別に、そんな顔するこたあねえよ。俺のほうもそういうつもりで言ったわけじゃねえし。嬢ちゃんはヒュドール人なんだから、そう思ってて当然なんだしさあ」
気にすんな、と鷹揚に笑いかけられ、イーリスも遠慮がちに頬を緩める。心から笑顔には、なれなかったのだけれど――。
静かに相槌を打ちながら聞いている間にもサディークの話題は移り変わり、時も流れる。今彼は、広大な砂山のうねりを指差しながら旅の仕方を語っていた。
「そういうわけで、隊商の人間は太陽の位置と風を読むんだ。旅慣れないやつにはわからねえ砂の動き、空気の感じ、それに景色の移り変わり。もちろん長い経験が必要だが、親が子に教えたり、先輩分が後輩に教えたりして頭と体に叩き込む。常に一緒に旅をして、互いに助け合う。大げさなようだが、命を預けあうわけだな」
どこか得意げな説明に、イーリスも自然と頭上の太陽を仰ぎ見る。
けれど延々続く砂漠の中では、太陽の位置どころか風さえほとんど感じられない。ヒュドールとは比べ物にならない、焦がされるような暑さが今日も続いている。
無言で聞くイーリスの反応に何か勘違いしたのかどうなのか、サディークは頭を掻いた。
「っていっても、仕事がある時だけ集まって、普段は方々に散らばって好き勝手してることも多い俺たちは例外かもしらんがなあ」
また笑いかけられ、イーリスもやっと微笑む。が、すぐにその笑顔は薄く消えてしまった。イーリスの沈んだ顔に気づいたサディークは、ラクダを少し寄せ、小声で話しかけてきた。
「もしかしてさっきのあれ、気にしてんのかい?」
「え……」
「俺が余計なこと言っちまったから元気なくなったのかなあってさ」
「いいえ、そんなことは」
あわてて首を振るも、確かに自分が元気をなくしてしまっているのはわかっていた。微笑もうとしても失敗するのは、そのせいだった。
「違うのかい? むうー……いや待てよ、そうだ思い出したぞ……その前だ! ナジムの奴の失言だな?」
びくりと肩を震わせたことで、サディークは確信してしまったらしい。
「そうだよ、あれはひどかったもんなあ~道理で最初から元気ないと思ってたんだ。なんてったって、『大嫌い』とか言いやがったからなあ」
皮肉なことにまさにその刹那、イーリスも自分が元気を失った原因を知った。思い出したのだ、強い声と瞳を叩きつけられたことを――。
(そうだわ、ナジムさんは私を……)
あれほどの敵意を示されたのは、イーリスにとって初めてのことだった。といっても、ナジムと旅が始まってからずっと、初めてのことばかりではあるのだが。
見る見るうちに肩を落とし、悲しげな顔つきになったイーリスの肩を、サディークがポンポンと叩いた。
「ほんっと失礼な奴だよなあ。まったくナジムの奴は時にこう……思ってもないことを口にする悪い癖があるんだ。たぶんそのう……ちょっと疲れて苛々してただけだと思うから、あんまり気にしないでやってくれや」
いかにも人のよさげな笑みで慰められ、イーリスは首を振る。
「いえ、いいんです。こんなに色々としていただいているのに、何もお返しできないのですもの。そんな私に腹を立てられても、仕方がないとわかっておりますから」
「お、お返し?」
「ええ、こんなに助けていただいてるのですもの。私を無事クルハ・サクルに送り届けていただき、ヒュドールの国王陛下と連絡が取れ、事情を説明した後には私から褒賞を出していただくようお願いしますわ。できるだけのことはしていただくようにしますけれど……今すぐには、何も差し上げられませんから」
「こ、国王……褒賞」
サディークが目をしばたかせながらぶつぶつと繰り返していることには気づかず、イーリスは前方を見やった。
――あんたみたいな女が、大嫌いなんだよ。
激しい怒声を思い出すたび、胸がぎゅっと縮まったように痛む。まさかそれほどに疎まれていたとは思わなかった。短い間でも親しくなりたいと、自分なりに努力をしたつもりだった。けれど、認めてもらえなかっただけでなく、余計に苛立たせてしまったらしい。
水の乙女たちの間でも、時折似たようなすれ違いを感じていた。誰もがイーリスを気遣って表には出さなくても、小さな棘のように胸を刺す違和感のようなもの。その正体も今のナジムと同じように、自分への敵意だったのだろうか。皆と仲良くしたいだけなのに、どうしてうまく行かないのだろう。
一人俯いてしまったイーリスには、隣を進むサディークが頭を抱えたことも、小さく呟いたこともわからなかったのだ。
「まいったな、こりゃ……」
すっかり弱りきったような声は、灼熱の砂漠に溶けていった。
*
昼時、強すぎる日差しを避けて休息を取っていた時のことだった。
「あのさあナジム、やっぱあのお嬢さんに話したほうがよくないか?」
例の『お嬢さん』――イーリスは、ナジムたちが張ってやった簡易の天幕で休んでいる。目を閉じ、仮眠を取っている彼女から離れたところまで歩いた後の、サディークの第一声だ。聞かれたナジムのほうが、不機嫌そうに眉を寄せる。
「話すって何をだ」
「何をってさあ、決まってんだろう? あの子の勘違いを解いて、事実を教えてやるんだよ! あの子は俺たちをクルハ・サクルまで送り届けてくれる親切な助け手か何かと思ってるんだろう?」
「ああ、そのようだな」
「そのようだな、じゃねえよお! 無事に着いて王宮へ保護を求めたら、ヒュドールの国王から褒賞をくれるようにするとか何とか、そんなことまで言ってたぜ?」
「へえ、国王から褒賞。そいつは初耳だが、結構な話だ」
「結構な、ってお前! じゃあこのまま最後まで騙しとおす気だって言うのか?」
大声を上げかけたサディークを鋭く睨み、ナジムは人差し指を立てた。そのまま、イーリスに聞こえないよう声を落とす。
「騙してるんじゃない。あくまでもあっちが勝手に勘違いしてるだけだ。さっきも言っただろうが、仕事が楽に済むなら勘違いも思い違いも利用させてもらうだけだって」
「だがな、いくらなんでもあんな純粋な子を……!」
「じゃあどうする、本当のことを話してやれだと? お前は善人面した『商人』たちに騙されていて、実は今から悪者のところへ売り飛ばされるんだぞ、って説明してやりゃあいいのか? 悪名高い奴らに囲われ、良くて生涯幽閉。悪けりゃ力の秘密だけ暴かれて後はどうなるか。好色な男どもに好き放題されて挙句に命まで――」
「ナジム!」
「何だよ。本当のことだろうが」
「……そうと決まったわけじゃない。何せ相手は聖女様だぞ? その力にはきっと純潔も守られてる必要があるはずなんだ。だからそこまでひどいことは……」
「ふん、どこまで守られてりゃ『純潔』なんだろうな」
はきすてるように言ってやると、しばらく黙って見つめていたサディークがにんまり笑った。こちらの胸の内を見透かすような、嫌な笑みだ。
「お前……えらく不機嫌だよなあ今回」
「俺がそんなに上機嫌だったことがあったか?」
「そりゃあ、お前の短気は今に始まったことじゃないがなあ……あんな風に感情を爆発させるところは久々に見たぞ。いや、女に対してってのは初めてかもしらんなあ」
わざとらしくゆったりと呟き、こちらの反応を見るようにする。言われて思い浮かぶのは、先ほどの自分の言葉。そして、ひどく傷ついたような彼女の顔だった。ちなみに、あれからずっと元気がない様子が続いていることにも気づいていた。
目を逸らし、思い出したように荷物の整理をするふりを始める。そんなナジムの手元を眺めながら、サディークがぽつりと言った。
「大嫌い、ってのは、それだけ相手に関心を持ってる証拠だったりするんだよなあ」
「あ? 何寝言抜かしてやがる」
「興味もなきゃ嫌えない。でもって、大概は誤解と偏見なんかがあるから人は人を嫌うわけだ。誤解も偏見も相手をよく知らないから生じるもんであって、つまりはよくお互いを知り、誤解が消えれば――大嫌いが正反対に変わることもある」
なんてな、と歯を見せて笑った顔は、五年間共に仕事をしてきた悪友の間抜け面に過ぎない。頭まで筋肉でできていそうな無骨男が何を言う、とナジムは心中で吐き捨てた。
(大嫌いが正反対に変わる、だと? そんなふざけたことがあり得るものか)
自分はあのムカつく女を無事に売り飛ばしてやるだけだ。目的さえ果たせればそれでいい。その後どうなろうが、知ったことじゃない。
「王宮、か。とにかくそこへは行くんだからよかったじゃないか」
ふっと笑って呟くナジムに、サディークは眉を寄せる。
「本当にあいつに売るつもりなのか?」
「何だよ今更、そういう契約だろうが。俺たち『砂漠の雨』はこれまでもこれからも、一番利益が見込めるところに『商品』を売る。今回だって変わらねえ」
「だがよ、ナジム……金ならきっと他でもたんまり弾んでくれる。何もあの最低野郎に売る必要は――」
「しつこいぞサディーク!」
ひと睨みで黙らせると、それ以上を語りたくないとでもいうようにナジムは立ち上がった。外していたターバンをまたきつく巻きつける。
「出発するから『お嬢さん』を起こして来い。日が落ちる前には次の休息所に着く必要があるんだ。のんびりしてる暇はないってな」
「……はいよ、お頭」
ふざけた風にお辞儀をしてみせ、サディークは戻っていった。
「最低野郎にだからこそ、売る価値があるんだよ」
今までの五年間、死にもの狂いで生きてきた。這いつくばり、誰に後ろ指を指されようともためらわず、この『仕事』を続けてきたのはただ一つの目的のためだけだ。
決してたどり着けそうにも思えなかった、遠い遠い壁。その向こうに、いよいよ入ることができる。あの日の衝撃を、今度は自分が味わわせてやれるのだ。
その、たった一度の機会のためならば、何であろうと利用してやる。
腰の短剣にそっと触れ、ナジムは唇を噛み締めた。気遣わしげなサディークの視線にも気づいていたが、顔を上げなかった。上げられなかった、のかもしれない――。
「お前が決めたんなら、俺はもう何も言わんさ。いつも通りの仕事をしようぜ? 相棒」
通り過ぎざまに軽く背中を叩かれ、ナジムは黙って片手を上げた。
こんな自分を相棒と呼んでくれる、奇特な男。目的を果たすために利用してきたのは商品だけではなく、仲間とて同じこと。そんな内心さえ気づいているだろうに、それでもサディークは笑っていた。
「俺の準備はできたんだが、如何せんあちらさんがなあ……」
そう言って指差された場所では、イーリスがまたもたもたと苦戦している。ラクダにまたがるのがそんなに難しいのか、例のごとく手間取っているのだ。
助けを求めるような視線に気づいていながら、あえて無視して背を向ける。しばらくして振り向くと、サディークがちょうど担いで乗せてやったところだった。
小さくやわらかな手を取り、乗せてやった時のことを思い出す。あれほど軽くてちゃんと生きていけるのか、などと考えたことも。
そんな思考を振り切るように軽く頭を振り、ナジムはラクダに軽々と跨った。
自分がいつもより強めに手綱を握っていることも、それがあのやわらかで優しい感触を消そうとしているからだということも、考えなかった。考えてしまえば何かが変わってしまうのだと本能的に気づいていたから、かもしれなかった。
変わりばえのしない砂の海を延々と進み続けてどれほど経ったのか、イーリスは既に時間の感覚をなくしていた。ナジムたち隊商の人々を尊敬してしまうほど、初めての砂漠は広大で、またあまりにも慣れ親しんだヒュドールの地とは違っていた。
(本当に焼けるような日差し、風さえも乾ききっているのだわ)
砂さえもじりじり焦げついていくようだ。ゆらゆらと揺らめく空気の流れが見える。これが陽炎と呼ばれるものだとはサディークに教えられて知った。知識としては理解しても、実際目の前で起こっていることだとはまだ思えず、夢か幻覚でも見ている気分だ。
「大丈夫か? お嬢さん」
ぼんやりしてきた視界をこすった手まで砂っぽく、熱い。心配して聞いてくれたサディークに微笑むが、明らかに力ないものになったことは自覚していた。
「もう少しで次の休息地に着く。しばらくの辛抱だから頑張ってくれな」
肩を叩かれ、頷く。優しいサディークの声を聞きながら、イーリスが目で追っていたのは先を行くナジムの背中だった。あれほどはっきりと大嫌いだと言われたのに、それでも頼りにしてしまうのは彼のほうだなんて――自分でも不思議なほど、ナジムの冷たさが悲しかった。
(親しくなりたいと思っていたのは、私だけだったのよね……)
また一人で空回りをしていた。自分が何をしてもどう頑張っても、裏目に出るばかり。
(バカなイーリス。かえって怒らせてしまったのだもの)
揺れる陽炎の向こう側、ナジムの背中は段々遠くなっていくようにさえ見える。頑ななほどの拒絶を受けて、イーリスは途方に暮れていた。
火事の夜からの様々な出来事と、あまりに急激な環境の変化。それは十六年の清廉な人生とは真逆のものばかりだ。しかも絶えず蘇ってくる悪夢と不安は、イーリスの身も心も自分で考える以上に蝕んでいるようだった。
あの夜、誰もいなかった水宣宮。あり得るはずのない火事、そしてなくなっていた水。兵は、誰に倒されていたのか? 水路と噴水の水が、もし、わざと抜かれていたものだとしたら――?
考えないようにしても膨れ上がっていく疑問は、イーリスの体を震えさせる。
何よりも、『逃げよ』というウルの託宣が、その答えを示しているのではないのか。どこか他国の手によるものなのか、それとも自分が逃げなければならないのはもしかしたら……と、そこまで考えたところまでが限界だった。
「……ちゃん、嬢ちゃん!? おい、どうした……!?」
ぐらり、と傾いだ体は、幸いサディークがすぐそばを進んでくれていたおかげで受け止められた。あわてて起き上がろうとして、イーリスは動きを止める。一瞬のうちに閃いた、鮮やかな映像のせいだった。
「危ない……ナジムさんっ!」
必死で上げた声とほぼ同時に、彼は弾かれたように振り返った。少し逸り返った体勢の彼の横を、ぎりぎりの距離で通り過ぎて行ったもの、それは――。
「矢――!? ふせろ、嬢ちゃん!」
叫んだサディークに頭を押さえつけられ、彼の巨体にかばわれるように隠される。目前にラクダの毛並みが迫り、視界が利かない状態でもイーリスには何が起こっているかわかっていた。いや、知っていたのだ。女神ウルの託宣によって。
最初に飛来する矢の映像、続く複数の矢の攻撃。映像で視えたものと同じ光景が、今現実に繰り広げられているのだろう。
それを証明するかのように飛んできた矢が当たり、ラクダは三頭とも倒れてしまう。悲鳴を上げるイーリスを抱え込んだサディークが砂上に落下し、それでもすぐに起き上がった。
「囲まれてるぞナジム!」
「知ってる!」
怒鳴りあうように合図した二人が、倒れこんだイーリスを挟んで外側に向き直る。ようやく開けた視界に映ったのは、四方からこちらへ歩み寄ってくるラクダの群れ。ざっと見ても十数頭はいるそれにまたがる、覆面の男たちだった。
「隊商……?」
イーリスのかすれ声に、ナジムが鼻で笑った。
「いきなり攻撃してくる隊商がどこにいる? あれは砂漠の荒くれ者――盗賊だ」
息を呑む間に、彼ら――盗賊の集団は三人のすぐそばまで迫っていた。揃いの覆面をしているが、隙間から見える目には冷たく嫌な光が浮かんでいる。矢を切らしたのか、手に手に剣を持ってぐるりと囲んだ円の中心から、巨体の男が口火を切った。
「その通り、俺たちゃあ砂漠の悪党、盗賊よ。よーくご存知だなあ? 兄さん方」
しゃがれた笑い声はいやらしく、いかにも相手をいたぶることを楽しみにしているものだった。砂漠の民が話す言語は似ているから理解は難しくないのだが、イーリスが聞いたことのない粗雑な話し方をしている。
「ちょうどよく水を切らして困ってたとこに旅のお仲間さん発見、ってな。これも天の助けか、やっぱ日ごろの行いがいいからだろうなあ」
「なーにが天の助けだ、ごろつきどもめ」
サディークが小さく呟くが、幸い彼らの耳には入らなかったらしく、どうやら頭であるらしい男が偉そうに続ける。
「ってまあ、水と金品有難く頂戴しようって来てみたら更にいいもん発見だ。水と金、その二つが満たされりゃあお次はやっぱ……」
男の目線がゆっくりと下がり、砂に伏せていたイーリスを捉えた。もちろん塗り粉と覆い布で変装はしているものの、見るからにたった一人の――、
「女しかいねえってことよ! ほれ、荷物全部とそいつをこっちに寄こしな!」
男が笑いながら叫ぶと、次々と仲間が後を継ぐ。
「若い女は高く売れる。今日はついてるぜ」
「見てみろ、結構上玉じゃねえか?」
「こりゃ売りさばく前に俺たちで楽しんで……」
ざわつく嫌な笑い声が上がり、イーリスは息を呑んだ。ほとんど無意識のうちにナジムの背中にしがみつく。彼も動揺しているのかと思いきや、低く聞こえたのは不敵な笑い声。ひどく乾いた、自信に満ちた声音に、盗賊たちも顔を見合わせる。
「何だ何だ? 恐怖で頭でもおかしくなったか?」
自身の頭に向けて指を回して見せる一人を先陣に、男たちも笑う。当のナジムは、笑うのをやめた。
「頭がおかしいのはそっちだろう? その程度の人数でいきがってる盗賊さんよ」
冷たく言い放ったナジムに、男たちは一斉にいきり立った。背にしがみついたままのイーリスが震えていることに気づいたのか、彼は悠々と振り返る。
「お前が守れ」とサディークに押し付けると、不安げに見上げるイーリスに笑みを見せた。口角だけを上げた、余裕に満ちた笑みだ。
「怖けりゃ目閉じて十数えてろ。その間に終わる」
優しくなだめるというより、小馬鹿にでもしたような言い方だったが、彼の自信を裏付けるようにサディークも頷く。
「何だと? 黙って聞いてりゃ調子に乗りやがって!」
「せっかく見逃してやろうかと思ったが、どうやら先に死にてえらしいな」
ラクダから飛び降り、剣を構える盗賊。それでもナジムは余裕を失わなかった。
「使い古した台詞をよくそこまで連呼できるもんだ。まったく、絵に描いたような間抜けな盗賊そのものだぜ」
「野郎……っ! その口ともども切り裂いてやる!」
「……ナジムさんっ!」
「おっと、嬢ちゃんはここまでだ」
今にも襲い掛かろうとした男たちに目を見開き、叫ぼうとしたイーリスの視界をサディークが塞ぐ。
「護衛役はガラじゃねえが、頼まれたんだから仕方ねえ。言われた通り十数えてな、心配する必要もないさ」
「でも」
目の前で人が――自分を助けてくれたナジムが襲われようとしている。そんな恐ろしい事態に、イーリスにできることなど皆無なのはわかっていた。だからといって、ただ十数えていろだなんて。
「はいはい、しょうがない嬢ちゃんだなあ」
ため息混じりに笑われ、そのまま肩に抱え上げられる。イーリスの体重などものともせず、サディークは支えたほうと反対の手を軽く振った。
「ちょっと離れてっから、追いついてこいよ」
言われたナジムは頷く仕草だけで了承し、そんなやりとりにまた盗賊たちは逆上する。奇声と共に今度こそ剣を振りかざして飛び掛る彼らに、ナジムは一人相対した。
「ナジムさん……っ!」
叫んだイーリスの声と同時に、彼の旅装――背に垂らしていた大判の日除け布が翻る。そこに見えたのは、斜めに結わ付けえられていた長剣だった。瞬時に抜き放ったそれと、三日月型の腰の短剣。両手で二振りの剣を構え持った彼に、ふいに巻き起こった突風が吹きつける。更なる強風が目深に巻かれていたターバンを吹き飛ばし、砂色の短髪が現れた。
「色違いの目に、砂色の髪――おい、そんな……まさか」
「こいつら……『金の雨』……!?」
遠く響いた驚愕の声は風に阻まれ、遠ざかるイーリスの耳には届かなかった。
***
「盗賊団『金の雨』ですって……? そんな恐ろしい輩が本当に出没したと言うの?」
蒼白になった少女は、情報をもたらした娘に問いただした。
さらさらと流れる水路の水音だけが、緊迫した空気をわずかにでも和ませている。
ここは、奇跡の水の王国ヒュドール、水宣宮と呼ばれる美しい白亜の建物内。『水の乙女』だけが立ち入りを許された、清浄なる聖域である。
「はい、アナ様。王宮に出入りする隊商の噂でございますから、間違いございませんわ。広大なメルハリ砂漠全域を狩場とし、獲物を定めては血も涙もない非道な方法で略奪していく、まさに砂漠の獣だとされる残虐な連中だと……!」
「砂漠の獣……!」
「しかもその頭とされる人物に、非常によく似た男を見たという者もおります。アナ様、もしかしたら『虹の乙女』様はそのような野卑な連中にさらわれて――」
しっ、とあわてたように娘に合図し、アナと呼ばれた少女は声を落とす。
「滅多なことを言うものではないわ。あくまでも『虹の乙女』様は火事の騒ぎに紛れ、行方不明になられただけ。今、国王陛下も全力を挙げて、極秘裏に捜索隊を出して下さっています。ただでさえ民に知られぬように細心の注意を払っているというのに、わたくしたち乙女の間にまで妙な噂が流れ、動揺を見せる者でもいたらどうするのです? ヒュドール国内はおろか、国外にまで乙女不在の報せが伝わりでもすれば、一気に王国の威信が崩れてしまうのですよ」
「は、はい……申し訳ございません、アナ様」
「もういいわ。あなたは行って、乙女たちが余計な噂に惑わされぬよう留意していなさい。大丈夫、必ずや陛下が虹の乙女を取り戻して下さいます。残されたわたくしたちに出来る仕事は、その間しっかりと水宣宮を守っていることよ」
深くお辞儀をし、去って行った娘と入れ替わるように現れたのは、彼女たちと同じ薄手の内衣姿の少女だ。栗色のまっすぐな長髪を後ろで一つに束ねたアナと異なり、やわらかな薄い金色の髪を二つに結わえている。一見幼い印象ではあるが、しっかりした目つきがアナと共通していた。
「ドーラ、どうだった? 何か新しい報せは?」
ドーラと呼ばれた金の髪の少女は首を左右に振り、二人は顔を翳らせる。共に仕えてきた『虹の乙女』イーリスがいなくなった火事の日から、既に三日が経過していた。
あの夜、二人は偶然にも同時に別の用事を頼まれ、水宣宮のイーリスの寝室を離れていた。いつもならばどちらか一人は隣の部屋に眠り、もう片方が不寝番をする決まりであるにも関わらず、だ。しかも、二人ともが相手の不在を知らず、別の乙女が来ていると思っていた。そう手配しておいたからだ。
そんな夜によりにもよって火事は起こり、イーリスは消えた。そして二人は揃って、ずっと自身の不在に責任を感じていたのだが――、
「ねえ、アナ。やっぱりどう考えてもおかしいわよ。そう思うでしょう?」
「うん……そうよね。今日も陛下にお目通りはかなわなかったの?」
「ええ、体調が優れない、の一点張りよ。あれから民の前にも姿をお見せにならないし、もしかしたら『虹の乙女』不在の影響が出ているのかも」
「それも心配だけれど、そうではない場合のほうが私は心配なのよ、ドーラ」
アナの指摘した可能性を、頷いたドーラも危惧している。
「捜索隊を出しているとは言うけれど、三日も経つのに何の音沙汰もなし。ヒュドールの大切な乙女が消えたというのに、王宮も水宣宮も静かすぎる……」
――まるで、火事のあったあの夜のように。
アナとドーラが駆けつけた時には、既に何事もなかったかのように火は消し止められていた。兵も数人が倒れてはいたが、他に何の被害もなかった。それなのに、忽然とイーリスだけが消えたのだ。
後に残ったのは、アナとドーラに始まって、兵の交代時間が変えられていたり、入れ違いになってしまっていたりという、奇妙な偶然の一致ばかり。一番納得が行かないのは、普段何も異常なく流れている水路と噴水の水が、火事の時にだけ枯れてしまっていたことだ。アナもドーラも、ちょうど用事で出る直前に水路を確認していた。その時には、水はなみなみとあったのだから。
「ねえ、ドーラ」
「……あなたもそう思うわよね、アナ」
二人が同じことを考えながら、それでも口に出すことはできなかった。
こうなるべくしてなったかのような、この奇妙な事態の流れも、その全てが指し示す疑念も。そしてそのどちらにも答えを与えてくれるべき国王は、姿を見せてくれない。
「そういえば、気になることと言えばもう一つあるわ」
ドーラの囁きに、アナは耳を傾ける。イーリスが消えたのとほぼ同時期に、突然台頭してきた存在があることを。今までも人気を集めてはいたが、ここ数日特に活発な印象だ。
「確か今日も、王宮前の広場で演説をしていたわよね。あの哲学者……エルピス、という名だったかしら」
「ええ。本当の意味の選民とは、自らが選ばれた存在だとは決して認めない者だ――とか何とか言っていたわよ。異民族を下に見てはならない、と常日頃言っておられる方よね」
それは年若いアナとドーラにも新しい考え方で、今やかなりの人数の異民族が暮らしているホーラーでも受け入れられつつある思想だ。けれど、まだ眉をひそめる人々も多い。
「異民族と言えば……さっきの話もそうよね」
聞こえていたらしく、ドーラが怯えたように身を竦ませる。野蛮で無情で、残虐な砂漠の獣。そんな男と大切な彼女が一緒にいるかもしれないなんて、一番考えたくもない可能性だ。先ほどの娘の時と同じように、いや、更に強く、アナは必死で打ち消した。自らが感じている嫌な予感を、認めるわけにはいかなかったのだ。
結論の出ることのない、不毛な話題。彼女らの今最も重要な疑問の答えは、女神ウルにゆだねるしかない。
「どうかご無事で――セル」
そっと、手を取り合った二人は祈った。どこにいても、彼女に水の恵みがあるように、と。静かで穏やかな水宣宮の午後は、また不毛に暮れて行く――。
***
同刻、乾いたメルハリ砂漠のある場所で、まさに恐ろしい噂の張本人――盗賊団『金の雨』の頭領である青年――ナジムは言い放った。
「そうそう、それが正しい反応だ、低級諸君」
ふざけた言葉とは裏腹に、彼はもう笑っていなかった。あらわになった髪と瞳――それが彼らの間にさえも伝わっているだろう、自身の特徴であることはよく知っていたからだ。もう一つの特徴でもある二振りの剣を気楽に構え、顎だけをくいと動かす。かかってこい、とでも言うように。
「く、くそお……っ、『金の雨』が何だっ!」
まさに切りかかろうとした体勢で固まっていたうちの一人が、自棄を起こしたように足を踏み出す。一瞬の動きを見逃さず、ナジムが放ったのは左手の短剣だった。喉に正確に突き立った刃で刹那のうちに命を奪われ、男の体がどさりと砂地に倒れこむ。
「一」
ニヤリと笑んで数えると、男たちは互いに顔を見合わせた。後に引けなくなったのか、それでも次にかかってくる一人を「二」、もう一人を「三」、更に次を「四」――予告通りに数え上げながら、ナジムは長剣――三日月刀を振るった。あまりに素早い動作には一つの無駄もなく、流れるように剣は男の肉を斬り、筋を断ち、骨を突いていく。
ゆらめく陽炎の中、照りつける日差しが剣に反射し、ぎらりと光った。戦闘に滾る感情を示すように、ナジムの体も熱く、眼差しにまで力が篭る。
「き、金の瞳――ば、化け物っ! やっぱり化け物だ!」
「魔性憑きだ……逃げろ、逃げろお……っ!」
刀身に付いた血を振って捨てるナジムから、残る全員が怯えた顔で逃げ出すまで。
「何だよ、十もかからなかったな」
面白くねえ、と独りごち、ナジムは走り去る連中をねめつける。
「せめて残り六ぐらい、楽しませてくれよな」
言うが早いが、必死で駆けていく数人の背に向け、三日月刀を振り下ろした。歪曲した刃の線を生かし、重みを利用した一撃で、三人が一気に倒れる。
「五、六、七……あと三回」
もはや取り繕うこともせず逃げ回る残党。ラクダにまたがろうとして落ちた一人の胸を刺し、腰を抜かして這いつくばる一人の背に斬りつけ、残ったのは最後の一人。倒れた男の服で拭った剣をぴたぴたともう片方の手の上で弄びながら、ナジムは瞳を細めた。にんまりと、唇を舐める。
「さあて、どうしてやろうか」
「た、た、たたた助けてくれっ! 何でもする! かか、金でも水でも何でもやるから頼む! い、命だけは――」
「何でも? そうだな……」
必死で両手をすり合わせ、懇願していた男が一瞬ほっとした顔をした。その安堵を、ナジムの笑みが残酷に打ち消す。
「悪いが全部間に合ってる。そういうわけだから、あきらめて仲間の元に行ってくれ」
「化けも――」
絶望の悲鳴を上げようとした男の喉を、ナジムは一撃で切り裂いた。
「十」と数えた後にニヤリと笑い、続ける。
「本当の『盗賊』ってのは、こういう奴のことを言うんだぜ? って、もう聞こえてねえか」
しゅっと音を鳴らして振り落とされた刀の血が、砂に飛び散る。
「魔性憑きの化け物に斬られたんだ。せいぜい地獄で自慢しな」
言い捨て、背を向けたナジムの色違いの瞳には、何の感情も映っていなかった。
化け物、魔性憑き、呪われし者――今まで生きてきて、どれだけの言葉で忌み嫌われてきただろう。それは色違いの瞳を持って生まれた者への、不運にして残酷な運命をそのまま意味する呼び名だ。
唯一神ルハラー信仰の厚い砂漠地帯の国々、そこに古くから伝わる伝承がある。
ルハラーの治める大地で、様々なものに宿るという精霊ジン。彼らは太古の昔からルハラー神に認められ、種々の恵みを人々に与えてきたという。その代償としてジンは人々の喜びや希望、感謝などの感情を受け取り、更に大地に満ち満ちた。
だが、素朴な信仰は長くは続かず、人々は銘々勝手を始めた。神を信じ、ジンを敬うと口では語りながら、悪心に染まり、悪事に身をやつす。そんな人々の悪感情は、常に人と密接であったジンに影響を及ぼし、彼らをも悪に染めてしまったのだ。
結果ルハラー神はジンを大地の奥底に封印し、人からも切り離した。人々は再び正しい信仰に戻るかと思われた――しばらくの間は。
しかし人々の悪心は変わらず、世界に流れるその負の力は、大地の奥底から悪となったジンを呼び覚ます。果たしていつ頃からだったのか、その影響としてジンの悪しき力をその身に受け継いだ呪われし子供が時折生まれてくるようになったのだ。そして人々は彼らを、『魔性憑き』と呼び、悪しき力の特徴を示す色違いの瞳を蔑んだ。
(その言い伝えが真実かどうかなど、気に留めることもなく――か)
伝承の示す呪われし者、の一人であるナジムはそう顔をゆがめ、冷たい微笑を浮かべる。
「インシュルハラー、全ては神の思し召し、ってな」
心にもない言葉を皮肉に呟く彼の髪を、乾いた風が撫でていった。
返り血を拭い、ターバンを巻きなおしたナジムがサディークと合流したのは、それからほどなくしてのこと。いつものごとく軽口でも叩いて自分を迎えるかと思った相棒は、あわてたように駆け寄ってきた。
「何だよサディーク、珍しく心配でもしてたのか?」
「違う、大変なんだ! 嬢ちゃんが……!」
呼ばれて近づくと、サディークが敷いたらしい布の上にイーリスは横たえられている。ぐったりと閉じられた瞼を見て、ナジムは眉根を寄せた。
「ここまで運んだはいいが、気づいたらもうこの熱だったんだ! ああ、もしかしたらもっと前から具合が悪かったのかも……そういや元気がなかった」
黙って額に手を置くと、驚くほどに熱い。抱きかかえると、全身が熱を持っていることがわかった。少し開かれた唇も乾ききり、荒く頼りない呼吸をかろうじてしている。初めて触れた時には信じられないくらいやわらかかった肌も、明らかに乾燥してしまっていた。
「脱水だな。くそ、もっと前に気づくべきだった」
舌打ちし、引き連れてきた盗賊のラクダを一頭一頭探る。彼らの言葉は嘘でなかったらしく、やっと探し当てた水袋にはわずかの水しか残されていなかった。
湿らせた手で熱い額を濡らし、口元に水を運んでやる。が、完全に意識を失っているイーリスに反応はなかった。
「どうする? ここから休息所まではまだ距離があるが」
言われずとも、この状態では一刻も早く水分を取らせ、休ませなくてはならない。唇を噛んで思案している横から、サディークがまた言い足した。
「……死なれたら困るんじゃないのか、ナジム」
それでも黙っていると、「ああかわいそうに……辛いだろうなあ、苦しいだろうなあ……今すぐ水が飲みたくてたまらないだろうなあ……」などとわざとらしくぶつぶつ呟いている。ちらりと覗き見られ、ナジムはターバンごと頭を掻きむしった。視線で訴えてもサディークは肩をすくめ、何かを譲るように片手を振ってくる。
「――ああくそ! わかったよ!」
叫んだナジムににんまり頷き、サディークは背を向けた。ご丁寧に自分の手で目を覆っている始末だ。いい様にからかわれているようでしゃくだったが、今はそんなことを言っている場合じゃない。
小さく嘆息すると、ナジムは皮袋の水をぐいとあおった。そのまま飲み込まず、イーリスの唇に自身の唇を付ける。少しずつ口移しで飲ませるためだった。
熱く乾いてはいてもふわりとやわらかな感触がして、イーリスがわずかに身じろぎする。力なく開いたままの口から最初の水がもれ、頬を流れていく。半ばやけくそで、ナジムはより強く唇を押し付けた。斜めに傾けた頬を両手で支え、深く口付けるように。
ごくり、と喉が上下したと思った途端、イーリスが反応を見せた。近づけたナジムの体に――正確に言うならば首に――両腕を伸ばし、絡めるようにして水を飲み始めたのだ。
「そんなに水が飲みたかったんだなあ……かわいそうに」
(ってしっかり見てるじゃねえかサディークの奴!)
目を逸らしていると思っていたサディークが、気づけばしゃがみこんでまじまじと眺めている。今更焦っても時既に遅し。絡められた腕の力は意外にも強く、引き寄せられてかなり密着した状態のまま、しばらくそうしているほかなかった。
(これは水が飲みたいがための本能的な行動だ。ただそれだけだ。何も意味なんかない、無意識の行為なんだ)
女との口付けなど初めてではないのに、そんなことを自分に言い訳する。思わずそうしてしまうほど巻きつけられた腕は細く、押し付けられた体は華奢で、否が応でも意識せずにはいられないのだ。水に濡れて潤いを取り戻した唇はしっとりとやわらかく、ナジムのそれに熱を伝えてくる。弾みで触れ合った舌に思わずどきりとし、そんな自分をすぐに打ち消した。
長く思えた拷問のような行為の後、唇を離す。互いに薄くもれた吐息が、たった今まで触れ合っていた事実を思い知らせ、ナジムは自分の唇を手の甲で拭った。自然と速まった鼓動を整え、何気ない顔を装うことに成功したのかどうなのか。
「お、嬢ちゃん気がついたみてえだぜ」
そんな声に目をやると、何度か瞬いた薄紫の瞳がぼんやりとナジムを映した。優しい微笑が口元に漂う。
「ナジムさん……よかった、無事で……」
まだ夢見心地のような表情で嬉しそうに言われ、言葉に詰まる。が、目を覚ましたのは一瞬だけだったらしく、再び瞼が閉じられる。先ほどより呼吸が落ち着いたものの、まだ高熱があることに変わりはなかった。
既に日は高くなり、砂も自分たちもじりじりと焼かれ始めている。本来ならばこうなる前に到着しておくはずが、盗賊との一戦で無駄に時間を消費したのだ。
「とにかく休息所に急いで――」
言いかけた刹那、風が吹きぬける。突然のそれは奇妙な予感を運ぶもので、振り向いたと同時にナジムはイーリスを抱き、体を伏せた。二人のすぐ近くに、飛来した矢が刺さっていた。
今度はサディークが剣を抜いて立ちはだかる。
「また新手か……? それとも――」
「違う、ヒュドールの追っ手だ!」
ナジムが叫ぶなり、砂丘の向こう側から姿を見せた騎馬の小隊。十頭には満たないが、黒毛の種は確かに大国だけが所有する軍馬の証だった。馬上で矢を構えた兵たちが、こちらを狙っている。
「くそ、何でこんなに早くバレたんだ? ここは俺に任せてお前たちは行け!」
素早く頷き合うと、抱え上げたイーリスをラクダに乗せ、自分もまたがる。横腹を蹴り上げると、ラクダは普段とは倍以上も違う速度で駆け出した。
また風が吹き、舞い上がった砂の中、そうしてナジムとイーリスは別の道を行くこととなったのだった。