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イヴの妄想  作者: 深瀬静流
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一子ちゃんを追っかけろ  後編

 まだ昼前だというのに東京の暑さは異常だ。

 太陽に炙られたビルから放射される熱気とアスファルトの輻射熱。ビルの隙間を吹いてくる風は温風だし、酸素も吸い尽くすのではないかというくらいの人出の多さに目眩がする。

 冬になれば大雪に見舞われるものの、夏は涼しい土地で長いこと仕事をしている貢には体がついていかない。それでも万作を見失わないように必死で足を動かした。

 伊吹は老舗デパートの紳士服売場のネクタイコーナーにいた。先に伊吹に追いついた万作も隣にいる。万作は息も乱れていなくて平然と伊吹の横でそっぽを向いていた。

 貢がデパート内の涼しさに救われたようにゼイゼイしていると、伊吹が陳列しているネクタイの一つを取って、そっぽを向いている万作の綿シャツの襟元に当てた。

「まあステキ。とても似合うわ」

 伊吹がうっとりと万作を見上げるのを見て貢は急いで伊吹の所へ行った。万作が無表情に貢に視線を送る。

 伊吹が別のネクタイに手を伸ばしながら悩むように首をかしげた。。

「このネクタイもいいけど、こっちのはどうかしら。伊吹さんはこんなに背が高くて、ハンサムだから、どんなネクタイもよく似合って、瞳、選ぶの迷っちゃうー」

 そう言いながら、次から次にネクタイを取って万作に当てていく。美しくディスプレーされた陳列棚が、伊吹の放り投げたネクタイの山で見る間にゴミ状態になっていく。少し放れた所にいる中年の女性店員が苦虫を噛みつぶしたような顔をしていた。

「万作君、いま、イブ君は自分のことを瞳って言った? きみのことを伊吹さん、って言った?」

 万作は頷いた。

「瞳っていうのはイブが憧れている同じクラスの円谷瞳のことで、俺は今、イブの身代わりなんですよ。つまり、“ごっこ遊び”です。イブが円谷瞳になって、伊吹にネクタイを選んでいるつもりの“遊び”です。ほら、向こうでも一子が本田さんにネクタイを選んでやっているでしょ。あれを見て真似してるんです」

 顎で示されたほうを見ると、確かに一子が本田青年にネクタイを当てていた。二人とも嬉しそうで楽しそうで、見ているこっちまで笑みがこぼれてしまう。

 なかなかお似合いじゃないか。

 貢はしばし長女のバラ色の笑顔にみとれた。

 するとまた伊吹の声がした。

「伊吹さんは高校の時までは身長が156センチしかなくて、ほんとにコンプレックスで悩んだけど、いまではこんなに立派に成長して、背だって雲突くような大男だし、お顔だって、高校の時は天使みたいにかわいいだけだったのが、いまではこんなに彫りの深い鼻筋の通ったハンサムで、体だってこんなに引き締まったみごとな体で、瞳、たまんないわ。ほんとにステキ、瞳の憧れ、瞳の理想の男性よ。愛してるわ、伊吹さん。きょうは伊吹さんのお誕生日だから、あたしにネクタイをプレゼントさせてね。そして、そのあとはお食事して、お食事のあとはホテルであたしをプレゼントするわ。受け取ってくださるわね、あたし、処女なの」

 貢は真っ赤になって伊吹の口を押さえようとしたが、伊吹は貢ぐの行動より早く万作の厚い胸板に身を寄せて、とろんとした瞳で万作の顔を引き寄せ、背伸びして唇を唇に押し当てようとした。

「イブ君! いけません」

 貢は赤から青に顔色を変えると伊吹を万作から引き剥がした。

 気がつくと、周りは店員と客が取り囲んでいて食い入るように伊吹と万作のカップルを珍しそうに眺めていた。

「パパ、邪魔しないでよ、いいところだったのに。熱々の恋人同士には周りなんか目に入らないんだよ。万札、チュの所からやり直しね」

「一子たちが行っちゃったぞ。追いかけなくていいのか」

「わ、ほんとだ。早く行こう! 次はレストランだよ。本田さんはイタリアンの店を予約してるんだ」

「どうしてイブ君はそんなことまで知ってるの」

「ペコとパコとトコが言ってたもん。本田さは今日のデートをすごく楽しみにしていて、餌をやりながペコたちにずっとのろけてたんだって。うんざりしてたよ」

「ペコ、パコ、トコ、って誰! また僕の知らない人が出てきたよ!」

「ペコパコトコは人間じゃないよ。パパは何にも知らないんだから」

「人間じゃないって何」

 電池で動くおもちゃのように走り出した伊吹に問いかけても無駄だということを、まだわかっていない貢は、助けを求めるように万作に手を伸ばしたが、その万作も素早く伊吹のあとを追う。

 貢も続こうとして女性店員に声をかけられた。

「お客様、お手に取られたネクタイが山のようになっておりますが、お気に召したのがありましたでしょうか!」

「あ、す、すみません、散らかして。ごめんなさい」

「どれがお気に召しましたか!」

「いや、あの」

「どれにしますかぁ!」

 中年の女性店員はにっこり笑いながら怖かった。

 逃げ遅れた貢は、店員に頭を下げると一目散に万作を追いかけた。

 何となく、万作の言っていた伊吹の怖さがわかってきた。

 商品のディスプレーで飾りたてられた狭い通路を透かし見て、頭二つ分高い万作を発見し、人混みをかき分ける。

 一子たちはデパートを出て、ケヤキ並木が美しい歩道を腕を組んで歩いていく。

 何度も顔を見合わせながら笑いあう二人に、貢は宝子と知り合った頃の青春時代を思い出した。

 あのころは何もかも楽しかった。

 希望に満ちあふれていて、不可能なことは何もないと思っていた。

 宝子の愛らしさと心根の素直さに魅了された貢は、宝子とともに生きていく未来の幸せをを疑わなかった。

 あの頃の自分と宝子の姿が、先を行く一子と本田青年の姿にだぶる。貢は胸がいっぱいになった。そして、目の前を歩いていく一人息子の伊吹と准息子の万作に視線を戻したとき、グエッと息が詰まった。

 伊吹は一子の真似をして万作の腕に腕を絡め、べったりくついて頭を万作の腕にもたれかけさせている。しかも歩き方も内股でなよなよと腰をくねらせ、万作を見上げっぱなしでトロンとしている。デイパックを背負い、首には双眼鏡、肩には水筒がぶら下がっている。

 伊吹の格好は誰が見ても異様で、向こうから歩いてくる人々は伊吹を見てクスクス笑っていた。

万作の方はズボンのポケットに両手を突っ込んで肩をいからせ、すれ違っていく人々にガンを飛ばしている。

 貢は焦りまくって伊吹と万作の間に割って入った。

「イブ君、離れなさい。男の子が女の子みたいに男の子の腕にぶら下がって甘えているなんて変でしょ!」

「んもう、パパったらあたしたちの邪魔しないでってば。あたしたち、すごくいい雰囲気なんだから」

「イブ君、男の子に戻ろうね。“ごっこ遊び”はお終いにしょうね」

 伊吹はぷいっと顔を背けた。

「万作君も困っているし、みっともないし、やめよう?」

 貢は怒鳴りたくなるのを堪えて優しく言った。

「あーん、もう。しょうがないなあ。そうしようか。ぼくも一子ちゃんの真似、疲れちゃったし」

 そういうと伊吹は歩道の柵に腰を下ろして水筒の麦茶を飲んだ。

「はい。パパにも麦茶」

 貢ぐにもキャップについで差し出す。

 万作にも同じように麦茶を手渡す。

「この水筒、ママがイブ君に用意してくれたの?」

 貢はイブの用意の良さが気になってきいてみた。

「うん。暑いから水分はまめに取りなさいって」

「ふうん。ちゃんと考えてるんだ。やっぱり母親なんだな」

 伊吹のことで口げんかしたことを思い出して貢はしょんぼりした。万作が伊吹のデイパックからタオルを出して伊吹の汗だらけの顔や首を拭いてやる。

「万作君もそうやって、いつもイブ君の世話をしてくれているんだ」

 湿ってきた貢ぐの声に万作は困ったように眉を寄せた。

「みんなから愛されて、イブ君は幸せだね」

 ポロリと貢の目頭から涙がこぼれた。伊吹は貢が泣き出したのをみて目を見開くと、大声で一子の名を呼んだ。

「一子ちゃん、大変だー! パパが泣いちゃったよ。早く来てー!」

 人混みの向こう、五〇メートル先にいた一子の足がぴたりと止まった。

「イブちゃんの声がしたわ」

 つぶやく一子に本田青年は首を傾げた。

「伊吹君の声? 何も聞こえないけど」

「いいえ、イブちゃんの声だわ。わたしを呼んでいた」

 一子はゆっくりとあたりを見渡した。そして頭二つ分背の高い少年の頭を見つけて迷わず歩きだした。

「一子さん?」

「イブちゃんがいるわ。行きましょう」

 にっこり笑って一子は本田青年の手を握る。

 貢は、遠くから手をつないで歩いてくる一子と本田青年を見ていた。とても声が届くとは思えない距離と混雑なのに、一子はこちらに向かってくる。貢は奇跡を見ているような気がした。近くまできた一子が笑い声を上げた。

「どうしたの、イブちゃん」

「ぼく、一子ちゃんが心配であとをつけてきたんだ」

「おれはイブが心配であとをつけてきた」

 万作が言うと一子はわかっているというように優しい表情で頷いた。

「パパもイブちゃんが心配で付いてきたのね?」

 一子に言われて貢は決まり悪くなった。しかたがないので本田青年に向き合う。

「一子の父です。どうも」

「あ、初めまして。本田透といいます。あの、宜しかったらご一緒に食事でもいかがですか。ねえ、一子さん。伊吹君も疲れちゃったみたいだし、おなかも空く頃だし」

「ええ、そうしましょう。予約しておいたレストランに行くところだったの。パパもいいでしょ?」

「いや、それは。せっかくのデートなのに」

 伊吹は水筒をしまうと柵から立ち上がってデイパックを背負いなおした。

「さあ行こうパパ。万札。一子ちゃん。本田さん。ぼく、おなかペコペコだよ。イタリアンだったよね?」

「よく知ってるね伊吹君。一子さんからきいたのかい」

「ペコ、パコ、トコが言ってた」

「なるほどね」

 本田青年は納得して笑った。

「だからペコ、パコ、トコ、って誰!」とききたかったが、もうそんなことはどうでもいいかと貢は諦めた。

 伊吹の周りでは笑い声が絶えなかった。かなり迷惑をかけるし、突拍子もないことをやらかして人を慌てさせるが、伊吹には邪気がない。宝子がよく伊吹のことを、神様が授けてくださった天使と言っていたが、貢も伊吹や伊吹を取り巻く人々の楽しそうな笑顔を見ると、そんな気がしないでもない。

 男親だから、母親のように伊吹に甘くはできないが、どこか人並みからズレている息子の天真爛漫な笑顔に微笑んでいる自分がいるのも事実だった。





 貢の夏休みは瞬く間に過ぎていった。

 家族で食事に行ったわけでもないし、行楽地に出かけたわけでもなかったが、日常の中身が濃くて充実していた。

 驚かされることやうれしいことがどっさり詰まった一週間だった。

 三女の三子に会えなかったのは寂しかったが、マメに電話やメールを入れてくるので無事でいればいいと自分をなぐさめた。

 また家族と離れて職場に戻るのかと思うと切なさがつのる。しかし、大切な家族を支えるという男の使命が貢を職場へ向かわせる。

 頑張らないと。

 頑張らないとな!

 ついにその朝、貢は荷物を持って玄関を出た。

 玄関前には、万作が福沢邸の乗用車を回してくれていた。

 鈴木さんが白い手袋にワイシャツ、ネクタイ姿で運転席でスタンバイしていた。手にした荷物をトランクに入れて家族に振り向いた。

 近くの公園のセミが朝の九時だというのにひときわ大きく鳴きだした。空は悲しくなるほど青く澄んで吸い込まれそうだ。半袖から出た肌を焼く日差しがきつくなる。

 門の前には宝子、一子、二子、伊吹、万作、キツ子に太郎と花子、それに早起きをして見送りに来てくれた肇と、わざわざ午前中休みをもらって来てくれた本田青年の姿もあった。

「こんなにたくさんの人に見送られるなんて、ちょっと照れるね」

 貢は泣きそうな顔で笑った。

「貢さん、体に気をつけてね」

 宝子が名残惜しそうに言うと一子も言葉を添えた。

「パパ、ちゃんとお食事してね」

 二子も笑顔で肇の腕に腕を絡める。

「パパがハジメと仲良くなってくれてよかったわ。パパ、あたしたち結婚するからよろしくね」

「お義父さん。よろしくっす」

 貢は肇を無視して伊吹を見つめた。

「イブ君、パパがいないあいだ、ママのこと、頼むね。イブ君は長男なんだからね」

「うん。まかせてパパ」

 軽い調子でうなずく伊吹をしばらくみつめてから万作に向き直った。

「たのむね、万作君」

「大丈夫ですよ。オレがついてますから」

「うん」

 万作の頼もしい返事に満足して、一子の隣にいる本田青年に振り向いた。

「本田君、正月に帰ってきたら一緒に酒でも飲もうね」

「はい。楽しみにしています」

「旦那さんは幸せですね、いいご家族に恵まれて」

 キツ子に言われて大きく頷いた。

「おじちゃん、バイバイ」

「おじちゃん、バイバイ」

 太郎と花子に手を振られて、気持ちを切り替えるように貢は肩に力を入れた。

「さて、行くとするか」

 自分に気合いを入れるように言った。貢は未練を断ち切るように助手席のドアを開けて車に乗り込んだ。

 東京駅まで送ってもらって新幹線に乗ってしまえば、この身は日本海側にある駅まで勝手に運ばれていく。

 寂しいのはほんのつかの間だ。家族の顔が見えなくなれば、じきに気持ちは落ち着きを取り戻す。そう自分に言い聞かせて鈴木さんに車を出してくれるように頼んだ。

 鈴木さんが軽くクラクションを鳴らして滑るように車を出した。

 貢はクーラーの利いた車内で振り返って手を振った。

 全員が手を振り返してくる。

 貢は進行方向に体を戻してシートベルトをしめた。

 情けないことに鼻の奥がツンとする。深呼吸して目を閉じた。

 パパァー。

 伊吹の声がしたが、空耳だと思った。

 パパァー。

 やはり伊吹の声がする。

 パパァー。

 まさかと思って振り向くと、伊吹が必死の形相で車を追いかけて走りながら手を振っていた。

「イブ君!」

 「パパァー、たった一人で寂しいでしょうけど、お仕事、頑張ってねー。ぼくたちのために、ありがとねー、パパ!」

 伊吹の声は確かに届いた。

「イブ君!」

 危ないから走って追いかけるのはやめなさい、と言おうとしたが言葉にならなかった。

貢の目尻から涙がこぼれる。伊吹の姿がどんどん小さくなって遠ざかっていく。角を曲がって姿が見えなくなり、貢は拳で涙を拭った。

「子供に追いかけられるのは切ないですな」

 運転している鈴木さんがぽつんと言った。

「ハハ、まったく。お恥ずかしい」

 恥じるように涙声で顔をこする。暖かいものが貢の胸に満ちていた。

 パパは頑張るよ、イブ君。

 空はやはり悲しいほどに青かった。 



     一子ちゃんを追っかけろ   完


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