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イヴの妄想  作者: 深瀬静流
3/17

一子ちゃんのデート

――最近いち子ちゃんが変なんだ。

いち子ちゃんは三人のお姉ちゃんの一番上のお姉ちゃんで、一番女らしくって、優しくて、きれいで、おじいさんからもおばあさんからも好かれる、すてきな人なんだ。

本人は高齢者に好かれても将来の展望は開けないわって笑っていたけど、平たく言えば、ジジ、ババ、子供に好かれたってしょうがない、かっこいい男の人にモテなきゃ将来の結婚に結びつかないから展望が開けないっていうことなんだろうね。

いち子ちゃんぐらいすてきな美人ならいっぱいモテると思うんだけど、いち子ちゃんがいいなと思う人はみんな結婚してるんだって。

まさか人のものを取るわけには行かないしね、って言ってたけど、あれって、ひょっとして本音なのかもしれないな。

いち子ちゃんに好きな人がいて、そのひとは結婚していて、まさか不倫してないと思うけど、いち子ちゃんはおとなしいぶん思い詰めるタイプだから心配だ。

いち子ちゃんは若くてグラマーで何でもはいはいっていうことをきいてくれるような家庭的なひとだから、弄ばれたらどうしよう。

ママはあの通り、のほほんとしていて子供のことは頭から信じきっている人だから、自分の子供にかぎって間違いなどあるわけないと思っているし、パパは日本海側にある原発の建設現場に副所長として単身赴任して一生帰ってこないし――。


「イブ、一生ってことはないぞ。定年まで建設予定地が決まっているから、次から次への渡り鳥みたいに日本全国の建設現場を渡り歩くだけで、定年になったら帰ってくるよ」

 万作の声は、あまりにも深く自分の思考に没頭している伊吹には聞こえていない。


――ここはぼくがしっかりしなくちゃダメなんだ。

万札は、ながねん一緒に暮らしていて、我が家にとっては家族も同然、ぼくにとっては番犬みたいな存在だけど、そのよく吠える犬の背中に隠れてばかりいてはいけないって、ようやく思いはじめたんだ。

この考えに到達するまで長かったな。

十七年もかかちゃった。

でも、そのことにいったん気づいてしまえばこっちのものだ。

ぼくはこれを機会に驚異的な進歩を遂げる予定だ。

きっと背だって延びる。

一五六センチから脱出するのも時間の問題だ。

憧れの一六〇センチは目の前だ――。


「で、一子の話はどうしたんだよ」

キングサイズのベッドでごろごろしながら経済新聞の株のページを熟読している万作が、横で趣味の妄想にふけっている伊吹を足でつつく。

 伊吹は万作の足に転がされてあっちへコロコロ、こっちへコロコロベッドの上を転がる。


――いち子ちゃんは会社の所帯持ちと不倫してラブホテルの常連になっちゃって、サービスポイントなんか集めちゃって、十回ご利用になりましたら一回二時間サービスいたします、なんていうのに喜んで、せっせとラブホに通ってたらどうしよう。

ぼくを教室の二階から突き落として殺したあげく、刑務所に入って、奥さんが一人寝の寂しさに男作って子供作って捨てられて、産まれた子供を出所してきた“どすこい山田先生”の子供だって偽った奥さんのように、いち子ちゃんも不倫の子を宿しちゃって、そしたらぼくは、その子のために学校をやめてブラジルの金山で働いてお金を仕送りしなきゃならないよ。

ぼくの小さな体で耐えられるだろうか。

そんなことを言っていられるか。

ぼくは男だから頑張らないといけないんだ。

ああ、ここまで考えたら疲れちゃった――。


「すこし休め」

「うん、ちょっと昼寝する」

 今日は日曜日。伊吹の妄想はいつもよりねんが入っている。

 外は雨が降っていて少し肌寒いが、万作のそばにいると体温が高いからちょうどいい。

 妄想疲れした伊吹から寝息がもれてきた。

 万作は子供のようにあどけない伊吹の寝顔をみながら考え込むように眉を寄せた。

 一子のようすがおかしいのは万作も感じていた。伊吹は抜けているようだがなかなか観察は鋭くて、頭で考えるのではなく直感で感じ取る。

 ベッドから身を起こして新聞をたたみ、伊吹が散らかしたままのテレビゲームのコントローラーやCDや作りかけのプラモデルの残骸が散らばっている部屋を横切って、テレビの横のマガジンラックに新聞をしまう。

 窓の外をのぞくと雨足が早くなっていて、梅雨前線が予報どうり関東にかかって来たようだ。

 エアコンの温度を確認してから伊吹の腹の上にタオルケットを掛けてやっているとドアがノックされた。

「イブちゃん、いいかしら」

「一子か、入ってくれ」

 一子はドアを閉めながら部屋の中を見回した。

 万作がすごしやすいように増築した部屋は、もともと宝子ほうこみつぐ夫妻の部屋だったのだが、副沢邸の敷地に隣接しているのを利用して、大幅に福沢家の土地に部屋を広げていた。

 資金はもちろん福沢家から出ていて、いうならばこの部屋は万作個人の持ち物と言ってもよく、そこに伊吹が同居しているという複雑さだが、伊吹からするとあくまで自分の部屋に万作が住み着いているということになる。

 クローゼットは造り付けになっているし、整理ダンスや物入れも造り付けで壁と一体になっている。床はフローリングに、目の詰まったウールの絨毯を大型テレビの前に敷いてくつろげるようにしている。

 本棚を挟んで万作と伊吹の机が並んでおり、オーディオやDVDレコーダーや伊吹のへたくそなプラモデルなどを並べたラックが配置よく並んでいる。

 テレビの前にはローテーブルがあって、色とりどりのクッションやぬいぐるみが散乱していた。

 万作の机はきちんと整頓されていて、本棚に並んでいる書籍も専門書だったり洋書の原書だったりするが、伊吹の本棚はコミックとゲームの攻略本と空想科学読本と日本昔話全集のようなものばかりだ。

 広い部屋の中でもひときわ目を引くホテルサイズの特大ダブルベッドで寝ている伊吹に目をとめて、一子がほほえんだ。

「イブちゃん、寝てるのね。起こすのかわいそうだから万作さんに聞いてもらおうかしら」

 一子はベッドの端に腰を下ろして、頭がベッドの横のほうを向いて体を斜めにして眠っている弟の髪を撫でた。

 キングサイズのベッドは縦が二メートル三センチ、横が一メートル八十二センチある。体格のいい万作にはこのくらい大きなベッドでないと寝た気がしないのだろうが、小さな伊吹なら縦でも横でも余ってしまう。

 ぷっくりした唇をあけて、よだれの玉を唇の端に膨らませて無心に眠る弟に、一子はとろけそうな笑みを浮かべた。

「で、話ってなんだ」

 万作の声で我に返った。

「そうだったわ。こんどの日曜にイブちゃんと万作さんにつき合ってほしいところがあるんだけど、いいかしら」

 万作はテーブルの前であぐらを組んでベッドの一子を見上げた。

「かまわないけど、どこかに行くのか」

「ええ。会ってほしい人がいるの」

 ためらいながら目を伏せる一子のようすに万作は眉間にしわを作った。

「彼氏か」

「そういうんじゃないんだけど……断れなくて」

「迷惑してるのか」

「そういうんでもないの……好きは好きなんだけど…よくわからないの」

「なんだそれ。自分の気持ちがわからないということか」

「ええ、まあ。好きだけど、なんだか、踏ん切れないっていうか、相手の熱心さに流されているみたいというか……」

 一子は困ったように顔をしかめた。

「ちゃんと話せよ。相手はどういう男なんだ」

「ええ、相手のかたは同じ職場の上司で勢実真せいじつまことさんといって課長さんなの。まだ三十四歳で、有能なひとよ。とてもいい人。奥様を二年前に亡くされてお子さんが二人いるの。六歳の男の子と五歳の女の子。同居しているお母様に子供さんをみてもらっているんですって」

「一子より十歳年上か」

「そうね。彼、わたしのこと、いい母親になれそうだと思っているみたい。彼のお母さんともうまくやっていけるだろうって」

「なるほどな。自分の都合のいい打算が見え隠れしているけど、彼自身はいい人だから悩んでいるのか」

「そうなるのかしらね。自信ないのよ。子供もいないわたしがいきなり母親になれるとは思えないし、お姑さんともうまくやっていけるか不安なの」

「そのことを相手の人に話したのか」

 一子は力なく首を振った。

「いえないわ。相手の人はずっと年上だし、職場では上司だし、遠慮があるもの」

 万作は髪をかき回した。そんな男とは別れちまえと喉元まで出かかったが何とか飲み込む。一子も一子だと舌打ちしたいのを我慢した。

「俺たちを連れていって、一子はどうするつもりなんだ」

「わからない。来週誘われたけど、一人で行くのはイヤだなって……彼とのデートは初めてなのよ」

「俺たちが行くって知らせてあるのか」

「知らせてないわ。知らせるつもりもないの。驚くでしょうね」

「怒って帰っちゃうかもしれないな」

「それならそれでいいの」

 一子はイブの髪を撫でながら呟いた。

「わかった。こんどの日曜だな」

 一子は堅い表情で頷いた。

 伊吹はコロンと寝返りをうって一子に背を向けた。Tシャツがはだけて背中が見える。

十七歳にしては幼い背中を、一子はそっと撫でてTシャツをおろした。





 次の日曜日がきた。

一子は数日前から天気予報ばかり気にしていた。伊吹と万作もついていくことになっている一子のデート場所は水族館だそうで、梅雨の季節でも安心してデートできる場所を勢実真という男は選んだという。

 その水族館には緑豊かな広い庭園があって、海水が流れ込んでくる大きな池がある。

 池の周りには日差しを遮る松の枝が張りだしていて、お弁当を食べるのにはちょうどいいベンチテーブルが点在していた。

 レストランもあるので昼食はそこでとれる

のだが、一子は伊吹と万作が一緒というのでピクニックとでも勘違いしたのか、弁当をどっさりこしらえて池の畔のベンチで昼を食べたいらしかった。

 今年の梅雨入りは例年より一週間遅れで関東は梅雨入り宣言が出されたが、その翌日は真夏のような高温晴天になって首を傾げたくらいだから、空梅雨かもしれないと話していたら、一子のデートの日は朝から晴れ渡って、気温も三十度を超えるという予報だった。

 キッチンで一子は宝子に手伝ってもらって紙袋一つ分の弁当を作った。

「これはイブちゃんの大好きなウナギののり巻き、こっちは万作さんの好物のソースをたっぷりかけたロースカツサンド、フルーツにスープにお菓子に、おしぼりに、あとなにかしら」

 うきうきしながら一子が紙袋に詰めていくのを宝子がうらやましそうに見ている。

「いいわね、楽しそうで。ママも行きたいわ」

「あら! じゃ、一緒に行きましょうよ。イブちゃんや万作さんたちとピクニックなんてめったにないもの。ごめんなさいね、ママ。あたしったらぼんやりで。ママも支度して一緒にいきましょう!」

「わあ、うれしい。お弁当、たくさん作ってよかったわぁ。じゃ、ついでに二子ちゃんと三子ちゃんも誘いましょうよ」

「そうだわね。うわあ、楽しくなりそう!」

 一子は勢実真のことなどすっかり忘れていた。

 大学生の三子は二つ返事で半袖のTシャツとカーゴパンツに着替えて腰にヒップバッグをくくりつけ、デジカメを用意した。

 原宿でハウスマヌカンをしている二子は、日曜祝日連休は休むわけには行かないので断ったが、せっかくみんなで出かけるのだから休ませてもらえないならお店なんかやめちゃいなさいよと軽く一子に言われて、それもそうだということになり、店長は人気マヌカンの二子に辞められと困ると言って、しぶしぶ休暇が認められて総勢六人がぞろぞろと駅に向かったのだった。

 そのにぎやかさに万作は辟易しないでもなかったが、家族なんてあってもないような福沢家の一人息子の万作は、相田家の家族の仲の良さは憧れでもあり、その中で家族の一員として暮らしていることを幸せだとも感じていた。

 伊吹がいなかったら今の幸せはなかっただろう。広大な福沢邸の庭に迷い込んできて、家に帰れなくて泣いていた伊吹の小さな手を引いて、相田家の門をくぐったときに、万作の居場所を伊吹が作ってくれたのだった。

 十二年前、五歳だった伊吹は新築の建て売り住宅に引っ越してきたばかりで、自分の部屋をもらって一人で寝るようにいわれて両親の寝室から出されていた。

 万作が手をつないでくれて家まで連れてきてくれたとき、万作にべったり抱きついて離れなかった。

 万作の姿が見えないので心配して探していた住み込みの家政夫の鈴木さん夫婦が相田家から聞こえてくる、伊吹のマンサツ、マンサツという声を聞きつけて万作を連れて帰ろうとしたが、伊吹は泣いて万作から離れず、結局その晩は一緒のベッドで寝た。

 きっかけはそれだけのことだった。

 それから十二年も相田家で暮らし、伊吹と同じベッドで寝るようになろうとは思わなかったが、福沢の屋敷の広さと空気の冷たさは、もはや万作の安らぐ家ではないことを物語っていた。

 万作のことを、舌が回らない子供の頃からマンサツと呼んで片時もそばから離れようとしない伊吹を、いつしか万作も大切な兄弟のように思うようになっていた。

 そのかわいかった伊吹が、いまでは立派なトラブルメーカーに成長し、次から次ぎへと騒ぎを巻き起こす。

 伊吹はもはや出来が悪すぎて箸にも棒にもかからない息子のような存在になり果て、万作を気苦労の絶えない父親のような気分にさせるのだった。

 しかし今日の万作は一子のことが気がかりだった。

 こんなにぞろぞろ家族を引き連れて初デートに出かけてどうするつもりだろう。

 本人も忘れているみたいだが、家族のほうは今日が一子のデートだとは誰も知らない。

ただのお出かけ家族レクだと思っている。

 一子は何を考えているのだろうと思って万作はしだいにばからしくなってきた。所詮一子もあの伊吹の姉なのだ。どこかピントがずれていて当たり前なのかもしれない。

 恥ずかしげもなく電車の中ではしゃぎまわっている相田家から少し離れた場所で相田家の人々を観察しながら、よく自分はあの連中の中でまともに育ったものだと感心してしまう。

 彼らは紛れもない家族だ。みんなどこかネジが飛んでいる。万作は大きな体でため息をついて無理矢理相田家の人々から視線をはずした。

 駅を降りて目的地の水族館までは歩いていく。かすかに潮の香りがするなと思っていると、心なしか吹いている風も肌にべとつく重さがある。しかし天気は上々で、賑やかに前を行く五人のあとから、のんびり歩いていく万作の足取りも軽い。

 このあたりは低層ビルの会社が多く、駅周辺は繁華でも、ちょっと離れると人通りは静かだ。

 向こう側の歩道にも子供連れの家族が同じ方向に歩いていくので目的地は一緒なのだろう。乗用車やトラックが音を立てて行き交っている国道15号線の横断歩道をわたれば、水族館のゲートは目の前だった。

 さきほど向こう側の歩道を歩いていた家族連れが先に水族館の門を入っていった。

 門の前には人待ち顔の男性がそわそわしながら道路の左右に注意を向けていた。

 年の頃なら三十二、三歳で中肉中背、紺の半袖のポロシャツにベージュの綿パンツというカジュアルな服装で、顔立ちも人柄もごく平凡な印象を受ける。

 様子からすると一子のデート相手ではないかと思ったが、一部上場の大会社の総務の課長で切れ者だという感じではない。

 万作の目には、神経質でまじめな小心者に映った。

 ワイワイ騒ぎながら水族館の門を素通りして、目の前に広がる回遊式日本庭園風の広々とした池を前にした相田家一行が歓声を上げた。

「うわあ、池だ。ステキだな! ママ、早くお弁当。お弁当食べたいな」

 伊吹が真っ先に池に向かって走り出した。

「イブちゃん、走っちゃだめよ。池に突っ込んじゃうでしょ!」

 宝子が叫ぶ。

「イブ、池にダイブしろ! 魚を生け捕りにしてこい」

 三子が負けずに叫ぶ。

「三子ちゃん、だめよ、ほんとにダイブしたらどうするのよ」

 一子がたしなめると二子が笑った。

「イブはバカだからね」

 とにかく騒々しい。

 うしろからのんびりついていく万作は、門のところで人待ち顔をしていた男が呆然とこちらを見ているに気がついて力が抜けた。

 ちらりと一子を見ると、完全に門のところの男のことは目に入っていない。待ち合わせそのものを忘れているのだ。

 男のほうはというと、デートのつもりでいるのだから、一子は一人でくると思っているわけで、それなのに、なぜか家族の集団で現れて、門で待っている自分に気がつかないで素通りされ、驚きの余りの放心状態だ。

 万作は気の毒になった。

「あのー、一子の会社の勢実さんですか」

 そう声をかけると、相手はピストルに打たれたように飛び上がった。

「は、はい。せいじつです。勢実真は私です」

 勢実は万作を見上げながら、睨みつけてくる万作に怯えたように後退りした。

 万作は頭をかいた。眉間にしわができているのは困っているからなのだが、体が並外れて大きいために初対面の人は万作が近づくと圧迫感を覚えるようだ。

「あの、あの、あなた方は、もしかして相田さんのご家族でしょうか」

「すみません。きょうは一子とデートなんですよね」

「そのつもりでいたんですけど」

 勢実は一子たちと万作を交互に見比べた。

「行きましょうか」

 万作が声をかけても勢実は動かない。足が地面に生えてしまったようだ。

 池のほとりから伊吹の声が聞こえてくる。

「わっ! ほんとに魚がいるよ。でも、この鯉痩せてるね」

「バカだなイブ。これは鯉じゃなくてボラだよ」

「三子ちゃん、よく知ってるわね」

 宝子が関心した。

「運河の水を引いているから上げ潮に乗って迷い込むんだよ」

 二子がおしえてくれた。一子がみんなに向かって小高い丘のようになっている松林を指さした。

「向こうに競艇場があるのよ。音が聞こえるでしょう」

 遠く風に乗って競艇場のモーターボートのモーター音が聞こえてくる。

 一行は水族館の入場券窓口に歩きだした。

 完全に勢実との約束を忘れている。勢実は為すすべもないようにそれを見送った。

 だめだこの男、と万作が思ったとき、小さな男の子と女の子の手を引いたおばあさんが足早に近づいて来た。

「真さん、なにをぐずぐずしているんですか。一子さんが行ってしまいますよ。早く声をかけなさい」

「お、お、お母さん。太郎と花子まで。どうしてここに」

 勢実が腰を抜かしかけた。

「心配でこっそりとついてきたんです。あなたは気が弱いから、わたしがついていなかったら何にもできないでしょ。任せなさい。一子さんには、わたしたちがうまく声をかけます。太郎と花子、あなたたちも一子さんを逃すんじゃありませんよ。頼りないお父さんなんか放っておいて、新しいお母さんは自分たちでゲットするんですよ」

「はーい、バーバ」

「はーい、バーバ」

 確か男の子が六歳で女の子が五歳って言ってたな、と万作は一子の言葉を思い出した。

 ばあさんはしっかり化粧をしていてツバの広い帽子をかぶり、ピンクのサマースーツに白のローヒールを履き、ワニ皮のポシェットをたすき掛けにしている。

 子供たちもこざっぱりとした服装をしていて、なかなか行儀がよさそうだ。

 ばあさんと太郎と花子は勢実を置き去りにして一子たちの後を追いかけて走り出した。

 早い。

 素早いというか、小回りが利くというか、あっと言う間にたくさんの人々の隙間をかいぐって入場券を買うためにならんでいる列に割り込み、太郎と花子が一子の腰に両方から飛びついた。

「お姉ちゃん」

「お姉ちゃん」

 太郎と花子が声をそろえて一子を見上げてかわいく首を傾ける。

「あら、どこの子かしら。お母さんは?」

 いきなり見知らぬ子供になつかれて驚いた一子が親を探してあたりを見回した。

「迷子かしらね」

 宝子も一緒に見渡した。

 二子も三子もそれにならう。

 そこへばあさんが小走りでやってきて相田家の家族にこやかに笑いかけた。

「孫が失礼をいたしました。太郎と花子や、お父さんはあっちですよ」

「はーい、バーバ」

「はーい、バーバ」

 ばあさんが指さしたほうを見ると、冴えない中年男がオロオロしていた。隣に万作もいる。

「万札だ。あそこでなにやってるの?」

 伊吹は万作においでおいでをした。万作が隣の男に何か言って連れ立って歩いてくる。

一子が、あっと口を押さえた。

「勢実課長! いけない、すっかり忘れていたわ。どうしましょう」

 一子の叫び声に勢実はがっくりとうなだれた。

「いえ、気にしないでください。私もどうでもよくなりましたから」

 泣きそうになっている勢実の横にばあさんと子供たちが並んだ。入場券売場の列の中程で相田家と勢実家が向かい合う形となった。

「きょうは孫たちと水族館に来てみたら偶然息子を見かけまして驚きました。オホホ」

 ばあさんが図々しく嘘をついて笑った。一子も笑顔になった。

「相田一子です。課長にはいつもお世話になっております。うちも家族連れでちょうどよかったです。ご一緒しましょうよ。大勢のほうが楽しいですものね」

「一子の母でございます。娘がお世話になっております。かわいいお子さんですね。で、奥様はどちらに」

「つ、妻は二前に亡くなりまして」

 宝子へそう答えた勢実の表情に薄い影が落ちた。

「まあ、それはお気の毒でしたねぇ。みなさまお寂しいことですわねぇ」

 宝子が声の調子を落として子供たちをながめ、列の真ん中で世間話が始まった。

 ふた家族の後ろの列から不満のざわめきが膨らむ。すでに入場券窓口の前は空っぽで、窓口のガラス戸の中からお姉さんが早く来いと手招きしていた。

 万作は走っていって人数分の代金を払った。

 引き返して列から連中を連れ出して、後列の人々に頭を下げながら水族館の入り口に誘導した。

 相田家と勢実家の世間話はまだ続いているが、子供たちと伊吹は展示されている水槽に一直線に走っていってガラスの水槽に鼻がつぶれるほど顔を押しつけている。

 万作は伊吹と子供たちの後ろで、大人たちの会話に耳をすませていた。

「太郎は小学校の一年生で、花子は幼稚園の年長さんで来年小学校ですの。申し遅れましたが、わたくし、真の母で、勢実キツ子と申します。ただいま子供たちの母親探し活動中でございまして、子供たちに気に入ったお姉さんがいたら恥も外聞もなく飛びつけと申しているんですの。そしたら、一直線に一子さんのところに走っていくなんて、なんて目が高いんでしょうね。しかも、そのかたが真の職場のかたで、今日のデートのお相手だったなんて。これは運命ですわ。一子さんと真は出会うべくして出会った運命の二人なんですわ。一子さん、これから真と太郎と花子とわたくしのことをよろしくお願いしますわ。勢実家と相田家の繁栄を願って握手をしましょう」

 差し出してきたキツ子の手を怖いものでも見るように後ずさった一子とその家族は、くるりと水槽にへばりついている伊吹のほうを振り向いてかけだした。

「イブ、おもしろい魚いるか」

 三子が伊吹の背中から抱きついた。弾みで伊吹の顔がつぶれて風船を踏みつけたような音がした。

「やめてよみ子ちゃん。重いだろ」

 もがく伊吹をプロレス技で締めにかかる三子の襟を二子が引っ張る。

「やめな。ここはうちじゃないんだから」

 太郎と花子が大人たちの隙間をくぐって次の水槽に突進してキャッキャと騒げば、伊吹も負けずに三子の太い腕をもぎ放して子供たちのところに走った。

 キツ子も高齢者にしては、カルチャースクールの太極拳で鍛えた足腰をいかして、伊吹を追って移動する一子たちに混じろうとあとを追った。

 一人取り残された勢実が、情けない顔で彼らのあとからついていく。

 ワイワイガヤガヤ大きな声で遠慮の一つもなく騒ぎまくりながら、水槽の前を素通りしていく相田家の団子状態の中を、太郎と花子が小魚のようにうろちょろ出入りしている。

 そのあとを伊吹が追いかけていて、小さな子供たちの面倒を見ているかというとそうではなく、子供たちに負けずに次の水槽に一番乗りしたいのに、子供たちの素早さについていけなくて、悔しくて焦りまくっていた。だから伊吹の顔は真剣で、水族館を楽しむというよりも、子供たちとの競争に勝つために歯をくいしばっていた。

 相田家の女たちの頭の中からは勢実の存在はとっくに消え去っており、伊吹のことは自分たちの周りをチョロチョロしているネズミぐらいにしか思っていないし、自分たちにべったりくっついて離れないキツ子はおしゃべり好きな知らないばあさんぐらいの感覚で許容していた。

 相田家の女たちはとにかくかしましい。一子と二子と三子のおしゃべりは、専業主婦の宝子には窓から覗き見する知らな世界のようなもので夢中になってしまう。

 娘たちの会社の仕事や人間関係や大学の講義や教授の奇癖話から始まって、友達の話やらファッションやメークやおいしいものの話や仰天するようなあきれた話や男と女のくっつたり離れたりの修羅場の様子など、次から次に飛び出す娘たちの話題に宝子は夢中になっている。

 キツ子はキツ子で口角に泡をためて息子の出身大学、趣味経歴に加え孫たちの賢さをまくし立てるが誰も聞いていない。水槽さえ見ていない。ただただおしゃべりに夢中で大きな声で周りに迷惑をかけながら、ときには顰蹙を買いながら順路を進んでいく。

 ときどき伊吹が戻ってきて宝子にポットの冷たいお茶をねだって喉の乾きを潤してから、額に汗を滴らせてムキになって子供たちのところに戻っていく。

 不毛だ。万作はため息をついて背中を丸めた。誰も魚を見ていないなんて、水族館に来た意味がない。

 しかし、若くて独身の万作は知らない。女たちにとって、バーゲンとおしゃべりぐらい燃えるものはないということを。

 一緒に歩いている勢実を横目で見ると「これでいいのか、これでいいのか」と、呪文のよいにつぶやいていた。

「勢実さん、少しは向こうに行って一子と話をしたら」

 万作は気の毒になって言ってみた。

「あの中に、入って行けとおっしゃるんですか。あの、女性たちの凄まじいおしゃべりの坩堝に突入しろと…」

 なにも震えることはないだろうと思うが、確かに相田家の人間に免疫がないものからすると、あそこに突入できるのは、ムキになって太郎と花子に対抗意識を燃やしている伊吹ぐらいなものだろう。万作だって近づきたくない。

 だが、一子との交際を希望したからには勢実だってキツ子ぐらいには根性を出すべきではないのか。万作は勢実の弱腰に腹が立ってきた。

 こんな男が束になってかかても、相田家の女たちに太刀打ちできるわけがない。

 そう思う一方、キツ子はさすがに長いことばあさんをやっているだけあって性根が座っているとおもった。相田家の女たちのおしゃべりの隙間をぬって自分の話を割り込ませることに成功しているのだ。それに太郎と花子も、伊吹が宝子にジュースやクッキーやガムをもらいに駆け戻るときにくっついていってちゃっかりお菓子をもらっている。なかなかのものだ。これはひょっとして、勢実には見込みはないが、キツ子と太郎と花子は相田家に食い込んでくるかもしれないな、と万作は唸った。

「三子ちゃん、写真とって、とって!」

 伊吹の女だか男だかわからない子供っぽい声がして顔を向けると、クラゲが無数に浮遊しているガラス窓のような水槽の向こう側にたって、伊吹が両腕をひらひらさせて飛び跳ねていた。

 その水槽の向こうに立って写真を撮ると水中にいるように見える水族館の無料サービスだ。

「お、いいねイブ。よし、写真撮ろう。最初は伊吹な。次はみんなで撮ろうぜ」

 三子がヒップバックからデジカメを取り出して構える。すかさず太郎と花子が両脇から伊吹に蛙のように飛びついた。華奢な伊吹の首っ玉に太郎がかじりついて両足を腹に巻き付けてしがみつけば、花子も負けずに伊吹の太股にしがみついて両足を足首に巻き付ける。

 太郎の重さに引きずられて体を傾けながらも、キン肉マンのようにありもしない力こぶを作ってカメラに無理やり笑って見せる。

「撮ったぞイブ、もう一枚な」

「イブちゃんかわいい!」

 一子が黄色い声を上げれば、

「イブちゃん、逞しいわ。男の子みたいよ」

 と、宝子が叫び、

「ママったら、自分の産んだ子供の性別も覚えてないのかい」

 と、二子がゲラゲラ笑った。

 なにを思ったかキツ子が素早く伊吹と孫たちのところに行って写真撮影に加わろうとした。

 伊吹と太郎と花子が蜘蛛の子を散らしたように逃げて、一人取り残されたキツ子を見て伊吹が大声を上げた。

「わあぁああ! クラゲが墓場の魂みたいにみえる! バーバは墓場の幽霊だ。ユーレイ、ユーレイ、もうすぐバーバは幽霊だ!」

「バーバ、ユーレイ」

「バーバ、ユーレイ」

 太郎と花子が手を叩く。

 みるみるキツ子の顔色が青ざめた。

「こ、怖い。ほんとに母が墓場の棺桶から抜け出してきたみたいに見える」

 勢実がヨロリとした。

 子供たちがキャッキャと次のコーナーに走り出した。遅れをとった伊吹が血相を変えて後を追う。その伊吹のあとを、キツ子が血走った目で唸りながら追いかけた。

 宝子たちはのんびりクラゲの水槽の前に立って順番に写真を撮り合って笑っている。

「滅茶苦茶だ。ここにマトモな大人はいないのか」

 額の髪をかきむしる勢実の指に細い毛根の髪の毛がもつれて抜けて絡みつく。

 万作は勢実の額の生え際がさっきよりも広くなっているような気がして、よっぽど注意してやろうかと思ったがやめた。

 本気で一子と付き合う気なら、頭髪は諦める覚悟ぐらいほしいものだ。

 万作は動こうとしない勢実の背中を押して伊吹たちのあとを追った。

 伊吹と子供たちは触れあい水槽の前にしゃがみ込んで熱心に膝丈ぐらいの浅い水槽の中をのぞき込んでいた。

「ハアハア、やっと追いつきましたよ。まだまだ太郎や花子や中学生サイズのぼうずなんかに負けてたまるもんですか。だてに足腰を鍛えていませんからね」

 キツ子はへたり込みそうになりながらもやせ我慢だけは忘れない。めずらしく三人は伊吹を中心にして顔を寄せあいひそひそ話し込んでいた。なにを子供同士で話し込んでいるのだろうと興味を覚えたキツ子は、しゃがみ込んでいる三人の頭の上から首を伸ばした。

「だからさ、太郎がつついて見ろよ」

 伊吹がこそこそと太郎のわき腹を肘でつついて、水槽の岩場に隠れるようにしてへばりついている黒っぽい薄気味悪い生き物を顎で示している。

「いやだよボク。気持ち悪いもん。イブちゃんがつついてみてよ。

「ぼくだってイヤだよ。じゃ、花子がやれよ」

「ハナコもイヤだもん。イブちゃん、お兄ちゃんなんだからイブちゃんが掴んでよ」

 伊吹の目がきらんと光った。

「そ、そうだよね。ぼく、お兄ちゃんだもんね」

――お、お兄ちゃん!

なんて心地いい響きなんだ。

お兄ちゃんて言われただけで、ぼくは一気に大人気分だ。

いつもいつも家でも学校でも小さい子扱いばかりで、ぼくの自尊心は粉々だ。

でも、太郎と花子はぼくのことをお兄ちゃんと言って頼ってくる。

頼られれば、人間は実力以上の力を発揮するものだ。

不可能を可能にし、自信を与え、愛と勇気を漲らせる。

その魔法の言葉がお兄ちゃん!

ぼくは一人前だ。

もう大人だ。

太郎と花子の前でそれを証明してみせよう。

ぼくは二人から尊敬の眼差しと賞賛を浴びて力強く笑うのだ!

なんと言っても、ぼくはお兄ちゃんなのだから――。

「イブちゃんの独り言って、長いんだね」

 太郎が花子にこそこそとささやいた。

「でも、見てるとおもしろいよ。お顔がいろんな形になって見飽きない」

「そうだね。バーバなんか目も口も皺の中に埋まっちゃっているから表情なんてよくわかんないもんね」

「うん。それにイブちゃんて、かわいいじゃない。ハナコ、かわいがってあげるんだ」

「ボクだってだよ。イブちゃんて負けず嫌いで、必死にボクたちと張り合っていて幼いしね。イブちゃんを乗せるのなんて簡単だよ。見ててごらん、今にナマコを掴むから」

 水槽の横には水道が設置してあって生体をさわった後は手を洗えるようになっている。

 注意書きもあって、海の生き物に触れるときは乱暴に扱わず、優しく指で触れるようにという内容だ。

 海の浅瀬にいる生物で、少しくらいならさわっても大丈夫なヒトデとかナマコ、ヤドカリ、カニなどが、放してある。伊吹はなかなかナマコに手を出せないでいた。とにかく気持ち悪い。手を伸ばしては指が触れそうになって引っ込めるのを繰り返している。

 太郎と花子は伊吹の思い切りの悪さに飽きだしていた。

 太郎が花子の横に移動してしゃがみ込み、たくさんいるヒトデの一つに手を伸ばした。

「花子、見て。ヒトデってお星様みたいだよね。岩にへばりついていると動かないけど、ほんとは動くんだよ」

「へえぇ、どれどれ」

 太郎と花子が互いに両手を伸ばしてヒトデを掴みあげ、宙にかざす。

 四つの黄色いヒトデの星形がうごめきだした。

「ほらね、動くだろ」

「ほんとだ、お星様がくねくねしてる。イブちゃんの髪に飾ってあげよう、お星様の髪飾り!」

 花子と太郎が両手に持ったヒトデを伊吹の頭と両頬にぺたんと押しつけたのと、伊吹がようやくなけなしの勇気をふるってナマコを掴んだのが同時だった。

 五本の触手がうごめくヒトデが頭に二つ、ほっぺたには冷んやりした堅いゴムのような感触が二つぐねぐね押しつけられていて、しかも掴んだ手の中のナマコはぬるぬるぬるぬるぬるぬる動いている。

「ぎやーーあああ!!!」

 叫んだ伊吹はおぞけをふるって身震いすると無我夢中で暴れまくった。

 手の中のナマコがズボッと飛び出して、大口をあけて覗きこんでいたキツ子の口の中にボスッとはまった。

 喉に詰まらせて白目を剥いてひっくり返ったキツ子に太郎と花子は手を叩いて笑い転げる。

 伊吹はパニックになった状態でわめきながら四つのヒトデを掴んで目をつぶって力一杯投げ放った。

 宝子たちより先に伊吹に追いついていた万作は、伊吹の悲鳴でまた何かやらかしたなと思って足を早めた。そこにヒトデが唸りをあげて飛んできた。ヒョイ、と頭を下げてヒトデをやり過ごす。そのヒトデは万作の後ろを歩いていた勢実の顔面を直撃した。

「ギャーッ」

 万作は二番目のヒトデも肩を横にしてやり過ごした。こんどは勢実の耳をかすめた。

 三番目も万作は腰をひねってよけた。勢実の腹にいい音で当たった。

「ウグッ」

 勢実が目をむき出して痛みと驚きと怒りに伊吹を睨みつけたときには、伊吹はナマコのショックから立ち直っていて、目を爛々と輝かせて水槽の中に入り込んでヒトデをめいっぱいかき集めていた。

 太郎と花子も伊吹の意図を察してヒトデを集めはじめる。

「太郎、花子! 狙うは相田家侵略をはかる額うす毛魔神だぞ。かかれー」

「はーい、イブちゃん」

「はーい、イブちゃん」

 三人は奇声を発しながら勢実にヒトデをぶつけ始めた。

「わーーー、やめなさい太郎に花子、おとうさんがわからないのか。どうして相田さんのところの伊吹くんとチームを組むんだ。おまえたちは勢実家の人間だろ、おとうさんを裏切るのか」

「太郎と花子、うす毛魔神にだまされるな。あれはおまえたちのおとうさんじゃないぞ、いまはただの的だ。的に当てろ」

 伊吹が女の子のような声で勇ましく子供たちを指揮する。

 とても気分が良さそうで生き生きしている。

 万作は倒れて痙攣しているキツ子のところに飛んでいって呼吸困難の原因になっているナマコを取り除いてやった。

 キツ子が大きく息を吸って震えながら身を起こした。

「あのぼうず、わたしを殺す気か」

 ぜいぜい息を弾ませて伊吹を睨みつけるキツ子を放っておいて万作はナマコをそっと水槽に戻した。

「生きてるか、だいじょうぶか? 海の生き物は繊細だから心配だな。魚なんか人間の手で触れただけで火傷するものもあるからな。そろそろお迎えのくるばあさんなんかよりよっぽど心配だよ」

 そういって、伊吹たちが散らかしたヒトデもせっせと広い集めて水槽に戻していく。

「こらイブ、ヒトデを投げるのはやめろ。太郎と花子もだぞ。ナマコもヒトデもおもちゃじゃないからそんなことしちゃ駄目だ。生き物は大切に扱うんだぞ。姿が気持ち悪いからっていじめたり乱暴したら駄目なんだ。命はみんな同じように大切なんだからな。ナマコさんとヒトデさんにごめんなさいをしろ」

 万作に怒鳴られて伊吹は水槽の前に戻って「ナマコさん、ヒトデさん、ごめんなさい」と頭を下げた。

「ナマコさん、ヒトデさん、ごめんなさい」

「ナマコさん、ヒトデさん、ごめんなさい」

 太郎と花子も伊吹のまねをする。

 伊吹が万作に聞こえないようにこっそり太郎と花子に耳打ちした。

「おもしろかったね。こんどはぼくたち三人でこようよ」

「うん、こようね!」

「うん、こようね!」

 クスクス笑いあう三人の向こうでは、水道の蛇口でしつこいくらい口をすすいでいるキツ子と、顔の皮が剥けるのではないかと思うくらいごしごし洗顔している勢実がいた。

 宝子たちががやがや話しながら現れて、伊吹たちに手を振った。

「イブちゃんたち、イルカショーが始まる時間だから行きましょう。それが終わったらお昼にしましょうね」

「わーい、イルカショーだ。ぼく、イルカ好きなんだ」

 伊吹がはしゃぐと太郎と花子もはしゃぐ。

「ボクもイルカ好き」

「ハナコもイルカ好き」

「ぼく一番ね」

 そう言うと、伊吹はイルカのプール目指して駆けだした。

「ボクが一番だぞ」

「ハナコが一番なんだからね」

「イブちゃん、走ると転ぶわよ」

 一子が見えなくなった伊吹に声をかけるのを見て、勢実が万作の耳元で囁いた。

「相田家のみなさんは伊吹くんのことを、すごく可愛がっているんですね。うちの太郎と花子より過保護みたいだ」

 万作は黙って頭をかいた。

 勢実の声には呆れを通り越して純粋なムカつきがこもっていたが、それは考えすぎというものだろうと万作はいい方に解釈する事にした。

 あの天真爛漫な伊吹が嫌われるわけがないと本気で思っているあたりが万作のおめでたいところだ。時には羽目を外してまわりに迷惑をかけるときもあるが、伊吹は素直で純粋だ。べつに勢実に伊吹の良さをわかってもらわなくてもいいのだが、けなされたり、悪口を言われたら言い返してやろうと身構えたが、勢実はそれ以上なにも言わなかった。

 疲れたような足取りで見えなくなったみんなのあとを追う。

「あれ? うちの母親は」

「とっくに伊吹や子供たちのあとを追って走っていきましたよ」

 キツ子の姿が見えないのであたりを見回す勢実に万作が答えた。

「うちのおばあちゃんは元気だな。私はついていけないよ。会社のほうがよっぽど楽だ」

 グチを言いつつ階段を上ってイルカのプールに向かう。

「勢実さんは一子との結婚を前提に交際を申し込むつもりだったんですか」

 万作は気になっていたことを率直に聞いてみた。勢実の丸まっていた背中が心持ち伸びた。

「はい。職場で一子さんを拝見していて、おっとりとした優しい人柄で、人に気配りができるところに好感をもちましてね。いまどきめずらしく心根の素直な方で、私はこんな方とこれからの人生を共に生きていけたら、満たされた幸せな人生を送ることができるんじゃないかと思ったんですよ。しかし、年が違いすぎますのでね、それに私には子供が二人いますし、私の条件は悪いですよ」

「それに、おまけにばあさんまでついているときたらね」

「そのとおりです。母親は苦労したんです。女手一つで私を大学まで出してくれましてね。気が強くて、強引で辟易するときもありますが、母にも幸せになってほしいんですよね」

「条件悪すぎだな。一子は年こそ二十四歳ですけど、本気の恋愛もしたことのない世間知らずな娘ですからね。いきなり姑と同居の上、二人の子供の母親になれと言うのは酷でしょ。諦めたほうがいいですよ」

 勢実は何か言いかけたが、ぐっと言葉を飲み込んで唇をかんだ。黙り込んでしまった勢実に気詰まりになって万作は足を早めた。勢実はうなだれたまま重い足取りでついてくる。

 イルカショーのプールについてみると、観覧席は満席で立ち見もいるくらい賑わっていた。

 スタジアムのように階段状になっている観覧席を見回して伊吹たちを探してみると、最前列の中央でひときわ賑やかな声がするので、すぐにわかった。

 相田家の家族と勢実家の家族は二つの空席を確保して、目の前のアクリル水槽の透明な壁の向こうにイルカの姿を求めて興奮していが、イルカはまだプールに放されてはいない。

「真ん前だと水がかかるんだがな」

 万作は呟いて勢実を促して通路を歩いて席に向かった。

「万札! こっちこっち!」

 伊吹が自分の隣の席を指さす。

 そこに席が二つ空いていて、万作は伊吹の隣に腰掛け、勢実も万作の隣に腰を下ろした。

 順番は左から宝子、一子、二子、三子、キツ子、太郎、花子、伊吹、万作、勢実、という具合だが、とことん勢実は一子と接触できないでいる。初めの挨拶の時しか会話していないのではないかと思う。

 これは完全にデートじゃないな。万作は勢実に同情しないでもないが、一子にはもっとふさわしい相手がいると思っているから、速やかに勢実には撤退してもらいたいのが本心だ。

 ところが、キツ子と太郎と花子は、勢実より相田家とべったりで、なかなかいいポジションについていて、しかも相田家の人間は来るものはいらっしゃいというオープンな家族だから早くも馴染んできているのが恐ろしい。

 そうこうしているうちにプールに三頭のイルカが放された。

 デモンストレーションのようにびゅんびゅんジャンプしてみせる。

 豪快な水しぶきに観覧席の子供も大人も歓声を上げる。

 伊吹などは興奮で引きつけを起こしそうだ。

 太郎も花子も大はしゃぎだが伊吹の興奮にはかなわない。

 見ると、相田家の女たちも伊吹と同じような表情をして浮き足立っている。おとなしい一子まで大声でギャーギャー騒いでいるくらいだから元気な二子やお転婆な三子など伊吹といい勝負だ。

 みんな興奮で目の瞳孔が開きっぱなしになっていて万作は心配になってきた。

 相田家五人が集団ヒステリーをおこしたら万作一人では手に負えなくなるかもしれない。

隣の勢実を盗み見ると、相田家の興奮のすごさに完全にビビっていた。

 勢実に期待した自分がバカだったと思い直してプールを見ると、若くて体格のいい飼育員がバケツから魚を出してイルカたちにご褒美をやっていた。

 いよいよショーが始まった。

 イルカたちのトリプルジャンプに拍手の嵐が起こり、輪くぐりに歓声を上げ、見上げるほどの高さにジャンプしてくす玉を割ったりと、イルカの巨体が水面に翻るたびに海水が波打った。

 ときどきアクリル壁から海水がこぼれて足下を濡らす。

 天気はいいし、水は透き通ってプールの底のほうまで見えるし、イルカがぐんぐん底のほうに潜っていくのを目で追いかけていくと目眩がしそうだ。

 十メートルくらいあるのだろうか、その深さは飲み込まれたら気を失いそうだ。

 そのプールの底でイルカの体がしなやかに反転して急速に浮上して海面からジャンプした。

 空中で一回転すると、そのままきらきら太陽が反射する輝く水面に弾丸のように突入してプールの底に沈んでいく。その爽快感に観覧席から拍手が起こった。

 飼育員が直径1メートルほどの黄色いボールを二つ、奥から取り出してきた。イルカたちは次になにをするのかわかっていて、顔を水面に出して頷くような動きをしている。

 飼育員が鋭くホイッスルを吹いた。三頭のイルカがウォーミングアップのようにトリプルでジャンプした。

 観覧席からは、次になにが起こるのだろうかというような期待が盛り上がる。

 太郎と花子はイスの上で尻をもそもそ動かしていて今にもイスから立ち上がりそうだ。

伊吹も目を爛々と光らせて食いつかんばかりに身を乗り出している。

 飼育員がホイッスルを吹いて右手を高々と上げて、二つある巨大ボールのうちの一つをプールに投げ込んだ。

 一頭のイルカが水面から躍り出てボールをくちばしで上手に跳ね返して飼育員の手元に返す。

 しばらくボールを使った演技が続き、終盤にさしかかった頃、手元に戻っていた二つのボールを飼育員が続けてイルカに放った。

 イルカは心得たようにそのボールを観覧席の最前列の通路めがけて弾き返した。

 通路に飛び込んできた巨大ボールに太郎と花子が駆け出していって体ごと飛びついた。

「キャァー、イルカさんのボール」

「キャァー、イルカさんのボール」

 観覧席から笑い声がおこった。

 太郎と花子に遅れをとった伊吹の目の色が変わった。半ば狂気だ。

 イルカがそんな伊吹の目の前に、餌を投げるように二つ目のボールをポトンと落とした。

 しっぽで水面に立ち上がって首を伸ばして伊吹の反応を興味津々で見ている。

 残りの二頭も同じように水面に立ち上がってにやけた顔で伊吹を見ていた。

 伊吹は脱兎のごとく走って行って物凄い勢いでジャンプしてボールに飛びついた。

「このボール、ぼくの!」

「やめろ、伊吹!」

 とっさに万作は伊吹の後ろ襟の服を掴もうと手を伸ばしたが、その手は空を掴んだだけだった。

「伊吹ーーー!」

 万作が叫ぶ中、伊吹の体は一度ボールに乗り上げてから反動をつけて物の見事にプールの中に墜落した。

 三頭のイルカがニヤリと笑ったような気がした。

「伊吹ーーー!」

 万作は真っ青になった。

 イルカが待ってましたとばかりに伊吹の後ろ襟をくわえて真っ逆様にプールの底に沈んで行く。

伊吹の呆けた顔が人形のように見えた。

 宝子と一子と二子と三子が駆け寄ってアクリル壁に顔を押しつけて沈んでいく伊吹に絶叫した。

「イブちゃん、ママよ。手を振ってぇ~」

「キャー、イブちゃん、いいわねイルカさんと一緒」

「ギャハハ、溺れるなよイブー」

「おまえもちっぽけなイルカに見えるぞ」

 震えている万作は、相田家の女たちの反応につかの間我を忘れた。

 三子はピップバックからデジカメを取り出して盛んにシャッターを切り、あとの女たちは携帯カメラで伊吹を激写している。

 立ち直った万作は着ていたTシャツを脱ぎ捨てるとアクリル壁に飛びついて水面に飛び込もうとした。

「だめよ、万作さん」

 宝子がすぐさま万作の腰に取り付いてプールに飛び込もうとする万作の邪魔をする。

 一刻を争う事態に万作がキレかかると、一子も二子も三子も万作をアクリル壁から引きずりおろした。

「慌てるな万作、飛び込んだらおまえの方があぶない」

 三子が言う。

「そうだよ、イブなら大丈夫だよ」

 二子まで万作をなだめる

「イブちゃんは動物からも好かれるのよ」

 一子の言うことなど信じられるか。

「イルカさんは、うちのイブちゃんと遊びたいだけなのよ」

 宝子の気は確かなのだろうか。

 万作はわなわな震えながら女たちの手を振りほどこうともがいた。

 こうしている間も伊吹の命が危険にさらされていると思うと万作の心と体に締め付けられるような痛みがはしった。

 そのころプールの底では怒った伊吹が、取り囲んでいる三頭のイルカの頭を順番に叩いていた。

 叩かれてもイルカは笑っている。

 イルカたちは楽しくて仕方がないと言うように身をくねらせて、くるくる回転したり伊吹の周りをドルフィンキックで泳いだりして伊吹から離れない。

 伊吹の鼻と口から気泡が立ち上り白目を向いて死んだ魚のように底に横たわりはじめてようやく伊吹を水面に押し上げてきた。

 一頭のイルカが半ば失神している伊吹を空中へ放り投げた。

 それまで水を打ったように静まり返っていた観覧席が、宙に躍り出た伊吹に歓声を爆発させた。

 拍手の嵐の中、空中で意識を取り戻した伊吹がはっとして固まる。落ちてきたところをイルカに突き上げられて、三頭のイルカに順番にパスされていく。トランポリンのように宙に舞うたびに観覧席から拍手が起こり、相田家の女たちが黄色い叫び声をあげて写真を撮りまくった。

 飼育員の青年はステージで完全にフリーズしていて、立ったまま気を失っていた。

「長生きすると、こんなにおもしろいものが見れるんだね。ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」

 キツ子が手を擦りあわせて拝めば、その横で太郎と花子が羨ましそうに涙ぐんで伊吹を見つめた。

「いいな、イブちゃんばっかり」

「いいな、イブちゃんばっかり」

 勢実は大口を開けて額の髪をかきむしり、ムンクの叫び状態だ。

 水族館から帰る頃には勢実の額に何本の髪の毛が残っているだろうかと思うと、万作はこんな時にも関わらず気の毒になってしまう。

 万作がちょっと目を離した隙に伊吹は再び水の中に連れ去られていた。

 アクリル壁に顔を擦りつけてプールの底を覗くと、イルカたちにくちばしで盛んに体のあちこちをつつかれている。

 それを伊吹が押し返したり、耳をふさいで背中を丸めたり、なにか言い返すみたいに食ってかかる様子がぼんやり見える。

 それにしても、あの三頭のイルカと一人の人間は何をこそこそやっているのだろう。見ていると、どうも話をしているように見えるのだが。

 話をするならするで、水の底ではなく水の上ですればいいではないかと思ってしまう。

あれでは伊吹の息が続かない。

 とにかく上がってこい!

 万作の恐怖は頂点に達し気も狂わんばかりだった。

 万作がアクリル壁にしがみついて必死の形相で水中のはるか下を見下ろしていると、三頭のイルカが万作を見上げてニヤッと笑った。

 ような、気がした。

「くっそお! 伊吹を返せ!」

 我慢が切れて今度こそ宝子や一子や二子や三子の腕をふりほどいてアクリル壁のてっぺんに両腕で体を乗り上げた。

 まさに水の中にダイブしようとしたとき、それに気づいた三頭のイルカが伊吹の体をくちばしで支えて急浮上してきた。

 ほの暗い水底から次第に鮮明になってくるイルカと伊吹の姿に観覧席がどよめく。盛大な水しぶきをあげて水面に躍り出たイルカと伊吹は、全身から水を滴らせて太陽に輝いた。

 シャワーのように水滴が空中に広がり鮮やかな虹が出現した。

 その虹のアーチに伊吹の体が舞った。

 伊吹は天使のように愛らしかった。

 観覧席からはこれ以上はないというくらい盛大な歓声と拍手が起こり、宝子や一子や二子や三子ばかりではなく、キツ子も太郎も花子も高々と空中で一回転する伊吹の華奢な姿に興奮し、金切り声を上げて手を振り回した。

「イブちゃん、かわいいー!」

「イブ、こっち向け」

「ピースサインしろ」

「そこで三回ワンワン吠えろ」

 手を振り回しながら興奮のあまり飛び跳ねている相田家の女たちを完全に無視して、万作は大きく両腕を広げて伊吹が落ちてくる方向に動いた。

 イルカたちは万作が受け止めやすいところを狙って伊吹を放り投げたのかは知らないが、放物線を描いて落ちてきた伊吹は、万作の大きな力強い腕の中にすっぽりと収まった。

 水面に顔を出してそれを見ていたイルカたちが、満足げに頭を縦にふりふりしている。

「伊吹!」

 万作は腕の中の伊吹に夢中で声をかけたが、伊吹の目は据わっていて、かなり怒っているのか、いつもなら泣き出すのに、万作の腕の中から飛び出してアクリル壁に飛びついて再びプールに身を乗り出した。

「このバカ! また飛び込むつもりか」

 伊吹の耳には万作の叫び声は聞こえていない。

 アクリル壁のてっぺんに体を乗り出して右手を拳にして振り回し、わめきだした。

「ペコ、パコ、ポコのバカやろー。死ぬとこだったじゃないか。水族館の人に言いたいことがあるなら自分たちで言えよ。ぼくを巻き込むんじゃない。だいいち、ぼくは半魚人じゃないんだぞ。水の中で息なんかできるか。息止めだって十秒しかもたないんだぞ。プールの授業だって泳いでいるように見せて、ほんとは足で歩いているんだからな。それなのに、水の中に引きずり込むなんて、とんでもないぞ」

 水面に体半分出しているイルカたちが頭をふりふりしながら楽しそうにカタカタ笑う。

「笑ってごまかしてもだめだぞ。おまえたちの言い分なんて水族館の人たちに言ってやるもんか」

 ショーが終わったと思った観客たちがぞろぞろ帰って行くのと入れ違いに、フリーズがら解凍された飼育員の青年と水族館の責任者が真っ青な顔をしてやってきた。

 イルカたちが水族館の職員を見て待ってましたとばかりに空中にジャンプする。

 盛大に水しぶきが伊吹にかかった。

 伊吹が水にむせながらまたイルカに喚き散らした。

「ペコ、パコ、ポコ。だいたいおまえたちは贅沢なんだよ。なにが食い物がマンネリで飽きたからもっとメニューを増やせだ。それにイルカショーの労働は動物虐待だから待遇を改善しろなんて、おまえたちはイルカの組合の交渉係りなのかよ。パコが腰が痛くてくす玉割りがつらいだの、ペコが筋肉痛でジャンプは休ませろだの、ポコは鰭の具合が悪いから針を打ってれなんて、ぼく知らないよ。それに、体調を崩しているトコは病気じゃなくて、江ノ島水族館にトレードされた恋人のノコと別れ別れになった寂しさで鬱病になってしまってんだからノコを呼び戻せなんて、ぼくに関係ないだろ。おまけにトンネル水槽のカメのアルフレッドが岩の隙間に挟まって出てこないのは、鳥羽水族に帰りたくてホームシックになってるからだなて、ぼくが知るかよ。それから、フンボルトペンギンのフランソワが食欲がなくて元気がないのは高齢だからじゃなくて便秘のせいだから医者にそう言えって、ぼくはおまえたちのメッセンジャーかよ! 誰が親切に代弁なんかしてやるか。悔しかったら自分たちで人間の言葉で話して見ろ。また来いなんて図々しいぞ。待ってるなんて言っても来てやるもんか。え? ペコは妊娠んしてるの? 来る来る、赤ちゃんが生まれたら絶対見に来るよ。そのときは赤ちゃんを抱かせてね。うん。約束だよ!」

 イルカたちは片手を伊吹にひらひらさせてから三頭そろって水中に潜って見えなくなった。

水族館の職員二人が呆然と伊吹を見つめていた。

「本田君、ペコが妊娠してるって、そうなのか」

「いや、その、ペコからは何も聞いていませんが」

「ペコがママに……誰の子だ。パコの腰痛、ピコの筋肉痛、ポコの鰭に鍼治療、トコの恋わずらいに、カメのアルフレッドのホームシックに、フンボルトペンギンのフランソワが便秘」

 水族館の責任者は譫言のようにつぶやき続けたあげく、ゆらりと体をゆらして倒れかかった。

 本田青年が慌てて抱き止めて医務室に連れて行った。

 全身ずぶ濡れの伊吹をアクリル壁から引きずりおろして、やっと正気に戻って万作を見上げた伊吹の頬を、万作は手を振りかざして力一杯叩いた。

 凄い音がした。

 濡れた頬を叩かれて、伊吹の華奢な体が吹っ飛びコンクリートの床に叩きつけられた。

 周りの者が息をのんだ。

 万作が伊吹を叩いたのを初めてみた相田家の女たちは、伊吹以上にショックを受けた。万作が伊吹を叩くなんてあり得ないことだった。

 たとえ何があっても万作は小さな伊吹の保護者であり、同い年ではあるが兄のような存在であり、伊吹のことを深く愛していることを家族全員が知っていた。

 その万作が、顔を真っ赤にして鬼のような形相で体を振るわせて伊吹を睨みつけていた。

「なにするんだよ、万札!」

 伊吹は跳ね起きて万作に飛びかかろうとした。拳を固めて振り上げた手を、万作の分厚い胸に叩き込もうとして伊吹の手が止まった。

 万作は目を真っ赤にして伊吹を睨みつけていた。口元が細かくふるえている。伊吹は胸を突かれた。万作の目尻にじわじわと涙が盛り上がってくる。噛みしめた顎は嗚咽をもらすまいとさらに力が入った。

 万札……。

 伊吹は力なく固めた拳を下に下ろした。万作を見ていられなくてうなだれる。

 万札……。

 怖い思いをしたのは万作のほうだったんだと気がついて伊吹は胸がいっぱいになった。

こんなに心配していたなんて知らなかった。

はじめて叩かれた頬の痛みより、胸のほうが痛かった。伊吹はうなだれたまま、ぽろりと涙をこぼした。しかし、万作が泣くのを我慢しているのだから、自分も泣くのを我慢しなければいけないと思った。

 いつもなら、すぐに万作の胸の中に飛び込んでいくのに、それができなかった。わずかに空いた二人の距離が、なぜかとても遠くに感じた。

「万作さん、大丈夫よ」

 宝子がそっと万作のふるえる背中に手を置いた。

「うちのイブちゃんが死ぬわけないじゃない。イブちゃんは神様に祝福されて生まれてきた天使なんだから」

 一子も万作の腕をとって慰める。

「バカな天使は死なないようにできてるんだよ」

 二子が万作の肩をたたいて笑う。

 三子が万作の脱ぎ捨てたTシャツを拾ってきて万作に投げた。

「服着ろよ。体はでかくても、おまえもやっぱりまだ子供なんだな」

 万作が女たちに取り囲まれて慰められながら出口に歩いていくのを、伊吹はしゃくりあげながら見ていた。

 キツ子がワニ皮のポシェットからタオルのハンカチを出して伊吹の顔を拭いてくれた。

「伊吹ちゃんはいつもこうやってみんなに心配かけたり迷惑かけたりしているのかい? おまえさんは落ち着きが足りないんだよ。太郎と花子よりお兄ちゃんなんだから、ちょっとはちゃんとしないとね。太郎と花子のお手本にならなきゃだめだよ。お兄ちゃんなんだからね」

「うん。お兄ちゃんだもんね。ぼく、いいお兄ちゃんになるよ」

「イブちゃんはボクのお兄ちゃん!」

「イブちゃんは花子のお兄ちゃん!」

 太郎と花子が両方から飛びついてきた。

 キツ子が伊吹の頭を撫でながら太郎と花子をつれて万作たちのあとに続いた。

 勢実は、母親と子供たちからも完全に忘れられた。

「男は仕事だ。仕事は自分を裏切らない。私は仕事で見返してやる。誰にも負けないぞ。誰からも一目置かれる仕事人間になってやる。無視できないくらい有能な存在になってやる。勢実真さんがいないとだめだわ、勢実真さんはどこどこどこと言わせてやるぞ!」

 勢実は自分を鼓舞するために声に出して胸をはってキツ子と子供たちのあとを追った。

しかし、みじめさは隠せなかった。

 その夜、伊吹と万作はベッドの右と左にわかれて眠った。

 翌朝、万作が目を覚ましてみると、伊吹は万作の胸の中で腕をからめ、万作の腹に足を乗せて眠っていた。

 すべすべのピンクのほっぺにふさふさした睫が影を落とし、プックリした赤い唇がうっすら開いて真珠のような前歯が覗いている。

 万作は伊吹の鼻を軽くつまんだ。

 うるさそうに形のいい眉がゆがみ、うっすらと目を開ける。

「万札、まだ寝かせろ」

 顔を振って鼻から指をどかして伊吹は万作にすり寄ってくる。

 万作は深いため息をつきながら伊吹を抱きしめた。

 失うことの恐ろしさを知った万作は、少しだけ大人になったのかもしれない。

 伊吹の愛らしい寝顔を見ているうちに万作も眠っていた。


               ―― 一子ちゃんのデート 完 ――

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