一章
「水宣宮の乙女~虹の涙と金の雨~」結川さや(作品本文)
一、水の乙女と色違いの悪党
ここは奇跡の水の王国、ヒュドール。
広大な砂漠地帯に隣接する国々の中、唯一そう呼ばれる豊かな国である。
熱砂の大地では、時に金よりも貴重となる水の途切れぬ土地。否、水の恵みにあふれた潤いの地には、『水の乙女』と呼ばれる存在がいた。
水の女神ウルにより神聖な力を与えられた彼女らは、水を操り、制し、不思議な現象を起こしもする。いわば、神の代理とも崇められる乙女だ。その力に応じて彼女らは、白、銀、虹と色の名称で呼び分けられている。後者になるほど力が強く、人数も少なくなる。ヒュドールの民ならば誰もが知る話だが、さすがに国外まで行けば詳しい実情は伝わりにくい。それでも、おそらくは大陸全土の民が知るであろう事実が二つある。
一つ目は、『虹の乙女』、つまりヒュドールの『水の乙女』の頂点に立つ絶対的存在は、その名の通り美しく長い虹色の髪を持っている、ということ。そして二つ目は、水を操る以外に、『虹の乙女』だけに与えられた特別な力があること。特にこの二つ目の理由で、ヒュドールはここまで強大な王国となった。
だが、当代の『虹の乙女』がまだ齢十六の少女でしかないという事実を知る者は、そう多くないだろう。奇跡の力を手にしたために、彼女がこれから恐ろしい運命に巻き込まれていくことも――。
*
その夜は、やけに蒸し暑かった。
何度も寝返りを打ち、ようやく寝付いた夜半過ぎ、イーリスは小さな悲鳴と共に目を覚ました。喉が渇いていたのか、声はかすれて形にならず、そこが見知った自身の寝室で、今まで見ていたのが夢だとわかってほっとする。が、安堵は長続きはしなかった。周囲に何か、焦げ臭い匂いが漂っていたのだ。薄紫の双眸を見開き、イーリスは起き上がった。大きな寝台の上で、枕元の鈴を鳴らす。が、いつもと違って侍女は来ず、動揺は大きくなった。
「アナ、ドーラ! 誰もいないの?」
声を上げても変わりはない。夜着代わりの薄い内衣に、仕方なく自分で外衣をさっと巻きつけ、おぼつかない手つきで革のサンダルを履く。白銀の長い髪をそのまま垂らしているのは、常と同じだ。まっすぐな流れは差し込む月光を受け、きらきらと虹色に輝く。世にも美しい光彩だが、当のイーリスがそれを愛でることはなく、そんな余裕もなかった。
寝室を出て回廊へ、流れる水の模様が彫刻された円柱の間を駆けながら、足は震え、鼓動は速まる。ただでさえ日に焼けぬ白い肌で、顔色は蒼白になっていた。それもそのはず、漂う強烈な異臭も黒い煙も、先ほどまで見ていた夢と同じだったからだ。
息を弾ませ、煙に咳き込み、ついに中庭へ出ても、侍女はおろか護衛兵の姿もない。確実な異常事態、それすらも夢と一致していた。無人の、白亜の宮で、確かに赤い火の手が上がっていたのだ。儀式の間の外壁が、ごうごうと燃える不吉な色に覆われようとしている。黒煙は増し、声を上げることもできずにイーリスは立ち尽くした。
(ああ……どうしよう、やはりあれはウルの『託宣』だったのだわ!)
イーリスは昔――そう、物心付いた時から、女神ウルの『声』を聞くことができた。これから起こる未来を、近い遠いとにかかわらず、教えてもらえたのだ。
幻聴のように囁かれる『声』は成長と共に『映像』にもなり、『夢』としても訪れた。水に触れている時や、水の近くにいる時に、いつとも知れずそれは起こった。些細なことから国の重要な情報、どんなものでもイーリスは国王に報告した。それが自分の役目であり、ヒュドールを守るために大事なことだからだ。
けれど、ここ数日見ていた夢だけは、まだ報告していなかった。
「まさか……『水宣宮』が燃えるなんて……!」
呆然と呟いて、それが自分の本心だったことに気づく。そうだ、信じたくなかったのだ。この水の王国ヒュドールの、しかも『水の乙女』たちが暮らし、重要な儀式が行われる宮。いたるところに水路が張り巡らされ、いわば水の守護下にある聖域で、よもや火事が起ころうとは。それが防げないという皮肉な事実も、どこかで現実味を感じていなかった。ウルが自分に与える『託宣』が外れたことなんて、今までなかったというのに。
突如、凄まじい音を立ててオリーブの木が倒れた。火が燃え移り、根元から裂けたのだ。連鎖するように隣、また隣の木まで燃え始め、ついにイーリスは悲鳴を上げた。
「そう、水よ……早く、消さなければ」
衝撃に動かなかった思考が、ようやく働いた。なぜ思いつかなかったのかと自分を責めながら、庭を流れる水路に走った。水さえあれば、火など怖くはない。そう思ったのも束の間、イーリスを更に大きな衝撃が襲った。縦横に走る水路のどこにも、庭の中央の噴水にさえも、一滴の水もなく乾いていたのだ。
「どうして……!? 何が、どうなっているの……」
がくがくと震える体をついにもてあまし、イーリスは回廊にくずおれてしまった。
「誰か……っ! 誰かいないの?」
何度呼んでも答えはなく、静まり返った宮はただ不気味に燃えていく。逃げなければ、と立ち上がりかけた時のことだった。
目前に、ここではないどこかの光景が広がったのである。まさに恐怖の只中で、女神が再び与えた『託宣』だった。水に触れてもいないのに与えられるそれは、より緊急性が高いことを示すもの。幻視の中にいたのは、イーリス自身だった。 どこかわからぬ場所で、イーリスは今よりも切迫した表情をしている。なぜかはわからない。視えない。でも、ひどく苦しげに、辛そうに、顔をゆがめている。その口元が何かを叫んだ、次の瞬間。
「……っ!」
思わず目を閉じていた。それでもわかる。幻視の光景で、イーリスは誰かの剣に刺され、血を流していたのだ。あまりのことに呼吸が不安定になり、震えはひどくなった。
(何、何なの……!? 私は、誰かに殺される――?)
無人の宮。夢と同じ火事。唯一の頼みの綱である優しい水はここになく、無情に過ぎる『託宣』はふっと掻き消えた。
呆然としている間に火の勢いは強まり、もう止められないほどに猛攻を振るっている。また、木が倒れた。ゴオオオオ、という巨大な生き物の咆哮にも似た音を立て、壁が崩れ落ち、煙が周囲を包んだ。咳が止まらない。恐怖で足が動かない。
「誰か……誰か……!」
助けて――!
心の底から強く願った、その時だった。
この状況にそぐわない、淡々とした低い声が背後から聞こえた。
「おい、そこの女。生きてるか?」
すぐさま振り向いたイーリスが目にしたのは、自身と異なる褐色の肌をした青年。二十代前半くらいだろうか。砂漠の民特有の日除け布を頭部に巻き、長身の体に簡素な旅装を着込んでいる。
(異民族――!)
純粋なヒュドール人ではない人間を間近で見たのは初めてだった。が、今は驚いている場合ではない。
「あ、あの……」
「俺はナジム。見たまんま、あんたらの嫌う異民族の商人だ。ついでに言うと、水と引き換えに東方の珍しい織物や香辛料なんかを買ってもらって帰るとこなんだが、どうにもこの王宮は広すぎる。通用門から出るつもりが、気づけばこんな奥まで迷い込んじまったらしい」
イーリスが訊ねる前からすらすらと説明してくれた青年――ナジムはそう言って肩をすくめ、唇の端にのせていた笑みをすっと消した。若く精悍な風貌が、それだけでひどく冷たい印象に変わった。
「あんた、『水の乙女』――いや、『虹の乙女』だろ」
突如切り込むように断定され、イーリスはおそるおそる頷く。この髪色ですぐにわかる事実だからだ。いきなり長身の背をかがめ、覗き込もうとされて身を引くと、ナジムは苦笑する。
「そんなに怯えなくても別に取って食いやしないさ。ただ、本当に髪が虹色に光って見えるんだなと思っただけだ」
確かに今、自身の長くまっすぐな白銀の髪は七色にきらめいている。火事の火を反射して照り映えているだけではなく、イーリスの感情が乱れているからでもあった。声を出せないでいるイーリスの反応に気づいたように、ナジムはかがめていた背を伸ばした。隙のない端正な顔に何の感情も浮かべず、こちらを見下ろす。
「バルバロイな上にこの目だ。怯えるのも無理はないか」
水の女神ウルの加護を受けない、異民族。ヒュドールの民にとって、尊い水に恵まれた自分たち以外は皆そう呼び、区別する対象だ。が、イーリスが驚いていたのはそういう恐怖からではなかった。彼女が目を奪われていたのはナジムの瞳――右が薄い水色、左が濃い琥珀色をした双眸だった。このような色違いの瞳をした人間が稀にいるのだと侍女に聞いたことはあったが、当然目にするのは初めてだったから。
「まあいいや。それより、いつまでそうやって腰抜かしてるつもりだ? あんたもあいつらの仲間に入りたいってんなら話は別だが」
どうでもよさげに顎で指し示された先に倒れた兵の姿を見つけ、イーリスは蒼白になった。列柱の影になって気づかなかったのだ。
「ど、どうして兵が……これは一体」
何が起こっているのかもわからぬまま、イーリスはまたも悲鳴を上げた。火の勢いが強まり、轟音と共に外壁の一部が崩れ落ちたのだ。巻き上がる粉塵の中、燃え盛る赤黒く不気味な炎が命を持った化け物のように見えてくる。
「で?」
咄嗟に身を寄せたイーリスに、ナジムは再び問いかける。この状況に全く動じていないばかりか、楽しんでさえいるような薄い微笑を浮かべたまま。
「助かりたいのか、死にたいのか。どっちでもいいから早く決めてくれ。答えがないなら後者とみなして置いていく」
あくまでもどうでもよさげな言葉と所作。その間にも火はどんどんイーリスに近づいてくる。立ち上る煙と匂い、異常な熱。迫り来る恐怖が、イーリスの脳裏に新たな声を運んだ。
――逃げよ、と。
それが『託宣』だと確信した瞬間、イーリスは手を伸ばした。一瞬の躊躇の後、差し出されていた褐色の手のひらをしっかりと掴み、告げる。
「お願い、私を連れて逃げて――!」と。
握ったところから、手が――全身が熱くなる。ああ、ウルが確証を与えている。確かに自分は正しい選択をしたのだ。そう思った途端、はりつめていた緊張が解けたように体が傾ぐ。
「了解、虹の乙女。あとで文句付けるなよ?」
強い腕に抱きとめられ、そんな楽しげな声が耳元に囁かれたような気がした時には、イーリスの意識は深い混濁の中へ飲み込まれていったのだった。
*
きらきらと、透明な水に太陽の光が反射している。
それは十六年間イーリスが慣れ親しみ、愛してきた光景であり、日常だった。
ヒュドール王国、王宮。広大な施設の中央、国王陛下の住まわれる水麗宮と対になるように建てられた白亜の優美な宮――水宣宮の最奥、イーリスのための浴室に、今日も彼女はいた。毎朝の日課である、沐浴のためだ。
敷き詰められた大理石に素足をのせると、ひやりと心地が良い。だがその心地よさは、たっぷりと湛えられた水の中へ肩まで沈めた時の感覚には勝てなかった。
生まれたままの姿となったイーリスの体を包み込む、優しく豊かな水。それはイーリスの皮膚だけでなく、体の奥底――心の中にまで染みこみ、満たしていく。まるで幼子が母に抱かれるように、穏やかで温かな感覚がイーリスを安心させてくれた。
(ああ、今日も女神ウルが私を祝福してくれている)
そう確信し、うっとりとしたイーリスはしかし、次の瞬間に日常とは異なる感覚を覚えた。ひたひたと肌に触れていた優しい水の冷たさが、より強くなる。
まるで凍えそうなほどに冷たい。いや、熱いのだ、と気づいたイーリスが息を呑むと、浴槽にあふれていた水は突如として掻き消え、ごうごうと立ち上る炎に変わっている。悲鳴を上げようにも喉は渇ききって声も出せず、手も足も、全身にまでどす黒い炎が巻きつき、燃え上がる。それなのに焦がすことはなく、ただ熱と恐怖だけがイーリスを縛り付けた。そして、気づく。赤く燃え盛る炎は、よく見ると自身の長い髪から上がっているのだ。きらめく虹色は赤に染まることなく、炎の中で輝く。
その色彩が恐ろしく思えたのは、初めてのことだった。炎と共に絡みつき、イーリスを縛り付ける虹色の髪。巻きつき、締め付け、次第にイーリスの息吹までも止めようとする。最後の刹那、澄んだ声が自分を呼んだ。
――逃げよ、逃げよ、我が水の乙女よ。
火を避け、水の流れるままに。
駆けよ、駆けよ。
虹の涙が、金の雨を降らせるまで――
(ああ、助けて……誰か、誰か――!)
見えたのは二つの異なる色を持つ瞳。褐色の手のひら。
自分に向かって伸ばされたその手を、イーリスは必死で掴む。硬く握り締めたその時、炎も何もかもが消え、イーリスは瞼を開いた。
「気がついたか?」
目覚めたイーリスは、いきなり視界に飛び込んだ褐色の男の顔と、左右色の違う瞳に息を呑んだ。先ほど、炎の中に現れ、自分を救ってくれた相手。それがたった今まで見ていた夢の話だけではなく、現実でもそうだったことをぼんやりと思い出す。
「ここは……?」
鈍く痛む頭を押さえながら起きあがり、布を張っただけの簡素な天幕に自分が寝かされていたことを知る。布の隙間から明るい日差しが差し込んでいた。
「火事は? 水宣宮はどうなったのでしょうか」
はっとして訊ねると、ナジムは昨夜と同じように肩をすくめて微笑んだ。
「ここは俺たち商人の休息所。火事はあの後すぐ消し止められ、水宣宮は無事だって話だ」
「よかった……!」
張り詰めていた全身に安堵が行き渡る。両手を合わせて大きく息を吐き出してから、あわてて姿勢を正し、ナジムに微笑みかけた。
「本当に危ないところを助けて下さってありがとうございました。それで、私をいつ水宣宮へ帰してくださるのでしょう?」
外衣を整えつつ訊ねたイーリスに、ナジムは軽く声を立てて笑う。
「帰してくださる? 話が違うな。ゆうべ、確かにあんたは、自分を連れて逃げてくれと言ったはずだ」
巻かれた日除け布の下から、色違いの瞳が悠然とイーリスを見つめ返す。同時に記憶は蘇った。
(そうだわ、あの時また『託宣』があって――)
女神ウルの強い意思に、半ば朦朧とした状態で従ったのだ。それを再度暗示するかのような先ほどの夢を思い出し、ぞくりと背中に寒気が走る。
火事は消し止められた。ならば、逃げよという託宣には従えたと見るべきだろうか。それとも、逃げるのは自身の命の危機から――?
もう一つの恐ろしい『託宣』について考えていたイーリスは、ナジムの訝しげな視線に我に返った。ともかく今は戻って、やはり国王陛下の指示を仰ぐのが賢明だろう。その上で、自分の保護を願うのだ。そう結論付けると少し落ち着いて、ナジムに微笑み返すことができた。
「ごめんなさい。あの時はそうしなければと思ってしまって……でも、もう平気ですから。私がいなくなって皆が心配しているでしょうし、早く戻って朝の務めをしないと」
「朝の務め?」
「ええ。その日受けた託宣を国王陛下に伝えたり、各地の水量を安定させるために祈りを捧げたり……そうだわ! 時計――水時計を動かさなければ。あの、申し訳ないのですが私を先に広場に連れて行ってくださいませんか」
「広場、ねえ」
いちいち繰り返してみせるナジムの口調は、なぜか少し意地の悪いものに思えた。異民族であるから知らないのだと気づき、イーリスは立ち上がる。
「そうです。あの、王宮前の広場にある大きな水時計……ご覧になりませんでした?」
遠慮がちに言って、窓代わりに切り込みの入っている部分の布をめくりあげた。
ヒュドール王国、王都ホーラー。そのまま『時計』という意味を持つ豊かな都が誇る賑やかな広場の中心には、優美な噴水型の水時計がある。それを見下ろすようにそびえる水の女神ウルの巨像を目印に指し示すつもりだった。
「あら……?」
広場をぐるりと取り囲む市場の裏手に、旅人の宿や商人の休息所があると聞いていた。どこからでも女神像が見え、水時計のある位置を知ることができるように設計されたはず、なのに――。
「ここは……ここは、一体どこなのでしょう……?」
しばし呆然と目の前に広がる乾いた光景――見渡す限りの広大な砂漠を眺めていたイーリスが、消え入るような声で訊ねる。
「ああ、思い出した。あの、六つに分かれた水路のそれぞれから、一時ごとに時を告げる水が流れるとかいう壮大な時計だろう。あれは確かに圧巻だったな。まさしく奇跡の水の王国ヒュドールの栄光を象徴する神秘だった。へえ、あれを動かしてたのはあんただったのか。他の乙女にはできない仕事なのか?」
「え? いいえ、託宣を受け、伝えること以外なら他の乙女にもできますけれど」
イーリスの問いには答えず逆に聞き返されて、不思議に思いながらも事実を告げる。時を告げる水に女神ウルの祝福を注ぐ象徴的な役目をこなしているだけで、実際に水時計を動かすために水を操ることはイーリスの下に十名いる『銀の乙女』が担当しているからだった。他に、水宣宮や王宮内に張り巡らされた水路を管理したり、各地の水量を点検したりする『白の乙女』も二十余名は存在するが、そこまで答える前に、ナジムが満足げに幾度か頷き返した。
「なるほど。じゃあ、あんたがいなくなってもすぐには困らないってわけだ」
「ええ、すぐには……って、それはどういう……?」
「こういう意味だ。清楚で美しく、穢れを知らない『虹の乙女』さん?」
片頬を引き上げ、ナジムがすらりと抜き放ったのは、腰の革帯に差してあったらしい短剣。湾曲した、三日月の形をした刃がイーリスの喉元に突きつけられる。
「これからあんたは俺の『商品』だ。依頼主のもとに無事送り届けるまで、よろしく頼むぜ? 世間知らずの『水の乙女』」
息を呑んだイーリスの虹色の髪を刃先でもてあそび、そう告げたナジムの色違いの双眸は、刃と同じくらい冷たく無機質な光を湛えていた。
*
メルハリ砂漠は、世界で一番面積が広い砂漠だ。
乾いた砂、という古い言葉で名付けられた通り、極度の乾燥地帯に延々と続く細かく黄色い砂の海である。
その北端に位置する、奇跡の水の王国ヒュドール――の守護を離れ、いよいよ砂の迷宮に踏み入る直前。旅人を送り出すヒュドール最後の休息地であるイーアオマイで、旅の商人ナジムは笑っていた。あくまで表情には出さず、心中でほくそ笑んでいたのだ。
(やった。これは思ったよりも楽な仕事だったな)
内心そう快哉を叫びつつ、ラクダの背に水や食料などの荷をてきぱきとくくりつけていく。早朝の空気は澄んでいて、昼間は容赦なく照りつける太陽も、まだ穏やかに雲間に顔を見せているだけだった。吹き抜けていく風が乾ききっていないのは、いくつもある井戸と張り巡らされた細い水路のおかげだろうか。王都のホーラーとは段違いの水量ではあっても干上がってしまわないのは、あくまでもヒュドールの国土であるからなのか。国土としてはせいぜい中規模程度の国であるヒュドールが、砂漠地帯の他の大国と肩を並べ、追い抜くほどの権勢で栄華を極めている理由はそこにあるのだろう。
周囲には粗末な布のはためく天幕が立ち並び、同じように出発の準備をする旅人が大勢いる。石造りの立派な宿屋に泊まれなかった者か、あえて泊まらなかった者なのか、一見しただけではわからない。だが、ナジムは後者だった。
なんといっても、かの有名な『水の乙女』を連れているのだ。人目を避けるためにも、わざと粗末な天幕を選んだ。その中で座り込んだままの少女をちらりと見やる。
「……心ここにあらず、ってとこか? ま、当然だろうな」
意地の悪い笑みを浮かべ独りごちたナジムは、つい先ほどの光景を思い起こす。
元々細腕の女一人、何も暴れられることを恐れていたわけでも何でもない。騒ぎ立てるなら剣の柄で殴るなりなんなりして、黙らせてやってもいいと物騒なことまで考えていたナジムだが、予想に反して少女は何も反論してこなかった。
刃を突きつけただけで大人しくなってしまった少女の、神秘的な薄紫色の瞳は驚愕と恐怖に満ちていた。『水の乙女』と崇められ守られ、清らかに暮らしてきたのだろう彼女の、おそらくは初めての衝撃だったはずだ。
少女は今も呆然と膝を抱え、どことも知れぬ空中を見つめている。
一瞬どう声をかけるか考えかけたナジムだったが、下ろしてあった日差し避けの薄布越しにまできらめいた虹色の光に気づき、顔をしかめた。
「おい」
いきなり布を上げて戻ってきたナジムに、少女の細い肩がびくりと震える。構わずに奥へ行けと手で示すと、少女は怯えた顔で従い、また腰を下ろした。すぐに布を戻し、更に遮光の効く厚めの垂れ布も引き、外から中が見えないようにする。
「あの……」
必死で搾り出したような声。ナジムが振り向くと、すぐに少女は顔を伏せた。構わずにナジムは息を深く吸い込んだ。
「さっき言った通り、めでたく俺の『商品』となったあんたがこれから向かう先は、クルハ・サクル王国だ。というわけで俺とあんたは今日からメルハリ砂漠をおよそ十日かけて横断することになる」
一気に言ってのけ、挑戦的に少女を見つめる。が、薄紫の双眸は見開かれたままで、言葉はなかった。
(あまりのことに言葉も出ない、か? いきなり北端から南端の異国へ売り飛ばされるんだからそれも当然だろうな)
一国の頂点に立つにも等しい聖女が衝撃に陥る様は、ナジムにとってどこか爽快と言ってもよい光景だった。ふふん、と鼻で笑い、続く指示を与えることにする。
「後ろ向けよ」
「え?」
「いいから後ろだ、早く」
短く指示し、半ば強引に従わせた少女の背後に、ナジムもどかりと腰を下ろす。
「そんなにびくびくしなくても髪を編むだけだ。その色は目立つからな」
淡々と説明すると、少女はまだ困惑の残る表情で頷き、前を向く。華奢な背に流れるまっすぐな長髪は、毎日綺麗に洗われ、丁寧に櫛を入れられてきたことが一目でわかる艶やかなものだ。光の反射に応じて、美しく虹色にきらめく白銀の髪。神秘の力を秘めた乙女の、まさに聖なる色彩――。
一瞬でも触れるのをためらった自分に小さく苦笑し、ナジムはわざと乱暴に髪をすくいあげた。そのまま、さっさと編みこんでいく。後ろで一つの束となった髪を更にくるくると巻き、動かぬように革紐で縛る。
出来に満足したナジムが次に取り出したのは、褐色の塗り粉だった。砂漠の民の女性が使う化粧品を更に濃くしてある。これも、今回の計画のために用意してあったものだ。
「これを手や顔に塗るんだ」
結われた髪の塊を不思議そうに触っていた少女は、ナジムの指示に幾度か瞬きをした。不服げにではなく、ただ意味がよくわかっていない表情だ。
砂漠地帯でも最北に位置するヒュドールは、南方とは日差しのきつさも暑さも異なる。そこから更に北に向かった土地に暮らす人々と似た、白い肌色と淡い髪や瞳の色が特徴である。対して南方や砂漠に暮らす民は、褐色の肌に黒や茶色といった濃い髪と瞳を持つ。怪しまれないためにこうして少女の肌色をごまかす必要があるのだが、わざわざそこまで説明してやらないとわからないのだろうか。
(って、子供でもすぐにわかる理屈だろうが。面倒くせえなまったく)
苛立ったナジムは、さっさと少女の手を取り上げる。
「……こうやるんだ」
指に付けた塗り粉を少女の手の甲にのせ、伸ばして見せてやった。ああ、と納得した顔をしつつも自分で動こうとはしない少女に、ナジムはため息を吐き出した。
「じっとしてろよ」
ほとんど命令形のナジムの指示にも気を悪くした様子はない。言うとおり動かず、少女はただ唖然と自身の白い肌がみるみるまに褐色に塗られていく過程を見守っていた。
「目、閉じて」
最後に残った瞼に塗る時さえも、大人しくされるがまま。長い睫さえも時折虹色にきらめくのを見て、ナジムは手を速めた。全く警戒していないように見えても、もしかしたら妙な力を使う可能性もないわけではないからだ。
しかし全ての作業を終えても、少女は何一つ怪しい動きも見せず、抵抗さえしなかった。やたらと豊富に水路の引かれたヒュドール国内を早く抜けようと、夜通しラクダに乗せて連れてきた時と同じくらいナジムは拍子抜けする。
昨夜は気を失ったまま眠り込んでいたからまだしも、意識があってもこの状態では。
(水を操る聖女だとか言うから、どれほどのものかと思ったが――)
一瞬脳裏で嘲笑いかけ、そのほうが好都合だと思い直した。何だっていい。仕事が楽に済むのならば。
王都ホーラーはイーアオマイのある国境からそう遠くないからよかったが、ここから先の行程は本格的な砂漠の旅だ。怯えてくれているのなら、そのままでいてくれたほうが楽だ。主導権が誰にあるのか、脅さずともわかってくれるに越したことはない。
勝手に結論付け、ナジムは少女に冷たい眼差しを向けた。
「それにヒジャーブとアバヤでとりあえずはごまかせるだろう。その上質な布の服が見えないように被って、汗で落ちた塗り粉はこまめに塗りなおせばいい」
無愛想に突きつけられた黒い布一式とナジムとを、少女は困ったように交互に見やる。長い外套を今まで着ていた外衣のようにひだをつけて巻きつけてみようとしたり、うまく行かずに覆い布で縛りつけようとしたり。彼女の空しい奮闘に、ナジムは二度目のため息をついた。仕方なく奪い取ったヒジャーブを頭に、アバヤを体に着せかけてやる。
そうだ、この『世間知らず』が着方を知るはずがない。面倒でも仕事のうちだとあきらめ、手と足の先以外は完全に覆い隠した。全ては無事に『商品』を客に届けるため、それだけだ。
「あの……」
完璧に変装させた少女の瞳が、いつのまにかナジムを見上げていた。ついに文句でも言う気になったかと視線を合わせると、一瞬怯えたように瞳を伏せ、やっと決意したようにもう一度顔を上げる。
「あなたは、とても器用な方なのですね」
突然の予想外の言葉に、ナジムは耳を疑った。何かの嫌味かと思ったが、少女の薄紫の双眸は真摯な光を湛えている。
「私の髪を編むのも、こうして衣服を整えるのも、あっという間にこなしてしまわれたものですから」
「……そりゃ、こういう商売してると色々早くできなきゃ困るからな。あんたみたいな高位の人間はそうじゃないだろうが」
勝手なナジムの行動を責めもしない上に、妙な褒め方をされて落ち着かず、思わず嫌味が口を突いて出た。むっとした顔でもするかと思えば、少女は恥ずかしそうに俯いて答える。
「そうですね……いつも侍女が身の回りの世話をしてくれますし、普段の役目以外は一人で何かをすることなんてなくて」
「はあ、まあ――そうだろうな」
冷めた返答の後は、また沈黙が戻ってくる。しばらくして、少女は再び意を決したように口を開いた。
「あの……」
そのままもじもじと組み合わせたり離したりしている両手が、よく見たら小さく震えている。どうやら怯えて聞きたいことを聞けないでいるらしいと気づいたナジムは、荷物の準備を終えたラクダを顎で指し示した。
「悪いが、すぐ出発する。あんたが理不尽だと思う気持ちもお怒りもわかるし同情はする。でも、そもそも連れて逃げろと先に頼んだのはあんたのほうだよな? 俺はその指示に従った上で、自分の仕事も果たしてるだけだ。恨むんならこんな奴と出会っちまった自分の不運を恨むんだな」
あくまで最初に望んだのは相手方であり、自分はそれに従った。だからすべての責任はお前にある――一種のこじつけだ。あくどいと言われようが何だろうが、面倒な商談を有利に進めるために使える論法は使う。これがナジムのやり方であり、昨夜少女に非常識な質問をした理由でもあった。あの危機的状況で、わざわざ冷酷に見捨てるようなことを言われ、置いていかれることを望む人間など皆無だと知っていながら。
少女が手を取ったあの瞬間、ナジムの勝利が決まったのだ。
どうだ、と開き直って腕組みまでして見下ろした。のだが――、今までびくびくしながら俯いていた少女は、ナジムが言い終えるなりあわてたように顔を上げたのだ。
「そんな、恨むなんてとんでもない……! あなたに感謝はしても恨むなどという恩知らずな振る舞いは決していたしませんわ!」
(か、感謝? 恩知らず、だと――?)
さすがのナジムも呆気に取られ、中途半端に口を開けたまま固まってしまう。その表情で何やら不可思議な早合点をしたのか、更に少女の意味不明な弁明は続いた。
「ええと、ずっと考えていたのですけれど……あなたはゆうべ私がしたお願いをすぐに聞いて下さった。そうなのでしょう? 善意で迅速に対処して下さったのに私が宮に帰してくれなどと正反対のお願いをまたしたので、ご気分を害されてしまったのですよね。いくらそれが最善策だと考え直したからとはいえ、申し訳ないことをしてしまったと私反省して……」
「え」
「それで今、ようやく決心が付いたところなのです。女神ウルがあれほど切迫した状況で緊急の託宣を与えたのですから、やはり従うべきだったのですわ。他の乙女たちや陛下には迷惑をかけてしまうことになりますけれど、まずは託宣通りに無事逃げおおせることも、『虹の乙女』としての私の義務でもあると――」
「いや、いやいやいやいや、ちょい待て。待ってくれ」
「はい?」
右手を上げて止めると、少女は小首を傾げる。変装してはいても、とてもそんじょそこらの普通の娘には見えない純粋なまなざしだった。ナジムはもう片方の手で額を押さえつつ、思考を整理する。が、すぐにその試みを放棄した。
「あんたが何を言ってるのかさっぱり理解できないんだが、俺、ちゃんとヒュドール語を喋ってるよな?」
砂漠地帯の言葉はどれも似てはいるが、各国や地域で多少の差異はある。それも全て完璧に習得し、使いこなしているのが『商人』としてのナジムの売りなのだが。
そんなことか、とでもいうようにニッコリと少女は頷いた。
「ええ、とても流暢に話していらっしゃいますわ。ああ、それもあって本当に器用な方なのだと私感心していたんですの」
「感心……自分を無理やり脅して連れ去るような男に?」
「脅して?」
「何で訊ね返すんだそこで。剣突きつけて脅して、王宮へ戻せと言ってるのを連れてきただろうが」
「ああ……あれは脅していらっしゃったのですか!?」
「だから何で今頃驚いてんだって」
何とも言えない顔で答えるナジムを、少女は困惑顔で見上げている。しばらくして、それがものすごくすまなそうな表情に変わった。
「そんなに怒らせてしまったのですね……私、何とお詫びを申し上げたらよいのか」
「はあ?」
何なんだこいつは。一体どういう思考回路をしてやがるんだ。
ぐるぐると回り続けるナジムのそんな疑問に気づきもしない様子で、少女は一人納得したように続ける。
「それでもこうして私を連れて逃げて下さるのですから、あなたは本当にいい人ですわ。もう準備も済まされたことですし、この際私も迷いは捨てます。さあ、早く逃げましょう、ヒュドールの追っ手が来る前に!」
「…………」
もう沈黙しか出てこなかった。世にも珍妙な生き物を発見したような気分だ。
口を開けて呆然としているナジムの手を両手で包むようにし、少女は微笑む。
「それで、ええと何という国に行くのでしたっけ?」
「……クルハ・サクルだが」
何とも言えない顔で答えてしまう。しっかりと頷いた少女の手の温かさに、振りほどくのも忘れていた。ナジムの答えに少女はにっこり微笑む。
「ああ、そうでしたわね。こんなに早く全ての手配を済まされるなんて、あなたは本当に有能な商人さんですわ。さすがは女神ウルが選んだ方……どうぞ今日から、よろしくお願いいたします!」
ひゅううう、と乾ききった風が細かい砂を巻き上げて二人の間を吹きすさんでいく。かなり長い間面食らったままでいたナジムが我に返るまで、少女はずっと手を握ったままだった。