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イヴの妄想  作者: 深瀬静流
16/17

恐怖の集団デート

相田伊吹≪あいだいぶき≫は高校二年の男の子。みんなからイブと呼ばれてかわいがられているが、伊吹には妄想僻があって、それを言葉に出すものだからトラブルが絶えない。真田幸継≪さなだゆきつぐ≫や土方歳哉≪ひじかたとしや≫、夏目想介≪なつめそうすけ≫らの親友に守られて、今日もイブの妄想は花開く。


「フンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフン」

 伊吹はご機嫌で鼻歌を歌っていた。

 頭をふりふり、肩をふりふり、ついでにお尻もふりふりさせて、小さくて可愛い小鼻を膨らませながら一本調子の鼻歌を延々と続けている。

「フンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフン」

 伊吹の左には円谷瞳がいて、右には花屋敷のばらがいる。円谷瞳の横には真田、花屋敷のばらの横には万作が並ぶ。

 その後ろには、なぜだか保藻田と芸田と釜田が続き、伊吹の揺れるおもちゃのようなお尻を食い入るように見つめている。

 さらにその後ろには土方と、土方を守るように肩をいからせた近藤勇子がいて、夏目の横にはめがねの奥に幸せをにじませた三島由紀菜がいた。

 彼らの後ろにはバスをチャーターして駆けつけた万作の親衛隊が群がり、さらに近藤勇子を隊長と仰ぐバレー部員がユニホーム姿でボールを手に手に集結し、その後ろには花屋敷のばらの使用人Aとその部下の白スーツ軍団が、遠足気分でワイワイガヤガヤ歩いていた。

 ここはぺこ、パコ、トコのイルカたちがいる水族館で、真田が学校で、今度の日曜にみんなでどこかに行こうかと言った一言で集まってきた連中だった。

 異様な集団に一般の入場者は恐れをなして、そそくさと出口に行ってしまった。

「フンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフン」

 伊吹のお経のように陰気くさくて単調な鼻歌が線香の煙のように館内に流れていく。円谷瞳が危険なくらい邪悪な瞳を釣り上げた。花屋敷のばらのカールしたロングヘアーも毒を吹く蛇のようにうねり出す。

「フンフンフン。ウッフゥーン。なんてね?」

 一人だけご機嫌な伊吹の両頬を円谷瞳と花屋敷のばらが左と右から同時に平手打ちをした。

「ギャッビィイー!痛ああああああーい」

「苛つくんだよ、蚊トンボ。つぶされたくなかったら黙ってろ」と、円谷瞳。

「静かになさいチビ助! わたくしの神経細胞をナノ単位で粉砕する気ですか」と、花屋敷のばら。

 頬っぺたを押さえて蚤のように飛び跳ねながら大泣きしている伊吹の声をかき消しすほどの大声で二人が同時に怒鳴った。

 万作が伊吹のそばに行こうとするより早く釜田がびたっと伊吹に抱きついた。

「よしよし、いい子ねイブちゃん。かわいいイブちゃんを叩くなんて、かわいそうにね。あの人たちは、女の皮を被った怖い男なのよ。近寄ったらひどい目にあいまちゅからね。ほらほら、女の子がそんなに大きな口を開けて泣いたら笑われちゃいまちゅよ。おねえさんがほっぺにチュッして、痛いのをとってあげまちゅからね」

 タコ口を伊吹の頬に押しつけようとする釜田の頭を背の高い保藻田が鷲掴みにして止めた。

「おまえのチュッなんか汚くて腐るだろ。イブちゃんは俺が抱っこしてよしよしするんだ、ボケ」

「バカめ、イブちゃんは俺が懐にくるんで寝んねさせるんだよ!」

 芸田が保藻田に突っかかっていく隙に、小柄な釜田は伊吹の手を引いて水槽のほうに走って行った。

「見て見てイブちゃん。あそこのお魚、アホの保藻田みたいよ。こっちのお魚はボケの芸田に似てるわね」

 途端に泣きやんで、伊吹は水槽を覗き込む。

「わ、ほんとだ。釜田、知ってる? べろをこうすると、魚ってべろを餌だと思って寄ってくるんだよ」

 そう言うと、伊吹はおもいきり舌を突き出して水槽のガラスに押し当てた。

 ピンク色の舌がアワビのようにうごめくと、魚が次々に集まりだした。

「きゅあー、イブちゃん、すっごーい」

 手を叩いて釜田が喜ぶと、調子に乗った伊吹がさらに舌をガラスに押しつけてねくねさせた。

「うっ、イブちゃん。そういうことは二人だけの時にしてえ。刺激が強すぎよ、我慢できない!」

 釜田が伊吹の両肩を掴んで自分のほうに向かせると、突き出したままの舌をぱくりと食べた。

「ぎゃわわわああーん、釜田にベロを食べられちゃったよお。釜田の口、臭ッさあーい。うおぉえええ」

「釜田、コノヤロ!」

「釜田、テメ!」

 小柄なくせにやけに身体能力が発達している釜田は、飛び掛ってくる保藻田と芸田の腕をかいくぐって脱兎のごとく逃げ出した。スポーツで鍛えた保藻田と芸田が追いかけて走り去っていく後姿を眺めながら、傷ついたように真田が呟いた。

「釜田って策士だよな。イブの口舐めることに成功したのは釜田だけだよ。それも二回」

 真田は釜田の策士ぶりに嫉妬したのか、あるいは伊吹の口を舐めることができた釜田に嫉妬しているのかどちらなのだろうと考えて、土方は単純な頭を混乱させた。夏目一人が声を出さずに腹を抱えて笑い転げている。

 万作が伊吹の背中のリュックからペットボトルの水を出してわたしてやると、伊吹は盛大な音をたててうがいをし、水槽に身を乗り出して魚の上に吐き出した。

「ああ、すきりした。死ぬかと思った」

 死ぬのはもしかしたら水槽を汚された魚のほうかもしれない。とんでもないことである。

 万作が伊吹のリュックから、宝子の用意してくれたおやつ袋からキャンディを取って伊吹の口に入れてやる。

 機嫌をなおした伊吹の鼻歌がまた始まった。

「フンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフンフン」

 頭ふりふり、肩もふりふり、かわいい小さなお尻もふりふり。

 しかし、こんどは誰も伊吹の鼻歌をうるさいという者はいない。万作のかいがいしい伊吹の世話の仕方に開いた口が塞がらないでいる。花屋敷のばらの顔色が徐々に変色してきた。

「チビ助が……ライバル……」

 自分が呟いたのもわからないでいる。

「円谷瞳さん、ほら、あのクラゲの水槽の中のアカクラゲ、見ていると優雅できれいだけど、傘の下のリボンみたいな触手には刺胞≪しほう≫っていう毒の発射装置があるんだよ。刺されるとかなり痛いんだって。なんだか、円谷瞳さんみたいだね?」

 楽しそうに水槽を指さして円谷瞳に話しかける伊吹は幸せそうだ。しかし、話しかけられた円谷瞳はたちまち正気に戻った。

「わたしが毒クラゲだって? どの口で言ってるんだ、この口か」

 ムギューと口をつねりあげられて伊吹は飛び上がった。すかさず万作が円谷瞳の手を軽くねじりあげた。円谷瞳の毒針から解放された伊吹が半べそで口を押さえてうずくまれば、円谷瞳が万作に掴まれている手首をこれ見よがしに真田に見せて身をよじる。

「痛ったーい、たすけてえー、真田さーん。たすけてえぇぇぇ」

 真田はぎょっとして顔を背けた。

 近藤勇子が進み出る。

「その手を放されよ、福沢殿。か弱い乙女を責めてなんとする。この近藤が、お相手いたそうか」

 万作はばつが悪そうに円谷瞳の手首を放した。険悪になりかかった雰囲気を一掃するような爽やかな青年が、水族館の飼育員のユニフォームとゴム長靴姿でやってきた。

「やあ、伊吹君、ここにいたのか。さがしていたんだよ。あ、万作君も一緒なんだ」

「本田さん、こんにちは」

 万作が挨拶すると、本田青年はにこにこしながら青少年たちを見回してから、うずくまって口を押さえてべそをかいている伊吹を見下ろした。

「どうしたの伊吹君。泣いてるの?」

 立ち上がる伊吹に手を貸しながら訊ねると、伊吹は首を横に振った。

「なんでもないの、ふざけて円谷瞳さんの手が当たっただけなの」

 円谷瞳をかばった伊吹に真田と土方と夏目が驚いていると、伊吹は友人らを指して本田青年に誇らしく胸を張った。

「紹介するね。真田幸継と土方歳哉と夏目想介はクラスメイトで、近藤勇子さんは土方の彼女で、三島由紀菜さんは夏目の彼女で、鼻くそ屋敷のブタは万作に嫌われている許嫁で、世界で一番かわいい円谷瞳さんは将来ぼくのお嫁さんになる人だよ」

 土方と夏目は青ざめ、近藤勇子と三島由紀菜は真っ赤になってもじもじとうつむき、花屋敷のばらは万作から嫌われていると言われてわなわな震え出す。

 円谷瞳は鬼面になって伊吹の顔面に拳を叩きつけた。が、顔面に炸裂する前に万作の手が円谷瞳の拳を包み込んで受け止めた。

 眼前で繰り広げられた円谷瞳と万作の攻防も目に入らないような暢気さで、伊吹は背中のリュックからラッピングされた菓子箱を取り出した。

「これ、一子ちゃんが焼いたハートのクッキー。本田さんに渡してって頼まれたんだ」

「一子さんが。そう。照れるな。うれしいよ」

「一子ちゃんの焼いたクッキーは甘くておいしいよ。ゆうべ遅くまで焼いていたんだよ」

「そうか。あとで電話しておくよ。ところで伊吹君、裏の水槽のほうに来てくれないかな。みてもらいたい生体があるんだけど」

「うん、いいよ。以前話していたラッコのことかな」

「そうなんだ、じゃ、こっちへ」

 伊吹の肩に手を回して通路のスタッフ専用のドアに歩きかけた本田青年に、万作が慌てて声をかけた。

「本田さん、俺も行きます」

 足を止めて振り向いた本田青年は、わかっているというように笑った。

「だいじょうぶだよ万作君。伊吹君のことは充分注意するよ。絶対危険な目にあわせないから」

「いや、一緒に行きます。イブは俺でないとだめですから」

 ぴくんと花屋敷のばらが反応した。しかし、万作は伊吹のことしか頭にない。本田青年は困ったように男らしい眉を下げた。

「万作君。少しは伊吹君を信用しようよ。伊吹君だって高校二年生なんだからさ。万作君がいなくても丈夫だと思うよ。過保護も過ぎれば、伊吹君の成長の妨げになるんじゃないのかな」

 本田さんは伊吹が歩く危険物だと言うことを知らないのだと反発したくなったが、過保護も過ぎれば成長の妨げになるといわれては万作も引かざるをえない。

 万作の留学まであと一年と六ヶ月。米国の新学期は九月から始まるが、万作は高校を卒業したら間をおかずに渡米することまで決まっている。ホームステイ先も、そのほかのこまごまとしたことまで父の金作と母の富が電話で連絡を取り合って関係各位と打ち合わせが済んでいる。万作は渡米するまでに、なんとか伊吹を心配しないですむくらいにはしっかりさせたいと思っているのだが、知らないうちに過保護の世話焼きになっているのもまた事実で、それを本田青年から指摘されたのは自分でわかっているだけにきつかった。

「ごめんね万作君。伊吹君を借りるね。なるべく早く伊吹君に見てもらいたいんだ」

「ラッコの様子がおかしいの?」

 本田青年と交際している姉の一子から話を聞いていた伊吹は、幼げな顔を心配そうに曇らせた。

「うん。ドクターは悪いところは見あたらないって言っているから、それなら伊吹君でなきゃわからないねって、今日は朝から職員たちがきみが来るのを待っていたんだ」

「そうか、じゃ、行ってみようか」

 本田青年は、何のことかわからないでいる真田たちに振り向いた。

「みんな、すまないね。伊吹君はすぐ返すからね」

 本田青年が伊吹の肩に手をかけてスタッフ専用の廊下に連れだし、万作の目の前で重いドアがかちりと閉じた。

 耳を澄ますと本田青年に連れられて去っていく伊吹の話し声が聞こえる。万作の胸に痛みが走った。閉ざされたドアの前で動けないでいる万作に真田が話しかけた。

「よお、なんでイブだけ特別に水族館の裏側を見学できるの」

「ドクターがなんでもないって言うのに、なんでイブがラッコを診るんだよ」

 土方も納得がいかないというように万作に詰め寄る。

「あのイブが特別扱いかよ! あのイブだぜ?」

 唾をとばしてあきれたように喚く夏目を無視して万作は閉ざされたドアを睨みつけた。

 真田たちに、イブが生き物の気持ちが分かるといっても笑われるだけだとわかっているので、よけいなことを言うつもりはない。万作の頭の中には、水族館の裏側のいくつもの巨大水槽が浮かんでいた。その水槽の周りを職員が歩き回って点検したり餌をやったりするので柵など設けておらず、足下は物など置いていないからつまずくことはないが、どんなに安全なところでも安心といえないのが伊吹だ。

 大きい魚がたくさん泳ぎ回っている巨大水槽に転落する伊吹の映像が万作の脳内に映し出されていた。

 じりじりと不安のあまり汗が額に滲み出す。

「万作様、じゃまなチビ助がいなくなって静かになりましたわね。これでゆっくりお話ができますわ」

 花屋敷のばらがドアの前で固まっている万作の腕に腕を絡めて、ほれぼれと見上げれば、

円谷瞳も負けじと真田に腕を絡める。真田はそろそろと腕を引き抜き、伊吹が消えたドアを恨めしそうに睨んだ。

 近藤勇子は筋肉でできているのかと思うような立派な鼻から息を吹き出して、真っ赤になりながら土方にすり寄ってくる。土方は異空間に飛ばされたように目を開けたまま失神していた。

 夏目は真田と土方のモテ振りに腹を抱えて笑い転げた。

「夏目さん」

 クールビューティーを目指す三島由紀菜が、めがねの奥の怜悧な瞳をさらにカミソリのように細めて、笑ったままの夏目の開いた口に唇を寄せてきた。

「冷たく見えるオンナの心は、新日鐵の溶鉱炉より熱く燃え盛っていることを、この唇が教えてあげる。この唇の熱を、あなたの唇で計ってみない? ウッフン」

 夏目は生まれて初めて本当の恐怖を知った。三島由紀菜を突き飛ばし、スッタッフドアに手をかけた。

「イブ! 俺を置いて行くな!」

 夏目が目にも止まらぬ早業でドアの中に消えた。

「あ! ずるいぞ夏目!」

 真田が叫んで夏目の後を追う。

 「あ! ずるいぞ真田!」

 土方が真田の後を追った。

「なっ! くそっ!」

 不覚にも出遅れた万作はギリリと奥歯を噛んでスッタッフドアを破壊する勢いで土方の後を追った。

「万作様! お待ちになって」

 花屋敷のばらがカナキリ声で追おうとしたら三島由紀菜がカミソリの眼差しでのばらに足払いをかけた。ずでんと転んだのばらに冷たく微笑む。

「わたしが先よ、鼻くそ屋敷のブタ」

「なんですって。わたくしの名前は花屋敷のばらですわよ! 許しません。わたくしに足をかけてただですむと思っているのですかあ! 使用人Aエー、出てきなさい。わたくしを抱き起こして、めがねカマキリをやっつけちゃいなさい!」

 使用人Aが気取った足取りで登場し、宝塚のトップスターのように華麗につま先で一回転した。

「お嬢様、お姫様抱っこになさいますか、赤ちゃん抱っこになさいますか、犬抱きにしますか、猫抱きにしますか、ネズミ抱きにしますか?」

「お姫様抱っこに決まっているでしょう。わたくしが犬猫ネズミに見えますか」

 尻餅をついて使用人Aと花屋敷のばらが言い合っている隙に、円谷瞳がするりとスッタッフドアをくぐろうとした。その円谷瞳の腕を近藤勇子が掴んだ。

「円谷殿、わたしが先に行かせてもらおう。土方殿はわたしの命。恋路ばかりは譲るわけにはまいらん。許されよ」

「それはこっちのせりふよ。わたしのじゃまをするって言うなら近藤さんだって容赦しないわよ」

「その細腕で、この近藤にどこまで立ち向かえるかな?」

 むふふとふてぶてしく笑った近藤勇子の壁のような背中に使用人Aの跳び蹴りが命中した。

「うちのお嬢様よりかわいい姫をいじめたら許しませんよ」

 さしもの近藤勇子も、隙を突かれて後ろから蹴られたのではたまらない。壁が倒れるように顔面から床に倒れ伏した。

「隊長! 男らしいお顔はご無事でしたか!」

 近藤勇子を隊長と仰ぐバレー部員の一団が地響きたてて駆け寄り、近藤勇子の倒れた背中に片足を乗せて腰に手を当て、華麗にほくそ笑む使用人Aに制裁を加えるべくバレーボールの球を音速スパイクし始めた。

 あわや使用人Aがバレーボールの球に蜂の巣にされかかるのを、使用人Aの部下軍団が素早く円陣を組んで立ちふさがり、女子高生の繰り出す球を嬉嬉として打ち返したり、わざと打たれてキャーキャー言ったりしている。

 花屋敷のばらが床に這い蹲って球をよけながら逃げ出す横を、福沢万作親衛隊がどやどやとスタッフドアをくぐろうとした。

「万作様のあとを追っていいのは婚約者のわたくしだけです。万作様の親衛隊などというおかしな団体が近づくことは許しません。使用人A、万作様に近づこうとする女子団体をやっつけちゃいなさい!」

 使用人Aが渋々近藤勇子の背中から足をどけて福沢万作親衛隊に向き直る。

「しかたがないなあ。私の部下軍団よ、二手に分かれてうちのお嬢様を嫌っている万作様の親衛隊もお相手しなさい」

 使用人Aの部下軍団が、新たな女子高生の一団に喜びの雄叫びを上げた。

 円谷瞳が、この混乱の隙にスタッフドアに体をくぐらせる一瞬を、花屋敷のばらは見逃さなかった。円谷瞳の長い黒髪をむんずとつかんで綱引きのように引き戻す。

はしため! 行かせませんわよ」

「うるさい鼻くそ! 放せよ」

 万作に無視されて完全に頭に来ていたのばらは、八つ当たりするように円谷瞳の髪を振り回して投げ飛ばした。円谷瞳の細い体が、やはり細い三島由紀菜に激突し、そのまま近藤勇子の筋肉もりもりの体にドミノ倒しのように倒れかかった。

 円谷瞳と三島由紀菜の下敷きになった近藤勇子から獣のような叫び声があがった。

「ガウォオオオーーー!」

 バレーボールの球とバレー部員一団と使用人A軍団と万作親衛隊が渾然一体となって入り乱れ、奇声、蛮声、雄叫び、高笑いが竜巻のように巻き起こって荒れ狂う水族館の狭い通路で、近藤勇子の発した獣じみた叫び声は、瞬間、その場を凍り付かせた。

「どかれよ、二人とも。重い! どかねばこの近藤、たとえ友であろうとも容赦はせぬぞ!」

 近藤勇子が叫んで仰向けに体を入れ替え、腹を使って二人を豪快に跳ね飛ばした。二メートルほど吹っ飛んで床に転がった円谷瞳がバネのように起きあがる。

「やったな、男オンナ! 少しは無駄な筋肉を脂肪に変えな。ついでに脳みそまで筋肉にするんじゃないぞ」

 相変わらず性格の悪さむき出しで円谷瞳が近藤勇子にくってかかると、三島由紀菜もずれためがねを直しながら近藤勇子を睨みつける。

「近藤さん! 筋肉の発達したあなたの顔が怖いのよ! それにその太い首! イノシシだって負けちゃうわよ」

 女の子に顔や容姿のことだけは言ってはいけない。見た目はどうあれ、近藤勇子は十七歳。花も恥じらう乙女であることに変わりはない。またたくまに血圧が上昇して近藤勇子のこめかみに太い血管が浮き上がった。男らしい凶悪な目がつり上がり、情熱的な分厚い唇が怒りにねじれる。

「むむむんん。恥辱をそそがんは乙女の恥! 二人とも、覚悟せい!」

 弁慶のように突進してきた近藤勇子を、円谷瞳と三島由紀菜は牛若丸のようにひらりひらりとかわしていく。癇癪が破裂したような近藤勇子の大声を合図に、バレー部員の一団と使用人A軍団と福沢万作親衛隊が再び一斉に乱闘を再開した。

 花屋敷のばらは使用人Aにお姫様抱っこをされて、時々頭や顔面にバレーボールの直球を受けて大騒ぎしている。

 大変な有様になっていることも知らずに、水族館の裏側では、伊吹に追いついた夏目や真田、土方、万作がほっと胸をなで下ろしていた。

 伊吹の横にはなぜだか保藻田と芸田と釜田がいて、本田青年やほかの飼育員や獣医の説明を聞きながらプールのような水槽を覗き込んでいる。説明に飽きた伊吹が後ろの壁に取り付けられている配電盤のパネルのスイッチに手を伸ばしたら、釜田が「イブちゃん、それはいじっちゃいけませんよ。いい子ですから、ちゃんとお話を聞きましょうね」といいながら、肩を抱くように連れ戻したりしている。

 保藻田と芸田もさりげなく伊吹の服の裾を掴んで水槽に落ちないように気を配っている。

 万作はほっとすると同時に、自分がいなくてもちゃんと伊吹の面倒を見てくれる友人たちがいることを喜ばしく感じた。しかし同時に、自分がいなくても伊吹には万作の代わりの人間がいることに寂しい思いもした。

 ゴム長靴に履きかえさせられて靴底を消毒して案内された水槽裏は、化学工場を思わせるようなパイプが床から天井まで何本も通っていて、配電盤の電気系統のスイッチが取り付けられ、コンプレッサーのモーター音が響いている。暖房が入っていないせいで、まだ九月のはじめなのだが水を扱う仕事場のせいか冷え込んで寒い。こちらに気づた伊吹が振り向いた。

「あ、夏目、真田、土方。あ、万札も来たんだ」

 うれしそうに鼻水を垂らしながら笑う伊吹に四人はほっと笑みをこぼした。

「なんでイブだけ水族館の裏側見学なんだよ。それって特別扱いだろ」

 真田が誰に言うともなくつぶやく。

「イブは存在そのものが特別だからな」

 真田のつぶやきを拾った土方は、そうこたえながらイブを取り囲んでいる保藻田たちにガンを飛ばした。

「なんでおまえらがここにいるんだよ」

 保藻田たちがにこにこした。

「おまえらが来るのを待っていたんだよ」

 保藻田の、答えになっていない答えに突っ込みを入れるものはいない。自然と伊吹に吸い寄せられるのだ。その伊吹は、ちょこちょこと万作のところに寄ってきてその手を掴んだ。

「万札、見て見て、上から水槽を覗くとすごいんだよ。ほんとの海の中を覗いているみたい」

 そう言いながら水槽のそばに導いていく伊吹に万作は声をかけた。

「ラッコ、どうだった」

「うん、餌の貝をたたいて中を食べるんだけど、どうやら貝のかけらが喉の奥に刺さってしまったみたいで、痛くて食事ができないっていうから、ドクターにそう言って見てもらったら、やっぱり喉の奥に貝のかけらが刺さっていた」

「そうか。よかったな」

「うん。フェイズも喜んでいたよ。フェイズってラッコの名前なんだけど、水族館の人はフェイズのことを勝手にララ子って名前で呼ぶって怒っていたから、それも話してあげたら、これからはフェイズって呼ぶってさ」

「そうか」

 万作の手を握って楽しそうに話している伊吹の手を、万作はさりげなく握り返した。

 みんなのいる水槽の縁に行くと、確かに上から眺める水槽は海の中を覗いているようで、水色の世界に照明が当たり、銀鱗をきらめかせて泳ぐ魚の群は美しかった。


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