怪盗イリス
黒装束に身を包んだイリスとリーが教祖の屋敷にはりめぐらされた壁の陰に身を潜めていたのは、夜も更けて、月がひょっこりと顔をのぞかせているころだった。
リーがスポンサーから入手している情報によって、警備の詳しい状況などは手に取るようにわかっている。どこから侵入して、どこへ向かえばいいのか、そういったことはシュミレーションずみだ。
まずは人数のいない裏口から入り、廊下にいる警備兵たちを気絶させながら目的の部屋を目指す。厳重な警備をするために、その部屋は奥のほうにあるから、いくらは時間がかかるだろう。
一人ずつ音をたてないように気を失わせるのは骨の折れる作業だが、リーも武道を習っていたということはあって、それくらいならできるらしい。
イリスは指の先で、顎のラインをなぞる。
朝方に出かけていくロートが妙にはつらつとしていたのが頭の隅に引っかかっていた。あんなにうれしそうな表情をしていたのは久しぶりだ。
それにどうも最近ため息をついているところばかり見ている。なにか悩み事でもあるのだろうか。それならば師匠のあたしが聞いてあげなければいけない。
あの子はだんまりだから酒でも飲ませれば正直に喋るかしら、などと物騒なことを考えている。ノルデモの酒は強いことだし、すぐに口を割るだろう。
「そろそろ時間ね」
リーが星を見上げて、時間をはかる。
細かい部品を作るような技術がないので、時間はもっぱら日時計などで確認しているのだ。昼を告げる鐘が教会から響いてくるので日中は困らないが、夜になると月を見て調べるしかない。
静かな空気のなか、耳を澄ますといくつかの足音が聞こえてくる。
「交代中かしら」
リーが計画するところには、兵士が入れ替わったすぐ後を狙い、士気の上がらないうちに攻め込んで一気に制圧するということだ。
そのためには機を逃してはならない。タイミングが重要なのだ。
「ちょっと見てくれない?」
リーがひそひそ声でイリスに言う。かがめていた腰を少しだけあげて塀の向こうの様子をうかがうと、ちょうど装備を整えながらあわただしく代わりの番兵がやってくるところだった。
「頃合いね。行くわよ」
イリスが先陣を切って音もなく塀を飛び越す。リーがあとに続いている間に、まったく気配に感づいていない番兵の後ろから手刀をあびせる。
ふっと、人形のように力を失って倒れこむ男の体を抱きかかえて扉のかげに隠す。
腰元をまさぐるといくつもの鍵がついた輪を見つけ出した。けれどもまだ鍵をかけていなかったのか、扉は開いていたので使う必要はなさそうだ。
「おみごと」
「これからが本番よ。間違っても大声で騒いだりしないでちょうだいね、そうしたらあたし一人でも身捨てて逃げるわよ」
「あら、もう共犯じゃない」
「なら口封じをしてから逃げようかしらね」
絨毯のしきつめられた廊下は足音を殺してくれるので、とても助かった。次々と見張りの男たちを気絶させては、奥にある目的の部屋を目指して突き進む。
よもや屋内に侵入してくる不届き者がいるとは思いもしない警備員たちは、会話に興じていたり、トランプで遊んでいたりとだらしのない者が多く、隙をつくのは簡単だった。
「どうしようもないやつらね」
酔っ払っているのか息が酒臭い男の意識を奪って、イリスがひとりごちた。あまりに手ごたえがない。まるで武器を持たない弱者をいたぶっているような感覚だった。
「ノルデモで教祖に立てつこうなんていう輩はいないから、こんな警備は外面だけ。ここにいるやつらは戦ったこともないんじゃない」
「そんなもので秘宝を守ろうなんて、ある意味侮辱ね。あたしに対する挑戦状でもあるわ」
憤慨するイリスの鼻孔が広がる。
「あなたに対抗できるのは噂のアサシンくらいじゃないかしら。それでも無理かもしれないけど」
「アサシン? そんなものがいるの?」
「私は実際に見たことはないけど、ノルデモ首脳部にとって危険な存在は秘密裏に処分され、失踪という扱いになるの。不思議なことに住民はそれで納得する。こんな狭い街だから、外界に行きたいと思っても仕方ないって」
「たしかに。あたしだったらすぐ出ていくわね」
ノルデモはヴィヴェル教という宗教に支配されているように見えて、そのじつ一部の権力者たちが実権を握っているのだ。住民たちはおとなしい傀儡にすぎない。まるで最初から運命づけられていたのだと信じているかのように、従順だ。
宗教なんてくだらない、という思いがさらに強まる。
結局大事なのは神様でもなんでもなくて、自分自身なのに。それを不自然に覆い隠そうとするから気味が悪い。
「リーは神様って信じてるの?」
イリスが唐突にそう質問した。
「文献なんかを調べているとね、いやでも神様という胡散臭さが際立ってくるの。でも、虚構だと分かっているのにこれだけ影響力があると、気を抜いたら信じてしまいそうな気もする。ちょっと怖いかもね」
「弱い心ね。なにを信じたらいいのかくらい、自分で判断すればいいじゃない」
「そのとおりなんだけど、そうもいかないのが人間なのよ」
さほどの苦労もなく、宝物がしまわれているという部屋の前までたどり着いた。警備は四人。いずれも棒を片手に持ち、腰には剣をさしている。さすがに最終関門ということだけあって、ここには精鋭がそろっているらしい。
これを物音を立てずに突破するのは厳しそうだ。
「どうするの? 応援を呼ばれたら厄介よ」
リーが耳元でささやく。
「私はたぶん一人を相手にするのが精いっぱいだと思う。勝てるかどうかは微妙だけど、時間を稼ぐことはできるし」
「その間に声を出されたら面倒じゃない。四人まとめてノシちゃえばいいのよ」
イリスはほくそ笑み、指の関節をポキポキと鳴らす。ようやく力を発揮できる出番が巡ってきた。正直なところ、相手に手ごたえがなさ過ぎて飽きていたところだった。
この程度ならロートでもこなせるだろう。そんな簡単な仕事のため雇われたのでは、プライドが許さない。
「でも、どうやって」
「こうやって」
言い残すが早いや、イリスは長いアヤメ色の髪をなびかせながら、まるで踊るようにみぞおちに拳をたたき込み、首筋に一撃を加え、顎の先をかすめるパンチを放ち、最後はかかと落としできめるという離れ業をやってのけた。
唖然とするリーをしり目に、イリスは最後の部屋に通じる扉を開こうとする。どうやら鍵がかかっているらしい。今しがた倒したばかりの四人の体を調べるが、どこにも鍵は見当たらない。
ダメもとで最初に奪っておいた鍵を試してみると、面白いようにロックが外れた。
「さあ、行きましょう」
天使のような微笑みだったが、リーにはまるで悪魔が微笑んでいるようにしか見えなかった。