二章
二、砂漠の旅は波乱の幕開け
ラクダが歩みを止めたのは、辺りに夕闇が落ち始めた頃だった。
延々と一面に続いていた砂のうねりの向こう、姿を見せたのは数十の天幕が立ち並ぶ小さな町。メルハリ砂漠を越える旅人たちのオアシスとなっている、休息地の一つであるらしい。昼に小休憩を取った申し訳程度の休息所とは異なり、篝火で照らされた通りには小さな市も立ち、食事を売る屋台らしきものも立ち並んでいる賑わいぶりだ。
二頭前後に並んで進んできたイーリスたちだけではなく、続々と隊商の人々がラクダを下り、細く頼りない潅木の幹につないでいる。
「あ、あの……」
ラクダの上から困ったように呼ぶと、ようやく事態に気づいてくれた(というより思い出してくれた)らしく、前のラクダから下り、先へ進みかけていた商人の青年が戻ってきた。ふう、と疲れたようなため息をつくと、無造作に手を差し伸べてくれる。片手だけではうまく行かず、もたもたしていたら結局は抱きかかえるように下ろしてくれた。ちなみにラクダの乗り降りのたび、似たようなことが繰り返されている。
数刻の間揺られ続けたせいでお尻も痛いし体には妙な浮遊感と振動が残っているが、それでも久々に地に足をつけたことでほっとした。
「ありがとうございます。なかなか慣れなくて……ラクダの背中がこんなに高いのも、乗り方が難しいことも、遠目で見ているだけでは知らなかったことばかりで」
最後は独り言のように呟きつつ、笑いかける。が、彼はひきつった頬を少し引き上げただけで、さっさと背を向けてしまった。二頭のラクダから荷物を下ろす作業を始めている。ちなみに、共に旅をすると決まった今朝からずっとこんな態度が続いている。どう見ても不機嫌な様子で、話しかけるどころか近づくのもためらわれるほどなのだ。
(まだ怒っているのかしら? どうしよう……もう一度きちんと謝っておいたほうがいいのか、それともしつこいと思われるのか……ああこんな時、アナやドーラがいてくれたら心強かったのに)
『水の乙女』として育ってきた十六年間、その役目や立場については厳しく学んできたイーリスだが、その他のことについては全く無知も同然だということはヒュドールの民であっても知りはしない事実かもしれない。そもそも乙女たちとて、その神聖な力以外は普通の人間なのだと考えることもないのではないか。聖女と崇められるイーリスが、ごく一般的な人の感情というものに疎く、よくそのせいで失敗をしては反省し、時には落ち込んでいる――そんな十六歳の普通の少女だということも、だからというべきか少々人の顔色を気にしすぎるところがある、ということも、知っているのは侍女のアナとドーラだけだ。
同じヒュドール人――しかも『水の乙女』同士であってもうまく相手の思いを察し、望む行動を取ることは難しいというのに、相手は異民族。ましてや異性である。
水宣宮には衛兵以外男性は存在せず、水麗宮でもイーリスが直接話をするのは高齢の国王オレストだけ。といっても二人きりではないし、託宣について話す時もそばに控える少数の側近などを通してのやりとりなのだ。要するに、こうして異性と二人だけで長い時を過ごすことも、会話を交わすことも、ほとんど初めてと言ってもいい状態。これでうまくやれと言うほうが無理というものだろう。
『そのようにびくびくなさらないでくださいまし!』
『そうですわ、まったく天下の虹の乙女が聞いて呆れます! ほら、もっと堂々となさって……! 本当に、すばらしい力をお持ちと思えないぐらいに慎ましいお方なのだから』
今この場にアナとドーラがいたら、きっとこう言って呆れられるに違いない。頼りない自分をいつも励まし、元気付けてくれる二人を思い出すと、心細さが込み上げる。
ともすればあの不吉な託宣と夢、それから奇妙な火事のことを思い出し、背筋が寒くなる。目を閉じれば、自分が刺され、倒れる残像も繰り返し蘇る。
あの火事は一体何だったのか。それに、自分は誰に命を狙われると言うのだろう。
頭の中をぐるぐると回り続ける疑問は、考えれば考えるほど恐怖に変わる。
震えてしまいそうになる手をまた握り締めた瞬間、先ほど手を貸してくれた青年の力強い手の感触が蘇った。確かに自分を助けてくれる存在がいるのだと考えると、少し落ち着いた。
(そうよ、不安になってはいけないわ。これもまた女神ウルの『託宣』。私を危機から救ってくれるのが彼だと、あの夢も示してくれていたのだから……!)
あの時、水もないところで二度も与えられた託宣。自分を逃がすことのできた唯一の相手が彼であったことが、女神ウルの意思を示している。だからこそイーリスも、彼と共に遠い異国へ向かう覚悟をしたのだ。
(ウルの選ばれた相手ですもの。心を尽くせば、きっと仲良くできるはずだわ)
せっかく共に旅をする間柄であるのに、こんな風にぎくしゃくしているのは悲しいし、寂しいことだ。真心を込めて接し、怒りを解いてもらおう。
一人頷いたイーリスは、いつも民の前で役目を行う時のように、背筋を伸ばして深呼吸した。少し先で荷の整理をしている青年のもとへ駆け寄る。
「あの……商人さん」
呼びかけると、自分より頭一つ分以上高いところにある、まるで物怖じもしない瞳に見下ろされる。色違いだというだけでなく、強い目つきそのものにまだ慣れないが、イーリスは勇気を振り絞って続けた。
「私が向かっているのは、クルハ・サクル王国でしたよね?」
「そうだが。何かご不満でも?」
確認のつもりで訊ねたのだが、言った途端青年の目つきが余計険しくなった。彼が身に着けるゆったりとした腰穿きの、帯に差された短刀。その切っ先が自分に向けられた時のことを思い出し、イーリスはびくりと肩を縮めてしまう。彼の瞳が冷たく細められる時と、あの感触はよく似ていた。
「い、いいえ。不満なんて」
「なら同じことを聞かないでくれ。それと、周囲の目もあるところでそのお上品な話し方はやめてくれると有難い」
「お上品……」
「今のあんたは俺と同じ『商人さん』の仲間ってことになってる。他の隊商の奴らに疑われたくなければ、もっと普通にしておくことだな」
「ふ、普通、ですか」
やはり自分は普通に振舞えていないのだ、とわかり、イーリスは肩を落とす。それが彼の苛立ちの原因なのだろうか。どうにも取り付く島もない態度に困りながらも、てきぱき動く彼の後を追いかけた。
「あ、あの……」
「俺は『あの』でも『商人さん』でもなく、ナジムだ。呼ぶならせめてそう呼んでくれ。『仲間』同士でそんな態度、どう見たって挙動不審だろうが」
つりあがった眉とその間に刻まれた皺が、彼――ナジムの苛立ちの度合いを示していた。叱られたことにしゅんとうなだれるが、続いた言葉にほっとした。まだ不機嫌さは直っていないけれど、希望はあることがわかったから。
「ごめんなさい……目立たないように気をつけますわ。本当にありがとうございます、ナジムさん」
「は?」
「迷惑がられても仕方がないのに、仲間と思ってくださるなんて……私、とても嬉しいのです」
たった一人、慣れ親しんだ宮を出て初めて異国へ向かう自分。そんなイーリスにとって、ナジムの存在はとても頼りになるものだ。彼が自分を『仲間』と思ってくれることがとても嬉しい。精一杯の感謝の気持ちを込めて言ったつもりが、ナジムの色違いの瞳は大きく見開かれた。
「あんたなあ……」
愕然とした顔で何事か答えかけた彼に、イーリスは微笑んだ。
「イーリス」
「あ?」
「私の名前ですわ。どうぞそうお呼びくださいな」
イーリスの提案を、ナジムは何とも言えない表情で聞いている。妙なものを食べてしまったような、すっきりしない顔だ。
「何で俺があんたの名前を……」
「あら、だってナジムさんも名前で呼べと仰いましたわ」
「それはそっちのほうが都合がいいからで」
「でしたら私のことも名前で呼ばれたほうが、周囲の方々に正体も知られず都合がよいと思うのですけれど」
「別に呼びかけるような用もないんだ。今のままだって――」
「でも……ナジムさんが『あの』でも『商人さん』でもないように、私も『あんた』でも『おい』でもありませんから」
にっこりと告げると、ナジムはむっとしたように眉根を寄せた。
(いけない、また怒らせてしまったかしら)
素直に感じたことを言っただけだったのに、誤解させてしまったのかもしれない。
「ああ、そうだよな。俺みたいな卑しいバルバロイに、しかも商人ふぜいにそんな呼び方されちゃ気分が悪いってわけか」
ナジムに言われ、イーリスは逆に驚いた顔をする。
「まあ、私はあなたがたのことを卑しいなんて、思ったことはありません。確かにバルバロイの方々を低く見る方もまだ多いようですけれど、最近ではそのような考えが間違ったものだと気づいたヒュドール人もたくさんおります。特に、最近ホーラーで人気の哲学者エルピスという方のご意見には陛下もよく耳を傾けられ――」
まだ年若いのに斬新で面白いものの見方をするのだ、と陛下が重宝されていた人物。直接会ったことはないイーリスでさえも、話を聞いて感銘を受けていた。そこまで話そうとしたのに、ナジムはどうでもよさげに片手を上げて遮った。
「お偉い方々がどう言おうとあんたがどう考えようと、これまでの風習はそうすぐに変わるもんじゃないさ。俺が単なる商人ふぜいでしかないのは事実だしな」
「まあ、またそのような言い方をなさって――商人の方々がおられなければ交易は発展せず、国は栄えません。とても素晴らしいお仕事です。私はただ、お互い名前で呼び合うことで仲良くなれたら、と思って……」
「仲良く、だと?」
呆気にとられたように聞き返され、それでも頷いた。
「ええ、短い間でも旅の仲間でしょう? それに、ナジムさんは私の恩人ですもの」
「……恩人、ねえ」
しばらく黙っていてから呟いたナジムの頬には、なぜかひどくゆがんだ笑みが浮かんでいる。自分を見下ろす色違いの瞳が、より冷たくなったような気がした。
「俺、あんたのこと『商品』だってはっきり言ったよな?」
問われ、イーリスは頷く。
「ああ、その表現には少し驚きました。でも確かに、商人のナジムさんにとって私は『商品』と同じですものね。例え人間であっても、無事に相手のところへ届ける、という意味では一緒ですし」
面白い呼び方だと思っていたから、自然に笑顔が浮かんだのだが、ナジムは更に妙な顔をしている。「本気でわかってねえのか……」とか「天然記念物だなこれは」とか、何やら一人で言って大きなため息をついているのだ。
「あの……名前で呼ぶのはお嫌ですか?」
「嫌も何も、大体名前なんて単なる記号みたいなもんだろう。同じ群れの中で埋もれないように呼び分けてるだけなんだ。特別大事なもんじゃ……」
「大事です!」
遠慮がちに訊ねたつもりが予想外の答えを得て、思わずイーリスは声を張り上げていた。といっても元々小声で喋っていたから、普通の声量になっただけだったが。
水色と琥珀色の瞳が再び見開かれ、イーリスは我に返った。また怒らせてしまうかもしれないと思いつつ、それでも続けずにはいられなかった。
「名前は、両親が子供に贈る愛情の証です。だから……大事じゃない、なんて……そんなことはありません」
凝視されていることに緊張し、段々声量も視線も落ちていく。握り締めていた手を解き、イーリスはあわてて微笑む。いや、微笑もうとした。うまくは行かなかったけれど――。
「ご、ごめんなさい。一度くらい、名前で呼ばれてみたいなと思っていたので、つい……あの、気にしないでください」
「一度くらいって、呼ばれたことがないのか?」
「はい。あ、虹の乙女はその名の通り、『セル・シビュラ』と呼ばれることになっているので。仲の良い侍女たちだけは、親しみを込めて『セル』って呼んでくれますけど……それも周囲に人がいない時だけなんです」
「親は」
「え? ああ、ええと……虹色の髪を持った『虹の乙女』となるべき赤ん坊は、生まれてすぐに水宣宮に引き取られるのが決まりなので、会ったことはありません。あまり体が強くなかったらしく、母は私を生んですぐに、父もその後しばらくして亡くなったそうですけれど。だから両親が私に遺してくれたこの名前は、宝物だと思っているんです」
虹色の髪を持つ子供は、ヒュドール国内のどこかで数年ごとに生まれてくる。それは女神ウルの祝福であるがゆえに、誰にでも起こりうるが、誰になるか予想もできない奇跡であり、幸運だ。当代の『虹の乙女』となった者の親は国でも手厚く保護され、生涯の栄誉を約束される。しかし、中には強すぎる力を秘めた子を生んだ影響で、早世してしまう両親も少なからず存在する。これは民草にはあまり知られていない事実だが、イーリスの場合もそうだったのだ。
「……なんて、私の勝手な憧れですみません。もしお嫌なら、今まで通りで構いませんから」
今度は笑顔を浮かべることに成功した。それなのに、ナジムは無表情で黙っている。ただその瞳に浮かんでいた険のようなものは、なぜだか薄まっているように見えた。
「ナジムさん?」
「――考えとく」
ぱっと顔を輝かせたイーリスをうるさそうに片手で制して、ナジムはまた背を向け、下ろし終えた荷をまとめ始めた。
(不機嫌が直ったのかしら? よかった……!)
やっと距離が少しは縮まったのかと胸を撫で下ろし、また初めて名前を呼び合えるかもしれないことに期待する。
「あ、あのっ、ナジムさん! お手伝いを……」
「いいから黙って待ってろ。どうせできもしないんだ、また荷をぶちまけられたりされて目立っちまうのが関の山だろう。俺一人でやったほうが早い」
「……はい」
昼に立ち寄った休息地での一件を持ち出され、イーリスはうなだれる。本来の仕事もあるだろうに自分の願いを聞き入れて助けてくれた恩人の役に立とうと、慣れないことをやってみた結果だった。
(そうよね。かえって迷惑をかけるくらいなら静かにしていたほうがいいのだわ)
しゅんとしつつ、イーリスは視線を辺りの喧騒に向ける。
役目をほとんど終えようとしている太陽の代わりに、薄闇を煌々と照らす篝火。点在する明かりの向こうに、同じように荷を整理した人たちが、集まって立つ天幕のそれぞれに入っていくのが見えた。どうやらあれが、宿のようなものらしい。イーアオマイで自分も似た天幕に寝かされたらしいのだが、意識がなかったから初めても同然だ。
闇が訪れると同時に風は日中の熱を忘れ去ったかのように冷たく、まだ火照った状態の肌を布越しに撫でていく。見渡す限りの広大な砂地。乾いた夜に包まれ、自分が今までとは別世界にいることを改めて感じる。不安と恐怖と背中合わせに、ほんの少しだけ鼓動が速いのはなぜだろう。賑わう人々の群れを、イーリスはぼんやりと眺めていた。
「旦那方、お食事はいかがです? 天幕にもお運びしますよ~!」
ふと横でかけられた声に振り返ると、そこにいたのは十歳程度の少年だった。頷いたナジムが何事か伝えて小銭を渡すと、彼はてきぱきとナジムの荷を両手に抱え、近くの天幕に運び始めた。よく見ると、似たような年頃の少年たちが他の天幕でも同じことをしている。
「あの子たちは、お家のお手伝いかしら。まだ小さいのに偉いわ」
自分よりもよっぽど世慣れた顔で行き来する彼らに感心して呟いたイーリスを、ナジムがまた妙なものでも見る表情で振り返った。
「あんた本気でそんなこと言ってんのか? 世間知らずもここまで来ると馬鹿としか思えないな」
「え?」
「あのガキどもがみんな家業の手伝いでもやってると? あいつらは孤児だ。ああやって稼いでるんだよ。荷物運びから食事や宿の手配まで、小銭で大概のことはやってくれる」
「……そんな、あんな小さい子たちが? どうして大人たちが面倒を見ないのです?」
「はっ、大人たちも自分の家族で精一杯だっての。他人の子の世話までしてられるかよ」
「でも、あんな幼い子たちに仕事をさせるなんて――」
「あえて頼んでやってんだよ。小銭を出してやることで、あんたの言う『面倒』を見てやってるのさ」
肩をすくめ、ナジムは淡々と言い放つ。愕然としていたイーリスは、宿代わりとは別のものらしい天幕の立ち並ぶ場所に、今度は少女たちが立っているのを見つけた。多くは十代後半程度だが、中には前半に見える子供もいる。皆が皆、旅人の男たちに近寄っては何事か話しかけ、連れ立って小さな天幕へ消えていくのだ。
「あの子たちは……?」
おそるおそる訊ねると、ナジムは無表情にそちらを見、すぐに目を逸らした。
「同じだ、あいつらも働いてる。何をやってるかまで、俺に言わせないでくれ」
それだけ答え、ナジムは伸びをしてスタスタと歩き始めてしまった。後ろ髪を引かれるような思いで少女たちを振り返りながらも、イーリスも付いていく。
例の少年が荷物を運び込んでくれた天幕は立ち並ぶ中でもわりと大きめのもので、二人で入っても十分広かった。清潔な敷布の上には毛織物が敷かれていて、いくつかのクッションも置かれている。どっかりと腰掛けたナジムが何も言わないので、遠慮しつつもイーリスはその隣にちょこんと座った。何か言いたげな顔で見られ、また困ってしまう。ヒジャーブとかいう頭の布がずれているのか、それとも顔や手足に塗ったけしずみが落ちているのか、体中を点検してみても違うようだったから、結局首を傾げるはめになった。とりあえず、名前を呼んでくれるつもりはないようだとわかって、せっかく浮き上がっていた気持ちは少し沈んでいる。
「あの……私、また何か怒らせてしまったでしょうか?」
小さく訊ねたイーリスに、ナジムは眉を思いきりひそめ、あきらめたように首を横に振った。
「――別に。っていうかあんた、何でそんなにびくびくしてるんだよ」
「え?」
「仮にも大国の、君主に並び立つ影響力を持つとかいう『水の乙女』だろう? しかもその頂点の、『虹の乙女』だ。もっとこう……偉そうに、お高くとまってるもんじゃないのか? 女神の託宣だか何だか知らないが、そんなご大層なもんまで聞ける力を持ってるくせに、何で俺なんかにそこまで低姿勢なんだ」
溜まっていた苛立ちをぶつけるような、早口での疑問。一瞬呆気に取られたイーリスだったが、すぐに小さく笑い返した。
「そうですよね……もっと偉そうにしていなさいってアナやドーラにも怒られるんです。あ、私に付いてくれている侍女なんですけれど、いつも『虹の乙女』の自覚と威厳を持てってお説教されていて」
「説教? たかが侍女があんたに?」
「あら、侍女とはいってもアナもドーラも『水の乙女』なんですよ? 一番下の『白の乙女』ですけど、二人とも有能だからきっとすぐ『銀』の称号をもらえます。年も私より二つ上なので、二人とも侍女というよりお姉さんみたいで……そうそう、この前も私のほうが儀式に使う水盤をうっかり割ってしまって怒られて――」
「ああもういい、わかったよ。だからそんなに嬉しそうに話さなくてもいい」
「わかっていただけました? ナジムさんも二人に会えばきっとすぐ好きになりますわ」
「そうじゃなくて、あんたが本当に本物のめでたい人種だってことがわかったんだよ」
にこにこして話していたイーリスは、ナジムの呆れ顔に気づいて言葉を止めた。
『めでたい』とはどういう意味だろう。彼の話すヒュドール語は滑らかで異民族とは思えないほど自然なのに、時々こうして理解できない言い回しをされるのだ。
「あの……ナジムさん?」
呼びかけたその時、荷を運んでくれた少年が入り口の布を押し上げて入ってきた。その手には二つの盆があって、ほかほかと湯気を立てるスープや干し肉、何かのペーストに焼き立てらしい薄いパン(プソミ)などが載っている。
「食事だ。口に合うかはわからんが、食べてくれ」
ぼそっとイーリスに言い置くと、ナジムは少年にまた小銭を渡した。顔を輝かせてお礼を言う少年の様子から、どうやら相場より多く渡してやったらしいとイーリスにもわかった。
「やっぱり優しい方なのですね、ナジムさんは」
「優しい? 俺が?」
戻ってきた彼に声をかけるが、また珍妙な言葉でも聞いたかのように驚かれる。
「……まあいいや。これ以上疲れるやりとりもごめんだし、俺も食事に集中するからあんたも食べろ」
「はい、ありがとうございます。ではお祈りしましょう」
「お祈りだ?」
「ええ。食事への感謝を女神ウルに――あ、そうでしたわね。ごめんなさい、ええと、あなたの神様にどうぞお祈りしてください。私は私で祈りますから」
彼がどこの国出身なのか聞くのを忘れていたけれど、異民族なのだからヒュドールとは別の神を仰ぐはずだ。そう思って配慮したつもりのイーリスの言葉に、ナジムは乾いた笑みを貼り付けたまま片手をひらひらと振る。
「あんたは好きに祈ってくれ。俺は神なんて信じてないから結構」
言い捨てるようにして、さっさとパン(プソミ)を引きちぎって口に入れるナジム。今度はイーリスが仰天する番だった。
「まあ……そんな、神を信じていないと言うのですか? 本当に?」
そんな民が存在するなどと、全く思いもしなかった。純粋な驚愕は見開いた目や口調に現れていたのだろう。ナジムは鬱陶しそうに「悪いか」とだけ返し、食事を続ける。しばし呆然と、彼が半分ほど食べ進めるのを見つめていてから、やっとイーリスは祈りの文句を小さく唱え、食事を始めた。
(世界は本当に広いんだわ。まさか、いくら異民族といっても神を信じない人々がいるなんて知らなかった)
そうやってぼうっとしていた間にもナジムは食べ終わり、立てた肩膝に肘をついてイーリスを見つめている。顔を上げてからやっと視線に気づき、あわてて食事の手を速めた。
「口に合わないだろう。こんな場所の食事にしちゃ悪くないほうだが、どうしたって王宮の立派な料理には負ける。粉がよくないからホブスは硬いし、サルタも具が少なくて味気ないしな」
なぜだかにこやかにそう言われ、ホブスがパンを、サルタがスープを指しているのだとわかり、イーリスは急いで首を振った。
「あ、違うのです。確かに初めて食べるものばかりですけれど、私は元々小食で」
説明しようとしたのに、ナジムはまた片手を上げ、イーリスの言葉を遮る。
「別に何だっていい。食べられなくても、水分だけはとっておくことだ。倒れられでもしたら困るからな」
「わ、わかりました。どうもありが……」
「礼はいらん。頼むから少し黙っててくれ」
「……はい」
しゅん、とうなだれて手渡された水を飲む。懐かしい感覚が体に行き渡ったと感じたのは一瞬だけで、すぐに乾いた空気の中に消えてしまった気がした。
(こんなに長く水に触れていないのは初めてだわ)
毎日の沐浴と、水を使った役目の数々。それはイーリスにとっての日常だったから、なくなってしまうとひどく落ち着かない。心だけではなく、体も頼りなく感じるほどだ。できればどこか泉のような場所がないかと聞きたかったが、あいかわらず――いや、もっと不機嫌になってしまったナジムに訊ねる勇気は持てなかった。
カラになった水の杯を突然横から取られ、びくりとする。すぐそばに色違いの双眸があって、肩を縮めたイーリスに、ナジムはなぜか皮肉めいた微笑を浮かべる。
「……そんなに俺が怖いか?」
「えっ、い、いいえそんな」
「じゃあ俺のこの目が恐ろしいのか? 正直に言っていいんだぞ、気味が悪いと」
イーリスが怯えたのは、また何かへまをやらかして怒らせたかどうか、に対してだったのだが、ナジムは誤解したようだった。まっすぐに、左右異なる色彩で挑戦的に見つめている。
「それはありませんわ。とても不思議で美しい瞳ですもの」
「美しい、だと?」
意地の悪い笑みが、ふっと消える。それは新たな怒りのせいというよりも、困惑に近いものに見えた。イーリスはしっかりと頷く。
「あなたの右の瞳は大地を潤す、水の恵みと同じ色。そして左の瞳は……雄大で壮麗なこのメルハリ砂漠そのものみたいで、とても綺麗……」
すぐ近くで覗き込むようにしたイーリスに、ナジムは一瞬虚を突かれたように固まっていた。が、即座に我を取り戻したかのように距離を取り、背後のクッションに乱暴にもたれこんでしまう。
「ナジムさん? あの……」
呼びかけて、イーリスは思わず息を呑んだ。荒い手つきでナジムが頭の日除け布を解き去ったからだ。乾いた砂色の短い髪をかきあげた彼の額には、斜めに走る傷跡があった。ちょうど三日月のように歪曲したいびつな線が、端から左眉の上まで届いている。今までは布に隠されていて、見えなかったものだった。
「まあ……それはどうなさったのです? もしかして、あの火事で怪我を?」
「違う。単なる古傷だ」
言われてよく見れば、確かにそれは褐色の皮膚に既になじんだ色で、彼がその傷と共に短くはない年月を過ごしたことを示している。浅いものには見えないから、きっと傷を受けた時には相当出血したはずだ。
「どうしてこんな……」
痛ましく感じて伸ばした手は、きつい眼差しで止められた。先ほど自分が美しいと言った双眸が、更に険しく研ぎ澄まされてイーリスを射る。
「俺に構うな」
あまりに冷たい声音に、言葉を失う。ただ見つめ返すしかできないイーリスをまっすぐに睨みながら、ナジムは立ち上がった。
「余計なお喋りをするために連れてきたんじゃないんだ。さっさと食事をして、明日に備えて寝ろ」
彼の腰でかちゃりと鳴った金属音が、短刀の存在を思い出させる。閃く刃の、冷たい光。どうして彼の瞳は、こんなに自分を竦ませるのだろう。まるで憎まれているように、心が、体が一瞬で萎縮してしまう。それでも、握り合った手の温かさを忘れることはできなかった。
「……はい。あの、ナジムさんは……」
「色々やることがあるんだ。俺に構うなと言っただろう」
苛立ちを隠さずに向けられた背中。その広くて冷たい背に、イーリスはそっと呟いた。
「おやすみなさい」と――。
答えは、返ってこなかった。
(綺麗、だと? 一体全体何なんだあの女!)
天幕を出たナジムが最初にしたのは、思いきり嘲笑うことだった。誰も見ていないのをいいことに、声に出して続けてしまう。
「世の中にあんなに邪気のない人間がいるとはな。さすがは奇跡の水の王国が誇る聖女様だぜ」
はきすてるように漏らしてから、頭を抱えた。夜空を仰ぎながら無意識に触れるのは、額の傷跡。そして、瞼越しの瞳だ。大きく息を吐き出し、もう一度日除け布を巻きなおす。今度は更に目深に、簡単には目元が見えないように念入りに巻いた。
生まれてこの方散々忌み嫌われてきた、色違いの瞳。この広大なメルハリ砂漠、いや、その周囲のどこに行っても、この瞳が不吉だという言い伝えは同様に存在している。あの女は、それを知らないのだろうか。
(知ってようが知らなかろうが、どっちでもいい。俺には関係のないことだ)
――おやすみなさい。
小さくかけられた言葉が耳朶の奥にかすかに残っている。その優しい響きは、ナジムを余計に苛立たせた。
商品だとはっきり言ってやったにも関わらず、妙な勘違いで自分をまだ恩人だと言って憚らない無邪気な聖女。女神の託宣だか何だか知らないが、人を疑わないにもほどがある。挙句の果てに、自分の刀傷にまで恐れず触れようとした。気が小さいようでいて、異民族も色違いの瞳も怖くはないと言う。
「……変な女」
首を回し、ナジムはもう一度独りごちた。その口元に薄い笑みが湛えられていることには、気づいていなかった。
「さてと」
あの聖女に言ったことは半分嘘で、半分は真実だ。暮れていく夜の中、ナジムにはまだやることがあるのだ。
周囲に立ち並ぶ天幕は、明かりをともされたものもあれば消されたものもある。まだ出歩いている隊商の男たちの一人に近づき、ナジムはさりげなく片手を上げた。
「アッサラーム、旦那」
「おう、アッサラーム。いい晩だな兄ちゃん」
砂漠地帯共通の挨拶で呼び止めると、中年の男は機嫌よく返す。既に楽しんできたのか、赤ら顔には笑みがのっている。
「あんたも水買い人かい? しかし懐具合はよさそうだな」
「おお兄ちゃんもか。いやあ水値はどんどん上がる一方だが、今回は運が良かった。南でえらい干ばつが起こってるから買い値に負けねえ利益が出たぜ。ってあんたも水買い人なら知ってるだろう、この機に乗ってせいぜいもうけようじゃないか」
「まったくその通り。特にクルハ・サクルじゃ黄金より水のほうが高いって噂だからな。なのに乾ききってる民をほったらかして、王宮じゃあ毎晩宴会騒ぎだとか」
「そうそう、クルハ・サクルの王クタイバってのは、とんでもねえ残虐な奴らしいじゃねえか。こないだも隊商の仲間がひどい噂を聞いたって言ってたぞ」
「へえ、噂ってどういうのだい?」
何気ない風を装って尋ねると、男はニヤリと意味深な笑みを浮かべる。
「王宮で買い占めてる水を民に分け与えろって暴動が国中で頻発してるらしいんだが、
その暴動で集まった民を全員虐殺したとか。見せしめってやつだろうな。誰もが倒したいと願ってるだろうが、肝心の手立てがない。特にそいつの腹心のなんとかって将軍が、これまた強いらしくてなあ。えーっと、なんて奴だったっかな」
「……ヤクザーン」
「あ? そうだ将軍ヤクザーンだ! 確かあのターヒル族の首長の息子だとかで、まだ若いのにすげえ頭も切れて有能らしいぜ。クタイバの懐刀ってやつだよなあ。まったく、揃いも揃って悪いほうに有能なんじゃどうしようもねえ、嫌な世の中だぜ。なあ? それにしても将軍の名前なんかよく知ってたなあ、兄ちゃん」
腕組みをしながら曖昧に相槌を打つと、男は一人結論付けた。
「そういう嫌な世の中で生き残るためにも、俺たちゃ自分の商売を続けるしかねえ。とにかく水は砂漠の黄金よ。お互い甘い蜜はたっぷり吸わせてもらおうぜ。水の女神様様、ってやつだ」
はっはっは、と突き出た腹を撫で撫で高笑いする男に合わせ、ナジムも笑うふりをする。そうだ、砂漠の黄金でもうけさせてもらう自分は、こうして笑っていればいい。売られる商品のことなど、考える必要はないのだ。考えるべきは、仕事の進行を妨げうる、諸々の可能性だけ――。
「そうそう、そのヒュドールだが、何か事件が起こったんじゃないのかい? 確か王宮がどうって」
「ああ、そういやボヤ騒ぎがあったらしいな。幸いすぐ消し止められて大事はないって話だが」
「例の、なんとかの乙女たちは無事だって?」
「そりゃ当然だろう。あの乙女たちのおかげで俺らの商売も、ついでに言えばヒュドール自身も潤ってんだ。無事でいてくれなきゃ今頃大事だろうさ。噂も流れてこねえとこ見ると、通常営業なんだろうよ」
「へえ……そいつはよかった」
相槌を打つナジムの眉根が寄せられていることも、瞳に不審げな色が浮かんだことも、男は気づかなかった。目深に被った布で見えないだろうし、ご機嫌そのものの目に入ってもいないだろう。
「じゃあな、兄ちゃん。インシュルハラー」
「インシュルハラー。いい商売を」
砂漠の民が崇める唯一神、ルハラー。全てはルハラー神の思し召し、という意味の言葉を返し、ナジムは手を振った。信じてもいない神の御心もへったくれもないのだが、こうしておけば相手も気を許してくれる。情報を引き出すには、仲間面をするのが一番なのだ。
(しかし妙だな。今頃『虹の乙女』が消えたと大騒ぎになっているかと思ったが)
イーリスを騙すために吐いた嘘が、本当になっている。火事がそのまま消し止められたというのはまだ予想範囲内だが、彼女が消えたことで騒ぎが起こらないとは。
「……下々には真実は伝わらないってことか?」
首を捻りつつも、そう結論付けて天幕を振り返った。残しておいたランプの明かりはそのままだったが、人影は動いていない。言われた通り寝たのか、それともそう努力しているだけか。
(しかし妙だな。国を挙げて守るべき乙女が消えたんだから、追っ手は確実に放たれると思ったんだが)
疑問は、あの夜も感じた違和感につながるものだった。
イーリスに説明した通り、水買い人に変装して――ちなみに、交易組合発行の許可証も偽装済みだ――王都へ入り込んだ。用意してあった希少な織物や香辛料のおかげで通用門から王宮内部にも通された。中に入ってしまえばこちらのもので、夜まで姿を隠して水宣宮へ向かった。
しかしあの時は、あくまでも下見のつもりだったのだ。そこに起こった火事、そして目当てのイーリスのほうから出てきてくれるという幸運。
いや、そもそもあれは本当に幸運だったのだろうか。
それこそがナジムの疑念であり、今のところ順調に進んでいるように思えるこの計画に漂う怪しい影でもあるのだ。
イーリスは確かに、自分を連れて逃げてくれと言った。
彼女曰く、それは女神の『託宣』で、ナジムがその願いを叶えてくれる相手として選ばれたのだとか何とか――。
逃げる、って何からだ?
考えかけて頭から追い出していた可能性は、明らかに面倒を運んでくる類のもの。
「いやいや、きっと内密に追っ手が放たれてるんだ。そんでもって『託宣』とやらも単なる夢か思い込みで……」
そうに決まっている、とナジムは呟きの続きを頭の中で付け足した。
(噂になっていないならかえって好都合なこった。見つからないようにさっさと旅してさっさと売り渡すだけだ。その時には、さすがの聖女も世の中ってもんを知ることになる……)
ほくそ笑んだはずが、なぜか脳裏にあの清らかすぎる微笑みが浮かぶ。名前で呼べと言い、不吉な瞳を褒めた少女の笑顔が。
例え彼女が何から逃げていようとも――、
「関係ない。全部、俺には関係のないことだ」
ぶるりと頭を振ると、ナジムは天幕の前に座り込んだ。ここで一晩中見張りをするつもりだった。もちろん、彼女の逃亡を防ぐ意味もある。全ては、無事に仕事を済ませるためなのだから。
腰帯から取り出した短剣の鞘を外すと、抜き身の刃が現れる。きらりと月に反射した光は、忌々しいほどに清冽に見えた。
朝、ためらいがちに天幕の垂れ布を上げたイーリスは、すぐ目の前にナジムの背中を見つけた。そっと前に回ると、胡坐をかき、腕組みをしたまま眠っている。
昨夜一瞬だけ外された日除け布は再びきつく巻かれ、もうあの砂色の髪も額の傷も見えない。褐色の頬は砂の混ざった風と乾いた空気のせいか少し荒れているけれど、湯浴みをし、香油で整えでもすれば十分に見栄えのするだろう精悍な風貌だ。
瞼が閉じられていて美しい色違いの瞳が隠れているのが残念だが、そのせいで隙のない砂漠の獣のような雰囲気が和らいでいる。そう、このまま甘い微笑みでも浮かべれば、女性たちを騒がせそうな端正な容姿であることに気づく。それでもイーリスは、あの強い眼光も不思議な瞳も嫌いではなかった。
(疲れて、いるのよね……きっと。休まずに寝ずの番までして下さっていたのだわ)
本意ではないのかもしれないけれど、彼はイーリスのために頑張ってくれている。なのに、自分が何もせず守られているだけなのが申し訳なく感じた。そしてはたと思い当たる。
(もしかして、それで怒っているのかしら?)
彼ばかりが大変な思いをしなければいけない、そんな不公平さに腹を立てているのかもしれない。無事に逃げ、安全な場所から国王陛下に連絡を取り、事態が収まった後に彼に褒賞を与えてもらうことはできるだろう。けれどそれまでの間は、何も返すことはできないのだ。かえって、何もできない自分は迷惑をかけてしまうだけ。
ではどうしたら――と悩み、イーリスは思い出した。天幕の中へ戻り、目的のものを持ってくる。目を閉じ、口内で祈りの文句を唱えると、そのままナジムの額に右手をかざした。心中で真摯に願い、そうっとその手を肌に当てた、その瞬間だった。
「……っ」
悲鳴を上げることもできなかった。それほどに素早い、一瞬の動作で目を覚ましたナジムに手首を掴まれ、ものすごい力で砂地に押し倒されたのだ。左手で手首を砂に押し付け、右手で腰の短剣を引き抜きざまにイーリスの喉元に突きつけたナジムが、体ごと圧し掛かっている。持っていた水筒は倒れて水がこぼれ、塗らしてあったイーリスの右手からは、使われなかった水滴が空しく流れた。
「……ナジム、さ……」
苦しげに驚きの声を絞り出すと、間近にあった刃が引かれ、手首の拘束がとかれた。あっという間にしまいこまれた剣の存在は誰にも見えなかったらしく、通りかかった男が口笛を吹いた。
「朝っぱらからお熱いねえ。まだ楽しみ足りないんなら中でやってくれよ」
背後の天幕のほうを顎で示され、ナジムが何食わぬ顔で体を離し、笑い返してみせる。
「そうだな。まだ出発には早いし、そうするよ」
答えながらイーリスの肩に手を回し、抱き込むようにしながら天幕に戻ると、布を二重に引き下ろす。つい今しがたとは別人のように、床に突き放された。
「……どういうつもりだ? 何をしようとした」
空の水筒を手に鋭い目で睨まれ、イーリスは正直に口を開く。
「あの、あなたの祝福を、女神ウルに祈ろうと」
「祝福?」
「はい。きっとお疲れだろうから、少しでも楽になるようにと……思って」
わずかの量しかない水だけれど、イーリスが清めて聖水としたものは、疲労や邪気からの守護になる。だからその聖水でナジムを少しでも癒してあげたいと考えたのだ。それがまた失敗してしまったようだとなんとなくわかり、イーリスの言葉は小さくなった。信じられないように瞳を瞬かせたナジムが、水筒を乱暴に置く。
「――俺に構うなと言ったはずだ。一歩間違えば騒ぎになるところだった。それにあんたにはわからんだろうが、ここじゃわずかの水でも貴重品なんだよ」
「ごめんなさ……」
「謝るな!」
突然の怒声に、イーリスはびくりと肩を震わせる。
「いちいち俺に謝るな、礼を言うな、笑いかけるな! 俺は――あんたみたいな女が大嫌いなんだよ!」
耐えかねたかのように荒々しく叫ばれて、イーリスは本当に言葉を失った。失う、しかなかったのだ。薄紫の瞳をこれ以上無理だというほどに見開き、肩を上下させるナジムをただ呆然と見上げることしかできなかった。
静寂の中、我に返ったらしいナジムが、自身の言動に驚いたような顔をする。が、彼が何かを言うよりも先に聞こえたのは大きな笑い声だった。野太く豪快な声の持ち主が、天幕の垂れ布を持ち上げて入ってきたのだ。
「どうなってるかと思えば、こりゃあいい按配のようじゃないかナジム! お前がこれほどに声を荒げ、感情をあらわにするたぁ珍しい見ものだぜ。そうだろう? お嬢さん」
大きくごつい筋肉質の体をナジムと似た旅装に包んだ、二十代後半くらいの男。彼の場合は巻かれた布からぼさぼさの黒髪が飛び出し、四角い顔と瞳には人懐こそうな笑みが湛えられている。同じ褐色の肌をしていても、ナジムとは正反対の印象だった。
「え、あの……ええと」
いきなりの闖入者に困惑するイーリスをよそに、ナジムは軽くため息をつき、彼と片手を叩き合わせたのだ。
「遅いぞサディーク。おかげで俺一人、もう少しで取引を台無しにするところだった」
サディークと呼ばれた大男は、にんまりと笑って言ったのだ。
「はじめまして、お嬢さん。我らの隊商『砂漠の雨』へようこそ!」と――。