師匠
「ごめんなさい」
「あなたのせいじゃないよ。私たちよりも先に同じ目的を持った人が盗んでいったというだけのことだから、それがあなたの師匠であっても関係ない。そうでしょ」
アリスがしょんぼりと落ち込んだロートの背中をたたいて慰めるが、憂鬱な気分が晴れることはなかった。
イリスがなにをしようとロートの責任でないことは理解しているのだが、理屈と感情はそうそう切り離せるものではない。期待にこたえられなかっただけでなく足を引っ張る結果となってしまったことも、雨が降るみたいに気を滅入らせた。
「それに俺たちの代わりにノルデモの秘密を暴いてくれる人がいるなら大歓迎だ、わざわざ危険なことに足を突っ込むよりは、はたから見守っていた方がずっといい」
そう言うノイアーの声は残念そうな雰囲気を隠しきれていなかった。
くやしい。
切実にそう思う。
ノルデモの真実を解き明かしてイリスの鼻を明かしてやろうという魂胆が、いとも簡単に粉砕されてしまったことだけではなく、無力だった自分が情けなかった。
あの状況ではなにも出来なかった、それは確かなのだが。もうすこし早く行動にうつっていれば、という後悔がつま先からせりあがってくる。
「仕方ないですよ。おれらが後手を踏んだということにはなりましたが、失敗するよりは遥かにマシです。果報は寝て待て、ということわざもあることですし、あとはゆっくり待ちましょう」
ヴェートはもう冷静さを取り戻したようで、かすかに笑う余裕まである。
夜の闇はますます深まり不完全な満月も天頂から降り始めている。生温かぜがふたたびロートの頬を掠めていく。まるで皮肉な運命ね、と嘲笑っているようだった。
もう寝ましょうというアリスの提案でその場は解散になり、言いようのない虚しさだけがいつまでも染みのように残される。ロートは重い足取りで百夜亭の自室に帰ると、床に敷かれたクッションに身を預けた。
いつもとは意味合いの違うため息を肺の奥から吐きだすと、目頭からあついものが零れ出そうになって、そっと二の腕をかぶせる。
「泣いてるの?」
イリスの声がしたような気がした。
夜風が丸窓から流れ込んでくる。
「あんたにしては珍しいじゃない。やっぱりあたしがいないとただのガキね」
頭上から降ってくる師匠の声は、たしかに本物だった。夢でも幻聴でもないようだ。それでも腕をどかして視線を合わせるのは癪で、ロートは顔を覆ったまま返答する。
「師匠が悪いんじゃないですか。僕がやろうとしていることに先回りして、意地の悪い」
「逆よ、ぎゃく。あたしが依頼された仕事を、後からあんたが追いかけてきただけのことよ。師匠を超えようなんて度の過ぎたことはほどほどにしておくことね。あたしはこれからもずっとあんたに越えられるつもりはないから」
「……だったら、僕はどうしたらいいんですか」
絞り出すようにしてやっと声になった声は、たぶん震えていた。イリスが口元を優雅にゆがめ、しゃがみこんでロートのすぐ近くにまで顔を下ろす。
「あんたなりに頑張ってみなさいよ。あたしは全力で邪魔をするかもしれないけど、好きなように振舞いなさい。弟子の育成は師匠の役目だから、そこだけは責任を持ってあげるわよ。それに、ヒントもあげる」
「なんですか、ヒントって」
イリスは懐から古びた巻物を取り出すと、するすると床に広げた。最初にもらった聖書のような荒い材質の紙ではなく、肌触りのよい良質な紙だ。そこには黒く太い文字で書かれた文章と、地図のようなものが描かれている。
ロートは顔をあげなかったが、イリスは構わず続けた。
「これはついさっき手に入れたばかりのものなんだけど、あんたも探していたみたいね。せっかくだからここに記されていることを教えてあげようってわけよ」
「別にいいですよ、師匠が勝手にノルデモの真実を見つけ出してください」
「拗ねないでよ。これだから子どもだって言われるのよ」
押し黙るロートをよそにイリスは巻物に描かれた地図をなぞった。糸を引くような感触が指に走る。
青々と茂った木々の中にレンガで造られた建物がいくつか描かれており、そこから少し離れた場所に丸い壁で囲まれた建築物がある。これはおそらくノルデモだろう。
ノルデモからさらに離れた場所――オアシスとは逆の方角に教会をほうふつとさせる祭殿が載っている。
イリスはそこを指し示した。
「あたしの言ったとおりだけど、ここにびっくりするようなお宝が隠されているわ。ノルデモの真実とやらと一緒にね、興味があるなら行ってみなさい。あたしも数日のうちに出発するつもりだから」
「師匠は、どうしてあの二人に協力するんですか。僕にはよくわかりません、あんなに怪しいのに」
「怪しいのはあたしだって気付いてるわよ。けどあんただって結局は誰かに協力してるじゃない、よく知らないけど変な三人組に」
「あれは師匠を追いかけるためでもありましたし――」
「ウソね。それだけならサントとリーを探した方が早いはずだもの。それなのに、あんたは仲間になってる、これが答えなんじゃない」
「……わかりませんよ。僕はどうすればいいのか。師匠の背中ばかり追いかけていてもいいのか、僕がしたいようにすればいいのか」
「あんたはまだガキなんだから、あたしだけを見てなさい。弟子ってのはそういうものよ。大きすぎる師匠の背中に隠されて見えない未来を、必死に探そうとする。だけどそれは無理ね、そんな身長のままじゃ」
ぐしゃぐしゃとロートのピンク色の髪を乱暴になでる。
フードの下に伸ばされた手は、とても力強く思えた。
「あたしは行かなきゃいけないところがあるから。あんたは深く考えずにあたしを追ってきなさいよ。この地図があれば義理立ても出来るでしょ」
巻物をヒラヒラと振って、イリスは窓に足をかけて身を乗り出した。背中に垂れる長い髪が揺れる。
一陣の風がロートのそばを吹きぬけてロートは「ありがとうございます、師匠」と小さく頭を下げた。