どすこい山田先生の受難
新学期から一ト月たった五月の朝は、すっきりと晴れわたっていた。
衣替えの夏制服は六月に入ってからなのだが、冬服のブレザーを着ている生徒はいない。
男子は長袖のスクールシャツにゆるめたネクタイ、女子は長袖のブラウスに学校指定のニットのベストを着ている。
校門から正面玄関の建物までの舗装路は、両脇にイチョウの木が並んでいで、目にしみる緑の若葉が日の光に輝いていた。
イチョウ並木の下を歩いているだけで若葉色に染まりそうだ。その並木の下を、瑞々しい頬と匂いたつ黒髪を風にそよがせながら、長身の男子生徒三人が優雅に歩いていた。
三人がつくる三角形の中に小柄な少年が一人、埋もれるように納まっている。
ややもすると三人の体躯に隠れて見えなくなってしまいそうだが、通り過ぎていく生徒たちは、すばやく手を伸ばして、小柄な少年の髪やワイシャツの袖をひっぱてからかう。中にはほっぺをつねっていくものもあるし、脇の下をくすぐっていくものもいる。
それらのいたずらを、三人の少年たちが次々に払いのけていく。守られているほうの少年は、さっきから下を向いて、ぶつぶつなにかを呟いていた。
――ぶつぶつぶつくさ言いたくもなるよ。ぼくが学校のみんなからイブって呼ばれるようになったのは万札のせいなんだ。ぼくには不幸が多すぎる。あげつらっていったらキリがないけど、去年の高校の入学式のとき、新入生の群の中からいきなり万札が飛び出してきて、ぼくの手を掴んで言ったんだ。「きょろきょろするなイブ。もう迷子になっているのか。仕方のない奴だ。これだから目が離せないんだ。こんなことだろうと思って、俺がわざわざイブの学力に落としてまで一緒の高校に来てやったんだ。しかし、まさか入学式当日から世話を焼かされるとは思わなかったぞ。ほんとにおまえは目が離せないんだな」そう言ったんだぞ。信じらんない。ぼくは足もとの地面が崩れたかと思ったよ。やっと万札と離れられたと思っていたのに、まさか高校まで世話をやきに来るとは思わなかった。万札はうるさい。幼稚園のころからぼくに説教ばかりして指図してくるんだ。高校に入って一年たったというのになにもかわらない。ぼくだって高校二年生になったんだから、少しは自由にさせてほしい。ぼくのこと、おとな扱いしてほしいよ。――。
「また言ってるよ」
先頭を歩いていた真田幸継は、男らしく整った美しい顔の片頬に、呆れたような笑みを浮かべた。
「よっぽど福沢万作のことがトラウマになってるんだな」
そのうしろを歩いている土方歳哉も短髪をかき回してスポーツマンらしいきりっとした男前の顔で笑った。
「それにしてもイブの独り言、なんとかならないかね。だだ漏れで頭の中の声が丸聞こえなんだよね」
夏目想介も怜悧な美貌に苦笑をうかべた。
文武両道の真田幸継も、武道派の土方歳哉も、秀才の夏目想介も、三人そろって身長が一八〇センチを越えているのでかなり目立つ。しかし、通り過ぎていく生徒たちがかまっていくのは、三人に囲まれて歩いている相田伊吹だ。伊吹は自分の世界に入ってしまうと我を忘れる。
――こんなことってあるかい。不公平だ。非現実的だ。この世の中には、平等ってものはなにひとつないんだ。なんでぼくの周りのやつらは背が高くってかっこよくて頭がいいんだよ。真田たちといると、ぼくは森の中のアリンコみたいな気分になるよ。まじ暗くなる。ぼくは世の中から忘れられたアリンコだ。いまだって、地面を見ながらと、ぼとぼと歩いている、この姿を見ればわかるだろ。どうかぼくを踏みつぶさないでくれ。これでも人間なんだ。たのむから、おもちゃ扱いはやめてくれ――。
「身につまされるね」
真田がため息をつくと土方も肩を竦めた。
「この身長があと十センチあったらなぁ」
「イブの人生もかわるかもな」
夏目まで同情する。
四人は昇降口まで来ていた。
――みんなデカいから、一五六センチの視界なんてとっくの昔に忘れてるんだ。ぼくなら、ハイハイしている赤ん坊の気持ちがわかるよ。お父さんに高い高いされたときの興奮がわかる。高い高いされたときの赤ん坊が、あんなにはしゃぐのは視界の高さに世界が変わるからなんだ。って、あれ?――。
伊吹は立ち止まって上を見上げた。
昇降口の二階の廊下の窓から釣り糸が垂れてきて、先のほうにはご丁寧にカジキマグロを釣るときの大きなルアーまでついている。
太いテグスの先を見上げると、三年の男子たちが、数人がかりで窓から釣り竿を延ばして伊吹の夏制服のシャツの襟を釣り針で狙っていた。
「これなら簡単にイブが釣れるな。カジキマグロは大物なら二百キロぐらいあるし、イブはせいぜい四十キロだ」
ゆらゆら揺れている、がっしりした恐ろしげな釣り針を見ながら夏目が言った。
「おもしろそうだな」
真田がひょいと釣り針を伊吹の後ろ襟に掛けた。
二階の男子たちから歓声が上がり、一斉に各教室の窓から生徒たちが顔を出した。まだ校舎に入っていなかった生徒たちが走り寄って来る。
地面からかかとがあがり、つま先が離れ、やがて伊吹の体がじりじり持ち上がっていった。
はじめのうちは、何がおこっているのかのみ込めていなかった伊吹も、両足が一階の校舎の窓にかかったあたりで暴れだした。
「あぎゃああああ、やめろ。ばか、おろせ」
めちゃくちゃに手足を振り回して降りようとする。
「あぶないねえ、暴れると落ちちゃうよ」
のんびりと真田が笑う。
「あ、びりっと音がした」
一階の屋根まで上がった伊吹を見上げて、土方が呟いた。
「襟が裂けるな」
夏目の声は、校舎の窓から鈴なりに顔を出して、固唾をのんで見守っている生徒たちの興奮をあおった。下で輪になって見上げている生徒たちの目も皿のようになっている。
「裂けるぞ!」
真田の言葉が終わらないうちに伊吹の悲鳴が落ちてきた。
――ぎゃうわガガア――
「おまえら、なにやってるんだ!」
もの凄い怒声が後ろでしたかと思うと、真田、土方、夏目の三人が、突進してきた福沢万作に跳ね飛ばされていた。叫びながら落ちてきた伊吹を危機一髪で両腕で受け止める。
万作は真っ青な顔で恐ろしいほど目をつり上げて、肩で息をしていた。伊吹は万作の腕の中で泡を吹いて白目を剥いて失神していた。
一九〇センチある万作は、伊吹から見ると魔神のようにデカい。逆に万作から見ると伊吹はミニチュアのように小さい。顔も体も手足もみんなちまちまと小さくて人形のようだ。その伊吹を抱きしめたまま、万作はいたずらを仕掛けた二階の三年生に向かって牙を剥き、次に伊吹の襟に釣り針を引っかけた真田と、それを笑ってみていた土方と夏目を睨みつけた。
目から火を噴きそうな勢いで三人に膝蹴りを見舞う。輪になって見物していた生徒たちから興奮した歓声が上がった。
三人とも黙って万作の蹴りをもらうほどヤワではない。軽くかわしながら伊吹の様子を伺った。
「寝てるよ。大胆だね」
夏目が笑って言うと万作がムキになった。
「失神してるんだ。こんなことをして、死んでたかもしれないんだぞ」
「そんなことにならないよ。てか、あり得ない」
「そうそう、俺たちがちゃんと受け止めるから」
真田と土方が慌てることなく万作から伊吹を取り戻そうと手を伸ばした。
「ぐずわああああーん」
息を吹き返した伊吹が大声で泣き出した。万作があやすように抱いたまま揺すぶる。
「怖かったか、もう大丈夫だぞ」
周りから喝采があがった。伊吹の泣きかたと泣き声は、とても高校二年生の男子のものとは思えなかった。伊吹のコンプレックスの一つに声も入っていた。
身長が伸びないのが原因というわけではないのだろうが、変声期が中途半端で終わってしまったような声なのだ。少女と少年の中間のような中性的な声で、手放しで泣かれると、可哀想というよりは、おもしろくて笑ってしまう。万作がついつい甘やかして子供扱いしてしまうのも無理はなかった。
伊吹は万作の腕の中で泣きながら暴れた。
「信じらんない。世界中のどこに学校の二階から釣り糸を垂らして人間を釣るバカがいるかよ。そんな細い糸で人間が釣れるわけないだろ」
「釣られたろ」
万作が言っても耳に入っていない。
「こんなんで人が釣れたら、大雨の洪水で川に取り残された人を、フライフィッシングで釣り上げられるし、山で遭難した登山者も、ヘリコプターから釣り糸垂れて、一本釣りできるんだぞ。もしそれをテレビ中継して世界中に放映したら、日本人は鯨だけでは飽き足らなくて人間まで釣って食うのかって世界中から呆れられて、捕鯨反対どころか人間捕獲反対旋風が吹き荒れて、円が暴落するかもしれないんだぞ。そうなってもいいのかよ」
夏目が肩をすくめた。
「相変わらず論点がズレまくってるね」
「いいんじゃないの。そのおかげでイブはなにをされてもダメージが少ないんだ」
ニヤリとしながら真田が笑うと、土方も頷いた。
「イブは福沢に預けてさっさと行こう。予鈴がなる」
そうだな、と三人は昇降口に入っていった。
イブはまだ万作に抱かれてピーピー泣いてたが、予鈴が鳴ったらそれまで見物していた生徒たちが昇降口に動き出した。
どこからともなく女子の一団が、徒党を組んで万作のほうに走り寄ってきたかとおもうと、万作の腕の中から伊吹を放り捨てて万作を取り囲み、昇降口に拉致していった。地面に投げ捨てられている伊吹に万作の声が届く。
「イブ、おまえも早く教室へ行け。遅刻するぞ」
万作の声は、自称福沢万作親衛隊の女子たちに遮られて遠ざかっていった。
万作は体もデカいが、実は顔も整っていて、男らしい眉とくっきりした目元が印象的な好青年だった。ただ、自分の容姿にはまったく関心がない上に、いつも伊吹に振り回されているため、眉間に皺が寄り、目つきは狂暴になっていた。
女子たちは女性特有の視覚で万作のかっこ良さを見抜いていたし、特に鋭い女の嗅覚は、金の臭いに敏感で、福沢コンツェルンの総帥の一人息子である万作は、彼女たちにとって猫にマタタビどころか、空きっ腹に肉汁のしたたる極上松坂牛のサーロインステーキ状態だった。
福沢万作親衛隊は他校の女子とも連合を結んでいて、これもひとえに抜け駆けは許さないということから発生した団体だった。つまり、伊吹が煙たがっている福沢万作こそ、真田、土方、夏目の上をいく最大最強のモテ男だったのだ。
しかし伊吹はそんなことも気がつかない。
いつも突然現れては、がみがみ怒り、また突然女子の集団に拉致されていく万作を、あっけにとられて見ているだけだ。
いつの間にか誰もいなくなっていることに気づいた伊吹は、鼻水をすすって立ち上がった。ズボンの汚れを払ってとぼとぼと昇降口に向かう。
――ぼくを釣ろうとした三年生もひどいけど、ぼくの襟に釣り針を引っかけた真田も許せない。笑って見ていた土方も夏目も同罪だ。あいつらとは絶好だ。もともとぼくから近づいた訳じゃないんだ。あいつらが勝手にいつの間にかぼくの周りにいたんだ。あいつらみたいな、見ためのいい男がそばにいたんじゃ迷惑だ。こっちの気も知らないでぼくは毎日コンプレックスの針山をよじ登らされているようなもんだ。あいつらを見てると世の中を恨みたくなる。なんでぼくのそばから離れないんだ。男らしくて筋肉質な近藤勇子≪こんどうゆうこ≫さんは土方を崇拝してるし、メガネをかけたカマキリ美人の三島由紀菜≪みしまゆきな≫さんは夏目に熱烈だし、ぼくの憧れている円谷瞳さんは真田と恋人になりたがっている。近藤勇子さんも三島由紀菜さんも頑張ればいいけど、円谷瞳さんは真田にわたすわけにはいかない。真田は手ごわいライバルだけど、ぼくは負けないからな。ぼくは円谷瞳さんさえいればいいんだ。頭は悪くて可愛いだけが取りえの円谷瞳さんだけど、女の子は可愛いだけで充分だ。円谷瞳さんの可愛さは並じゃない。目があったりしたら心臓を持って行かれそうになる。円谷瞳さんのことを考えていたらドキドキしてきた。二年生になって円谷瞳さんと一緒のクラスになったときは、うれしくて卒倒しそうになったっけ。一週間、ドキドキのしっぱなしで不整脈になって貧血で倒れたんだ。いまでもボーと見とれていると鼻血がでてたりする。気をつけないとな。あ! 円谷瞳さんだ――。
遅くなったらしく、長い髪を振り乱して昇降口に駆け込んできた円谷瞳は、靴箱にスニーカーを放りこんで上履きの踵を踏みつぶして突っかけると、短いプリーツスカートの裾の乱れも気にせずに、昇降口の階段を長い足で三段飛ばしに駆け上がった。
慌てて伊吹もあとを追う。
「おはよう、円谷瞳さん」
「おはようじゃない、遅刻するぞティーカップ・イブ」
「あの、円谷瞳さん、ティーカップ・プードルじゃないんだから、その呼び方やめてもらえるかな?」
「ぐずぐず言うな。遅刻したいのか」
二階まで一気に駆け上がった円谷瞳は、まだ階段の下のほうでもたついている伊吹に舌打ちした。
「なんと言ってもティーカップに入るくらい小さいんだから、階段の一段飛ばしも無理か。しかたがない、見捨てよう」
円谷瞳は、誰も歩いていない教室の廊下を豪快に走った。成績は今一つだが、無遅刻・無欠席は円谷瞳の誇りだ。ここで伊吹に同情して遅刻するわけには行かない。
円谷瞳が教室の戸口に滑り込むのを見送って足を早める伊吹の横を、一時限目の数学の授業の、どすこい山田先生が大股に歩いて通り過ぎた。
「ティーカップ。遅刻だぞ」
どすこい山田先生は大学の相撲部出身だから巨体だ。それなのに身のこなしが素早い。
五月のさわやかな季節だというのに、人並み以上の汗っかきだから、ブルーの半そでのワイシャツの脇の下や、ネクタイの下や背中は、濡れて色が変わっている。短くカットした髪の付け根からも汗が滴っているが、その汗を拭くハンカチはブランド物のしゃれた柄だ。ひげの剃り残しなどないすべすべつるつるの頬を拭いているどすこ山田先生の項から、シャネルのトワレが爽やかに香った。
――お洒落なんだかしらないけど、あんだけ汗の臭いと混じり合った香水の臭いなんかかぎたくないよね。しかも安い香料でさ、嗅いだだけでわかるような安物だったらつけないほうがマシだよね。これでよく結婚できたよね。引退に追い込まれた大関の朝青竜の親方に顔が似ていて、朝青竜の問題行動で頻繁にあの親方がテレビに出るようになる以前は、あの親方に似ているのを自慢していたけど、ワイドショーで親方にも批判が出るようになってからは言わなくなったんだよね。ぼくにはわかんないけど、あの親方に似ていてうれしいのかな。ぼくだったらうれしくないよ。奥さんなんか、夜中に目が醒めて、うっかり隣に寝ている、どすこい山田先生の顔を見たりしたらもう寝られないだろうな。目を閉じればあのつぶれた顔が、閉じた瞼の裏に張り付いて脂汗もんだろうね。子供は幼稚園と小学生っていってたけど、親が太ってたら子供も絶対太ってるよね。米なんか一年で何トン食べるんだろう。家の中でも家族で相撲を取っているのかな。奥さんとは、夜、お布団の中で取ってるだろうけど、アパートだっていうから床が抜けるんじゃないかな。下の部屋の人は地震だと思って飛び起きるぞ。ホコリも降ってくるよね。喘息になりそう――。
廊下でどすこい山田先生が立ち止まって、真っ赤な顔でわなわな震えていた。うつむいてブツブツいいながら教室に入っていく伊吹には、どすこい山田先生の姿は目に入っていない。
あとから教室に入ってきたどすこい山田先生は、今まで生徒たちが一度も目にしたことのない形相をしていた。西の横綱、東の横綱が千秋楽での大一番、というほどの緊張感に教室中が水を打ったように静まり返った。
どすこい山田先生の肉付きのいい頬はプルプル震え、ついでにGカップのバストもワイシャツの中で揺れている。
――すごいな。いつも思うんだけど、お相撲さんのおっぱいって男なのにどうしてあんなに大きいんだろう。ハッケヨイするときに土俵に拳を付けるけど、おっぱいが垂れちゃって、あんなの見せられても困っちゃうよね。いくら大きくても、ぼくは一回も発情したことがないんだけど、どすこい山田先生の奥さんは、子供が寝たあとどすこい山田先生と、お布団の中で相撲を取るとき、先生のおっぱいに吸いついたりするのかな――。
「だれかイブの妄想をとめろよ」
真田がそろりとイスから立ち上がって、どすこい山田先生の視覚の隙をついて窓のほうに寄った。このままですむわけがないことは、真田たちだけではなくクラス全員がわかっている。
「とにかく配置に付け」
土方が自分の周りの机を押しやって、空間を作りながら言った。
「おもしろくなりそう」
夏目がわくわくしながら生徒たちを誘導して、教室の後ろに下がらせた。生徒たちは固唾を飲んで伊吹とどすこい山田先生に注目している。
伊吹は、相変わらず俯いて自分の世界に入っているため、どすこい山田先生が大変なことになっているとは気づいていない。
――ぼく、女の人のおっぱいをさわったことがないから、一回どすこい山田先生のおっぱいをさわってみたいな。もみもみしたらどんな感じなんだろう。指で突いたら指なんか潜り込んじゃうのかな。うげ、なんか、想像したら気持ち悪くなってきた――。
どすこい山田先生のこめかみの血管が切れた音が聞こえたような気がした。
「アイダ・イブキ! そのへんで止めておかないと、おまえの人生の続きはないぞ」
「へ? せんせ、ぼく、なにかしましたか」
キョトンとして首を傾げている伊吹の机を投げ飛ばしたどすこい山田先生は、野球のグローブのような手で伊吹の首根ッコを鷲掴みにして、濡れ雑巾を振り回すように三回空中にブン回した。そのまま砲丸投げのように二階の窓から力任せに投げ捨てた。伊吹の小さな体が机やイスを飛びこえて窓の向こうに消えていく。
生徒たちから悲鳴が上がった。
「真田! まかせた」
間髪いれず土方が叫ぶと、真田がオウ! と応えて、伊吹の消えた窓に身を乗り出した。落下する伊吹の足首をガシっと掴む。そのまま伊吹の体をぶんまわして教室に投げ返した。再び教室の天井を飛んでいく伊吹を、土方がジャンプしてキャッチする。
盛大な歓声がこだました。そのうるささに両隣の教室から生徒たちが駆けつけてきた。
土方に抱き抱えられて墜落死を免れた伊吹は、どうしてこうなったのかわからぬままにショックで「ビエッッッッエエ!」と泣き出した。
「泣いたから大丈夫だ」
夏目が言うと、全員が安心したように肩をおろして、乱れた机を直し始めた。
「さあ、廊下で見物のみなさん、ショーは終わりですよ。授業を再開しましょうね」
夏目に追い払われて廊下の生徒たちが戻っていく。
どすこい山田先生はまだ怒りに震えていた。
伊吹が土方の腕から降りて、どすこい山田先生の前に歩いていって大声を上げた。
「先生。自分のしたことがわかってるんですか。あなたは殺人未遂をしたんですよ。ぼくが死んでいたら、先生の可愛いお子さんたちは殺人者の子供になって、一生暗い人生を歩まなくてはいけなくなるところだったんですよ」
どすこい山田先生がはっとした。みるみる眉が下がっていく。息吹の怒りは収まらない。
「お子さんたちだけじゃないです。奥さんの人生だって変わってしまうんですよ。先生が刑務所に行っているあいだに、夜が寂しくて、ふらふら男遊びを始めちゃって、あげくの果ては妊娠しちゃって捨てられて、誰の子供だかわからない子供がお腹の中に残っちゃって、仕方がないわね、パパの子だって嘘ついて」
「誰かほんとに止めさせろ」
土方が真顔で言った。
「おもしろいのに」
夏目はまだ伊吹にしゃべらせたいらしいが、どすこい山田先生の顔色が土ケ色になっていくのを見て真田が動いた。
「円谷さん、ちょっと」
スリリングな展開になっていきそうな予感にわくわくしていた円谷瞳は、真田に呼ばれて真っ赤になった。
「はい、何でしょうか。真田さん」
円谷瞳は、窓のところで手招きする真田のそばへ、いそいそと歩み寄った。
伊吹は円谷という名前に敏感に反応した。真田の声のしたほうを振り向くと、真田が円谷瞳の長い髪に指を絡ませて、いい雰囲気で見つめ合っていた。
「うわー。ぼくの憧れの円谷瞳さんが真田といちゃいちゃしてる。離れて、離れて。殺すぞ真田」
伊吹は真田のところに飛んでいって円谷瞳の髪から真田の指をどけると、その指に噛みついた。
「いてー。やめろイブ」
「やめなさいよティーカップ。真田さんに噛みつくなんて、どうしようもない駄犬ね」
「ひ、ひどい言い方。ぼくのこと駄犬だって。ぼくは犬じゃないよ」
涙目になって円谷瞳に抗議する伊吹を横目に、夏目は山田先生のところへ寄って行った。
「先生、授業をしましょうか。相田のことはまともに取り合ったらだめですよ。バカを見るだけです。あいつのひとりごとは病気だから」
「そ、そうだな。いや、大人げなかったな。ハハ」
どすこい山田先生は無理して笑うと、真田に絡んでわめいている伊吹のことは見ないようにして教科書を開いた。
朝から釣り竿で釣られるは、どすこい山田先生からは二階の教室の窓から外に放り投げられるはで大変な目に遭ったはずの伊吹より、周りの人間のほうが疲れるかもしれないとは考えてもいない伊吹だった。
「ただいま」
伊吹は玄関に母の宝子のサンダルしかないのを見て、三人の姉たちがまだ帰ってきてないのだと思った。
玄関の前にまっすぐ伸びている廊下の右側にはトイレと風呂場があって、左側は台所とリビングになっている。築十三年の建売住宅の二階家は、掃除好きな宝子のおかげで新築のようにきれいだ。
「ママ、ワイシャツの襟、破いちゃったから縫って」
台所で夕飯の支度をしている宝子の背中に声をかけたら、包丁を置いて振り向いた。
「お帰りイブちゃん。襟がどうしたって?」
「ほら」
伊吹は後ろを向いて襟を見せた。
宝子の身長は、伊吹より四センチ背が高くて一六〇センチある。父親の貢は一八〇センチの長身だ。三人の姉たちもみな高身長で、相田家の中では伊吹が一番背が低い。学校でも家でも伊吹は小さいままだ。誰に似たんだろうと思う。
――もしもこのまま一生背が延びないままだったらどうしよう。ママだって一六〇センチもあるんだぞ。女で一六〇あれば立派なもんだ。でも、男の一五六センチは小さすぎる。
女の子の一五六センチはちょうどいいけど、男だと話は全く別だ。ママはぼくが赤ん坊の頃、ちゃんとミルクを飲ませてくれたのかな。ケチったりしなかったろうな。中学の時から水代わりに牛乳ばっか飲んでいたけど、関係ないみたい。大きくなる人は水飲んだって大きくなるし、小さいのはいくらを牛乳を飲んだてチビのままだ――。
「だいじょうぶよイブちゃん。これから大きくなるわ」
そう言って宝子は伊吹の小さくてふっくらしたかわいい口にチュッとした。
「やめてよママ。ぼく、もう高二だよ。変でしょ、こういうの」
「だってイブちゃんはママの宝物なんだもの」
宝子は三女の三子を産んだあと、第四子を妊娠したが流産して、その後伊吹を授かったために伊吹を溺愛していた。
伊吹が男の子だったので、家族中からかわいがられて育ったたせいか、どこかのネジがゆるみっぱなしの青少年に育ってしまった。
宝子からすれば、まだ足りないぐらいかわいがりたい。ほんとうは抱いて寝たいくらいだ。
「こんなところが破けるなんて、どうしたのかしら」
「釣られたんだ」
「どういうこと」
「つり竿で釣られたの。魚みたいに」
「うふふ、おもしろいことするのね、今の高校生って」
「見てるほうはおもしろいみたいだよ」
「ママも見たかったわ。人間鯉のぼりね」
「じゃ、おねがいね」
「今日のお夕飯はお刺身よ」
「ぼく、お肉がいい」
「だめです」
伊吹はその場で制服のYシャツを脱いで宝子に渡すと、茶の間を出て廊下の突き当たりにある自分の部屋へ向かった。宝子は再び包丁を握って大根を刻みながら首を傾げた。
「釣られたって、冗談よね」
伊吹が家に帰ってきて外であったことを話しても、家族は誰も信じない。あり得ないことが大事な息子に起こっているなどと思いもしない。ある意味、平和な家族である。
夜の八時を回った頃、伊吹は風呂から出て頭をバスタオルで拭きながらドライヤーを持って茶の間へ行った。
パジャマの上着の前をあけたままで、だらしなくパジャマズボンを腰にひっかけて、臍を出してペタペタ歩いて入っていくと、ロングソファに会社から帰ったばかりの一子が座っていて、テレビのチャンネルを回していた。
「一子ちゃん、お帰り」
「ただいま。いらっしゃい、髪を乾かしてあげるわ」
「うん」
二十四歳になる一番上の姉の前に行くと、パジャマのボタンを留めてパジャマズボンを臍の上まであげてくれた。宝子がキッチンから声をかけてくる。
「一子ちゃん、お夕飯はすんでるの?」
「ええ。総務部の課長さんにごちそうしてもらっちゃったの。連絡しないでごめんなさい」
「その方、一子ちゃんの彼氏?」
「いやだわママ。そんなんじゃないのよ彼とは」
一子はわずかに眉を顰めて伊吹の髪にドライヤーの温風を送る。伊吹は一子のやさしい指が髪をまさぐる心地よさにうとうとしてきた。
「あら、イブちゃん、おねむ?」
「うん、ぼく、きょうは大変だったんだ。釣られるし、二階の窓から捨てられるし、疲れちゃった」
「イブちゃんでも疲れるんだ」
一子は、ふんわり笑った。
「一子、髪ぐらい自分でやらせろ。みんなしてこいつを甘やかすから、こんなどうしようもないやつに育ってしまったんだぞ」
「あら万作さん、お帰りなさい」
茶の間に入ってきた福沢万作に一子は笑顔を見せた。宝子もいそいそと台所から声をかける。
「万作さん、お茶にする、それともコーヒー?」
「めしにする。腹へった」
「はいはい」
すぐに支度を始めた宝子を見ながら、伊吹は口をとがらせた。
「ご飯ぐらい自分ちでたべてくればいいだろ」
「空っぽの家の中で一人でめし食ってもうまくないだろ。それにあの家は住み込みの家政夫の鈴木さん夫婦に乗っ取られたも同然だ。親父もお袋も家にいないもんだから、我が物顔で好き放題だ」
台所のダイニングテーブルに並べてくれた皿小鉢を、万作は気持ちいい食べっぷりで空にしていく。
「そうだ宝子さん。ここの家の風呂場だけど、こんど改装するからね。ここの風呂、小さくて、俺、風呂入りにわざわざ自分ちに行くの面倒だから、風呂場、リフォームするわ」
「万作、ジャグジーつけてよ」
「ついでにミストサウナも」
万作の声が聞こえたのだろう、玄関のあく音がして、茶の間に入ってきた二十三歳になる二女の二子と、大学四年になる三女の三子がそれぞれ注文をつけてきた。
二子は原宿でハウスマヌカンをしている。
総合商社に勤めている一子はしっとりとした美人だが、二子は髪をきんきんに染め、全体がレインボーカラーで彩られたお人形さんみたいだ。
「お帰り、二子。三子。いいよ、ジャグジーとミストサウナだな。ほかに希望はあるか」
食後のお茶をすすりながら万作がみんなを見回した。
「あとテレビも」
そういったのは三子だ。大学で建築の勉強をしている三子は、伊吹と性格が入れ替わればよかったと思うくらいサバサバしている。
髪もベリーショートで男の子のようにウエットなジェルでつんつん立たせている。三子がテレビをねだると、万作は「オッケー」と言って伊吹を振り向いた。
「イブ、歯、磨いたか」
「磨いた」
「なにふくれてるんだ」
「だって万札、うちの家長みたいにぼくの家を仕切ってるんだもん」
「そんなの今に始まったことじゃないだろ。貢≪みつぐ≫さんが単身赴任で不在なんだから俺がしっかりしないとしょうがないだろ」
「だからさぁ……なんでうちに住み込んでるんだよ。自分ちに帰りなよ。何年ここで暮らしているか覚えているのか」
「さあなぁ」
万作は首を傾げた。
「イブの一家が俺の家の隣に越してきたのが、イブが幼稚園の年長さんのときだろ。そして、俺の家の敷地に迷い込んできて、庭で迷子になって泣いているのを見つけて、おまえの家につれてきてやった時から、俺はおまえと一緒の部屋で寝るようになったんだよな」
「ぼくはベッドを占領されたんだ」
「だから、でっかいベッドに買い換えてやったろ。部屋だって改築して三倍に広げてやったじゃないか」
「狭くていいから一人で寝たい」
「だめだ。おまえは寝相が悪いからすぐ布団から飛び出して、そのつど俺が布団の中に引っ張り込んでんだぞ」
伊吹は泣きたくなった。
――いやだ、いやだ、いやだ。いつの間にか万札は親の金にものをいわせてぼくの家と家族を乗っ取った。福沢家から万札の食事代として毎月どっさりお金が払い込まれていて、この家のローンはそのお金で去年完済できたんだ。万札のお父さんは福沢コンツェルンの総帥で、お母さんは国会議員の少子化担当大臣で、とっくに閉経しているくせに産めや増やせの子供大事大臣なんて笑っちゃうけど、仕事ばっかで、自分の子供は住み込みの夫婦の鈴木さんたちに任せっぱなしで、ぼくの家で寝泊まりするようになったら、これ幸いとあずけっぱなしで、国会議員のおばさんは、万作の養育権と教育は放棄しませんけど、あとはよろしくお願いします、とか何とか言っちゃって、以来、万札はぼくの家で、ぼくたちと兄弟みたいに暮らしていて、どんどん背が伸びていくに従って、うちの実権は万札に掌握されてしまったんだ。今だに理解できないのは、なんでぼくの部屋で、キングサイズのベッドで一緒に寝なくちゃならないかだ。朝なんか、うっかりするとぼくは万札の抱き枕になってるんだぞ。こいつの足なんかスポーツで鍛えているから堅いし重いし、腕で抱え込まれると苦しくてうなされて目が覚めるんだ。でも万札は気持ちよさそうに寝てるし、顔をたたいても起きないし、鼻をつまんでも口で息をするし、あんまり腹が立つから、パンツの中に手を突っ込んであれをギュッってしてやったらニターって寝ながら笑ってんの。
すんげー大きかったな。朝なんか、パンツ破けそうにでかくなってるもんね。ぼくなんか、すんげーちっちゃくてボタン電池みたいなのに、万札のは大根みたいだ。だからぼくは大根が嫌いなんだ。うっ、万札の大根チ○チ○
――。
宝子が咳払した。
一子が真っ赤になって下を向き、二子がひきつったように笑い、三子が伊吹のパジャマズボンをおもいきり広げて「ボタン電池、見せろ」と言った。
「やめてよ三子ちゃん。誰がボタン電池だよ」
「自分で言っただろ。ぼくのチ○チ○はボタン電池だって。ほんと、ちっせー」
伊吹が真っ赤になってふるえだしたので、三子がうれしそうに笑った。
「三子、男の沽券にかかわるようなことを笑いものにするんじゃないぞ」
万作は三子を叱った。
「うへ、万作はイブに甘いからな」
「三子ちゃん、ご飯は?」
宝子は子供たちが帰ってくるたびに同じことをたずねる。
「たべる。万作はもうすませたのか」
「いま食い終わった」
「勉強は」
「隣の家で済ませてきた」
「万作も大変だね。毎日家庭教師がやってきて公立高校とは別のカリキュラムをやってるんだからさ」
「当然だ。俺は生後六ヶ月から英才教育を受けているからな。高校はイブと同じところに入ったけど、さすがに大学はそういうわけには行かないからな。アメリカかイギリスあたりに行かされるだろうな」
「オックスフォードとかケンブリッジとか」
「そんなところだ」
ダイニングテーブルに座って交わされている三子と万作の会話をよそに、伊吹は大あくびをした。
「イブといられるのもあとわずかだな」
しんみりとした万作のつぶやきは、伊吹には届いていない。
「ぼく眠い」
目をこすりながら茶の間を出て廊下の向こうに歩いていく伊吹に、万作は複雑な表情を浮かべた。
「だいじょうぶですよ、万作さん」
宝子がやさしく声をかける。
「イブちゃんも少しずつ大人になっていきますから。マイペースなのと独り言が気になりますけど、それもだんだん直っていくでしょう」
そうだろうか、と万作は思う。あの独り言は、社会に出たらトラブルをまき散らす。笑い事ではすまなくなる。万作は真剣に伊吹のことを心配するあまり、叱ってばかりいることに気づいていなかった。きのどくに、高校二年生の若さで、出来の悪すぎる息子を持つ父親の心境の万作だった。
――どすこい山田先生の受難 完 ――