もしかして、パパかな? 後編
「パパ、呼んだ?」
頭も体もびしょ濡れのままの伊吹が、フローリングの床に足跡をつけながら走り込んできた。
ソファーに腰掛けている貢の真ん前に濡れた全裸で立つ。貢は思わず顔の前にある伊吹の股間に怒鳴った。
「イブくん、二学期の成績はオール2だったそうじゃないか。君は何しに学校に通っているんだ。きっと勉強もしないで遊んでばっかりいるんだろ!」
伊吹のオOOOンがぴょこんと跳ねた。
「ちゃんと勉強してるもん! 勉強がわかんないだけだもん!」
「パパはいつも言っているでしょ。しっかり勉強していい大学へ行かなきゃだめだって」
「大学、行くもん。勉強、はじめたもん」
また伊吹のオOOOンがぴょこんと跳ねる。
「パパはね、私立の一流大学だったけど、それじゃ足りないんだよ。現実はもっと厳しくてたいへんなんだよ」
貢は家族と離れて一人で頑張っているストレスからか、涙ぐみそうになって続けた。
「パパが原子力発電所の建設現場の所長をやっているのはイブくん知っているよね?」
伊吹はオ○○○ンをぴょんぴょんと動かして返事をした。
「パパはこれでも一流大学だけど、新卒で入ってくるのは東大卒ばっかりで、その若い連中の親父くらいの年齢の同僚が、東大卒の若いのに頭をさげて指示を仰いでいるんだよ。経験も年期もずっと積んでいるのに東大卒というだけで上司になって顎で命令しているんだ。イブくん、これが現実なんだよ。イブくんも東大目指さなけりゃだめなんだ」
伊吹のオ○○○ンが力なくうなだれた。それを見た貢もうなだれる。貢の声は次第に小さくなっていき、最後には伊吹のぴょこんと跳ねたオ○○○ンにべそをかいた。
「イブくん、体拭いて、パジャマを着ようか?」
「うん、パパ」
伊吹はすっとんで風呂場に戻って行った。
万作は無言で貢のコップにビールをついだ。
「万作くん、僕は心配だ。いや、親として無力感を覚える」
万作はビールをついでやることしかできなかった。
その夜は、久しぶりに帰ってきた貢を囲んで、インドへ行ってしまった三子を除いた全員で賑やかに夕食をとった。
笑いさざめく家族の笑顔や底抜けに明るい笑い声は貢の疲れを癒し、枯れかけていた潤いを満たした。
日本海にある建設現場で重責に耐えて頑張っている貢の苦労を家族は知らない。時に寂しくて妻や子供たちを思って眠れないときもある。仕事が順調に進まなくてトラブル続きの時など本当に苦しい。しかし、それも家族のため、生活のためだと思って我慢する。
定年まで、原発建設の予定はびっしり埋まっていて、一生を原発の建設に関わっていく仕事だ。定年はまだ先だが定年を迎えたら、家族の元に戻ってきて、家族と旅行に行ったり、趣味の時間を取ったりするのを楽しみにしている。
妻には家庭のことをすべて任せてしまっているが、きっと大変だろうと思う。困った時や辛いときにそばに居てやれないのが申し訳ない。
勧められるままにビールを飲んですっかり酔ってしまった貢は、ちょっとセンチになって一子や二子に笑われた。
万作は少し見ない間にますます男らしくしっかりしてきているし、一子と二子は男親の目から見ても愛らしい娘だと思う。
伊吹は問題だ。
この子はバカではないと思いたいのだが、やはりバカかもしれないと思ってしまう自分が許せない。
そしてキツ子に太郎に花子。
どうしてここにいるのか未だにわからない貢だが、一緒になって笑い合っていると家族のような気持ちになってくるから不思議だ。
貢は幸せな気持ちで食事を終え、ゆっくり風呂に浸かった。
万作が改装した風呂は広くてミストサウナがあってジャグジーがあってテレビがある。
贅沢な気分でゆっくり疲れを癒したあと、入れ替わりに風呂に向かった宝子が、風呂をすませて出てくるのをリビングで待った。
家の中は寝静まり、明かりがついているのはリビングだけだ。しんとした静けさの中にコップの中の氷が動いて鈴のような音色をたてる。
廊下の向こうの風呂場から、お湯を使う気配を聞きながら、家に帰ってきたという実感を覚えた。
夫婦のスキンシップを指折り数えて待っていた貢は、しだいにそわそわしだした。やがて宝子がパジャマ姿で戻ってきた。肌はつるつるで頬はピンクに染まり、昔とちっとも変わっていない美しさに照れてしまう。
貢が用意しておいた氷水を喉をならして飲み干す宝子に見とれながら「先に休んでいるよ。宝子さんも早くね」と甘く声をかけて、いそいそと二階の寝室に向かった。
明かりの消えた夫婦の寝室には布団が三組敷いてあった。
なんで三人分の布団が敷いてあるの?
あまりに意外な状況に貢が混乱していると、一番奥の布団でタオルケットがごそりと動いた。
「えっ、うそ――」
エアコンが静かに作動する室内に寝ていたのはキツ子だった。
「なんで――なんで、よそのばあさんが寝ているんだ。ここは夫婦の寝室だろが」
宝子さん! と叫んで貢は階段をかけ降りた。
キッチンでコップをしまっていた宝子が振り向く。
「どうしたの、貢さん」
「どうしたのじゃなくて、なんで二階にばあさんが寝ているの?」
「あら、いつもそうだからよ」
のほほんと宝子が言う。
「いつもって、きょうはいつもと違うでしょ! 僕がお盆休みで帰ってきてるんだよ? 僕は、あんなばあさんんと一緒に寝たくないよ。追い出してよ」
「まあ、貢さんったら。ずいぶん冷たいことを言うのね。追い出すなら貢さんが追い出せばいいでしょ。わたしにはできないわ」
ぷいっと横を向いてしまった宝子に貢は肩をふるわせた。
「きみは、僕と他人のばあさんと、どっちが大切なの」
宝子がキッと貢を睨んだ。
「なんて姑息な選択を迫るのかしら。男らしくないわ。おばあちゃまが居たっていいじゃありませんか。一生ここに居着く訳じゃないんですから。夏休みの間だけよ」
「僕は一週間しか家にいられないんだよ? 貴重な一週間を、ばあさんに邪魔されたらたまんないよ。それだけじゃない。あのばあさんの孫たちまでだ。なんだい、ここは。いつから託児所と託老所になったんだ。これじゃ休めないよ。自分の家じゃないみたいだ!」
怒りにまかせて貢は廊下の突き当たりにある伊吹と万作の部屋へ向かった。
廊下であっけにとられている宝子を無視して息子たちのドアを開ける。とたんに別世界に来たような感覚におそわれた。
ほの暗い室内にかすかにエアコンの作動音がする。そして、室内に染み込んでいる子供独特の甘い匂いがした。
懐かしい、心を落ち着かせる匂いに貢は胸を突かれた。あんなに苛立っていた神経が瞬く間に静まっていく。
伊吹と万作の机が仲良く並んでいる。二人の本棚はそれぞれの個性を表していて、収納されている本が違う。
万作の机や私物はきちんと整理されているが、伊吹のおもちゃや、作りかけのプラモデルは大型テレビの前に散乱している。
ローテーブルにはうず高く問題集が積まれていて、やりかけのページには消しゴムのかすがたくさん散らばっていた。
伊吹の苦戦のあとが見える問題集に貢は笑みがこぼれた。
大きなベッドには万作、伊吹、太郎、花子が、万作を中心に眠っていた。
伊吹は万作の胸に顔を乗せて万作の腹の上に足を乗せ、セミが大木に取り付くようにして眠っている。
太郎と花子は伊吹の反対側の万作の脇の下で子犬のように丸くなっていた。
伊吹の足が乗っていて苦しいだろうと思って伊吹を万作からはがし、そっと髪を撫でてみる。
無心に眠っている伊吹のあどけない顔を長い間眺めてから、貢は押入から肌掛けを出してテレビの前のがらくたをどけると、そこに横たわって目を閉じた。
子供たちの静かな寝息に誘われるように、貢はたちまち眠りの舟に身をゆだね たのだった。
もしかして、パパかな? 完