出立の前に
巻物を貸してほしいと頼むと、リーはもうあらかた調べてしまったからと言って快く了承してくれた。丁寧にひもを結びなおし、深夜をすこし過ぎた闇のなかを疾走する。
今ごろ盗難に気付いた教祖の屋敷では大騒ぎになっているだろう。下手人が分からないとはいえ、犯人を見つけ出すために不審者を片っ端からとらえている可能性もある。こんな夜遅くに徘徊しているとなれば、声がかからないはずがない。
現物を持っているとなれば、絶対に調べられるわけにはいかないのだ。
イリスがそんなリスクをおかしてまで行動するのはすべてロートのためだ。
どうせあの子のことだから、調子に乗って保護者気どりになって、失敗して。どうしようもないくらい落ち込んでいるに違いないのだ。
珍しく自分からアクションを起こしたというのに目の前で水を差してしまったことは、さすがに気が引ける。イリスが先に盗み出していたと知って泣いているかもしれない。
放任主義とはいえロートが落胆している責任の一端はイリスにもある。師匠として見過ごすわけにはいかないだろう。
「やっぱりね」
案の定、ロートは部屋の隅で涙を流すまいとけんめいにこらえていた。
普段は大人ぶっているくせに大事な場面になるとまだまだ子どもなのだ。
「泣いてるの?」
答えはわかっているけど、話すきっかけが欲しくてそう尋ねる。
背中越しに、丸窓から流れ込んだ風を感じた。
「あんたにしては珍しいじゃない。やっぱりあたしがいないとただのガキね」
励ますということに慣れていなくて、ついいつものように辛らつな言葉を投げかけてしまう。平常心なら簡単に受け流せることでも、傷ついた精神には深く刻まれてしまうのに。
ロートは腕で顔をおおったまま返事をする。
その答えを聞いて、イリスはふっと口元をゆがめた。
ロートの顔をそばで見ようと、膝を曲げてしゃがみこむ。隠してはいたがロートの頬には涙のあとがこぼれていた。
弟子が泣いているのを見たのは久しぶりだ。
普段はクールに振舞っているぶん、こういうもろい面をみると余計に元気づけてやりたくなる。
「――それに、ヒントもあげる」
リーから伝授してもらったばかりの知識の一部をロートに教える。ほとんどの真相は秘密にしたままだが、後を追って遺跡にやってくるのなら自然にわかることだろう。
あたしの弟子である以上、必ず真実にたどりつく。イリスにはそんな確信があった。
拗ねたように反応するロートもおもしろい。フードの下にある、蓮色の髪を乱暴になでた。ロートは恥ずかしがっているようだが、イリスはこの綺麗な髪を気に入っていた。
絹のようにすべる感触が心地よいのだ。
「あたしは行かなきゃいけないところがあるから。あんたは深く考えずにあたしを追ってきなさいよ。この地図があれば義理立ても出来るでしょ」
最後に言い残して、イリスは窓の外に降り立った。長い髪がおくれて落ちてくる。
今夜は気乗りしないがリーに部屋を借りることにしよう。泣いている弟子のとなりで眠るのは趣味じゃない。
イリスが目を覚ますと、リーもサントも隠れ家にはいなかった。テーブルの上に書置きが残してある。どうやら市場に装備品を調達しに出かけているらしい。
出発はなるべく早いほうがいいと言っていた。おそらく今夜にでも発つつもりなのだろう。
忙しくて目が回りそうだ。
一度仕事をしたらひと月くらいはゆっくり休暇が欲しい。それくらいは余裕で賄えるくらいの収入は稼いであるはずなんだけど、気付いたらなくなっているのだ。
ロートがしきりに働けと口を酸っぱくして催促してくるので、仕事量は昔よりも増えた。これでも充分働いているのだがまだ不満らしい。寿命を短くさせる気だろうか。
ふらりと外に出る。
夜とは違っていまならあたりをぶらついていても怪しまれることはない。財布は手元にあることだし少しくらいならショッピングを堪能しようという魂胆である。
よく晴れた空だった。
下界の街でどんなことが起こっていようと太陽は東から西に動いていくし、砂漠に雨が降ることはない。いつもと変わらぬ快晴だ。
フードをかぶった人込みの雑踏を歩いているとまるで毒牙のような殺気を背後に感じた。
急いで振り返るようなことはしない。おそらくは昨夜の事件のことを調査しているのだろうが、まだ犯人が特定したような感じではなかった。
もし分かっているのであれば人目など関係なくこの場でとらえようとしていることだろう。
怪しい人物はいないかと網を張っているだけでは、イリスはおろかサントさえも見つけることはできない。あまり効率のいい方法ではなかったが、それ以外に有効な手段もない。
まず発見されることはないだろうとたかをくくってウインドウショッピングに興じる。
新しい服や、独特の模様のアクセサリーなどに目移りするが、これといって心に響くようなものはない。買い物で大事なのは直感だ。
いつもはロートが預かっている財布が手元にあるというのに、いまいち気乗りしない。イリスは口をとんがらせながら、とくに収穫もなく無人のアジトに戻った。