ハジメちゃんなんかキライだもん
今朝も朝早くから近くの公園の蝉が暑苦しく鳴いていた。最近の蝉は夜になっても鳴いている。住宅や街路灯の灯りでまだ夕方だと勘違いするらしい。
暑苦しいが、七年間も土の中で眠っていて、やっと地上に出てこれた幸運を思うと、とりあえずよかったねと言ってやりたくなる。コンクリートで覆われたり、ビルが建って出てこれなかったりと、七年のうちにはどんなアクシデンにみまわれるかわからないからだ。
しかし、都会の蝉の運命など今の伊吹にはどうでもいい。
エアコンを利かせた部屋のテーブルで、伊吹と太郎と花子と万作が、それぞれノートや問題集や夏休みの宿題とにらめっこしていた。
「イブちゃん、ここ、おしえて」
小学校一年生の太郎が夏休みの宿題帳を伊吹に差し出す。
「どれどれ、これはね――」
伊吹は算数の足し算を両手の指を折りながら解いていく。
「こうやって指で数えながらやると簡単なんだよ」
伊吹は偉そうに言った。
「指が足りなくなったらどうするの?」
「ぼくの指を貸してやるよ」
万作はいらいらしたが我慢してやり取りを聞いている。
「イブちゃん、みてみて、花子、イブちゃんをかいたの」
花子は幼稚園の年長さんだから宿題はない。伊吹や太郎に混じって自分も勉強しているつもりでお絵かきをしていた。伊吹は花子の落書き帳を見て笑った。
「なんだこれ、人間の顔には見えないよ。へたくそだな花子」
花子がええーんと泣き出した。
「泣くことないだろ、ほんとのことなんだから」
伊吹がむっとして言うと更に花子の泣き声が大きくなった。太郎が大人びた目で伊吹を睨んだ。
「イブちゃんて、大人げないよね。子供はほめて育てるもんだよ。まして花子は幼稚園だよ。大人みたいにちゃんとした絵が描けるわけないでしょ」
「うっ、太郎に叱られるなんて、悔しい!」
伊吹はわーんと泣き出した。それに花子の甲高い泣き声が重なり、勉強にならない。
万作のいらいらが臨界点に達した。大声で怒鳴ろうとしたときドアがあいて、すらりとした青年が入ってきた。
赤茶に染めた髪は肩まで届き、ピアスとネックレスをしていて、黒のTシャツの胸の模様はきらきら光るスパンコールの豹の顔だ。
ジーンズは膝や腿のあたりがぼろぼろでなめらかな肌がちらちら見える。優しい顔つきの美しい青年は、にっこり笑みを浮かべて、猫科の動物を思わせるしなやかさで部屋の中に滑り込み、伊吹の後ろに回ってしゃがみこんだ。わんわん泣いている伊吹を後ろから抱きしめる。
「イブ、どうして泣いてるの」
伊吹の耳に息を吹き込むように囁く。万作がいやな顔をした。伊吹はぴたりと泣きやみ、ブルンと犬のように身震いして振り向いた。
「ハジメちゃん! 気持ち悪いことしないでよ」
乱暴に突き飛ばす。坂本肇は尻餅をついて笑った。
「イブ、その子供たち、なに?」
「座敷ワラシだよ」
「リビングにいたばあさんは?」
「地縛霊」
そっけない伊吹に肩をすくめて万作を振り向くと、万作も肩をすくめて自分のレポートにもどった。
肇はまた伊吹を後ろから抱き込んでテーブルを覗き込んだ。
「夏休みの宿題か。イブの成績、ひどかったんだってな。二子と三子が心配してたぞ。万作くんにあんまり世話をかけるなよ」
「うるさいな。ハジメちゃんに言われたくないよ。ぼくはハジメちゃんのこと、嫌いだもん」
――そうさ。
坂本肇なんか嫌いさ。
み子ちゃんの大学の同級生で、同じ建築科の学生なんだ。
歳もみ子ちゃんと同じ二十二歳で、来年卒業する。
ハジメちゃんはもともとみ子ちゃんのボーイフレンドで、この家にも何回か遊びにきていてに子ちゃんと知り合ったんだ――。
「だからイブ、三子とはふつうに友達なんだったら」
肇は過去、何回も言ったことを繰り返すが伊吹の目は宙に据わっている。
――二子ちゃんは、頭の先からつま先までティーンの女性ファッション雑誌みたいにカラフルな女の子で、ぼくのお姉ちゃんだけあってすごくかわいい。
み子ちゃんには悪いけど、に子ちゃんのほうがずっと女の子ぽくてパウダーシュガーみたいだ。
ほっそりしたに子ちゃんに比べるとみ子ちゃんは女の子のくせに建築家を目指すだけあって大工仕事や力仕事が大好きで、むかし庭に神社みたいな立派な犬小屋を造って、ぼくに「イブ、別荘を造ってやったからここに住め」って言ったことがあるくらい無神経で豪快な性格をしている。けど、それだからって、み子ちゃんからに子ちゃんに乗り換えるような軽薄な男は許せない。
男はぼくみたいに真実イチローで真心一本釣りで円谷瞳さんとの結婚を目指して日夜努力している男の中の男でないとだめなんだ。
に子ちゃんは一刻もはやくハジメちゃんと別れた方がいい。
どうせハジメちゃんは大学を卒業しても就職なんかしないで、に子ちゃんの稼ぎを当てにして遊んで暮らすつもりなんだ。
に子ちゃんは自分のデザインした服のショップを経営するのが夢なんだ。
だから頑張っているのに、ハジメちゃんはに子ちゃんの足を引っ張るだけだ――。
「あのさ、イブ。俺のうちは工務店なんだよ。ひらたくいえば、俺の親父は大工なの。したがって、俺も一級建築士の資格取って大工になるの。に子に食わせてもらわなくても俺が食わせてやれるの。きいてる?」
――ハジメちゃんは何かというとすぐうちに泊まろうとするからぼくは大変だよ。
ママはあのとおり来るものはいらっしゃいという人だから、ハジメちゃんが泊まるって言うといそいそとご飯の支度を始めちゃうけど、ぼくは婚前交渉なんて絶対認めないから、ハジメちゃんは、いつもぼくと万作の部屋に寝かせる。でも、に子ちゃんの部屋に夜這いに行かないか心配で見張っていようと思っても睡魔に負けて眠ってしまう――。
「ハジメさん、夏休みはバイトしないの」
万作が肇に声をかけると、伊吹を後ろから抱えたまま振り向いた。
「するよ、親父の手伝い。夏は暑くてしんどいんだけど親父もだんだん年のせいかへばってきてね。でも、俺、大工好きだから親父のあとを継ぐんだ」
「二子とはほんとに結婚するの」
「するよ。俺、二子のこと愛してるし」
「でも、若いでしょ、肇さん」
「べつに、いんじゃね? 食っていければ」
万作は頷いた。
「イブだけどさ、どうするのよ、この性格」
肇に心配されて万作も返す言葉がない。
「俺が引き取ってやろうか」
「引き取るって――」
万作はぎょっとした。肇は伊吹のすべすべしたほっぺたに自分の頬をすりすりしながら続けた。
「この家にいたらさ、みんなから可愛がられてばかりで治んないよ、この性格。甘ったれで意気地がなくて根気もなくて、自分の信念なんかなんにもないだろ。惰性で高校卒業して、その先どうするのよ。俺が面倒見てやるよ。大学を卒業したら二子と結婚して家庭を持つからさ、イブを引き取って、親父の工務店で働かせるよ。他人の飯を食えばイブでも大人になるだろう」
じっと話を聞いていた太郎と花子が伊吹に寄り添って伊吹の服を掴んだ。
「イブちゃんを持って行かれたらたいへんだ」
太郎がこそこそ花子に言えば花子も、「イブちゃんは花子たちのものだもんね」と、太郎と顔を見交わす。
しかし伊吹はすっかり自分の世界に入っていて妄想に浸りきっている。
万作は怒りを堪えて肇を睨み返した。
「伊吹には貢さんも宝子さんもいるし俺もついてるよ。あんたの世話にならなくても大丈夫だ。伊吹にだって取り柄はあるさ」
「へえ、どんな取り柄?」
万作はぐっと詰まった。そのとき、軽くノックの音がして三子が入ってきた。伊吹にへばりついて顔をすりすりしている肇に目をとめる。
「ハジメ、いたんだ。またイブを猫可愛がりしてるのか。いい加減離れろよ」
三子は肇の襟首を掴んで無造作に伊吹から引き剥がした。
「乱暴だな三子は。あれ? 出かけるの」
見ると三子は綿シャツにジーンズという軽装だが、お気に入りのキャップをかぶってサングラスをしている。
腕時計はGショックのダイバーウォッチで、手にはパスポートを持っていた。
「そう。これから成田」
「ほんとに送って行かなくていいのか。鈴木さんに車をださせるけど」
万作が立ったままの三子に言うと三子は手をひらひらさせた。
「いいのいいの。電車の方が早いから。それよりイブ! 姉ちゃん、これからインドに行ってくるからな。一ヶ月帰ってこないぞ」
伊吹はぴょんと立ち上がった。
「み子ちゃん、インドのお土産忘れないでね。ガンジス川でワニを捕まえてきて」
「あいかわらずバカだな。ガンジス川にワニはいないよ」
三子は笑いながら伊吹の頭を撫でると、万作に「イブのこと、たのむな」と言い置き、肇に手を振って出ていった。
「三子、インド?」
肇がきょとんとして万作を振り向く。
「インドの仏教建築を実際に見たいんだってさ。あれでなかなか勉強熱心なんだよ。もうすぐ貢ぐさんが帰ってくるから、顔を見せてから行けって言ったんだけどね」
ガンジス川のワニ、ガンジス川のワニ、と伊吹は口の中で繰り返しながら再び問題集に取りかかった。
夏休みは始まったばかり。
伊吹の前には問題集が山積みになっている。
すっかりやる気のなくなった万作の横で、伊吹はこつこつとシャーペンを走らせる。
「ガンジス川のワニ」の呟きは、いつの間にか「円谷瞳さん、スキスキ」という呟きに代わっていた。
――ハジメちゃんなんかキライだもん 完――