9、残された想い
――どうして、母さんの側から離れていくの? ――
それは、私には夢があったからよ、母さん。
――女手ひとつで育てた、可愛い娘なのに。どうして、言うことを聞いてくれないの? ――
それは、何にも変えられない素敵な未来を見に行きたいからよ、母さん。
――親戚や近所の方に、どんな顔をして会えばいいか分からない。母さんを困らせないで――
恥ずかしい事なんて一つもないわ。母さんは、私が一流のカメラマンになるのを堂々と待っていてくれたら良かったのよ。
――でもね、あなたに言った言葉は本意じゃなかった――
それでも私は傷付いたわ、母さん。
――頑張って、応援してるって、直接言えればよかった――
どうして言ってくれなかったの? ずっと、待っていたのに……
私は、白い便箋を握りしめて小さく呻いた。
泣いていたかもしれない。
飛鳥くんが私の手から便箋を取り上げて、テーブルの上に置いた。
「そんなに握りしめたら、読めなくなるよ」
彼は、手持ち無沙汰になった私の手を遠慮がちに握った。
「……お母さん、千陽さんを憎んだりしてないよ」
「違うの。私が憎いのは……赦せないのは……母さんを分かってあげられなかった自分なのよ。母さんの事は、こういっちゃ、アレなんだけど……もう忘れてた。諦めてた。でもね、最後まで謝れなくて……。母さん、世間体を気にする人だし、頑固な所があったんだもの。私が折れて、一言謝って、ありがとうって言えば良かったの……」
飛鳥くんは、何も言わない。きっと彼は気を利かせて黙っていてくれるのだ。まだ、ほんの大学生なのに、人の心の変化に機敏だと思う。
そんな事を、頭のどこかで考えられると言うことは、脳は健康なんだ。いろいろあったから、心が少し疲れているだけなんだ。
私は彼に甘えて、目を閉じた。
もう、母の姿は思い出せない。
「……飛鳥くん」
「なに?」
「お母様には会わないの? 連絡先くらい、分かるでしょう」
飛鳥くんは黙った。構わずに続ける。
「ねえ、一度でいいの。会わなくてもいいわ。せめて、あなたの声を聴かせてあげなさいな」
私は諭すように言った。
「人生は一度きりよ。他人だって同じ。失ったら、戻って来ないわ」
「……もう遅いよ。あの人は、俺の事なんか忘れてる。最後に見たのは、こんなに小さな俺だったんだ」
そう言って彼は、ソファーに座る自分の膝の辺りに手をやってみせる。
「連絡も取ってない。親父は、多分取ってるんじゃないかな……でも、」彼は言った。「俺もいい加減、母親の恋しさとかは、ないからさ」
どうでもいいんだ、と言うように彼は首を振った。
「寂しくならないの?」
「そりゃあ、中学、高校と母親がいたらなあって思ったよ。友達が言うんだ。母親がガミガミうるさい、とかお節介だとか……心配してくれるだけマシだって話だよな。……だけど、もう、全然」
嘘だ、と思った。飛鳥くんは、母親に対する餓えを持っている。ただ、彼は上手に甘えられないだけなのだ。甘え方も知らないのだ、きっと。
「ねえ飛鳥くん」
私は、彼の頭を肩に寄せた。
彼はじっと、されるがままだ。
「いいのよ、あなたの弱い所を見ても、誰も笑わないわ。むしろ、安心するくらいよ。……だってあなた、一つも隙を見せないんだもの。そうやって、強く見せて、背伸びして、みんなを負かしたつもりでいた――違う?」
「……違わない、と思う」
彼は寂しそうに言った。
「我が儘になりなさい。欲張りになりなさい。うんと、誰かを困らせなさい。あなたはまだ十八歳なの。まだ子供でいていいのよ。そんなに大人でいる必要はないの」
彼は、すん、と鼻を鳴らしてから笑った。
「千陽さん、先生みたい」
「そりゃあ、そうよ。あなたより五つも年上なんだもの。私がした後悔を、あなたにしてほしくない。一生抱えていくには重すぎるわ、死の後悔は」