8、聖なる夜
家に着いてすぐに、彼女から電話が掛かってきた。
「……千陽さん、携帯鳴ってない?」
私の黒いバックの中でバイブする音を飛鳥くんが聴いた。
「お姉ちゃんからだ……何かしら」
ディスプレイに表示された『矢沢万里』という文字に身構える。
通話ボタンを押すと、少し焦ったような声が聞こえてきた。
「……はい」
『千陽? ごめんなさい。あなたの部屋の和英辞書を借りちゃったの』
「……別に大丈夫よ。使わないから」
大学受験の為に、母が買ってくれたものだった。結局、使いはしなかったけれど。
『違うの。辞書の間にね、母さんからの……手紙が挟まってるの、あなた宛てに』
目の前が一瞬暗くなる。
今さら何だっていうんだ。私は十分、母に傷付けられた。これ以上、私に何をしようするの?
『飛鳥くんに、渡しておくね。彼、あのカフェにいるんでしょう?』
「いいわよ。今さら何だって言うの? 見たくない」
『見なくてもいいの。捨てちゃうのは何だか罰が当たりそうじゃない? 受け取ってくれればいいの』
それじゃあ、と、言いたい事を言うと姉は電話を切った。マイペースな人だ。
ため息をついた私に、すかさず飛鳥くんが聞く。
「お姉さん? 何だって?」
「明日のお昼、飛鳥くんに会いにカフェに行くそうよ。だから、よろしくって」
「俺に? どうして?」
キョトンとする彼の質問には答えず、私は苦虫を噛んだ。
「……最低のクリスマスプレゼントだわ」
シンプルな白い携帯をジーンズのポケットにねじ込んで、飛鳥くんの入れてくれたココアを飲んだ。
ふと、彼は言った。
「ケーキでも、買って来ましょうか」
「私、チョコレートケーキがいいな。あと、ワインがあったら最高ね。……あ、飛鳥くんがまだ未成年だから、そういう訳にはいかないか」
「千陽さんさえ目をつぶってくれたら、関係ないんだけどな」
彼が肩をすくめる。
「ワインの味も分からないくせに、何を言ってるのよ。……でもそうね、せっかくだから、シャンパンでも飲みましょうか」
「アルコール入りの? 飲んでもいいの?」
「ええ。特別よ。まあ、私もそのくらいから飲んでいたもの、人の事言えないけどね」
私が飛鳥くんくらいの時は、多分オーストラリアにいたと思う。一文無しで初めて行った外国で、私はアランに出会ったのだ。
〈君も、この絵が気に入ったかい?〉
行くところもなく、ふらりと足を運んだ美術館で、突然声をかけられた。驚いて振り向くと、彼は金のブロンドヘアーを綺麗に揺らして私に笑いかける。
〈これは、朝陽だと思うかい? それとも夕陽?〉
彼は、私が見つめていた絵を指差して言った。
どこにでもありそうな、海と太陽の絵だ。海から半分と少し顔を出した太陽が、辺りを橙色に染めている。
〈……夕陽だと思う〉
〈どうして?〉
〈だって、寂しい感じがするもの〉
すると彼は、背の低い私を覗き込んだ。
〈この絵はね、正解がないんだ。だから見てる人の気持ち次第なんだよ。君が……寂しい、と言ったようにね〉
彼の端正な顔がすぐ側にある事に胸の鼓動が乱れる。思わず俯いた私に彼は手を差し出した。
〈アランだ。僕に出来る事なら、何でも言って。可愛いジャパニーズドール〉
私は急いで手を握り返して、意を決して口を開いた。
〈私を、あなたの家に置いて欲しいの〉
その夜私は、女になった。
世の中の甘さに気付いた。
私は女。それが生きる手段になったのだ。
* *
飛鳥くんが買い物に行くと言うので、私もついて行く事にした。今にも鈴の音が聞こえてきそうな聖なる夜。ホワイトクリスマスだ。
「わあ、可愛い……」
私達は、スーパーで一通り買い物が終わった帰り道に、ケーキ屋さんに寄った。
「ブッシュ・ド・ノエルですね。買いましょうか」
飛鳥くんは、店員に注文した。丁寧に箱に入れてもらい、崩れないように優しく持つ。
「……飛鳥くんは、私の事どう思うの?」
私は店を出た所で、ふと言った。
「どうって?」
「だから、お姉ちゃんが言ってたでしょう。私って、飛鳥くんの邪魔?」
すると、彼はカラカラと笑った。
「千陽さんってさ、随分ストレートに聞くよね。……でも、俺は千陽さんの事、そんな風に思ってないですよ。……正直言って、ちょっと悔しかった」
「何が?」
「俺が……千陽さんの――」
「あ、千陽!」
飛鳥くんの声を遮って、聞き覚えのある声。今日この声を聞くのは三度目だ。
「………お姉ちゃん……」
旦那と子供を連れて、少し離れた所で手を振っている。
姉は私に駆け寄って、笑った。
「本当に、何度もごめんなさいね。これ、やっぱりどうしてもすぐに渡したくて……今あなたに連絡しようと思ってたの」
彼女は、小さなバックから二通の白い封筒を取り出した。
「はい、母さんから。……読まなくても良いから、取っておきなさい」
ふと目をあげると、姉の旦那が私に小さく会釈をした。
私は、その封筒をバックに入れてお礼を言った。
「……わざわざありがとう」
「いいのよ。メリークリスマス、千陽、飛鳥くん」
姉はそう言って身を翻した。
「マイペースな人ですね」
飛鳥が姉の姿が小さくなってから言った。
「昔からよ」私はため息をつく。「良くも悪くもね」
私たちはどちらともなく歩き出す。バックの中に入れた手紙が重く感じた。