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7、変わる景色

「遅い! 何やってたのよ、馬鹿」

 飛鳥くんが帰ってくるなり、私は抱いていたクッションを彼に投げ付けた。彼は上手にキャッチしながら、それには答えずに優しく微笑む。

「そっか、ご飯食べたんだ。じゃあ、コーヒーでもいれようか。千陽さんはミルクティーね」

 そう言って彼はお揃いのカップを取り出した。

 私は黙って窓の外を見つめていた。今夜は綺麗な三日月だ。何か考えてしなければ、景色が涙で滲んで見えるから、必死で堪える。

「どうぞ。落ち着きますよ」

 飛鳥くんが、まるでカフェ店員のように静かに私の前にカップを置いた。

「……千陽さんがそんなこと言うなんて、俺が留守の間、何かあった?」

 飛鳥くんは、いつかのように私の隣に座る。

「ねえ、千陽さん?」

「何よ!」私は言った。

「……あったわよ! ありまくりだわ。……どうして貴方は、傍にいて欲しい時にいないの?」

 私が顔を上げて飛鳥くんに言うと、彼ははっとして、私の目元に触れる。

「……泣いてたの? 目が腫れてる」

 彼の手は、とても大きくて優しい。年下の男の子なのに、温かくて甘えたい気持ちになる。堪えていた涙が塞きを切ったように溢れてきた。

「……馬鹿飛鳥。見ないでよ……っ!」

 私は飛鳥くんの手を振り払ってそっぽを向こうとしたが、それは叶わなかった。彼が私を抱きしめたからだ。

 小さい子にするように、何度も繰り返し、優しく頭を撫でた。

「泣き顔、見られたくないなら、見ないから……」

 飛鳥くんは私を抱きしめたまま、静かにそう言った。

 彼は訳を聞かなかった。でも私は、今日の話をしようと思っていた。聞かれても、聞かれなくても。彼も、私と同じで家族とは深い亀裂があるから。



    *       *


 私は彼の肩に寄り掛かりながら、目を閉じる。時計の針の音が空気を震わせた。

「大切なものは、本当に失ってから気付くのね」

「……うん」

「ちゃんと気付こうとしないと、見えないのよ」

「……うん」

「明日、実家に行こうと思うの。飛鳥くん……着いて来てくれる?」

 私が彼を見上げて言うと、彼は優しく笑って頷いた。

「いいよ。明日、クリスマスイブだけど……」

 そういう彼に私はむっとして言った。

「こんな時に嫌味を言うの? どうせ予定はないわ」

 すると彼は、ふふっと笑った。まるで恋人同士がそうするように、肩をぎゅっと抱いて彼は低い声で囁く。

「俺と一緒だ」

 寄り掛かった頭に直接響く飛鳥くんの声に安心して私はもう一度目を閉じた。



     *      *



「千陽さん、大丈夫?」

 飛鳥くんは実家の前に車を止めて、私に言った。

 薄暗い午後3時。外は、しんしんと静かに雪が降っている。天気予報が当たった。今夜はホワイトクリスマスだ。

 私の実家は、飛鳥くんの家から車で三十分くらい走った所にある。家の向かい側は畑があって、小さい頃は家族全員で茄子やトマト、スイカ等を育てたものだ。あの時は、全てが楽しかった。

 私は、ゴクン、と生唾を飲み込んだ。正直、夜も眠れない程に緊張していたのだ。もう母はいない。それなのに、あの家の中に入る事を考えるだけで、身体が固まってしまう。

〈お前なんて知らない! ……どこかで死ねば良かったのよ!〉

 母の言葉が私の柔らかい心に突き刺さって、今も時々痛む。一生消えない傷。

「だ、大丈夫……母は、いないんだから……」

 私は自分に言い聞かせるように呟いた。

 心配ないよ、というように飛鳥くんは私の頭をくしゃっとしてから、私たちは車を降りた。

 彼と一緒に帰ることは、昨日の夜に電話で伝えてある。飛鳥くんの事は、ただの同居人と紹介するつもりだ。どう思われても、それでいい。

 古びた白い門の横にあるインターホンを押そうとした指が止まる。すると、躊躇った右手を飛鳥くんの右手がぎゅっと握った。そろそろ、とインターホンを押すと、直ぐにあの甘えた声が聞こえて来る。

『はーい。どちらさま?』

「あの……」

 思わず声が掠れた。咳ばらいをしてからもう一度言う。

「ち、千陽です……」

 あーはいはい、と姉は受話器を置いて玄関に向かったようだ。

 程なくすると、静かに玄関が開いて姉は私ではなく、飛鳥くんを見て深々とお辞儀をした。

「わざわざ、ごめんなさいね。どうぞ」

 どうも、と飛鳥くんも軽く会釈をしてから私の背中を押した。私は、一度深呼吸をしてから門をくぐって行く。

淳弥じゅんやさん。実叶みなと見ておいてくれる?」

 姉は、部屋の奥にそう声を掛けて、私達を仏壇の間に案内する。襖を開けて、どうぞ、と促した。

 そこには少し痩せた母の遺影が父のそれの隣に飾られている。そう。確かに、母はこんな顔をしていた。母と会うのは3年ぶりだ。笑顔の母を最後に見たのは高校生の時。もう5年も前の話だから忘れてしまった。声さえも今では思い出せない。

 私は、お線香を上げて手を合わせた。母は今、どんな顔をしているのだろうか。せめて、私を忘れていない事を祈る。

「さあ、お茶でも入れるわ。外は寒かったでしょう」

 飛鳥くんが手を合わせ終わったのを合図に、姉は言った。

 仏間を出て左に突き当たった部屋がリビングだ。当時の面影はほとんどなく、カーペットだった床は綺麗にフローリングに変わっている。薄型テレビの台には、姉夫婦の写真でいっぱいになっていた。

「綺麗にしてるんですね。さすが女の人だなー。ね、千陽さん」

 赤いソファに座る私の隣で、飛鳥くんは私を見て言う。

「なによ。私だって、やってるじゃない」

 掃除、洗濯、料理。やる気はある。でも、私の掃除はただ部屋を散らかしているだけ、洗濯をすればセーターは縮ませてしまうし、料理に関しては、包丁の使い方が危なくて、時間が掛かりすぎるので、飛鳥くんがやらせてくれないだけなのだ。

「千陽は、昔からぶきっちょだもんね。美術の課題の絵画なんて、酷かったのよ。千陽、覚えてる?」

 姉は私たちに紅茶を入れて持ってきてくれた。

「忘れもしないわ。あれは、色を塗るのが失敗したの。下書きは上手かったのよ」

「はいはい。それが不器用って事なの。カメラマンなんて一丁前に……困ったものだわ」

 眉を下げて笑う姉に、私はムスッとした。なんでも出来る姉とは違うのだ。私の不器用なりのもどかしさも姉には分かるまい。

「ところで」と姉は言った。「いつまで日本にいるの?」

「さあ、分からないわ」

 私は言った。私の旅に計画なんてない。気の向くままに、行きたい時に行きたい場所に行くのだ。

「あなたもいい歳なんだから、早くいい人見つけなさいね。お姉ちゃん、相談くらい乗るからさ」

 姉は私に言った後、飛鳥くんに笑いかけた。

「ごめんなさいね。忙しいのに、千陽の面倒まで見てくれて。この子の事なんて気にしないでいいから、精一杯青春を謳歌しなさいね」

 飛鳥くんは、曖昧に笑った。 クリスマスと云うだけあって姉はもう晩御飯の支度をしなければいけないらしい。食べていけばいいのに、と言われたけれど、家族団らん水入らず、断って帰る事にした。

 またね、と手を振る姉に苦笑しながら手を振り返して、飛鳥くんが車を発車させる。

 はあ、とため息をつく。ふと窓の外を見ると、一カ所だけ、クリスマスのイルミネーションに輝く店を見つけた。妙に浮いて見えるそれを過ぎながら、私達は帰路についた。


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