万札はわたさない!
夏の暑さが冷めやらぬ九月。それでも全開にした二階校舎の窓から教室に入ってくる風は幾分涼しい。
四時間めの授業が終わって、何事もなく機嫌よく教室を引き上げていくどすこい山田先生の姿が教室から消えると、教室の中は昼の弁当で騒がしくなる。
真田と土方と夏目は、弁当をスクールバックから取り出しながら、ちらちらと伊吹をうかがっていた。
三人は、朝から伊吹の様子がおかしいのを気にしていた。
授業は上の空だし、机を睨みつけてはぶつぶつ口を動かしている。声に出さずにぶつぶつ言っているところが気にかかって仕方がない。それまでは、頭の中のことがダダ漏れ状態だったから何を考えているのかまるわかりで、これくらい安心して付き合っていける友人はいなかったというのに、そんな伊吹が心をふさいだように自分の世界でブツクサ言っている様子が真田たちを心配させた。
弁当を持って伊吹の机に寄っていこうとしていた真田たちは、B組の万作のクラスからわき起こった騒ぎに眉を顰めた。
「なんだ、あの声は」
真田が言うと、「福沢のクラスだよな」と土方も首を傾げた。
夏目がニヤリと笑った。
「そういえば、A組に帰国子女のすごい美人が編入してきたって朝から騒いでいたな。その美人が福沢の知り合いで、朝から福沢親衛隊と一発やらかしたって、騒いでいたぞ」
そう言って夏目は思わせぶりに真田と土方に視線を送ってから伊吹で目を止めた。
伊吹は弁当箱を小脇に抱えて、箸を青眼に構えて宙を睨みつけていた。その姿は、佐々木小次郎が待っている巌流島の戦いに赴く宮本武蔵を乗せた小舟の船頭のようだった。
「ううむ、あの傲慢ブスに後れをとってなるものか。この箸の櫂にものを言わせて、漕いで漕いで難関関門海峡下関の巌流島、正式名は船島に漕ぎ着いてやる。待ってろよ、魔界転生悪霊退散妖怪妖魔の非常識土足ブスめ!」
そう一息でまくし立てると、歌舞伎役者のように大げさな身振りで架空の舟を漕ぎながら廊下に飛び出していった。
「あれじゃあ弁当箱、開けたら中、ぐちゃぐちゃだなぁ」
真田が笑いながら言う。
「なんだかいつもと様子が違うぞ」
土方はちょっと心配そうだ。
「見逃せないな」
夏目は舌なめずりしながら弁当をひっさげて伊吹の後を追った。真田と土方も後を追う。
廊下の先を見ると、B組の廊下には男子たちがあふれていた。みんな弁当を持って、開いた戸口や廊下の窓から首を伸ばして教室の中を覗き込んでいる。
真田と土方と夏目も高身長を活かして戸口に顔を突っ込んだ。
伊吹は万作の隣の椅子に座って、ぴったり万作にくっついて弁当を開いて箸をぺろぺろなめていた。
万作と伊吹の前には保藻田と芸田と釜田がびたっと横並びに並んで座っている。
その周りを、福沢万作親衛隊の女子たちがずらりとかためていた。
廊下に溜まっていた男子たちは、各クラスから集まった万作の親衛隊から教室を追い出された男子たちで、いつもなら教室に入り込んできた他のクラスの女子たちの教室に割り振られて納まりがつくのだが、今日は誰も廊下から動こうとしない。
パンを持っている者たちは、パンをほおばりながら目を皿のようにして中を覗いている。
その教室の真ん中で、椅子に座って弁当を食べようとしている万作の背中に立った花屋敷のばらが、万作の背後霊のようにどよーんと体を揺らめかせて教室の中を見回していた。
「な、な、なんなんですの、この風景は。わたくしは、スイスの全寮制の女子寮で、女子ばかりに囲まれて過ごすこと五年、もう女子には飽き飽きして寮を出てきたというのに、日本に来てまで女子だらけなんて、ムカムカ吐き気がする。おえぇえ」
のばらの顔が青ざめはじめる。
「し、し、しかも、なぜ万作様の隣にチビ助がいるのです。チビはチビ同士、中学校で仲良くタコさんウインナー弁当を食べていればいいのです」
伊吹は宝子が作ってくれた愛情タコさんウインナー弁当の赤い八本足のウインナーをこっそり万作の弁当箱に移した。
伊吹の嫌いなタコさんウインナーを、万作は黙って箸で摘んで伊吹の口に持っていく。
しかたないなあ、と言わんばかりに渋々口を開けた伊吹の小さな口にウインナーを入れた万作は、代わりに伊吹の好きなチーズちくわを自分の弁当から伊吹の弁当にのせてやった。
その様子を、食い入るように見ていた保藻田と芸田と釜田は、ごくっと喉を鳴らした。
保藻田は自分の弁当から夕べの残りのすき焼きの牛肉と糸こんにゃくを箸で取って、ドキドキした様子で伊吹の口に持っていった。伊吹が愛らしい赤い口を開けると、唾を飲み込みながらそっと口の中に入れていく。
伊吹は無関心にちゅるっと糸こんにゃくをすすってピンクの舌で上唇をぺろっと舐めた。
「ううっ。悩殺だ」
保藻田が教室を飛び出していった。
今度はごくっと喉を鳴らした芸田が、自分の弁当からマヨネーズのたっぷり絡んだマカロニサラダを箸でつまんで、伊吹の唇にそっと当てた。
やはり無関心に伊吹はマカロニをちゅるっと吸い込む。唇がマヨネーズで濡れた。
「はっあぁ…イブちゃん、食べたい」
芸田はこらえきれなくなってやはり教室を飛び出して行った。
釜田が伊吹のマヨネーズで汚れた唇を見て、ズボンのポケットからアイロンのかかったハンカチを出して、あらあらイブちゃんお口をきれいにしましょうね、と言いながら、ハンカチで拭くふりをしながら、舌でぺろりと伊吹の赤い唇を舐め取った。
間髪入れずに釜田の顔面に万作の拳が飛んだ。
鼻血が吹き出す。釜田はハンカチで顔を押さえてトイレに走って行った。
「うえっ。釜田の唾。臭い」
万作がハンカチを出して伊吹の口をごしごしこすった。
廊下からそれを見ていた真田が感無量のうめき声をもらした。
「ううむ。福沢はイブの下僕だったのか」
「イブと福沢って、やばくないか? 福沢の奴、イブにメロメロじゃないか」
土方も驚きを隠せないで声をうわずらせる。
「見ろ見ろ! 帰国子女の美人の顔色が信号みたいに赤くなったり黄色くなったり緑色になったりしてるぞ。体もわなわな震えて、拳なんか白くなって、今にあの子の頭から角がはえて髪の毛が千本の蛇になるんじゃないか? すげえ、吐く息が真っ黒だぞ」
夏目が興奮したように教室を指差して叫んだ。
のばらはわななく手で後ろから伊吹の髪を鷲掴みにして持ち上げ、呪詛のように言葉を紡ぎ出した。
「ううううううう、気持ちの悪い三人でしたこと。そして、おまえ! このチビ助! 今すぐ中学校に戻りなさい。たとえ男の子であっても万作様に近寄るのは許しません。万作様の隣はわたくしの席です」
のばらの発した言葉は、教室を埋め尽くしている福沢万作親衛隊の各支部長をしている幹部クラスの女子たちを刺激した。
ぎろっと睨みつけてくる親衛隊の女子たちに気づかずにのばらは伊吹の髪を毟りかねない凄まじさだ。
「痛いだろ、凶暴傲慢ブス、おまえこそ台湾、モンゴル、ブータン、中国、韓国、北朝鮮、ロシアのどこかに亡命して帰ってくんな。ブスブスブスブス」
伊吹がのばらの手を跳ねのけて叫ぶ。
「誰がブスですって! わたくしの名前は花屋敷のばらですわよ。由緒正しき家柄を誇りとし、歴史に残る人物を多数輩出してきた輝かしい家系です。近代に入ってからはノーベル文学賞を取り損ねたご先祖を持ち、ノーベル科学賞を取り損ねたご先祖を持ち、ノーベル物理学賞を取り損ねたご先祖を持ち、ノーベル生理学・医学賞を取り損ねたご先祖を持ち、ノーベル平和賞を取り損ねたご先祖を持ち、アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞(経済学賞)を取り損ねたご先祖を持つ、非常に優秀な天才一族の家系なのですわよ。恐れ入りなさい、愚民平民凡人ども」
真田が呆れたようにため息をついた。
「聞いたか、土方」
「すごい羅列だったな」
「すっっっっげえー! ノーベル賞を取り損ねてばっかじゃん! マヌケだあー」
夏目が腹を抱えて大声で笑った。しかし、のばらの発言はこれで終わったわけではなかった。ますます熱のこもった調子でテンションが上がっていく。半狂乱状態だった。
「しかもこのわたくし花屋敷のばらは、なにを隠そう財閥の御曹司、福沢万作様の許嫁なのです。生まれたときから運命でかたく結ばれた許婚なのです。ですから万作様に近づくものは、たとえ中学生のチビ助男子であっても許しませんのよ! ましてや、ここにいるネズミ女ども、今すぐ地べたの巣穴に消えなさい。美貌と英知に光輝くわたくしの命令です」
伊吹が立ち上がった。血相が変わって目が血走っている。
「黙れ黙れ黙れ、うるさいぞ鼻くそ屋敷の豚!」
「ハナクソヤシキノ、ブタ、ではありません! 何という汚い名前。わたくしの名前は」
「ハナクソ、ハナクソ、ハナクソ!」
「チビ、チビ、チビ、チビ、チビ!」
「二回も多く言ったな」
「チビチビチビチビビチビチビチビチ」
「ブタブタブタブタブタブタ鼻くそブタブス」
「万作様! あなたの美しい許嫁がこのチビ助にこんなに侮辱されているのですよ、あなたも男子なら、わたくしを庇護しなさい」
伊吹と言い合いしても埒があかないと思ったのばらは、あらかた弁当を食べ終わった万作に食ってかかった。
高飛車傲慢な態度もさることながら、万作の許嫁という一言が親衛隊に与えたショックは激しかった。
万作がうんざりしたようにのばらを見上げたとき、教室中の女子の持っていた箸が、殺気を帯びた棒手裏剣のようにのばらめがけて投げつけられた。
とっさに万作は伊吹をかばって机の下に身を伏せた。
「ぎゃああああああ、痛いですわよおおおお」
のばらの全身に、箸がハリネズミのように突き刺さっていた。
「ううううう、我慢が切れましたわ。使用人A、すぐさま教室中のネズミ女どもを一人残さず殲滅しなさい」
そう叫ぶと、犬のように身震いして刺さった箸をふるい落とした。床に大量の箸が落ちる騒々しい音が止む前に、使用人Aが魔法のように教室に立っていた。
「お嬢様、ただいますぐネズミ女を一掃いたします。使用人Aの部下軍団出でよ! 速やかに作戦開始!」
モデルのような使用人Aが机の上に乗って華麗につま先立ってバレリーナのように一回転すると、使用人Aの白ずくめの部下軍団がどこからともなく現れて、福沢万作親衛隊と格闘し始めた。
机が割れ、椅子が砕け、教科書が宙を舞い、窓ガラスは砲撃を受けたように炸裂し、悲鳴と怒号と阿鼻叫喚で教室中が戦場とかした。遠くからパトカーと救急車のサイレンが近づいてくる。
万作は伊吹を抱えてこそこそと教室を抜け出して、そのまま家に逃げ帰ったのだった。
のばらがどうなったのか、万作は知らない。
知りたくないと思っている。
万作は、かつてこんなに不安を覚えたことはなかった。
男にとって最も恐ろしいのは妻である。のばらは万作の将来の妻であるが、すでにその恐ろしさは今から万作を震え上がらせるのに充分だった。
「それにしても凄まじかったな」
真田はきのうのB組での騒ぎをうっとりしながら思い出していた。
「パトカーが十台と装甲車が二台と自衛隊が校舎を包囲して拡声器でテロリストの投降を呼びかけて、教職員と生徒全員が逮捕されて護送車のバスで連行されて行ったんだってよ」
真田が歌うように楽しげな調子で言うのを土方は恐ろしげに聞いていた。
こんどは夏目が口を開いたのでぎょっと振り向く。
「だから、福沢のあとにくっついて学校を逃げ出して正解だったろ? 福沢の逃げっぷりを見たかよ。マジ泡食ってたぞ。イブを横抱きに抱えて逃げ足の早いこと。あいつ、ほんとにあのハナクソと結婚するのか?」
「俺、福沢とハナクソの結婚式にでたいな」
珍しく真田がまじめな声で言った。
「俺は子供ができるかどうか賭けたいがな」
土方は深刻そうに呟やいた。
すると夏目が生き生きと目を輝かせた。
「バカだな、おまえら。イブがいるだろ。イブと福沢とハナクソの三角関係が、へたしたら世界戦争だって引き起こすかもしれないんだぞ」
真田と土方が顔を見合わせる。
「そうだなぁ……きのうはパトカーに救急車に装甲車に自衛隊が出動したんだもんなぁ」
「学校中の人間が引っ張られていって、肝心のハナクソは防衛大臣の叔父さんがSP付きの防弾仕様車で迎えに来てさっさと帰ちゃったしな」
真田と土方の会話に夏目も加わる。
「おまけに、福沢の奴、親の財力にものを言わせて一晩で滅茶苦茶になった教室を元通りに修復しちまったしな。まるで何事もなかったみたいだよな」
三人は示し合わせたように、三人の目の前で机に突っ伏して眠っている伊吹を見た。
昼の弁当の時間になると、伊吹は今日も真っ先駆けてB組の万作の教室に行った。
万作の隣に席を占めれば、もう片方のとなりはのばらが占めるという具合で、万作の大きな体は弁当の時間が終わって伊吹とのばらに解放されるまで縮こまりっぱなしだった。
保藻田と芸田と釜田の三人は、きのうに引き続いて伊吹が教室にやってきたので有頂天だ。
おもしろくないのは真田と土方と夏目だった。
これから毎日伊吹がB組の万作のところで弁当を食べるようになったのではお楽しみがなくなってしまう。
のばらと張り合った疲れがでたのか、午後の授業をそっちのけで机に突っ伏してよだれをたらして眠り込んでいる伊吹の寝顔を見ながら、真田と土方と夏目はどうしたものかと考え込んだ。
夏目がちらりと円谷瞳を伺った。
円谷瞳は次の授業が始まる予鈴のチャイムを気にしながら猛烈な勢いでメールを打ち込んでいた。
円谷瞳に話しかけてきた男子をうるさがって、メールを打ちながら空いた手で男子に平手をお見舞いする。
顔面を平手で殴打された男子は、うめいて顔を押さえてうずくまった。
「顔だけはかわいいんだよなぁ」
真田が気の毒そうに呟く。
土方が真田に尋ねた。
「それって、顔だけはかわいいけど性格が悪すぎて気の毒だという意味か、それとも、あんな円谷さんに話しかるアホに同情したのかどっちなんだ」
夏目が軽薄な笑い声をあげた。
「真田はそんなことどっちでもいいんだよ。真田の頭の中では、イブをこの教室につなぎとめておくには円谷さんをどう効果的に利用するか、陰謀が渦巻いているんだよ」
「そういう言い方はないだろ、夏目は相変わらず腹黒いな。協力してもらうだけだよ」
真田の言いぐさに夏目の目つきが変わった。
「なんだと、誰が腹黒いだと? 真田こそ人の気持ちを利用して、人の気持ちを錯乱させる策略家じゃないか」
「なに! おまえなんか、三島由紀菜と駆け落ちして1ダースぐらい子供作って貧乏で飢え死にしちまえ」
「言ったな! 真田こそモテるつもりでいるんだろうが、おまえなんか歴史マニアのゲーム女子にしか相手にされない、名前だけの中身空っぽ男じゃないか」
ついに取っ組み合いの喧嘩になってしまった真田と夏目を放っておいて土方は、机に片頬をつけてよだれを垂らして眠っている伊吹をじっと見つめていた。
伊吹の玉になった涎が、窓からの光を受けてきらきら光っている。
透明な水晶のような輝きに見せられたように土方のひとさし指がよだれの玉に伸びた。
指の先がよだれにつくと、表面張力のバランスが乱れて光が粉になったように乱れ散る。
土方は見入られたように指を動かした。その指が、ちゅるりと伊吹の口の中に潜り込んだ。
あっ、と思った土方は、すぐに指を抜こうとしたが、それよりも早く伊吹の舌が指に絡みついてきた。
「え?」
土方は奇妙な声を上げた。
自分の指に伊吹の舌が巻き付いて、ちゅっ、ちゅっと吸い始めたのだ。
「おまえは子猫かよ……」
それは、眠りながら母猫の乳を吸う子猫のようだった。
喧嘩に飽きた真田と夏目が「なにしてるんだ?」と覗き込んできた。
そして、眠っている伊吹に指を吸われてうっすら頬を染めている土方に、見てはいけないものを見たような、なんともバツの悪い思いをして二人は目を逸らしたのだった。