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日々延々(ひびえんえん)

作者: 竹間単
掲載日:2026/03/31

「奈々恵、引っ越しおめでとう!」

 引っ越したばかりの我が家に、友人である梨沙がケーキを持ってやって来た。さっそく二人でケーキを食べながらのティータイムを楽しむ。

「この部屋、前のところよりかなり広いね。家賃が高いんじゃないの?」

「それがね、すごく安いんだ。事故物件だから!」

 私がウインクをしてみせると、梨沙がむせた。そしてケーキとともに用意をしていた紅茶を喉に流し込んでから、驚嘆の声を上げる。

「事故物件って、この部屋で事件があったの!?」

「ううん、全然。このマンションを建ててから、この部屋で亡くなった人はいないんだって」

「いやいや。今、事故物件だから安いって言わなかった?」

 梨沙の言葉にニヤリと笑う。

「この部屋、誰も亡くなってないけど……出るらしいんだ」

「出るって、幽霊が? 誰も死んでないのに?」

「うん。だから狙い目だと思ったんだよね。私だって殺人事件のあった部屋に住むのは嫌だけど、何も起こってない部屋ならいいかなって」

 殺人事件に限らず、死臭がこびりついた部屋に住むなんてごめんだ。そんなの、一番くつろげるはずの自宅でくつろげなくなってしまう。いくら安くても、そういう部屋には住みたくない。

「でも、出るんでしょ?」

「出たとしても、別に恨みのある幽霊じゃないはず。だってこの部屋で亡くなった人なんていないんだもん」

「もしかしたら、このマンションの前に建ってた家で事件があったのかもよ?」

「そんなことを言い出したら、日本中のどこだって過去に誰かが死んだ場所だよ。戦国時代なんてそこらじゅうで人が殺されてたんだから」

「そうかもしれないけどさあ」

 この部屋が事故物件だと聞いたせいで梨沙は落ち着かないらしく、そわそわと辺りを見回している。

「それに私には霊感が無いから大丈夫。幽霊が出てきたとしても、きっと視えないよ」

「視えなくても肩が重くなったり、気分が沈んだりするんじゃない?」

「そういうのは、怖がるせいでなるんだよ。緊張で身体が強張るから肩が凝るんだし、幽霊に何かされるかもってネガティブなことを考えるから気分が沈むだけ」

 私が現実的な発言をすると、梨沙が小声で呟いた。

「あたしは幽霊とか超常現象とか、割と信じてるんだよね」

「へえ、そうだったんだ?」

 私が幽霊を信じないことが自由なように、幽霊を信じることもまた自由だ。私は幽霊が視える現象には何かしらの現実的な理由があると考えてしまうけど、まだまだ科学で解明できない事柄は多い。数百年後には幽霊が視える原理が解明されているかもしれないし、逆に幽霊の存在が科学的に立証されている可能性だってある。

「そういえばうちのお母さんもスピリチュアル入ってたなあ」

 ふと母のことを思い出して懐かしい気持ちになった。母はよく私には理解の出来ない話を語っていた。神秘がどうだの、不思議な力がどうだの。とはいえ特に高額なパワーストーンやお守りを買うわけでもないから、父も私も母のスピリチュアルな思想を注意はしなかった。思想なんて個人の自由だから。

「奈々恵のお母さんって、去年……」

「そう。人間いつ死ぬかなんて分からないよね」

 スピリチュアルな私の母は、昨年火事で死んでしまった。

「……なんか湿っぽくなっちゃったね。幽霊が出るのにぴったりな環境!」

 梨沙が気を遣うのではないかと思っておどけてみせた。

 実際母が死んだばかりの頃は塞ぎ込んでいたけど、人間いつまでも塞ぎ込んではいられない。誰が死のうと生きていかないといけないから。だから今は吹っ切れているつもりだ。

「梨沙、今日は泊まるんだっけ?」

「えっと、奈々恵を置いて帰るのは申し訳ないんだけど……」

 梨沙は事故物件での宿泊が不安なようだ。それなら引き留める理由はない。だって私はこの部屋を恐ろしいとは思っていないのだから。

「何度も言うけど、私は幽霊を信じてないから大丈夫。でもまあ、お母さんの幽霊になら会いたいかもね」

 私はそう言って微笑むと、ショートケーキを口にした。



   *   *   *



 ベッドに横になって微睡んでいると、突如として部屋の中に大きな木が現れた。そして木の周りでは、熱帯魚と犬が重力を感じさせない優雅な動きで浮遊している。

 ……これが、この部屋の幽霊なのだろうか。あまりにも怖くない幽霊だ。

 と言うか、この木には見覚えがある気がする。あれは確か……そう思った瞬間、過去の記憶が一気に解放された。


「うわあ。大きな木だね!」

 高校生の私は、よく母と一緒に日帰り旅行をしていた。父が仕事で忙しかったから家族揃っての旅行の記憶は少ないけど、その分、母と二人での思い出は多い。

 このときは何かの写真で見た御神木を、実際に見に行っていた気がする。

「奈々恵は知っているかしら。長く生きてきた木には、科学では解明できない不思議な力が宿るのよ」

 母が御神木を見上げながら言葉を紡いだ。

「確かに迫力のある木だよね」

 この頃の私はまだ高校生で、知ったばかりの単語や思考実験の話をしたがる傾向にあった。だからこのときも母にそれをぶつけてみた。

「でも。この木が長く生きてきたとは限らないんじゃない? だって世界は五分前に出来たのかもしれないよ?」

「世界五分前仮説というやつね。文字通り、この世界は五分前に出来上がったもので、それ以前の過去は存在しないという説」

 母は私の言葉を馬鹿にすることはせず、それどころか真面目に頷きながら返事をした。

「そんな馬鹿なって思うけど、否定することは出来ないんだよね。だって私の頭の中にある子どもの頃の記憶が、五分前に植え付けられたものじゃないって証明する方法は無いから」

「お母さんは、その説には賛同しかねるわね」

 昔から、母は自分のことを「お母さん」と呼ぶ。私に対して一生「お母さん」でいてくれるつもりなのだという安心感があるから、私は母のこの一人称が好きだった。

「五分前仮説は違うって考える方が現実的だよね。私だってこの世界が五分前に発生したなんて信じられないもん。わざわざ過去の記憶を私の頭の中に植え付けるのも意味が分からないし。全人類にそんな手間をかけるわけがないよね」

「うーん。どう説明をしたらいいのかしら」

 私が母の言葉に同意をすると、母は困ったように眉を下げた。

「お母さんが言いたいのは……たとえこの世界が五分前に出力されたものだとしても、出力されなかった過去は存在するということよ」

 世界五分前仮説は肯定するけど、過去は存在している。

 ……過去が存在するのなら、この世界は五分前に発生したものではないはずだ。たった一文の前半と後半で矛盾が生じてしまっている。

「五分より前の過去があると思うなら、五分前仮説は否定するべきじゃない?」

 私の当然の意見に、母はしかし頷くことはなかった。

「この世界ではないどこかには、過去と現在と未来が同時に存在していて、それを観測したヒトが引っ張り出して時系列順に並べているの。この世界に持ち込む際、勝手に順番を付けているだけなのよ」

 なんだろう。丁寧に説明されているのに、少しも頭に入ってこない。母の語る荒唐無稽すぎる話を、脳が受け入れ拒否しているのだろうか。

「よく分からないけど……時間は前に進んでるんだから、過去、現在、未来の順番に流れるのは当然じゃない?」

「なんて言ったらいいのかしら。お母さん、説明が下手なのよね。自分の頭でははっきり理解しているのだけれど」

「じゃあ、聞いても分からないような気もするけど、質問して良い? 『この世界じゃないどこか』って、どこのこと?」

 私の質問に、母は首を傾げながら答えた。

「この世界ではないどこかは、この世界ではないどこかよ。お母さんはこの世界の言語しか知らないから、その場所のことを表す単語は分からないわ」

 なんだそれ、と私が笑ったことでこの話は終わった。


 目を開けると、窓からは朝陽が差し込んでいた。

「いつの間にか眠ってたみたい」

 私は大きく伸びをしながら部屋の中を見渡した。部屋の中にはもう熱帯魚も犬も飛んでおらず、大きな木も無くなっていた。

「昨夜のは霊障? それともただの夢?」

 私の疑問に答えをくれる人はいない。だけど別に構わなかった。だって霊障か夢かなんて、些細な違いだ。

「懐かしい光景だった。こんな霊障なら、どんとこいかも」

 夢でも霊障でも、素敵な目覚めには変わりない。怖さなんて少しも無かった。



   *   *   *



 霊障は毎日起こるわけではなかった。数日おきに、きまぐれに起こる。霊障が起こるときには犬が空を飛びがちだ。犬種は様々。たまに猫も飛ぶ。

 そして部屋の中の景色も変わるわけだけど、これまで見たどの景色も見事だった。この前の御神木も迫力があったし、部屋が珊瑚礁の広がる海に変わったこともあった。部屋中が海なのに息が苦しくないのは不思議な感覚だった。夢でも霊障でも、実際に部屋が海になったわけではないから当然かもしれないけど。

 そして今日は、部屋が向日葵畑になっている。


「先月はこの木を見に行ったから、今月はこの向日葵畑を見に行こう!」

 写真の載った紙を手にしながら、私が母を誘っている。何の紙なのかは不鮮明でよく分からない。

「向日葵畑ねえ……」

 部屋中が向日葵畑になっていると言うのに、母と私は向日葵畑に行くか否かの話し合いをしている。夢だから多少の矛盾は仕方が無いとはいえ、少し滑稽だ。

「御神木のときはあんなにノリノリだったのに、どうしたの? お母さんって向日葵が嫌いだったっけ?」

「嫌いではないわ。ただ、そうね。何百年も生きる木には不思議な力が宿るけれど、すぐに枯れてしまう向日葵はそうではないというだけ」

「見て綺麗だったらそれで良くない?」

「そういう考え方もあるけれど、先月と比べて腰が重いのも確かね」

 母の基準はまるで分からない。正直なところ、私は御神木よりも向日葵畑の方が好きだ。太陽に向かって手を伸ばす向日葵は、見ているだけで自分も頑張ろうという気分になるから。手が届かないことが分かっていても手を伸ばす、その姿勢が大事なのだと勇気をもらえるから。

 しかしそれを伝えても母の心を動かすことが出来ないと悟った私は、別の観点から向日葵の魅力を語ることにした。

「お母さんは向日葵がすぐに枯れちゃうって言うけど、世界五分前仮説で考えたら、先月見たあの御神木も向日葵畑の向日葵も、同じ五分前に発生した存在だよ?」

「この世界に発生したのは同じ五分前だったとしても、別の世界での寿命は違うでしょう?」

「だからお母さんのその理論は意味が分からないんだってば」

「シンプルな話よ。寿命の長い生物の方が、たくさんの情報を摂取する。それゆえに神秘も吸収しやすいの」

「私、スピリチュアルな話には抵抗があるかも」

 神秘とか言い出されても困る。確かに向日葵に神秘という表現は似合わないけども。

「スピリチュアル……なのかしら。お母さんにとっては、ただの事実なのだけれど」

「木には神秘的な力が宿るって言うのは、どう考えてもスピリチュアルだと思うよ」

「事実なのに」

 母がしょんぼりと肩を落とした。そのため慌ててフォローをする。私は母を悲しませたくて発言をしたわけではないのだから。

「別にお母さんのことを否定したいわけじゃないよ。私には合わないってだけ。だって私は木を見ても木だとしか思わないから。不思議な力が宿ってるなんて感じたことないもん」

 母は私の言葉に納得したのか、しょんぼりモードを解除すると、打って変わって忠告モードに入った。

「奈々恵が不思議な力を感じないからと言って、木を蔑ろにしてはいけないわ。地面に生えている木だけではなく、加工された木も大切にしなさいね。どちらにも神秘が宿っているのだから」

「さすがに加工された木に不思議な力が宿ってるってのは初耳だよ。神秘的な割り箸なんて、生まれてこのかた聞いたことがないよ」

「加工されたとしても、別の世界には加工されていない状態の木も同時に存在しているのよ。割り箸の元になった木は、割り箸になると同時に地面に生えた木として生きているの」

「出た、お母さんの謎理論!」

 過去と現在と未来が同時に存在している世界があるという、母独自の考え方。まったくもって理解が出来ないけど、母は私によくこの話をするようになった。私が理解は出来ずとも、母の理論を否定しないと分かったからだろう。

「理論は分からなくても良いから、木は大切にしなさい。奈々恵が木にしたことを、木はきちんと覚えているのだから。悪戯はしちゃダメよ」

「小学生じゃないんだから、木に悪戯なんてしないよ。小学生の頃だって、そんなことはしてないし…………あっ」

 小学生時代を思い出しているうちに、とある記憶にぶち当たった。

「どうかした?」

「小学生の頃、梨沙と身長の比べっこをして、石で木を削って印を付けたかも」

「奈々恵は梨沙ちゃんと昔から仲良しだものね」

「うん……えっと、石で印を付けるくらい平気、だよね?」

 恐々としながら尋ねた。母の理論を信じているわけではないけど、それでも罰が当たるのは怖い。

「そうね。悪意を持ってやったわけではないから、きっと大丈夫よ。可愛らしい思い出として、その木の記憶に残っているわ……たぶん」

「たぶん!? 怖いこと言わないでよ……木が復讐に来たりするかな?」

 木自体は動けないだろうけど、その木が加工されて出来上がった何かが復讐に来るかもしれない……って、だんだんと母に毒されてきた気がする。木が復讐に来るなんて話を母以外にしたら、笑い飛ばされそうだ。そうじゃない場合は、距離を取られるに違いない。

「奈々恵が傷を付けた木が、おおらかなことを祈りましょう」


 向日葵畑から目を覚ました私は、とあることに気が付いた。

「あの向日葵畑、カレンダーに載ってた写真だ……」

 結局、母と私は向日葵畑には行かなかった。だから私があの向日葵畑を見たのは、カレンダーの写真でだけだ。実物を目にした経験は無い。

 きっと夢の中で私が持っていた紙が、カレンダーだったのだろう。



   *   *   *



「……ってことがあってさ。お母さんの夢が見れるから、事故物件に住んで得してるくらいだよ」

 チェーン店のカフェで梨沙とお喋りを楽しむ。しかし私が楽しく会話をする一方で、梨沙は心配そうな顔をしている。

「体調が悪くなったりはしてない?」

「ぜーんぜん。事故物件として安い金額で借りられて、お母さんの夢まで見られるんだから、良いことばっかり。あの部屋を借りて良かったよ!」

 私が元気にピースサインをしてみせても、梨沙は心配そうな表情を崩さない。

「でも奈々恵はお母さんの夢を見るだけじゃないんだよね? 部屋の中に大きな木が視えたり、向日葵畑が視えたりもするんだよね? なんか怖くない?」

「それだけじゃなくて、熱帯魚や犬が飛んでたよ」

「普通に怖くない!?」

 確かに人によっては怖いと感じるのかもしれない。意味が分からないから。人間は意味が分からないものに恐怖を感じるように出来ているから。

 だけど私はこの霊障の原因に思い当たってしまっている。それもあって、怖いとは感じないのだ。

「実はその霊障に思い当たることがあるんだ」

「思い当たること?」

「木とか向日葵とか熱帯魚とか犬とか……私の家で使ってたカレンダーの写真と同じなんだよね」

 毎月写真の変わるカレンダー。実家ではそういうカレンダーを買って飾っていた。一人暮らしの家ではカレンダーを買ったことはないけど、今でも実家に帰ると居間にカレンダーが飾られている。

「でもさ、確かに写真の載ってるカレンダーは売ってるけど……どうしてそんなものが部屋の中で飛んでるわけ?」

「理由は知らない。だけど絶対にうちにあったカレンダーだよ。あの御神木も珊瑚礁の海も向日葵畑も見たことがあるもん。それにプラスしていろんな種類の犬が飛んでたから、犬だけのカレンダーもあったんだと思う」

「その事故物件って、カレンダー屋敷?」

 カレンダー屋敷……って何だ。部屋中にカレンダーが飾られていたら狂気を感じる。

「今、部屋の中にカレンダーは一枚も無いよ」

「実物が無いのに写真に写ってたものが飛んでるの? なんで?」

「さあ? カレンダーに載ってたモノが浮かんでる理由は分からないけど、その景色から連想して、お母さんの夢が見れたんだと思う。昔、お母さんとカレンダーの写真の場所に行く遊びをしてたから」

 御神木も見に行ったし、珊瑚礁の見事な海にも行った。向日葵畑だけは母が渋っているうちに旬が終わってしまったから行かなかったけど。海は珊瑚が長寿だからオッケーだったのだろうか。

「懐かしいなあ」

「火事……だったんだよね」

 ちらりと見ると、悲しそうにする梨沙と目が合った。梨沙はよく家に遊びに来ていたから、当然母のことも知っていた。そして母に懐いていた、と思う。梨沙がスピリチュアルなものを信じているのは、母の影響もあるのかもしれない。

「うん、火事。お父さんは単身赴任中で、お母さんと私だけが家にいるときに。火事に気付いて無我夢中で家の外に飛び出してから、お母さんがまだ家の中にいることに気付いたんだよね。それで戻ろうとしたら、周りの人たちに止められて……」

 あのときは私を止めた人たちのことを恨んだけど、その恨みはあまりにもお門違いだ。あの人たちが止めてくれなかったら、燃え盛る家に戻った私は母とともに死んでいただろう。

「話を聞いて驚いたよ。まさか友だちの家が火事になるなんて」

 梨沙が目を伏せた。

 あれ。どうしてこんな話になったのだろう。いい加減に母の件はもう吹っ切れているのに。

「しんみりしないでよ。お母さんが死んじゃったのはそりゃあ悲しいけど、お母さんとの思い出は悲しいものじゃないんだよ。思い出すのは、楽しかった思い出ばっかり」

 母の死を悲しむことは十二分にした。だから今は、母との楽しかった思い出を噛み締めたい。

「そうだ、私の住んでる事故物件の話に戻ろう。ね?」

「事故物件……奈々恵のお母さんの意見を採用するなら、加工された木にも不思議な力が宿ってるんだよね?」

「そうらしいね」

 母は梨沙にまでその話をしていたらしい。人によっては聞いた途端に距離を取りたがるだろう、その話を。

「もしかしてだけど。奈々恵がお母さんとの思い出を夢に見たように、奈々恵の部屋の木材も思い出の夢を見てるんじゃない? 過去部屋に飾られたカレンダーの写真を、あの部屋の木材も夢に見てたんだよ」

 木材が夢を見ていた……その発想はなかった。

 もしもそれを正とするなら、私は木材の見ている夢を共有してしまっていたのだろうか。木に宿る不思議な力によって。

「……って、そんなわけないか。あたしが言い出したことだけど、木材が夢を見てたなんて、荒唐無稽だったかも!」

 私が顎に手を当てつつ考えこんでいると、梨沙がケラケラと笑った。

 真相は分からない。ただ一つ分かることは。

「何にしても。怖いことは何にも無いよ、あの家」

 私の言葉を聞いた梨沙は笑顔を急に真顔に変えると、諭すように告げた。

「怖くないからって、あんまり入れ込み過ぎないでね。死者と関わると、死者の世界に引っ張られるって言うから」



   *   *   *



 この日の光景は紅葉の広がる山だった。紅葉を観に行ったことは何度もあるけど、これはどこの紅葉だろう。確かどこも観光客が多かった気がするけど、今この部屋には母と私しかいない。

「紅葉狩りなんて風流よね」

「……お母さん。私、お母さんに聞きたいことがあるの」

「あら。奈々恵ったら、思い出と違うことが話せるの?」

 試しに母に話しかけてみると、母からは自然な言葉が返ってきた。どうやらこの夢では思い出をなぞるだけではなく、今の私が母と会話をすることも出来るらしい。

「やってみたら出来たみたい」

「へえ。何事も挑戦してみるものね」

「そう言うお母さんも話せるんだね?」

「話せるわよ」

 母が当然のように言った。

「じゃあ聞くけど、これって何なの? ただの夢?」

「そうね、夢と解釈しても良いわね」

「なあんだ。ただの夢か」

 母の答えに私が拍子抜けすると、母は人差し指を立ててそれをチッチッチッと左右に振った。

「ただの夢と言うけれど、夢は原理が百パーセント解明されているわけではないわ。思考の整理の可能性が高い、と言うだけよ」

「可能性が高いと言うか、これは思考の整理だよね? 昔お母さんと旅行した場所だもん、ここ」

「場所はね。でもお母さんは過去に奈々恵とこんな会話をしたことはないわ。思考の整理なら、経験したことのない話はしないでしょう?」

「夢って何でもアリだもん。過去にしたことのない会話だってするよ。夢ではテストが擬人化して襲ってきたり、豚が空を飛んだりもするよね?」

 脳はたくさんの記憶が入った引き出しの中身を一度ぶちまけてから整理する方法を取っているのかもしれない。だから夢の中ではめちゃくちゃなことが起こってしまうのだ。豚が空を飛ぶような……そうだ、あれも聞いてみよう。

「部屋で犬が飛んでるのは、部屋の木材が夢を見てるからなの? 加工された木にも不思議な力が宿ってるんだよね?」

「うーん。夢を思考の整理ととらえるなら、木の夢とも言えるわね」

 なんだか煮え切らない返事だ。

「違う表現があるの?」

「夢よりも、走馬灯という言葉の方が近いわね」

 走馬灯。死の間際に思い出される過去の記憶。

 しかしどう考えても部屋を構成する一部になっている木材は、死の間際ではない。当の昔に切り倒されている。

「それって時系列がおかしくない? 部屋の木材って、何年も前に切り倒されて部屋に加工されてるよね?」

「前に言ったでしょう。時系列なんてヒトが勝手にその世界に持ち込んだものよ。こっちの世界では切り倒される前の木も、切り倒された後の木も、同時に存在しているの」

 確かに母は前にそのようなことを言っていた。意味が分からなくて話を流してしまったけど。

「お母さんは今どこにいるの?」

「過去と現在と未来が共存する世界よ」

 そのとき、紅葉が燃え始めた。まるで、あのときの火事のように。

「これって木材の走馬灯に私の記憶が混ざったってこと!?」

「いいえ。木が事故物件になろうとしているのよ」

 母は淡々と、この上なく冷静に告げた。

「奈々恵の世界で言う明日、その部屋は事故物件になるの」

「事故物件になる? お母さんの話はいつも分からないよ」

「他人に言わせるとお母さんは少し変わっているらしいからね。普通は娘を死なせないように動くものらしいけれど。でもお母さんからすれば、そっちの世界でいつ死のうとも大した問題ではないのよ。だってこっちの世界では、生きている奈々恵と死んでいる奈々恵が同時に存在できるのだから」

 母の周りを炎が取り囲む。あの日の母も、このようにして炎に巻かれたのだろうか。

 母の姿が炎と煙によって、だんだん見えなくなっていく。

「お母さん、苦しいよ」

 母が炎に包まれるのと同時に、私も息苦しくなってきた。海の夢を見ているときは少しも苦しくなんてなかったのに、自然と目から涙があふれてくる。

「さすがに苦しむ奈々恵のことは助けてあげたいけれど、お母さんはもうそっちの世界には干渉できないのよ」

「今、まさに干渉してるよね?」

「逆よ。奈々恵がこっちの世界に干渉しているの。今の奈々恵は、木の走馬灯に干渉し、こっちの世界にも干渉している。夢のような状態よね」

「それって、どうやって……」

「過去と現在と未来のすべてがそっちの世界に揃っていない者の意識は、お母さんのいるこっちの世界に移動するのよ」

「過去と現在と未来が揃ってない……?」

 そんなわけはない。だって私には過去があって、現在があって、未来が……。

 ああ、頭がぼーっとする。さっきまであった息苦しさが消えていく。ふわふわと、ただふわふわとした感覚だけが、私を支配していく。

「奈々恵の現在と未来は、もうそっちの世界には存在しないのよ。そして奈々恵の死をもって、その部屋は事故物件になった」

 母の声が、遠くに聞こえた気がした。






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