体育館の決戦
相田伊吹≪あいだいぶき≫は高校二年の男の子。みんなからイブと呼ばれてかわいがられているが、伊吹には妄想僻があって、それを言葉に出すものだからトラブルが絶えない。真田幸継≪さなだゆきつぐ≫や土方歳哉≪ひじかたとしや≫、夏目想介≪なつめそうすけ≫らの親友に守られて、今日もイブの妄想は花開く。
柔らかかった陽射しも強さを増してきて、六月だというのに真夏の暑さになるときがある。
今日も気温がぐんぐん上がった。
放課後の教室で、窓から入ってくる風に心地よく吹かれていた夏目が「退屈だなぁ」と髪をなびかせて、優雅にあくびをした。
教室はほとんどの生徒が帰宅して閑散としている。残っているのは夏目と真田と伊吹と、あと数名ぐらいだ。
円谷瞳は七限終了後、掃除当番をさぼってさっさと帰っていったので、伊吹も学校に残っていても仕方がないから帰り支度をしていた。
「今日は珍しく平和だったしな」
夏目が半袖のシャツから伸びた腕をさすりながら意味ありげに真田に笑いかける。
伊吹は教科書を入れ終わった学校指定のスクールバッグを肩に掛けた。
「じゃ、ぼく帰るね。また明日」
真田が、帰りかけた伊吹の肩に肘を乗せて顔をのぞきこんできた。
「ちょっと土方を覗きに行ってみようよ」
「土方はバレーの部活でしょ」
「たまには見に行ってあげようよ」
「興味ない」
つれない伊吹に真田は顔を寄せてささやいた。
「円谷さんが近藤さんと仲良しなの知ってるよね」
「うん。いつも近藤勇子さんと三島由紀菜さんがここにきて円谷瞳さんと三人でお弁当を食べているからね」
当然だと言わんばかりの伊吹の頬を指で突ついて、真田は陰謀を宿した目をさりげなく細めた。
「円谷さんは体育館に行ったみたいだよ。近藤勇子さんも土方のコートと隣り合わせのコートで練習しているんだよね」
「円谷瞳さん! 行く行く。体育館に行く。円谷瞳さん!」
大きな目をくりくりさせて伊吹が教室を飛び出していこうとする。
「イブ、ゆっくりでいいよ。転ぶから」
襟を掴んで引き戻す。
真田と夏目に挟まれて、スクールバックを肩に掛けた伊吹がスキップしかねない様子で教室を出ていくと、教室に残っていた生徒たちが一斉に携帯を出してメールを打ちながら三人のあとをついていった。
体育館に行くまでのあいだに、メールを受けた生徒たちが続々と集まりだして人数が膨らんでいく。
教室棟の二階フロアスペースから渡り廊下を歩いて特別教室棟へ行き、長い廊下を歩いて階段を降りて、体育館に行く。
体育館はバレーボールのコートが二面とれる広さがあり、剣道場と柔道場が隣接している。
体育館に近づいただけで運動部の連中の大声がひと固まりになって聞こえてきた。動物園の動物たちが一斉に遠吠えしているような、ありとあらゆる音程の声が混じりあった音だ。開け放してある窓から風は抜けていくが、中にはいるとやはりむっとして暑い。
――どいつもこいつもガタいがいいからそれだけでも体温高いのに、バカじゃないかと思うくらい動き回っているからよけい体育館の室温が上がるんだ。どうしてこんなに動き回るんだろう。あんなに汗かいちゃってさ、息だってハアハアいっちゃって暑苦しいったらないよ。CO2を大量生産してることに気がついてないのかな。ぼくは運動部の頑張りとか、根性とか、団結とか、チームプレイとかって大嫌いなんだ。すっごく、ウザい。そんでもって、たとえばサッカーなんか、ゴールを決めると走ってきて強く抱きつくんだよね。中には飛びついて両手両足でしがみつく選手もいたりして、びっくりしちゃうよ。あれって、へんじゃない? 恥ずかしくない? 男同士で、ガバって抱きつくんだよ? 汗びっしょりでさ、ユニフォームなんか絞れるほど汗で濡れてるのにさ、それなのにものすごい力で抱きついてんの。汗と体温と臭いが気持ち悪くないのかな。スポーツする人って、すぐ抱きつくんだよね。あれ、わかんない。人とくっつくって、特別な関係の人とならくっつけるけど、あの人たちって、みんな特別な関係なのかな。ぼくは男同士で抱き合うなんてイヤだな。気持ち悪い。ぼくはいや。スポーツいや。汗になるのいや。疲れること、したくない。涼しいところでマンガよんでごろごろしてるほうがいい――。
「イブの運動ぎらいはわかったからさ。ほんと、体育館は暑いよね」
真田がわざとらしく額の汗を拭いてみせる。
もちろん額には汗などかいていない。二面のコートでは男子と女子に分かれて練習をしていた。
バレーボール部員は伊吹が言うように皆体格がいい。女子もそうだ。
跳躍してネットのはるか上から打ち落とされるボールの威力は半端ではない。
エースアタッカーの土方は見事なスパイクを決めて相手チームの一人をつぶしてから、体育館に入ってきた伊吹たちに気がついた。珍しいこともあるもんだというように肩を揺する。表情に出なくても土方は三人の見学に気をよくしていた。
土方の声にいっそうの力がこもってボールをたたき返した。
隣のコートでは女子がコートのアタックラインにカラーコーンを置いて、サーブで当てる練習をしていた。
近藤勇子のひときわ大きな声が響く。近藤勇子は土方に心酔していて髪型まで土方のように短くカットしている。さすがに男のようにスポーツ刈りとまではいかないが、厳つい筋肉質の体格にベリーショートははまりすぎていて、りりしい太い眉と相まって近藤勇子は女子の中でかなり目立っていた。
――すごいな。近藤勇子さんの体操着姿。全身筋肉だもんね。腕も足もぼくの三倍だよ。
万札といい勝負だ。髪は短いし、顔は怖いし、怒鳴り声は猛獣みたいだし、おっぱいなんか筋肉でできてるみたい。さわったら堅そー。どすこい山田先生のおっぱいのほうが絶対柔らかいな。そういえば、女のひとのボディビルダーっていうのをテレビで見たことがあるけど、全身筋肉と血管だらけで怖かったな。ちっちゃいビキニの水着着て手足が絡まったみたいなポーズとってたけど、あれで笑顔になられても一緒に笑う気になれないよね。
あんながちがちの体のどこがいいんだろう。バットでぶん殴ってもバットが折れちゃいそうじゃない。ああいうひとを奥さんにしたいひとっているのかな。あれならぼくとしては女子プロの女のひとのほうがまだマシだな。ところで、円谷瞳さん、どこかな――。
伊吹は体育館の中をきょろきょろ見回した。
真田と伊吹と夏目は体育館の壁に寄りかかってバレー部員の練習風景を見物していたが、出入り口は携帯で集合した生徒たちで押し合いになっていた。体育館の中もうるさいが外もうるさい。
「ほんとに暑いね、イブ。襟元すこし広げたら」
なにげなく真田が伊吹のワイシャツのボタンを一つはずした。
さっきから伊吹ばかりみている男子部員がいた。彼は伊吹のワイシャツのボタンが一つはずれただけで過剰に反応した。見た目はまあまあで、どちらかというと男っぽくてモテそうなノッポだ。伊吹が体育館に入ってきたときから落ち着きをなくしてそわそわしぱなしで顔が赤くなっている。
「芸田のやつ、早くも目が充血してきたよ」
こそこそと真田が夏目にささやいた。
万作と同じクラスにいる男子バレーボール部の芸田部長は、玉拾いをしている側近の男子を呼びつけると、何か耳打ちした。
「えー、芸田先輩、これから花を買いにですか」
「ばか、正面玄関の受付ホールに草月流の生け花が飾ってあるだろ。あれを至急かっぱらって来いといってるんだよ。早く行け。イブちゃんが帰っちゃうだろ。イブちゃんがいるうちに戻ってこなかったら、どうなるかわかってるだろうな」
「はい!速攻で行ってきますっス」
いいつかった男子が慌ててボールを放り投げて体育館を飛び出していった。
「イブちゃん、なんてかわいいんだ。まるで天使だ。さらさら揺れる髪、バラ色のほっぺ、くりくりした大きな瞳、つまみたくなる小さな鼻に、ぷっくりした柔らかそうな赤い小さな唇。それにあの声。あの声で甘えられたら僕は昇天しちゃうよ」
芸田の夢見るつぶやきは土方はもちろんのこと、真田と夏目にも聞こえたが、伊吹は円谷瞳がいないのでぶつぶつ文句を言っていて聞いていなかった。
真田が伊吹の後ろから手を伸ばしてまたボタンを一つはずした。
細い鎖骨が見えて薄い胸板もちらちら見える。
芸田の鼻から早くも赤いものが滴り落ちた。真田と夏目がクスクス笑いだす。二人の目的を察してコートの中の土方が顔をしかめた。
芸田に使いに出されていた男子部員が水の滴っているピンクのカーネーションを一抱え持って走り込んできた。
「芸田先輩、遅くなりましたっす」
「ご苦労」
えらそうに受け取って、かっぱらってきた花束を抱えて伊吹に近づいていく。
その時二人の男子生徒が出入り口のギャラリーを突破して転がるように体育館に入ってきた。
一人はテニスのラケットを持ったままで、今までテニスコートで硬球を追いかけていたらしく、短パンの足はすね毛まで汗で濡れている。顔はまあまあだ。
「イブちゃんはどこだ。僕のかわいいイブちゃん!」
短パンすね毛の二年の保藻田がわめくと、もう一人の小柄で内股の二年の釜田がロン毛を撫でつけながら負けずに言う。
「僕のかわいい妹のイブちゃんはどこ、どこ」
ロン毛の釜田もロン毛を切ったら顔はまあまあだ。
「いつからイブは釜田の妹になったんだ」
真田は首をひねった。
「イブだって知らないんじゃない?」
のほほんと夏目がこたえる。
芸田がかっぱらったカーネーションを抱えていそいそと伊吹に近づいてくると、それを目ざとく見つけた保藻田と釜田が先を争って伊吹に駆け寄った。
そこを見計らって真田が一気に伊吹のシャツのボタンを全開にして前を広げて見せた。
体育館の中からも外のギャラリーからも悲鳴と歓声が上がる。
小さくて華奢な伊吹の白い肌に咲いたピンクの花びらのように可憐な二つの胸の飾りに、芸田が盛大に鼻血を吹き上げ、保藻田が奇声を発して股間を押さえ、釜田は頭のてっぺんから悲鳴をあげて自分の胸を両手で隠して真っ赤になった。
「なにするんだよ、真田!」
伊吹は振り返りざま真田の顔面にパンチをくらわせた。
真田がよろめいて尻餅をついた。しかし、その手にはしっかり伊吹のワイシャツをむしり取っていた。
痛そうに顔をさすっている真田を見て夏目が猿みたいに手を叩いて笑ったので、珍しく怒った真田は夏目に殴りかかった。
上半身はだかに剥かれた伊吹は伊吹で腹を立て、ワイシャツを取り戻すために殴りあっている真田と夏目のあいだに割り込んでいこうとする。
「イブちゃん!セクシー」
芸田が叫ぶ。
「イブちゃん、魂捧げます」
保藻田が叫ぶ。
「イブちゃん、女の子がだめよ、裸なんて」
釜田が叫ぶ。
そして三人が一斉に伊吹に殺到して抱きついた。
と、思ったら、土方のくりだす音速スパイクが芸田と保藻田と釜田の頭部に炸裂した。
完璧なコントロール、完璧に力加減のない強烈さで脳味噌が耳からこぼれそうだ。土方は次々とスパイクを繰り出した。
芸田はバレーボール部の部長だからさすがにボレーやアンダーハンドパスやオーバーハンドパスで華麗に反撃してくる。
保藻田もテニスラケットでボレーを決めてくる。
釜田も意外な機敏さでボールを右に左にと牛若丸のように避ける。
土方は真田と夏目にも腹を立てていた。芸田や保藻田や釜田にボールをスパイクしながら真田と夏目にも容赦なくボールを叩きつけた。
黙ってみていなかったのは芸田の取り巻きのバレーボール部員で、彼らは芸田の加勢にと体育館の四方に散って土方にスパイクの集中砲火を浴びせだした。
土方がいくらガタイがいいからといっても部員たちから狙い撃ちされたのではたまったものではない。雨アラレと降ってくるボールを受けきれずについに音をあげて吠えた。
「痛てーだろーがコノヤロ!」
近藤勇子の頬がビクリと動いた。
「わたしの土方殿に手を出すとは、許せん!」
近藤勇子が烈火のごとく打ちおろしたボールの先にいたのは伊吹だった。
「男をたぶらかす魔性の少年め! 思い知れ」
高らかに勝利の哄笑に酔う近藤勇子の視線の先で、ボールにはね飛ばされた伊吹が体育館の宙を舞った。
「なんでこうなるのよ。なんでぼくなの!」
宙を飛んでいく伊吹のあとを追って芸田と保藻田と釜田が駆けていく。
芸田の取り巻き連中は芸田が怖いから伊吹にちょっかいを出すのを控えているが、もともと伊吹は彼らの隠れアイドルだから、伊吹に痛い思いをさせた男おんなに腹を立てた。
「近藤勇子め。イブちゃんをいじめるとは、ふとどきな」
土方を狙っていたのが一転、近藤勇子を狙ってボールを打ち始めた。
「勇子様になにするのよ。下がれ、下郎」
女子バレーボール部員がいっせいに吼えた。
こうして男子と女子のボール合戦の火蓋が切って落とされた。
大混乱のさなか、伊吹は芸田の腕の中に落下し、汚れをしらない唇を芸田に奪われ、保藻田に横取りされて、芸田に汚された唇を保藻田に奪われ、さらに釜田に抱き取られてパンツの中に手を入れられ、汚れをしらない尻の素肌を撫でられた。
「ウォッエー!気持ち悪い、吐きそー。だれでもいいから助けろー!」
伊吹は釜田に抱かれて失神しそうになりながら叫んだ。
「そろそろ回収するか」
真田が言う。
「やりすぎたね。狂乱状態だよ」
夏目がクールに笑う。
怒号と悲鳴と女子の叫ぶ声が交錯し、無数のボールが人の体に当たる鈍い音が爆音のように響く中をかいくぐって、猛獣のような男が一直線に伊吹に向かって突進してきた。
「イブ! 助けに来たぞ」
「遅いよ万札!」
釜田の腕を振りきって両手を伸ばすとすぐ抱き上げられる。
万作はひっしと伊吹を懐にくるむと、芸田、保藻田、釜田の順にサッカーのボールを蹴るように蹴り飛ばした。
「ギャェェエエー!」
奇声を発して三人が体育館の二階の窓から消えていった。三人とも、さすがに同じクラスだけあって息の合った放物線だった。
上半身裸でピイピイ泣いている伊吹にため息をつく暇もなく、万作は鋭く血走った目で真田と夏目を探した。
そのときにはすでに真田も夏目も、ついでに土方も姿を消していた。
肩で息をして怒りを露わにしている万作に、伊吹は甘えるように上目遣いで涙に濡れた長い睫をシバシバさせた。
「万札、変態にファーストキスされちゃった。お尻もナデナデされた。ぼく、お嫁にいけない体になっちゃた」
「ッウウゥ!このバカ息子が!!いっぺん死んでこい」
伊吹は万作の中では出来の悪い弟のような存在であったが、時々出来が悪すぎて泣けてくるバカ息子のようにも思える万作だった。
―― 体育館の決戦 完 ――