砂漠の街
うながされるまま長い壁にあいた扉をくぐると、そこには薄暗くのびた細い路地と、そのわきにそびえている古びたアパートが並んでいた。強い日差しにさらされ続けているせいで、レンガで造られた壁面はひからびてボロボロになっている。
窓には砂除けのための絨毯のような布が張られ、風に揺られたなびいていた。
入ってきた扉の横には簡易的な詰所のようなものが設置してあり、二人の番兵はそこで警備をしているらしかった。
「旅人なんて久しぶりだからねえ、あんまり長いこと来ないもんだから規則も忘れちまったよ。なんだったかなあ?」
中年の番兵がとぼけたように頭をかく。
「もうろくしないでください。信仰の誓いをさせないと」
鋭い目つきの若い番兵がきびきびと言った。
自分と同じ雰囲気がするな、とロートは思った。
「そうだったけか。聖書はどこにやったかな、おれの分は埃をかぶって使い物にならないんだが」
何かを探すそぶりを見せる中年に、いかつい表情をしたままの若者が分厚い本を差し出した。聖書、と聞いてイリスは露骨に顔をしかめる。もちろんロートだけに見えるように、だ。
「……ハズレくじかしら?」
「誰ですか、超古代文明とか夢のありすぎることを語っていたのは」
「旅人は夢を追い求める職業なのよ。自ら苦境へ飛び込んでこそ一人前になれるというものなんだから」
イリスのもとへ弟子入りしたときから苦行は始まっていたのだろうし、夢を追いかけすぎてずっと眠りつづけてしまいそうだとか、いろいろ言いたいことはあったのだが、どれも致命傷になりかねなかったので考えるだけにとどめておいた。
門番たちは新たに二冊の本を持ち出してくると、それぞれイリスとロートに渡した。両手で受け取ってもずっしりと重みを感じるほどだ。
表紙にはヴィヴェル教聖典と、大きく彫りこまれている。
「あなた方が一般人なら厳格な宣誓をしなければならないのですが、旅人にはこの規則を適用しません。よって、簡略な儀式を行うだけにとどめます」
若者はそれから、聖書に目を通すよう指示した。ロートは荒い材質でつくられたページをめくり、細かい文字で書かれた文章にざっと目を走らせた。
詰め込まれた規則の数々が、威嚇するようにロートに語りかけてくる。どうやらこの「ヴィヴェル教」というのが街の掟であり、中心になっているらしかった。それもかなりルールに縛られた宗教であるようだと、ロートは読み取った。
「この宗教に入信しろってことかしら?」
イリスが尋ねる。あくまで普通に質問したように装ってはいるが、本心は嫌がっていることが明白だった。中年は苦笑しながら、警戒することはないとアピールする。
「本来なら、外部からやってきた者には時間をかけて布教をしなくてはならないんだが、ノルデモの習慣として、旅人は優遇することになっている。だから信仰の誓いなんてものは体面的にするだけなんだ」
「噛み砕いて言うと?」
「つまり、中身はないということだ」
中年は楽しそうに笑ったが、それを若者が渋い顔をしてたしなめる。
「そういうわけにはいきません。ここではヴィヴェル教の掟こそが正義であり、秩序なのですから」
「まあまあ。ヴィヴェル教をもたらしたのもまた旅人なんだから。これも何かの縁だと思って」
「……あなたがそう言うのなら」
引きさがる若者。イリスはとびきりの笑顔を見せながら、
「だったら早く済ませちゃいましょうよ。あたしたちも暇なわけじゃないんだから」
うそつけ、とロートは内心でつぶやく。
聖書を胸に抱き、目をつむってひざまずく。これが儀式の基本姿勢だ。それから二人は中年の言葉を復唱し、ヴィヴェル教の信仰を誓うことで砂漠の街――ノルデモに入ることを許可される。
意外なことに中年は間違えることなく誓いの言葉を述べたので、ロートは少しだけ驚いた。ふまじめなようで、実はしっかりしているのかもしれない。
簡単な誓いを終えると、中年が質問を始めた。メモもペンもなしにである。
イリスは面倒くさがって答えようとしなかったのでほとんどの質問にロートが返答した。ウソをつく必要もないので、名前は正直に教えた。
「なるほど、イリスさんとロートくんね。どこから来たんだい?」
「ここに来る前はアスマークという街にいました。そこから山を越え、砂漠を通ってノルデモにたどり着いたんです」
「……アスマークね。聞いたこともないな」
「港町ですよ、割と大きな」
「港?」
中年がけげんそうに問い返す。ロートは意味がよくわからなくて若者の顔を見たが、彼もまた同じように不思議そうな表情をしていた。
「港ってなんだい?」
「それは――海に面していて、船がたくさん停泊していて、魚のおいしいところですよ」
「海?」
そうか、とひらめく。ノルデモの人々はおそらく、外界のことをほとんど知らずに生きてきたのだ。城壁に囲まれた環境では、書物くらいしか外の世界を知るすべはない。だが、植物の少ないノルデモでは紙を生産することが難しい。
だから海も港も、まるで異世界のものであるかのような反応を示すのだ。
「まあ、世界は広いってことですよ。砂の代わりに水がずっと広がっていると考えてください」
「ほう! そんな場所があるのか、それはすごい!」
なあ、と若者にも同意を求める。あからさまに迷惑そうな感じで、若者は首を小さく縦に振った。
おまけにその水は塩辛いなどと口を滑らせたせいで、ロートはしばらく尋問とは関係なさそうな話に時間を費やさなければいけなかった。だが、それは楽しい作業であったし、旅人をしていてよかったと思える瞬間でもあったので、フードをかぶったままのロートの頬は緩みっぱなしだった。
「……世界とは広いものだな」
ロートの語りが終わった後、中年が感慨深げに言う。
「前の旅人が来たのはたしかおれが子どもの頃だったからな。外の話なんて聞かせてもらえたのは初めてだ。お前はまだ生まれてもいない頃だから、ノルデモ以外にも世界があるということを知っておいた方がいいぞ」
「どのようなものがあろうとも、ヴィヴェル教がすべてです。それだけは変わりません」
仏頂面の若者を見ていると、中年のほうが若々しい心を持っているように思える。大人になっても子どもを忘れない人はいるものだ。たとえば、イリスとか。
あごに手を当てて、少し考えてから中年は言った。
「この壁の向こうにも、ヴィヴェル教というものはあるのか?」
「ありません。ほかの宗教ならたくさんありますが、ヴィヴェル教というのは初耳です」
「そうか……。なんだか、虚しいものだな」
真っ青な空を見上げて目を細める。地面を焼くような陽光はいまだに燦々と降り注いでいた。
ロートは手に持っていたヴィヴェル教の聖書を眺めた。こんな本が街ひとつを支配しているのだと思うと、なんだか滑稽なようにも、恐ろしいようにも感じられた。
「そうよ。宗教なんて架空の神様を信じているただの妄想でしかないんだから、あほらしいにもほどがあるってものね。あたしが信じているのは自分だけ。それで充分でしょうが」
イリスが口を開いたかと思えば、サボテンのとげのような毒舌をまき散らす。眉間にしわを寄せた若者が何か言おうとしたのを、中年が止めた。
「この街で神の冒涜をすることは、ノルデモを冒涜することと同義だからな。まだ不慣れだから仕方ないだろうが、無暗に批判をしない方がいい。あんたたちは誓いをすませたんだ、これからは教徒と変わりない扱いになる」
「それがなんだっていうのよ」
「だからな――」
神をおとしめることを、おれたちは許さないということだ。