花屋敷のばらでございます 後編
花屋敷のばらでございます 後編
「ううむ、許せませんわ。あの中坊。わたくしの万作様を馬代わりにするなんて」
相田家のドアの中に入っていく二人を追ってのばらも後に続いた。
「どうしたの、イブちゃん!」
玄関に出てきた宝子≪ほうこ≫が伊吹の膝の怪我に驚いて救急箱を取りにリビングに駆け込むと、入れ替わりに三子≪みこ≫が出てきた。
「なんだイブ、転んだのか。相変わらずとろいな、あはは」
「三子、笑ってないで、そこどけ。通れないだろ」
万作に言われて廊下の端に身を避ける。
「おろせよ万作。それっぽちの怪我。イブもノミみたいにくっついていないで降りろ」
「やだ、痛いもん。万札におんぶしてもらわなきゃ歩けないもん。それにぼくはノミじゃないからな」
三子が顔をしかめた。
「ほらみろ。万作が甘やかすからこうやて我儘になるんだぞ」
「しかたないな。降りろイブ」
「やだ、やだ、やだ。おんぶがいい」
「ノミの少年! 万作様の背中から降りなさい! その背中はわたくしの為にあるのですよ」
開けっ放しになっている玄関ドアの所で仁王立ちしている花屋敷のばらに、伊吹も万作も三子も、ぽかんとした。
のばらはルーブル美術館の倉庫でほこりをかぶっている印象派の絵の中の少女のように美しい顔を、鬼のように変貌させていた。
つかつかとハイヒールのまま上がり込んで、手加減せずに万作の背中から伊吹をむしり取ろうとした。
伊吹が慌てて万作の首にしがみつく。
「いやあーん、やめてーえ。ぼくと万札は一心同体なんだから、ぼくたちの中を裂かないでえ。万札う、ぼくをはなしちゃいやよ」
三子が思い切り伊吹の頭を叩いた。
「気持ち悪いんだよ、ふざけるな」
「ちぇ、しょうがないなぁ。ラクしたかったのに」
伊吹は口を尖らせて渋々万作の背中から降りた。そして、のばらに向き合う。
「おばさん、だれ?」
のばらは後ろをきょろきょろした。
「だから、きょろきょろしているおばさんだよ。だれ?」
伊吹に指を指されてのばらは失神しそうになった。
「誰がおばさんですか。わたくしは十七歳です。高校生ですわ」
「こんなに老けてる高校生なんか日本にいないよ? おばさん、日本人じゃないでしょ。台湾人、ブータン人、中国人、韓国人、北朝鮮人、北京原人、なんてね? あはは」
「お黙りチビ助」
うっ、と伊吹が胸を押さえて廊下にへたりこんだ。伊吹にとって、チビは禁句だった。
しかも、助まで付いている。
――ぼくの生涯を左右するほどの決定的な弱点を、こうもあからさまに言ってのけるこのおばさんは何者なんだ。
うっかり足をふんずけたら革靴ごと穴があいてしまいそうなピンヒールを履いたまま上がり込んできて、偉そうに、生意気に、傲慢に、高飛車に、底意地悪そうに、鬼のような顔をして怒鳴る、頭の悪そうなこのおばさんは誰なのだ。
野良犬だって、勝手に人の家に入ってくることはしないというのにことわりもなく入ってきて、万札の背中から怪我人のぼくを引きずり落とそうとし、万札は自分のものだと言わんばかりの態度は我慢がならない。
万札はぼくの下僕だ。下僕に跨ってなにが悪い。
万作様の背中はわたくしのものだって?
ふん、なにをバカな。
ぼくと万札の強い主従関係は血よりも濃いのだぞ。
ああ、いけない、いったいどうしたのだろう。
心清らかなぼくがこんなに攻撃的な感情を持ったのははじめてだ。
ぼくの中にそんな感情があったことさえ驚きだ。
この妖怪を見ているとすごく苛つく。
ぼくを睨みつけてくる目も、への字になった口も、逆立っている長い髪やペラペラの安そうな薄い服や趣味の悪いアクセサリーや、いざとなったときは手に持って相手を刺し殺せそうなハイヒールは凶器そのものだ。
邪悪なオーラが全身から立ち上って、異次元の魔物たちを召還して、日本を征服しようとしている暗黒界の妖魔め、ぼくの聖なる正義のオーラでおまえを消滅させてやる。
聖剣トンデレラよ、我が手に飛んでこい! ――。
救急箱を持った宝子が戻ってきて、伊吹の手を引っ張りながらのばらに声をかけた。
「三子ちゃんのお友達? 靴を脱いでからあがりなさい。遅くなったけどあなたも一緒にお昼にしましょう」
まだ空想の世界から覚醒していない伊吹を引っ張ってリビングに戻っていく。
「はやくいらっしゃい。三子ちゃん、お友達の分もテーブルに用意して」
三子は、友達じゃないんだけどな、と首を傾げながらリビングに消えた。
万作は眉を寄せてのばらを見つめた。
記憶のどこかに何かが引っかかっていて、ざわざわする。そのざわつきは足の裏にトゲが刺さっていて、歩くたびに小さな痛みを覚える不快感に似ていた。
緊張からか、顔を赤くした不法侵入者が、長い髪をひと振りして口を開いた。
「わたくし、花屋敷のばらでございます」
そう言って、ハイヒールのまま優雅に万作に歩み寄って、王侯貴族が謁見の間で拝謁者に手を差し伸べるように腕を伸ばした。
その手の甲を、万作は何事かというように凝視した。
「手をお取りください、万作様。あなたののばらが、はるばるスイスから空を飛んで会いにやってきましたのよ。お目にかかるのは初めてですわね」
万作の目が大きくなった。
花屋敷のばら。
親が決めた婚約者。
定期的にのばらの成長記録とホームビデオが航空便で送られてきているのは知っていたが、遠い昔に一度無理矢理見せられて以来、目にしたこともない。福沢の屋敷の自分の部屋の書類棚で埃をかぶっているはずだ。そののばらが、どうしてここに。
万作は混乱した。どう反応していいかわからなくていた。すると、のばらが上品にほほえんだ。
「驚かれたかしら。ビデオでお会いしていても、実際にお目にかかるのは初めてですものね。お会いできてうれしいですわ」
のばらはハイヒールのまま万作に近づくと、品よく万作の腕に腕を回してリビングに入っていった。
「あら、靴、脱いでいらっしゃい」
テーブルに皿を並べていた宝子がのばらの足元を見咎めた。
ソファに座っている伊吹の膝の手当てをしていた三子も振り向く。
「その子、万作の知り合いなんだろ? 土足でひとの家にあがってくるなんて、どこのすっとこどっこいだよ。ここは外国じゃないんだからな、靴脱げ、靴」
伊吹の手当ての手を止めて三子が言った。
慌てて万作はのばらの足元にかがみ込んだ。
両手を添えて靴を脱がせる万作に、伊吹がソファから立ち上がった。
「万札がそんなことすることないだろ。玄関に行って自分で靴を脱いでこいよ」
「おだまり、チビ助。万作様がわたくしにひざまずくのは当然ですのよ。なぜなら、わたくしは万作様のフィアンセなのですから、いたわられて当然なのです」
大きく目を見開いた伊吹が万作に駆け寄って、万作の制服の白シャツをわしづかみした。
「万札! フィアンセって日本語に訳すと何?」
三子が大判のカットバンを手にして近より、伊吹の膝にペタンと貼った。
「フィアンセというのは婚約者のことだよ。結婚が決まっている者同士のこと、って、えええ、万作の婚約者?」
三子が叫び、宝子も驚いて睫をパチパチさせた。
「万作さん、ほんとなの?」
「う、ぐっ」
万作は目を白黒させた。ほんとと言えばほんとだから嘘だとはいえない。
伊吹ががばっと万作に抱きついた。
「万札、ほんとなの? ぼく、そんなこと聞いてないよ。嘘でしょ?」
万作は視線を泳がせた。
のばらが勝ち誇ったように高らかに笑った。
「わたくしと万作様は、親同士が決めた許嫁なんですの。はるばるスイスの全寮制の学校から万作様の高校に転入して、共に青春を謳歌するために日本に帰ってきたのですわ。だから、万作様から離れなさい、チビ助」
「またチビ助って言ったな、ブス、ブス、ブスブスブスブス」
「っ、なあんですってええぇ、誰がブスですって。もう一度言ってごらんなさい!」
「ブスブスブスブスブスブスブスブスブス」
のばらの顔が噴火しそうなほど赤くなった。
「使用人Aー! 今すぐここに来て、このチビ助をぎゃふんと言わせなさいいいい!」
家の壁が反響でピシピシする高音の叫び声が響きわたったかと思うと、使用人Aが魔法のように靴を履いたまま現れた。
「お嬢様、お呼びでしょうか」
「使用人A、この子を万作様から引き剥がしてロシアの宇宙ステーションまで放り投げなさい!」
「かしこまりました、お嬢様。でも、その前に、旦那様と奥様がお屋敷でお待ちかねですので帰りましょう。三時のおやつの時間までに戻ってくるようにとのことでしたので」
そう言うと、使用人Aは有無を言わせずのばらをお姫様だっこすると、みんなの前で華麗にくるりと回って見せて、キランと笑った。
「有能な使用人は、引きどきも心得ております。ではみなさま、ご無礼をいたしました」
宝塚の「すみれのはなー」の歌を口ずさみながら帰っていく使用人Aとその腕の中でじたばたしているのばらを、四人は呆然と見送ったのだった。
――花屋敷のばらでございます 完――