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イヴの妄想  作者: 深瀬静流
11/17

あいつら、弁当食いそこねたな

夏休みが終わって二学期が始まった。

 キツ子と太郎と花子は、迎えにきた勢実真≪せいじつまこと≫の車に大荷物を詰め込んで帰っていった。

 賑やかだった相田家が平常を取り戻し、いつもの生活が始まったが、今までと違うところがあった。それは、伊吹の家庭学習が継続していたことだった。

 今も学校から帰ってきて夕食をすませたあと、部屋で机に向かって問題集を広げていた。

 進み具合は遅いし、集中する時間も短くてすぐほかのことに気を取られてうろちょろするが、思いのほか伊吹は粘りを見せた。

 万作は内心驚いていた。

 三日坊主で終わるだろうと高を括っていたのだが、問題集にかぶさるようにしてシャーペンを走らせている伊吹の口からは、念仏のように「円谷瞳さん、すきすき」という言葉が紡がれていた。

 万作は伊吹の問題集を解いている姿をみながら複雑な感動を覚えていた。

「イブはそんなに円谷さんが好きか」

 背中を丸めて数学を解いている伊吹に、語りかけるでもなくつぶやくと、上の空のような返事が返ってきた。

「ぼく、大学行って、円谷瞳さんと結婚する。パパとママみたいに仲良しの夫婦になる。子供いっぱい作って、ぼくのうちみたいな賑やかな家庭をつくる。それがぼくの夢」

「いい夢だ」

 万作はつぶやいた。

 その家庭に、万作の居場所はない。

 万作は自分の将来は父の巨大企業の次期総裁としての姿しか浮かばない。自分の隣にはいつも伊吹がいて、それが当たり前で、相田家での万作の立ち位置は、家長である貢≪みつぐ≫の次にくるものだった。

 相田家の女たちと伊吹を守ること、それが万作の誇りだった。しかし、万作の一年後には、相田家の人々との別れが待っていた。

 高校を卒業したら相田家を出てアメリカに留学する。それが、相田家で生活して伊吹と同じ高校に通いたいと両親に談判したときの交換条件だったからだ。伊吹といられるのもあと一年と少々。

 伊吹との別れを思うと胸苦しくなるが、伊吹から円谷瞳との現実的な将来の設計を聞かされると、自分の存在の無さに悲しみが沸いてくる。

 伊吹を手放したくない。

 五歳の時に、福沢邸の庭に迷い込んで泣いていた伊吹の手を取ったときに、伊吹が万作の手を離さなかったように、伊吹とはこれからもずっとつながっていたいと思うが、伊吹は円谷瞳との未来に向かってこつこつと努力を重ねている。

 万作は隣の自分の机で明日の時間割の教科書を揃えながらそっとため息をこぼした。

 隣家の万作の屋敷に父と母は住んでいない。

 母のとみは国会議員としての使命と活動に自分の人生をかけていて、赤坂にある国会議員宿舎で生活している。

 父の金作も、都心の真ん中にある超高層マンションを買って、そこを生活の拠点にしている。

 万作は家庭とはいえない自分の家庭環境にとっくの昔に見切りをつけていたが、相田家の家族の愛情に満ちた絆の強さを思うと言いしれない寂しさを覚えた。

 伊吹が伊吹なりに将来のことを夢見て勉強に励む姿が万作にはまぶしかった。

 自分はやがて、金作の跡を継いで巨大企業のトップに君臨し、家柄、学歴、容姿の優れた令嬢、親が決めた許嫁の“花屋敷のばら”と結婚することになるのだろう。

 父親の金作のように仕事やつき合いに追われ、家庭を省みる暇もなく、働く機械の一部のようになって一生を終わるのだろうか。

 いままで当たり前のように思っていた将来のビジョンに疑問を覚え始め、ざらりとしたものを感じた。

 伊吹の願いは、愛する女性と結婚して幸せな家庭をつくること。シンプルで揺るぎない幸せだと思う。伊吹らしい幸せだ。

 万作は、幼なじみであり兄弟とも思っている伊吹の、背中を丸めて勉強している小さな姿に強い愛情を覚えた。

 人にはそれぞれの人生があるように、幸せもそれぞれだ。

 万作の幸せは、万作が望む幸せでなければならない。

 父のあとを継ぐことも、許嫁との結婚も、万作が望んではじめて幸せというものだろう。

 今までは疑問にも思わなかったことが、近い将来、相田家を出て留学するという現実に、初めて万作は向き合ったのだった。





 「なんだか夏休み明けのイブは感じがかわったねぇ」

 真田が弁当の箸をとめて、誰に言うともなく言うと、土方も口の中いっぱいの飯を飲み込んで頷いた。

「うん。少し利口に見える」

「ええぇ、イブがか?」

 夏目がバカにしたように笑った。

 伊吹は弁当を食べながら、ちらちらと円谷瞳のほうを見ていた。

 円谷瞳は伊吹たちのグループと接するように机を並べて近藤勇子と三島由紀菜の三人で弁当を食べていた。

 ぼそぼそと小声で話しているのは、真田や土方、夏目の会話を聞き逃さないためだ。その周りをクラス中の生徒が囲んでいる。やはり伊吹たちの様子を見逃さないためだ。

「円谷殿、さきほどからイブめがそなたに色目を使っておるぞ」

 近藤勇子が円谷瞳にささやいた。

 見ると伊吹が、円谷瞳に向かって口元をつりあげながら、目にゴミでも入ったのか、盛んに左右の目を交互にぱちぱちしている。

「上目遣いでまつげをパチパチやって、猛烈に円谷さんにアピールしてるわね。アハ、間抜け面がおもしろい」

 三島由紀菜がきゃっきゃと笑う。

 円谷瞳は伊吹を盗み見た。

「げっ! 指をくわえてウインクしてきたぞ。なんじゃ、あれは。うげぇー!」」

 円谷瞳は吐くまねをした。近藤勇子と三島由紀菜が大声で笑ったら、真田が顔をしかめて伊吹の肩を抱き寄せた。

「吐くことはないよなぁ、笑うことないし。いいじゃないかよ、イブのウインク。かわいいし。俺、好きだぜ。円谷さんなんかやめて、俺にしろよ、イブ」

 そう言って伊吹の頬にチュッとした。円谷瞳が箸を机に叩きつけて鬼の形相で立ち上がった。取り囲んで弁当を食べていた生徒たちが机ごと後退り始める。

「あ~あ、真田がイブをダシにして円谷さんをいじっちゃったよ」

 土方が言えば夏目も肩を竦めた。

「でも、円谷さんの怒りの矛先はイブに向くんだよね」

 夏目の呆れ声を聞き流して、土方はひょいと伊吹を抱き上げた。円谷瞳の長い足が、回し蹴りで、座っていた伊吹のイスを直撃した。派手な音をたててイスが机を蹴散らして行く。

「やるねえ」

 真田は感心しながら土方から伊吹を抱き取った。

「イブ、おまえ何でそんなに円谷さんにウインクばっかりしてるの?」

 真田が尋ねると、床に降りながら伊吹がまじめくさってこたえた。

「円谷瞳さんが好きだからに決まっているだろ。ぼくは将来、円谷瞳さんと結婚するんだから、いまのうちから愛情を示しているんだよ」

「土方、夏目。イブを避難させろ!」

 真田が叫ぶより早く、土方と夏目は伊吹を横抱きにして教室から走り出した。

「だれがおまえみたいなアホと結婚するんじゃー。首絞めるぞ」

 ものすごい形相で暴れ出した円谷瞳は、伊吹のあとを追って廊下に走りだした。

「土方殿が心配だ」

 近藤勇子があとを追う。

「夏目さんのきれいな顔に傷が付いたらたいへんだわ」

 三島由紀菜も弁当を途中にして駆けだした。

 真田は乱れた机を戻すと、イスに腰掛けて悠然と残りの弁当を食べ始めた。

 食べ終わった頃にチャイムが鳴った。まだ伊吹や土方や夏目は帰ってこない。

「あいつら、弁当食いそこねたな」

 真田はにんまりと笑った。


――あいつら、弁当食いそこねたな  完――

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