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イヴの妄想  作者: 深瀬静流
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もしかして、パパかな?   前編

 万作は勉強ばかりでなくボーリング、ポーカー、チェス、将棋、囲碁、書道、茶道、柔道、剣道、乗馬、水泳、ヨット、テニス、スキー、ゴルフ、ソシアルダンスと、社交に関してどんな人物とでも交際できるようにとの親からの命令で、特別にコーチや先生をつけて教育を受けていた。だから、その忙しさは一般の高校生の比ではなく、特に夏休みは父親の付き合いに同行させられることが多かった。

 父親の福沢金作が都合で行けない場合は万作が代理で行くこともしばしばだった。

 伊吹の勉強を見てやらなければいけないのに、こうも留守が多いと家庭教師を雇うのもやむおえないのではないかと考えながら、鈴木の運転する車の後部シートで考え込んでいた。

 先週は父親の金作が、クルージングに仕事関係の友人の子息や令嬢を招待したので、万作は鈴木の運転で油壺のヨットハーバーまで出かけていき、湘南沖のクルージングに付き合わされた。

 その夜は磯子のプリンスホテルで一泊してクルージングのメンバーとその親たちと金作、そして国会議員で少子化対策担当大臣をしている母のとみも遅れてかけつけ、ちょっとしたパーティーが開かれて、少しずつ金作の世界に引きずり込まれていくのを実感していた。

 ヨットの上では動きやすいカジュアルウエアでも、パーティーの席ではオーダーメイドのセミフォーマルを着用する。万作は身長が190センチと高いうえ、よく鍛えられた体つきと大人びた雰囲気のため、とても高校2年生には見えない。ちらほらと縁談の話が金作のところに持ち込まれているらしいが、金作が何も言ってこないので万作も無視している。

 金作が万作の縁談を持ち込まれてもさりげなくかわしているのには訳があった。万作には生まれた時から親同士で決められた許嫁がいたのだ。

 そのことを万作は子供の頃に聞かされていたが真剣に考えたことはなかった。

 名前は“花屋敷のばら”という。

 親同士が勝手に決めた許嫁は、中学の頃からスイスの全寮制の学校に入っていて一度も会ったことがないかわりに、毎年成長記録とでもいうのだろうか、分厚いファイルとプロによるDVD画像が送られてくる。

 万作の成長記録も同じように相手方に送られているが、万作は花屋敷のばらの資料はここ何年も見たことがなくて、福沢の屋敷に置きっぱなしになっている。

 万作の中ではとうの昔に失念している許嫁の存在だが、福沢の家の自分の部屋の書類棚には、うず高く花屋敷のばらの航空便が開封されずに押し込まれていた。

 腕時計を見ると、あと5分ほどで車は相田家に着く。今週は金作のお供で泊まりがけで千葉のカントリークラブのゴルフコースを回ってきての帰りだった。時刻は夕方の6時を回ったくらいで、さきほどオレンジ色の残照のかけらが西のビルの隙間に没してうっすらと星が一つ二つ見えだしていた。

 そういえば、きのう一子が水族館に伊吹をつれていくと言っていたがどうしただろうか、と万作は眉をひそめた。

 万作のいないときに伊吹を絶対に水族館や動物園や遊園地には連れていくなと言ってあるのだが、一子は伊吹と、妊娠中のペコに会いに行くと言っていた。

 なにをしでかすかわからない伊吹は、壊れた時限爆弾みたいなもので危なくてしょうがない。そんなことをつらつら考えているうちに相田家の前に車が着いた。

 ゴルフセットは車のトランクにいれたまま、着替えの荷物だけ取って車を降りる。車はそのまま隣の福沢邸の門の中に吸い込まれていった。

 相田家の門扉をあけて狭い庭を突っ切りドアを開けると、夕飯の支度のいい匂いがしていた。

 靴を脱ごうとして万作は動きを止めた。

 たいして広くもない玄関の真ん中に、両手に大荷物をもった貢が、でくの坊のように突っ立ていた。一八〇センチの長身の細身の背中がかすかにふるえている。

 万作はいぶかしげに声をかけた。

「お帰りなさい、貢さん。どうかしたんですか」

 貢は振り向きもせず言葉だけ返してきた。

「ただいま、万作くん。ここ、僕の家だよね」

「なにを言ってるんですか。あがりましょうよ」

 そう言って貢の背中を押そうとしたとき、風呂場から全身水を滴らせた裸の太郎が飛び出してきて、廊下を走ってリビングに飛び込み、大きな声で宝子にアイスキャンデーをねだる声がした。太郎がアイスを持って廊下に出てきて風呂場に戻っていく。

「あ、あれ、なに?」

 貢がつぶやいた。

「あれは太郎ですよ」

 すると、再び風呂場のドアが開く音がして、ぬれネズミのような裸の花子がリビングに駆け込んだ。アイスキャンデーを手にして廊下を水浸しにしながら風呂場に戻っていく花子に、貢はわなわな震えだした。

「万作くん、いまのは何」

「いまのは花子ですよ」

「い、い、いつのまに宝子さんは、二人も子供を産んでいたんだ」

「いや、それは」

 万作が言いかけると、またもや風呂場のドアが開いて頭の水をまき散らしながら腰に小さなタオルを巻いただけの伊吹が血相を変えて飛び出してきてリビングに消えた。

「ママ! ぼくにもアイスちょうだい! ぼくはお兄ちゃんだからアイスは二つだからね!」

 貢は真っ青になった。

「イブくんがお兄ちゃん!」

 両手にアイスを持った伊吹が廊下に走り出てきて風呂場に向かった。

「イブくん!」

 悲痛な貢の声に伊吹が足を止めて振り向いた。まじまじと貢を見つめて微動だにしない。

「イブくん、ただいま!」

 祈るような、あるいは縋るような声を振り絞る貢を見つめる伊吹の手から、溶けたアイスが滴り落ちる。

 伊吹はおもむろに両手のアイスを二ついっぺんに口の中に入れた。

「イブくん? 僕のこと――もしかして、忘れちゃったかな?」

 伊吹は口からアイスを出して首を傾げた。

「もしかして、パパかな?」

 伊吹の腰に巻いていたタオルがはらりと落ちた。貢は声を失って伊吹の股間を穴のあくほど見つめた。

「イブくんの、ちっさいね。ちっとも大きくなってないんだね」

 つぶやいた貢の声は万作にしか届かなかった。

 雑巾を持ったキツ子が出てきて伊吹に気づいた。

「伊吹ちゃん、はやくお風呂に入っておいで。もうすくご飯だよ」

「うん、バーバ」

 伊吹は落ちたタオルをそのままにして風呂場にかけ戻っていった。

 キツ子が濡れた廊下を雑巾で拭き始める。

「万作ちゃん、お帰り。こちらさんはどなたさんかね」

「ぼ、僕は、相田貢です。そう言うあなたこそ、どこのどなたですか」

 貢の表情がだんだん険しくなっていった。

「おや、伊吹ちゃんのパパさんですか。お帰りなさい、疲れたでしょう。電車は混んでいましたか。荷物はこれだけ? さあさあ、入って入って。宝子さん! 旦那様のお帰りですよ」

 世慣れたキツ子に腕を取らんばかりに招き入れられていたわられると、うっかり老いた母親にいたわられているような錯覚を覚える。貢は怒っていいのか怒鳴っていいのか訳が分からなくなった。

リビングに行くと、キッチンの宝子が振り向いて笑顔をみせた。

「お帰りなさい貢さん。賑やかで驚いたでしょ。一子ちゃんの会社の上司の勢実課長のお母さんとお子さんたちが泊まりにきているのよ。水族館でご一緒してお友達になったの」

「一子ちゃんの会社の上司の家族が泊まりにって――」

 万作は貢から荷物を取って部屋の隅に置くと、まだ呆然としている貢の背中を押してソファーに座らせた。

 キツ子が冷えたビールを冷蔵庫から出して貢にコップを握らせ並々と注ぐ。

「とにかく、一杯どうぞ。のどが渇いたでしょう」

「あ、どうもすみません」

「宝子さん、旦那様の酒の肴をお出しして」

「はーい、おばあちゃま」

 宝子が冷蔵庫からだしたタコのカルパッチョをキツ子が受け取り、貢の前に置く。流れるような連係プレーだ。箸置きに黒の漆塗りの男箸をおいてカルパッチョを勧める。隣に座ったキツ子は貢に団扇で軽く風を送りながら世間話を始めた。

「だんなさんはお若いけど、お年はおくつですか」

「四十八歳です」

「一子ちゃんが二十四歳だから、だんなさんが二十四歳の時の子ですね。ずいぶん早く所帯を持ったんですね」

「ええ、そうですね。僕が大学を卒業して会社に入って半年後に結婚しました。宝子さんの高校卒業に合わせたんです」

「できちゃった結婚?」

「違いますよ。結婚してから一子ちゃんができたんです。順番は合ってますよ」

「年子で女の子三人ですか。育てるの、大変だったでしょ」

「ええ、まあね。でも、かわいくて夢中で育てましたね」

「伊吹ちゃんが生まれたときはどうでした」

「天使が舞い降りたみたいでしたよ。かわいくてかわいくて嬉しくて泣きましたね」

 昔を思い出したのか、貢は夢見るように目を閉じた。

「でも、伊吹ちゃんは頭が悪いよねぇ。今度の成績、オール2でしたよ」

 パッキーンと貢の目があいた。

「オール2だと! イブくん! ここへ来なさい。今すぐ風呂から上がってパパのところに来てここに正座しなさい!」

 貢の手の中のコップが揺れてビールがこぼれそうになった。キッチンのテーブルで冷たい麦茶を飲んでキツ子と貢を眺めていた万作は、ドキリとした。

貢は単身赴任で家を留守にしている分、帰ってきたときの家族に対する愛情と責任が、不在の分だけ肥大化する。

 特に、一人息子の伊吹への期待は大きく、かわいい分だけ厳しくなる。

 貢の怒りで赤くなった顔に、キツ子はそろそろと下がってキッチンに消えた。シンクで包丁を使っている宝子の隣に身を寄せて囁く。

「余計なことをいってしまったよ」

「大丈夫ですよ、おばあちゃま。イブちゃんにかなうひとは万作さん以外にこの家にはいませんから」

 宝子はにこやかにこたえた。

「そうなのかい?」

「見ててごらんなさい」

 そう言い終わらないうちに風呂場のドアが開く音がして廊下にどたばた足音がした。



             後編に続く

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