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深い深い海の底から



 お伽話の人魚は、果たして幸せになれたのだろうか。


 なぜ、人魚姫だけが不幸だったのか。

 愛する人を殺せず、自らの命を絶ち、それでも幸せだったと言えるのだろうか。


 小さい頃から、お伽噺なんてみんな幸せになるものだと思ってた。


 継母やお姉さんたちにいじめられてた可哀想なあの子だって、最終的に王子と結ばれた。

 悪い魔女に毒リンゴを食べさせられたあの子だって、眠りから覚めて、幸せになった。

 狼に食べられたあの子も、狩人さんに助けられて、死なずにすんだ。

 塔の上に住んでいた長い髪が綺麗なあの子も、茨の城に閉じこめられて、永遠に眠るはずだったあの子さえ幸せになれたのに…


 ねぇ、どうして人魚姫だけは幸せになれなかったのかな…





 空は快晴。

 気温38℃の真夏の暑さ。

 水温27℃。

 波の高さ、やや高め。

 さらに、ビーチからだいぶ離れているので、周りには人っ子一人いない。

 遠い昔のあの日のように、真夏の太陽がギラギラと照り付ける。


 そんな中、私は、海面に軽く顔を出して空気を吸って沈んで、吸うの繰り返し。

 この海にはいないと思ってたのに、最悪だ。

 まさか自分と同じ名前の奴に足を刺されるとは…

 刺された左足が痺れていて、上手く動かせない。

 右足をばたつかせ、両手で水を搔く。

 元水泳部が何やってるんだろう。本当、情けない。

 私、どとろき 海月みづきは、よりによって自分と同じ名前の海月クラゲに足をやられた。

 しかも、こんな海のど真ん中で。

 波が高くて、空気を吸おうと思っても海水が先に口の中に入ってくる。

 これでは、死んでしまう…

 大学の夏休みに地元に帰省した私には、助けてくれるような友達もいない。

 と言うか、そもそも一人で海に来ていること自体がアウトだった。

 ふと思う。

 今なら死んでしまえるかもしれない…と。

 この青い海の中で…

 ばたつかせていた足の動きをゆっくりと止める。

 そのまま、ゆっくりと瞼を閉じた。


 疲れたな…


 やわらかな水が頬を覆いはじめる感覚の中、私の頭の中に過ぎったのは苦しい過去。



 安定した日々、幸せな生活から、一気に地獄に突き落とされた。

 精神的な病によって、父は会社を退職。母は家計を支えるために遅くまで仕事。

 病のせいなのか今まで温厚だった父の性格は荒れ、姉との喧嘩が耐えなかった。

 些細なことで揉めて、酷いときには父が姉に手をあげた。

 私は、怒鳴り声が絶えない日々から逃れようとした。

 妹なりに家族を宥めようと、必死に笑った。悲しみの外側で笑うことでしか、自分を守ることなんてできなかったんだ。

 隣の部屋から怒鳴り声が聞こえる度、その声をかき消すように、ヘッドホンで耳を押さえつけた。

 聴こえないふりをすることで、自分の心がこれ以上傷つかないようにした。

 けれども、学校ではそんなこと考えなくていいから、苦しかった呼吸を普通にすることができた。

 でも、やっぱり、周りの人が家族の幸せな日々を語るときだけは、胸が苦しくて、嫉妬ばかりしてた。

 そうして、誰も気づかない心の闇が大きくなる度、私は自分を殺して笑った。

 本当は、苦しかった。

 誰でもいいから気づいてって…

 この状況から救ってよって…

 夜になると、不安は夜の闇のようにどんどん大きくなる。不安が抑えきれなくなると、息を潜めて泣いて、時には薬を処方された睡眠薬を多く飲んだ。

 悪夢ばかりを見て、夜も眠れなくて、薬を飲めば悪夢なんて見ないで済むんじゃないかって思ったから。

 そんな毎日を過ごしてきた私は、ただの弱い人間でいつも殻に閉じ篭ってばかりだった。

 だから、この人生に幕を閉じたとしても、人間になんて生まれ変わりたくない。

 苦しみ、悲しむことしか出来ないような人間には、もう二度と…

 もし、生まれ変わるなら……私は…


 私は、海になりたい。


 そう、どこまでも自由で、蒼く、透明な海に。

 ねぇ……お伽話の人魚は海に身を投げ、儚い泡となり、消えていったのでしょう?

 人魚も同じ気持ちだったと思うの。

 こんな悲しいだけの世界には居たくないって…

 そう思ったのかもしれない。

 だから、愛する人を殺してまで人魚に戻ることを躊躇い、人間のままでいることも拒んだ。

 そうして、辿り着いた結果は、泡となり消え、海に還ること…

 それでも、人魚は心の奥では誰かに助けを求めていたはず。

 助けてって…

 苦しいままは嫌だって…

 誰にでもいいから手を差し伸べて欲しくて、自分の気持ちをわかって欲しくて…

 本当は、きっと泣いていたはずなんだ。

 ただ、水中だから涙が見えてないだけで、本当はたくさんの涙を流していたの。


 無意識の内に、私は上に向かって右手を伸ばしていた。

 誰も助けてくれるはずがないのに…

 こんな状況でも助けてくれる人なんて、たぶん、人魚くらいだ。

 そう思っていると、水中の歪んだ視界に、すぅーっと光が差し込んだ。


 あれは…何?


 死に際に見えた明るい光が、あたたかくて、眩しくて…

 思わず、手を伸ばしてしまった。

 掴むことのできなかった明るい未来が、すぐそこにあるように感じられた。

 その瞬間、私の右手が、ぎゅっと握られる。

 はっと目を見開いた。

 目の前にいたのは、人魚なんかじゃない。


 あなたは……



 忘れかけていた昔の記憶。

 今日みたいな真夏の出来事が一気に蘇る。

 

 3年前の夏。

 まだ、私が高校2年生だった時だ。

 その頃、私は水泳部に所属していて、強化合宿の最終日に海で自由時間を過ごしていた。

 2年生の春に突然転向してきた私は、クラスの人とも部活仲間とも上手く打ち解けあえずにいた。

 そんな中、海の中で溺れていたあなたに出逢った。

 あの日の私は、ある意味では運が良かったのかもしれない。



 私は海で溺れたあなたを助けようとしていた。

 沈んだと見られる海面から、呼吸を整えて肺に酸素を吸い込み、勢い良く潜る。

 海水の中、目を開けると、あなたがいた。

 どこまでも蒼い蒼い海の中に、苦しみに歪んでいるあなたが。

 

 死なないで…


 手を伸ばして、彼の手を掴もうとする。

 けれども、掴めない。

 あともう少しなのに届かない…

 焦りと不安で押しつぶされそうだ。

 酸素がだんだんと失われ、苦しい。

 見えない手で首を絞められているような苦しさだ。

 それでも手を伸ばした。

 助けなきゃいけないって思ったから。

 彼を助けることが、自分の使命のように感じられたから。

 深い深い海底に、彼が沈んでいくのが耐えらない。

 

 これ以上、離れていかないで…


 心の中で叫んだ。

 息苦しさを我慢して、さらに潜る。

 冷たい手をぎゅっと掴むと、残った力を振り絞って、一気に海面に上がる。

     

 「…っ、げほっ…!!げほっ」 

 

 海面まであがると彼は水を吐き出していた。

 私は、思いっきり息を吸った。

 首を絞めていたものが、すっと離れていったかのように感じた。


 「大丈夫ですか?しっかりして!」


 声をかけると、私の声に応えるように頷いた。

 意識はあるようだが、泳げるような状態ではなかった。

 抱えながら、浜辺に向かって泳いだ。

 とりあえず、生きていて良かった…

 ほっと安堵のため息を吐いた。

 合宿の疲労でなかなか身体が動かないけれど、とにかく泳ぐ。

 そうして、人気のない浜へ辿り着いた。

 よろよろと危なげな足取りの彼を支える。

 そのままゆっくりと横に寝かす。

 安堵感から、どっと疲れが出た。

 それと同時に、あともう少しで自分も溺れてたのかもしれないと思うと身震いした。

 はっとして腕時計を見ると、時刻は午後5時。

 自由時間は4時半までと決められていたはずだ。

 また、みんなに迷惑を掛けてしまった。

 急がないと……


 「すみません。私、急がなきゃいけないんです」

 

 砂浜に膝をついて声をかけると、こくんと頷いた。

 こんな状況の彼を放置するなんて出来ないけれど、今はそうするしかなかった。

 

 「あの、私よりも年上の方だと思うんですけど、必ず準備体操はしてくださいね。

 もし、またこんな事があっても、次は助けませんよ。

 それじゃあ…」


 と、言って、立ち上がると、ぐっと腕を引っ張られた。

 

 「何ですか?」


 少し不機嫌そうに後ろを振り向いた。

 低い声で尋ねると、彼は何かを言っている様子だった。

 けれども、声にならない声は私には届かなかった。


 「本当に時間がないんです。ごめんなさい」


 彼の手を振り払い、私は駆け出した。 



 ”あぁ、やっぱり、あの時の…”


 記憶がはっきりと蘇ると同時に、眩しい太陽の光が私を照らした。

 

 「……っ!げほ、げほっ…」

 

 「大丈夫だから、しっかり呼吸して」

 

 そう言って、やわらかく微笑んでいる顔が、あの日の彼なのだと実感させられる。

 けれども、普通に泳いでたこの人が、あの溺れていた人だなんて信じられなかった。

 「もう助けない」だなんてひどい言葉を言った私を…

 死のうとまでしていた私を…

 どうして、そんなにも必死に助けてくれたの?


 ねぇ、どうして…?

 ……ねぇ、答えてよ。


 声にならない言葉のもどかしさ。

 あの日、私に何かを伝えようとしていたあなたも、同じもどかしさを抱えていたのでしょうか。




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