万作の説教は伊吹の根性に火をつける
連日三十二度を越える猛暑になって、早朝といえども気合いを入れないと目眩を起こしそうな暑さのなかを、高校生たちが元気に登校していく。
登校する道の街路樹はポプラ並木になっているので木陰は涼しくてありがたい。
真田や土方や夏目の真ん中にいる伊吹は、長身の影になってさらにしのぎやすい。三人はこの暑さだというのに涼しい顔で優雅に足を運んでいる。
真田はレイヤーウエーブの髪を手櫛で梳いていい感じに前髪をたらした知的なナンパ系のハンサムだし、土方は短髪のよく似合うきりりとしたいい男で左の耳にピアスを二つつけている。夏目はさらさらと涼やかな音が聞こえそうな美しい髪を風になびかせて、王子のように上品な顔を陽光にさらしている。
彼らのあとを、女子の集団が携帯のカメラをかざしながらついて来るが、円谷瞳と近藤勇子と三島由紀菜に阻まれてなかなかうまく写真が撮れないでうろうろしている。しかし、登校する男子達は円谷瞳たちの牽制対象外なので自由に真田たちに近ずくことができる。もちろん男子達が近づくのは真田、土方、夏目達の真ん中に納まっている相田伊吹だ。
真田たちを追い抜くときに手を伸ばして「おはよう、イブ」と言いながら伊吹の口に何かを突っ込んでいく。
「あ、イチゴ味のあめ玉だ」
伊吹は口の中で、誰が入れてくれたかわからないあめ玉を転がす。
「おはよう、イブ」
また誰かが何かを口に入れていく。
「あ、こんどはブドウキャンディーだ」
「おはよう、イブ」
「あ、コーラグミだ」
そうやって次々に追い越していく男子生徒が伊吹の口の中に食べられるものを入れていく。
真田も土方も夏目も機嫌よく朝の風物詩を見て笑っている。やがて伊吹の口の中は、あめ玉や、グミや、ガムや、乾燥梅干しや、年寄りの好きな昆布飴でいっぱいになる。
伊吹の目が苦しくて白目になっていくのを真田と土方と夏目があたたかく見守っている。
閉じることができなくなっている伊吹の口からよだれがだらだら流れてきても、追い越していく男子達は伊吹の口にものを入れるのをやめようとしない。みんな、そのために親からもらった少ないこずかいでお菓子を買ってくるのだから。
また誰かが伊吹の口に何かを強引に押し込んでいった。
もう口が閉じないどころか両頬はリスの餌袋のようにパンパンに膨らみ、口は広がるだけ開いて、押し込まれたあめ玉やグミやガムが丸見えになっている。
涎は垂れ放題、目は苦しくて白目になり、呼吸が妨げられて顔は真っ赤だ。
「もうそろそろ限界かな」
真田がおもしろそうに笑えば夏目も笑ってこたえる。
「まだまだでしょ」
「おまえら、いい加減にしろよ」
土方が、真田と夏目を睨んでぼそっと言った。
土方が真田と夏目を睨んでいる隙に誰かの手が伸びた。伊吹の口の中が一杯で入る隙間が無いのを見ると左の鼻の穴にズボッとあめ玉を突っ込んだ。
「うぐっぐ」
鼻を吹いてあめ玉を吹き飛ばす息もないのだろう、伊吹はくぐもった声を出した。土方が見かねて伊吹に手を伸ばした。
「よけいなことすんな」
その手を夏目が止めた。
誰かがその隙に伊吹の息をかろうじて繋いでいた右の鼻の中にあめ玉をねじ込んだ。
周りを取り囲んでいた生徒たちの集団がぴたりと足を止めて伊吹を見守った。無言の期待が集団の固まりから立ち上る。
完全に呼吸を妨げられた伊吹の顔色が紫色になってきて、吐き出したくても吐き出せない苦しさに体が硬直し始めた。
鼻水は垂れ、甘いよだれは口から壊れた蛇口のようにあふれて足下のコンクリートを濡らしている。
真田がその様子を見げらげら笑いだした。
ギャラリーは息を詰めて、笑っている真田と死人のように白くなりはじめた伊吹を交互に見つめた。
伊吹が笑い転げている真田に振り向いたとき、土方が力一杯伊吹の背中を叩いた。
「グゲボホガッ」
奇妙な声を上げて、伊吹は口の中の物を真田の顔面に勢いよく吐き出した。
「わぁー! きったねー」
真田がわめいて青くなった。顔と言わず頭と言わず胸元まで、伊吹の甘いよだれが降りかかり、飴だの、ガムだの、グミだの、干し梅干しだの、昆布飴だのがグチョグチョになって張り付いた。
「あははははー、きったねー。アリがたかりそー」
夏目が手を叩いて地面を蹴りながら笑い転げた。
「笑い事じゃねえだろ」
怒った真田がいきなり夏目にパンチを食らわせた。夏目が吹っ飛び、すぐさま体制を立て直して土方にもパンチを食らわせた。
「おまえがイブによけいなことをするからだろ」
「なんだと! 笑ったのは夏目だろうがよ。夏目、おい、こら」
そう言って土方は、真田に飛びかかろうとしていた夏目にパンチを浴びせた。
「なんで土方が俺を殴るんだよ、殴るなら真田を殴れよ」
「おまえが真田を笑うからだ」
「笑って悪いか、イブのよだれを顔面に浴びた真田のバカずらぐらいおもしろい見せ物はないだろが」
そう言って夏目は土方に殴りかかった。夏目はかなり怒っていて、本気パンチが土方の左頬に入った。
「クソッ、みんな真田のせいだぞ」
土方が赤くはれ出した頬をこすりながら真田の腹に足蹴りをくらわした。
「そうだ、真田が性悪だからだ」
夏目が殴られて血が出ている唇をさわりながら、真田を睨んだ。
「なんだと! 夏目こそ一番陰険なんじゃないかよ。イブがおたおたするびに笑ってるくせに」
真田も負けずに伊吹のよだれでベトベトの顔を怒りで赤くして言い返す。それからは三つどもえの乱戦に突入し、真田と土方と夏目の取っ組み合いの喧嘩になった。
とばっちりがこないうちにと男子生徒たちは慌てて校舎に入っていき、周りを取り囲んでいた追っかけの女子の集団だけが残る。
円谷瞳が、追っかけの女子たちに見せ付けるように真田に向かって黄色い声をあげた。
「キヤァー、真田さんカッコいいー、負けないでえ」
近藤勇子も負けずに声援を送る。
「土方殿、あとのことはこの近藤におまかせあれ。存分に戦いなされよ」
三島由紀菜がめがねのブリッジをあげて肩をそびやかした。
「ふん、能なしのゴリラたちが、夏目さんにかなうわけは無いのよ。策略、謀略、陰謀、どれをとっても夏目さんは一流なんだから」
円谷瞳と近藤勇子がじろりと三島由紀菜を睨みつけた。
伊吹は地面に散乱したお菓子を未練げに眺めていた。
「ぼくのおやつが……でも、だいじょうぶだよね、ふーふーすれば食べられる」
伊吹はにっこり笑うと地面に落ちたものに手を伸ばした。
「やめろー、イブ!」
どこかで万作の声がしたかと思うと体が持ち上げられて万作に抱き抱えられていた。
「イブ、拾い食いはだめだぞ。汚いからな」
「うん、じゃ、万札、かわりにチュして」
上目ずかいで目をパチパチさせて甘える伊吹に万作が怒りだした。
「そんな汚いよだれだらけの口にチュができるか」
真田と土方と夏目の動きが止まった。
「福沢とイブって、そういう関係だったのか?」
三人を代表して疑問を口にした真田に、土方と夏目が顔を見合わせた。
万作が「チュ」と言った途端、万作の親衛隊が過敏に反応して、いつもより激しい勢いで万作の腕の中から伊吹を放り捨てると、万作を拉致して昇降口に消えていった。
その様子を後ろの方で伺っていた保藻田と芸田と釜田の三人が走り出てきて、伊吹を取り囲んだ。
「イブちゃん、俺がチュしてあげるよ」
保藻田が勢い込んで言うと芸田も負けていない。
「俺がお顔をペロペロしてきれいにしてやる」
「お止め、ホモにゲイ! イブちゃんはあたしがいい子いい子するんだから、あっちへお行き」
釜田がぎゅっと伊吹を抱きしめた。
「ずるいぞ、カマ。イブちゃんをこっちによこせ」
「ホモこそどさくさに紛れてるんじゃねえぞ、殴るぞ」
「なんだと、ゲイに言われて引っ込む俺だと思うのか、俺は極真空手二段だぞ」
保藻田が腰を落として構えれば、芸田もスクールバッグからぬんちゃくを出して奇声をあげながら華麗なぬんちゃく捌きを見せた。
「極真空手がなんだよ笑わせるな。俺の少林寺は中国仕込みなんだよ。後悔するなよ」
極真空手と少林寺が対峙する。
釜田はハンカチをつばで濡らしてせっせと伊吹のベトベトの顔を拭いてやっていた。
「きれいきれいしましょうね。イブちゃんはおりこうさんねー」
「うっ、ぐ、ぐ、臭い、釜田のツバ、臭すぎる。臭いいー」
伊吹は、おえぇぇえええっとえずいて吐きそうになった。
校舎から予鈴のチャイムが長閑に聞こえてきた。真田と土方と夏目が釜田から伊吹を奪って一目散に昇降口を駆けあがっていった。
円谷瞳も近藤勇子も三島由紀菜も後に続く。
あしたから夏休み。
抜けるような青空に真っ白い雲が一つ、眩しく輝いていた。
万作はリビングのロングソファーの真ん中に陣取って腕組みしながらうんうん唸っていた。ソファーの前のテーブルには伊吹の一学期の成績表が広げてある。
夕食もすんで宝子はキッチンで後片づけの洗い物をしている。一子と三子も会社や大学から帰っており、食後のスイカをダイニングテーブルで黙々と食べていた。
その横では、帰ってきたばかりの二子が一人で夕食を食べている。
宝子も一子も二子も三子も、万作の様子をこそこそうかがっていて落ち着きがない。伊吹は大型画面のテレビの真ん前で「世界の衝撃映像一万と三十発」という番組を、目を皿のようにして見てる。口をあけたままかじりかけのスイカを噛むのも忘れて、赤い汁が口からこぼれているのにも気がつかない。宝子が伊吹の首に巻いてくれていたタオルが真っ赤になっている。万作は大きなため息をつくと自分の両膝をバシッと叩いた。
その音の大きさに女たちがビクッとした。
「イブ、こっちに来い。話がある」
万作に呼ばれた伊吹は生返事をしただけでテレビに釘付けだ。
「伊吹!」
万作はリモコンでテレビのスイッチを切った。
「なんだよ万札、勝手に切るなよ。見てたんだぞ!」
「いいから、こっちに来い」
「やだ」
伊吹は手動でテレビのスイッチを入れた。
すかさず万作がリモコンで切る。
「伊吹、自分の成績表をちゃんと見たのか」
「見たよ」
「5段階の2ばっかりだぞ。オール2だ。アヒルだアヒル」
「それがどうしたんだよ、今にはじまったことじゃないだろ」
「おまえは、えばっているのか?」
伊吹は万作に言われて渋々万作の前のソファーに腰掛けた。
「ぼくにお説教するのか?」
頬を膨らませて反抗的に睨んでくる伊吹に、万作は困ったように眉毛を掻いた。
「あのなイブ。おまえ、高校を出たらどうするつもりなんだ」
「どうって、まだわかんないよ。だって二年になったばっかだもん」
伊吹は手にしていたスイカをテーブルに置いて首のタオルで口を拭った。
「二年になったばっかじゃないだろ。夏休みが終わったら二学期だぞ。じきに冬休みになって三学期だ。そうしたら三年になるんだぞ。高校の先の進路は二つに分かれるんだ。就職と進学だ。おまえはどう考えているんだ」
「三年の三学期に考える」
「それじゃ遅いんだよ。就職なら親父のコネでどうにでもなるが、進学となるとこの成績じゃ無理だ。俺も甘かったよ。もっと真剣におまえのことを考えてやるべきだった」
「進学が無理なら就職するよ。それでいいじゃん」
「しかし、貢≪みつぐ≫さんはおまえに大学に行ってほしいと思っているんだぞ」
「パパか……生きてるのかな。もう、顔も忘れちゃったよ」
宝子と一子と二子と三子の背中に、じとーと汗が流れた。
「貢さんは盆休みには帰ってくるよ。そのときにもこの話はでると思うぞ。で、どうなんだ。大学、行きたくないのか」
「うーん、万札はアメリカかイギリスかロシアか北朝鮮に留学しちゃうんでしょ? で、真田も土方も夏目も大学行くでしょ? 円谷瞳さんはどうするんだろ。ぼく、円谷瞳さんと一緒のところにする」
「そうか。じゃ、円谷さんが大学に行くなら伊吹も大学に行くんだな?」
「うん! 行く行く。円谷瞳さんと一緒に大学に行く」
伊吹の目が輝きだした。
不純な動機だ。
こんな単純な動機でいいのかと思ったが、万作はぐっと飲み込んだ。
「じゃ、勉強しような伊吹」
「勉強はいや、きらい、かわりに万札がして」
「円谷さんと一緒の大学に行くんだろ? 円谷さんは真田の行く大学に行くつもりだぞ。真田は優秀だ。国公立を狙っている。つまり、イブも国公立を狙うということだ」
宝子と一子と二子と三子が絶望的なため息をついた。
「ぼく、円谷瞳さんと一緒の大学に行くために勉強する。ぼくは円谷瞳さんがスキ。憧れちゃう。だから頑張ってみる」
伊吹はあっけらかんと笑った。
「じゃ、夏休みはこれまでの基本を総ざらいしよう。あした本屋に問題集を買いに行こうな。おれが勉強を教えてやるから頑張るんだぞ」
「わかった。夏休みは勉強する。そして円谷瞳さんと一緒の大学に行って恋人になるんだ」
――そうだとも。
どうしてもっと早くそこに気がつかなかったのだろう。
その頃にはぼくの身長だって156センチを脱して180センチくらいにはなっているはずだ。
ぼくは家族から天使のようにかわいいって言われているくらいだから、大学生になったらもっと大人びて男らしい、逞しい、カッコいい男になっていることだろう。
今は保藻田や芸田や釜田みたいな風変わりな男たちしか寄って来ないけど、大学生になったぼくの周りは女の子で溢れかえって、円谷瞳さんだってぼくのこと無視できなくなるはずだ。
ぼくは女の子に取り巻かれて王子様みたいにちやほやされても、鼻にかけたり自惚れたりしないから人間的にも相田伊吹さんてすばらしいという評価を得る。
でもぼくはどんなにモテても、円谷瞳さん一筋で、円谷瞳さん一直線で愛情を貫くんだ。
そんなぼくに感動して、円谷瞳さんとぼくは愛しあうようになって婚約して、卒業したらすぐに結婚しようと約束するんだ。
ぼくの未来はバラ色だ。
真田がじゃまだけど、ぼくの成長した大学生姿をみたら真田だって霞んじゃうさ。
大丈夫。
めざせ大学!
めざせ円谷瞳さん! ――。
伊吹はテーブルの上のスイカに指を突っ込んで種をほじくり出しながら恍惚と妄想に浸った。万作は、じゃませずに伊吹の妄想が終了するのを我慢強く待っている。
宝子や一子や二子や三子は、伊吹の妄想が始まった時点で緊張が解れ、万作の説教が思ったよりも寛大だったことにほっとして笑いあった。もっと万作ががみがみ叱り飛ばすと思っていたのだ。
伊吹の成績の悪さには頭を痛めていたが、さりとて当人が全く気にしていないのだからどうしょうもない。
先のことなんかなにも考えていない伊吹だが、確実に年は取るし、人生の猶予期間の終了は刻々と迫っているわけで、やがて伊吹も社会に出ていかなければならない。
親なら先のことを心配するのは当然だが、万作がここまで伊吹を気にかけてくれるのかとおもうと胸が一杯になる。
宝子は友達以上の友達をもった伊吹を幸せものだと心から思った。
しかし万作のほうはというと、スイカの種をほじくることに熱中するあまり、ずぶずぶ指で突きまくってスイカを汁だらけにしてしまっている伊吹の間抜けな顔を見ながら、さて、どこまでさかのぼって勉強を教えたらいいのかと唸っていた。
ゆうべ、夏休みは勉強すると約束したくせに、朝から寝坊を決め込んで起きようとしない伊吹に、万作は早くもキレかかっていた。
「起きろイブ。もう10時だぞ。いつまで寝ているんだ、目が溶けるぞ」
ベッドの枕元に立って怒鳴った。
パジャマがめくれて腹を出して大の字になって眠っている伊吹の腰を軽く足で蹴飛ばすと、伊吹の体がころころと転がる。
「きょうから夏休みだろ。もっと寝かせろ」
転がりながら文句だけは一人前だ。
「きょうは本屋に問題集を買いに行くと約束しただろ。誰のための勉強だと思っているんだ。みんな円谷さんのためだろ。円谷さんの行く大学におまえも行かなかったら、円谷さんは真田に乗り換えて、おまえとの結婚をやめちゃうんだぞ。それでもいいのか。円谷さんと結婚できなくなってもいいんだな」
姑息な騙しかただと思わないでもないが、単純な伊吹は飛び起きた。
「つ、円谷瞳さんとけ、結婚。そうだ。ぼくは一途に円谷さんを愛し、大学まで追いかけて結婚する予定だった。万札、問題集を買いに行こう。こうしちゃいられない。勉強しなくちゃ」
いつまで円谷瞳をエサにして伊吹を引っ張れるかわからないが、万作は伊吹をその気にさせるなら円谷瞳だろうが真田だろうが、何でも利用するつもりだった。まともな理屈が通用する伊吹ではないことは、相田家の誰よりも理解している。
貢が盆休みで帰ってくるまでに、伊吹に勉強の習慣を身につけさせたかった。
伊吹の成績は万作にはショックだった。こんなに頭が悪かったのかと愕然とする一方で、将来は福沢コンツェルンの中枢で執務するための学力を万作自身が身につけることに追われ、伊吹の成績のことなどまったく注意を払わなかった責任を感じていた。
貢の留守を預かっているというのに、伊吹の成績の悪さは万作の自負にダメージを与えていた。
はたして大学受験までにそれなりの学力を取り戻せるだろうか。これは砂漠化したモンゴルの大平原を緑化するより難事業だぞと万作は思った。
いらいらと睨みつける万作の気も知らないで、伊吹は腹をぼりぼり掻きながら起きあがり、おおあくびをしながら洗面所に向かった。
リビングで賑やかな子供の声がするので覗いてみると、太郎と花子がキッチンで宝子にまつわりついていた。
「あれ、太郎と花子だ」
「あ、イブちゃん、起きた!」
「あ、イブちゃん、起きた!」
子犬のように走ってきて両側から飛びつく。
「何でうちにいるの?」
「夏休みだから泊まりにきたんだよ」
「バーバもいるよ」
なるほど、リビングのソファーでキツ子が冷たい麦茶を飲んでいた。
「伊吹ちゃん、夏休みだからって、ぐだぐだ寝てちゃだめだよ。子供は規則正しい生活をしなきゃ不良になっちゃうんだからね」
「まさかバーバも泊まったりしないよね」
「なにを言ってるんだい。泊まるに決まってるでしょ。夏休みなんだから」
伊吹はリビングの隅にある三人分の大きな旅行バッグに大声を上げた。
「まさか夏休み全部居るってことないよね」
「そのまさかだよ。ちゃんと食費は入れるからね」
「そういう問題じゃないでしょ。ママ、どうなってるの」
キッチンで宝子が振り向いた。
「食事代を入れてくださるって言うんだから、いいんじゃないの?」
にこにこ笑っている宝子に伊吹は言葉を失った。
「あのさバーバ、バーバの息子のほうはどうなってるの」
「真は自宅から通勤しますよ」
「ほっといていいの?」
「いいんだよ。伊吹ちゃんは気にすることないの」
なんか違う、なんか変だ。しかし、どこがどう違って変なのか伊吹にはわからない。わからないことを考えても疲れるだけだと考え直して、改めてキツ子や太郎や花子を眺めると、これが妙に馴染んでいる。
「ま、いいか。ママ、ご飯食べたら万札と本屋に行ってくる」
「わーい、ぼくも行く」
「わーい、花子も行く」
きゅうに家族が増えて賑やかになった相田家だった。
―― 万作の説教は伊吹の根性に火をつける 完 ――