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『俺ら、別れよ』と王太子は言った。――こっちから願い下げですわ、この無能!

作者: あもる
掲載日:2026/02/20

 王宮の白亜の大広間は、煌びやかな魔石の灯りに照らされ、着飾った貴族たちの社交の場と化していた。最高級のシャンパンが運ばれ、優雅な旋律が流れる。


 しかし、その華やかさの裏で、公爵令嬢アデライドは、扇子を握る手に滲む汗を堪えていた。


(……眠い。もう三日は、合計で五時間も眠っていないわ……)


 完璧に整えられた縦ロールの髪、一点の曇りもない淑女の微笑み。


 だが、その瞳の奥は深刻な睡眠不足で濁っていた。


 アデライドは次期王妃としての「王妃教育」に明け暮れる日々を送っている。

 

 歴史、語学、礼儀作法、帝王学、果ては魔法理論まで。

 しかし彼女を真に追い詰めていたのは、本来なら婚約者である王太子クロードがやるべき「仕事」の代行だった。


 隣国との通商条約の修正、国境警備隊の予算配分、領地ごとの税率の調整……。


「アデは頭が良いんだから、これくらいちょちょいと直しておいてよ。俺、これから狩り(デート)だし」


 そう言って書類を放り投げるクロードの顔が脳裏に浮かぶ。

 彼は王太子の職務を「ダルい」の一言で片づけ、美味しいところだけを掬い取る天才だった。


 アデライドが血の滲むような思いで仕上げた書類は、翌朝には「王太子の功績」として処理される。


 それがこの三年間、当然のように繰り返されてきたのだ。


「あら、クロード殿下がお見えよ」


 会場がざわめいた。アデライドは意識を現実に引き戻し、背筋を伸ばす。


 入り口に現れたクロードは、いつも以上に浮ついた格好をしていた。


 第一ボタンを外し、首元には緩く結ばれたスカーフ。


 そしてその腕には、見慣れない――そして明らかに場違いなほどフリフリしたドレスを着た男爵令嬢、モニカがしがみついている。


 クロードはアデライドの前まで来ると、エスコートするはずの手を差し出すどころか、ポケットに手を突っ込んで鼻を鳴らした。


「よお、アデ。今日も相変わらずガチガチだな。そんなに肩肘張って、疲れない?」


「……ご挨拶に伺えず失礼いたしました、クロード殿下。そちらの令嬢は……?」


 アデライドが精一杯の礼節を保って問うと、クロードは「ああ、これ?」とモニカの肩を抱き寄せた。


「俺の新しい『運命』。モニカはいいぜ、アデみたいに説教じみたこと言わないし、何より一緒にいて楽しい。……でさ、今日はお前に大事な話があってきたんだ」


 嫌な予感がした。

 だが、アデライドはまだ信じていた。


 いくら馬鹿でも、この公の場で、国王夫妻も出席しているこの夜会で、一線を越えるようなことはしないだろうと。


 しかし、クロードの口から飛び出したのは、あまりにも軽薄で、あまりにも残酷な、異世界の若者のような「軽い」言葉だった。


「俺ら、もう別れよ」


 ――時が止まった。


 オーケストラの演奏が不協和音を奏でて止まり、談笑していた貴族たちが石像のように固まる。


 国王が持っていたワイングラスが床に落ち、パリンと鋭い音を立てて砕け散った。


 王妃はあまりの衝撃に顔を青ざめさせ、こめかみの血管がかつてないほど激しく脈打っているのが遠目にも分かった。


「……殿下。今、なんと仰いましたの?」


 アデライドは震える声で聞き返した。

 しかしクロードは、まるで「明日雨降るらしいよ」とでも言うような気軽さで、さらに言葉を重ねる。


「だから、婚約解消。お前ってさ、真面目すぎて重いんだよね。王妃教育だなんだって、俺にもそれを強要してくるじゃん? あれ、マジでキツいんだわ。これからは価値観の合うモニカと、もっと『自由な恋愛』を楽しみたいっていうかさ。ま、そういうことだから。慰謝料とかは適当に公爵家の方に振り込んどくからさ」


 モニカが「えへへ、クロード様ぁ」と甘ったるい声を出し、彼の胸に顔を埋める。


 アデライドの頭の中で、張り詰めていた最後の一本の糸が、パチンと音を立てて弾け飛んだ。


(……重い?)


 私が、重い?


 あなたが遊び歩いている間、泥水を啜るような思いで内政を整えていたのは誰だと思っているの?


 あなたが「俺、天才じゃね?」と自画自賛していた外交文書を、裏で一睡もせずに徹夜で書き直していたのは誰だと思っているの?


 それを「重い」の一言で切り捨て、この場で、この女と、この台詞……。


 アデライドはゆっくりと視線を上げた。

 その瞳には、もはや淑女の慈愛も、婚約者としての忍耐も、ひとかけらも残っていない。


「……ふふっ、あはははは!」


 静寂に包まれた会場に、アデライドの乾いた笑い声が響く。


 クロードが「え、何、怖いんだけど」とたじろぐ。


「ええ、分かりましたわ。クロード殿下。……いいえ、クロード様。そこまで仰るなら、こちらこそ『願い下げ』ですわ、この粗大ごみ!!!」


 アデライドは、被っていたティアラをむんずと掴むと、それをクロードの足元に叩きつけた。


「誰があなたの『重い』女になどなりたいものですものか! 自分の公務すら私に丸投げし、予算の計算も満足にできず、隣国の名前すら覚えられない無能な男に、三年間も尽くしてきた私の労力を返していただきたいくらいですわ。ですが、もう結構! あなたのような粗大ゴミ、そのお似合いな『運命(笑)』の方に熨斗をつけて差し上げます!」


「は、はあ!? お前、何言って……っ!」


「黙りなさい、この穀潰し! 二度とその不潔な口で私の名前を呼ばないでちょうだい!」


 アデライドはドレスの裾を豪快に掴み上げると、驚愕で言葉を失っている国王夫妻に一瞥をくれた。


「お父様、お母様! 申し訳ありませんが、私、本日を持ちまして王太子妃を辞めさせていただきます! あとの尻拭いは、どうぞその立派な息子さんと、そこにいる男爵令嬢にお任せくださいませ! ごめんあそばせ!!」


 言い放つや否や、アデライドはクロードの足の甲を、尖ったヒールで思い切り踏み抜いた。


「ぐぎゃああああ!?」という情けない悲鳴を背に、彼女は一度も振り返ることなく、風を切って夜会の会場を飛び出した。


 夜風が、驚くほど心地よかった。


 三年間縛られていた「王太子妃」という呪縛が、今の叫びとともに霧散していく。


「あー、清々した! もう知らないわよ、あんな国!」


 アデライドは門番を突き飛ばす勢いで城を抜け出し、真っ直ぐに城下町へと向かった。


 向かう先はただ一つ。自分を「公爵令嬢」としてではなく、「一人の女」として扱ってくれる、あの騒がしい場所だった。




 ◇




 夜会の喧騒が遠ざかる。


 アデライドは、絹の靴が汚れるのも構わず、城下町の石畳を駆け抜けていた。



 背後では、まだ衛兵たちが右往左往している気配がする。

 だが、彼らが本気で自分を捕まえられるはずがない。


 なぜなら、この国の警備体制のシフト表を組み、秘密の抜け道を含めた警備計画を承認したのは、他ならぬアデライド自身なのだから。


「ふふ……あはは! 本当に馬鹿ね、あの男」


 路地裏に入ると、アデライドは慣れた手つきで、豪華だが動きにくいオーバースカートを引き剥がした。


 下に着込んでいたのは、お忍び用の簡素なチュニック。


 さらに、邪魔な縦ロールを指で乱暴に解き、宝石のついた髪飾りをポケットに突っ込む。


 これで、どこから見ても「少し身なりのいい平民の娘」だ。


 彼女が向かったのは、職人や冒険者たちが夜な夜な集う酒場『荒くれ熊の亭』。


 重い木の扉を蹴るようにして開けると、熱気と安酒、そして焦げた肉の匂いがアデライドを包み込んだ。


「おや、お嬢じゃないか。今日は随分と……派手な格好だな。祭りの帰りか?」


 カウンターで大きな包丁を振るっていた店主のガンスが、ニヤリと笑う。


 アデライドはカウンターに飛び乗るような勢いで腰掛け、銀貨を一枚叩きつけた。


「ガンス、一番強いエールを! 樽ごと持ってきてもいいわよ、今日は祝い酒なんだから!」


「祝い酒? なんの祝いだ」


「私が、世界一の馬鹿と縁を切った祝いよ!」


 アデライドが叫ぶと、周囲の冒険者たちがドッと沸いた。


「そりゃめでてぇ!」

「男運が悪かったんだな、お嬢!」

「次は俺にしとけよ!」


 下品だが裏のない笑い声。


 王宮での、毒を孕んだ計算高い微笑みの応酬とは真逆の世界。

 アデライドは、差し出されたジョッキを両手で掴むと、淑女の作法などどこへやら、一気に喉へと流し込んだ。


 喉を焼くような刺激と、鼻に抜ける麦の香り。


(ああ……生きてる。私、やっと生きてるわ……!)


 三杯目のジョッキを空けようとした時だった。


 酒場の騒がしさが、一瞬にして凪いだ。

 入り口に、夜の闇を纏ったような長身の影が立っていたからだ。


 漆黒の甲冑に、深い青の外套。

 腰に下げられた長剣は、この国の最高戦力であることの証。


 現・近衛騎士団長、ジークハルト・フォン・ベルンシュタイン。


「……いた。やはりここか」


 彼は低く、震えるような声で呟くと、迷いのない足取りでアデライドの隣まで歩いてきた。


 アデライドは酔った頭で、へらりと笑う。


「あらぁ、ジーク。仕事熱心ねぇ。もしかして、あの『粗大ゴミ』に頼まれて私を連れ戻しにきたの?」


「まさか」


 ジークハルトは、アデライドの隣に座ると、呆れたようにこめかみを押さえた。


「今の王宮がどうなっているか、想像がつくか? 国王陛下は卒倒し、王妃様はクロード殿下を『この産廃が!』と罵りながら花瓶を投げつけておいでだ。……もっとも、俺も殿下を地下牢に叩き込みたい衝動を抑えるのに必死だったがな」


「あはは! お母様、ついに言っちゃったのね。産廃って」


 アデライドは笑い転げるが、ジークハルトの表情は硬い。


 彼はアデライドの手からジョッキを奪い取ると、それをカウンターに置いた。


「アデ……。あんな公の場で、あんな屈辱を受けて……。お前がどれだけ傷ついたかと思うと、俺は……」


 彼の声が、微かに震えていた。


 ジークハルトとアデライドは幼馴染だ。


 彼が騎士の道を志したのは、王太子妃となることが決まっていたアデライドを、一番近くで守るためだった。


 彼女が夜遅くまで書類仕事に追われ、目の下に隈を作っているのを、彼は誰よりも苦々しく見守ってきたのだ。


「傷ついた? ……ううん、違うのよジーク」


 アデライドはジークハルトの腕に、自分の手を重ねた。


 冷たい甲冑の感触。だが、その下にある彼の体温が、驚くほど熱いことに気づく。


「私、今、人生で一番幸せかもしれない。あの男から解放されて、こうしてあなたと、好きな場所で、好きなお酒を飲める。……ねえ、ジーク。あなたは私を連れ戻しに来たの? それとも……」


 アデライドは、少しだけ潤んだ瞳で彼を見上げた。


「私と一緒に、逃げてくれる?」


 ジークハルトの息が止まった。

 彼は、アデライドの細い指先を、壊れ物を扱うような手つきで握りしめる。


「……逃げる? 俺が、お前を連れて?」


「そうよ。あんな国、もうどうなったっていいわ。明日から大変なことになるもの。私がやってた公務、あいつらじゃ一時間も持たないわよ」


 実際、アデライドは夜会を去る直前、自分の執務室にある「重要な鍵」を全て暖炉に投げ込んできた。


 暗号表も、予算の承認印も、全ては彼女の頭の中にしかない。


 ジークハルトは、低く笑った。

 それは、いつもの冷静な彼からは想像もできない、どこか狂気を孕んだ喜びの笑いだった。


「いいだろう。お前がそう望むなら、地の果てまで連れて行く。……いや、誰にも見つからない場所へ、俺が隠してやる」


 彼は、アデライドの耳元に顔を寄せた。

 酒場の喧騒の中でもはっきりと聞こえる、熱い吐息。


「ずっと、我慢していたんだ。あの無能な男に傅き、お前が削られていくのをただ見ているのは、地獄だった。……アデライド、お前はもう誰の所有物でもない。だが、俺のものになってくれるというなら……誰にも、指一本触れさせない」


 その告白は、騎士の誓いというよりも、一人の男の剥き出しの執着だった。


 アデライドの胸が高鳴る。

 クロードの薄っぺらな「俺ら、別れよ」とは比べ物にならない、魂を揺さぶるような言葉。


「……ジーク。あなた、そんなこと思ってたの?」


 いつの間にやら手にしてたジョッキ。

 ジークハルトは、その中の酒を一気に飲み干すと、言った。


「……酔っていると言って、忘れてもらっても構わない。だが、俺の本心だ」


 ジークハルトは、彼女の指先にそっと唇を落とした。

 その時、酒場の外で騒がしい足音が響く。


「アデライド令嬢を探せ! 騎士団長もどこへ行った!?」


 追手の声だ。

 ジークハルトは、アデライドを抱きかかえるようにして立ち上がった。


「さて。まずは、俺たちの『自由』を邪魔する者たちを、少しばかり片付けてくる。アデ、ここで待っていられるか?」


「いいえ、私も行くわ。……私の新しい人生の、初陣だもの!」


 アデライドは、ガンスから手渡された護身用の短剣を握りしめ、ジークハルトと共に夜の闇へと飛び出した。


 酒場の外、薄暗い路地には十数人の近衛兵がひしめいていた。


 彼らはアデライドを連れ戻し、混乱の極致にある王宮を鎮静化させよとの命を受けていた。


「ジークハルト団長! なぜ令嬢を庇われるのですか! 早く彼女を……」

 

 先頭の兵士が叫び終わる前に、ジークハルトが動いた。


 抜剣すらしない。

 鞘に収まったままの長剣が、まるで生き物のように兵士たちの手元を弾き、膝を折り、あっという間に路地裏に「兵士の山」を築き上げる。


「……弱い。私が教えた基本すら忘れたか」


 ジークハルトの冷徹な声が響く。

 アデライドはその背中越しに、かつて自分が修正した「騎士団訓練マニュアル」を思い出した。


「ジーク、左の三番目! 彼は重心が右に寄ってるわ。足払いで一撃よ」

「了解だ」


 アデライドの的確な指示(という名のダメ出し)を受け、ジークハルトは舞うように追手を無力化していく。


 もはや戦闘ですらない。

 一方的な「お掃除」だ。


 最後の一人を気絶させたジークハルトは、アデライドを軽々と横抱き――いわゆるお姫様抱っこ――にした。


「ジ、ジーク!? 自分で歩けるわよ!」

「いや。これからは俺が、お前を地面に触れさせないくらいに過保護に扱うと決めたんだ。……それに、こっちの方が早い」


 彼は屋根を蹴り、夜の闇へと消えていった。


 一方、その頃の王宮。

 騒ぎからわずか数時間しか経っていないというのに、そこはさながら地獄絵図だった。


「おい、どういうことだ!? この書類、何て書いてあるか全然読めねえんだけど!」


 クロードが執務室で頭を抱えていた。


 目の前には、隣国の使節団から突きつけられた通商条約の最終確認書。


 これまではアデライドが事前に目を通し、クロードが判を押すだけの状態に整理されていた。


 だが、彼女が「鍵を暖炉に投げ捨てた」せいで、最新の暗号表も過去の議事録も、すべてが物理的に封印されていた。


「殿下、あ、あの……アデライド様が裏で直してくださっていた注釈がないと、私共では解読不能でして……」


「はあ!? あいつが勝手にやってただけだろ? 俺の才能があれば……えーっと、なんだこれ、『関税の互恵関係』? ごけいって何だよ、マジで意味わかんねえんだけど!」


 さらに、隣に控えていたはずの「真実の愛」の相手、モニカが、部屋のあまりの殺伐とした空気に震えだす。


「クロード様ぁ……お仕事なんていいから、私を慰めてくださいよぉ……」

「うるせえ! 今それどころじゃねえんだよ! お前、これ読めるか!? 読めねえだろ!」

「ひっ、酷いですぅ! クロード様がそんなに怒るなんてぇ!」


 そこへ、今にも血管が切れそうな国王が乱入してきた。


「クロードォオオ! 隣国の使節が『アデライド嬢がいないなら交渉は決裂だ』と帰っていったぞ! お前、彼女がこの三年間でどれだけの借款をまとめてきたと思っているんだ!」


「えっ、あいつ、ただの秘書代わりじゃなかったの……?」

「この救いようのない馬鹿息子がッ!!」


 王宮の灯りは、その夜、一度も消えることはなかった。


 城下町から少し離れた、ジークハルトが個人的に所有する別荘。

 そこは深い森に囲まれた、静かな石造りの館だった。


 暖炉に火が灯り、アデライドはジークハルトに借りた大きなシャツ一枚に着替えて、ソファに深く沈み込んでいた。


 酔いは少し冷めたが、代わりにジワリとした熱が体の芯に残っている。


「……驚いたわ。ジークが、あんなにハッキリと自分の意志を通すなんて」


 ジークハルトが、温かいココアを持って隣に座る。


「……ずっと、こうしたかった。お前をあんな場所から連れ去って、俺だけが見える場所で、誰の目も気にせずに……」


 彼はアデライドの濡れた髪を、指先で優しく梳く。


 その指が耳たぶに触れ、アデライドは肩を震わせた。


「ジーク。私、もう戻らないわよ。公爵家も、この国も捨てる。……本当にいいの? 騎士団長の地位も、名誉も、全部失うことになるのよ」


 ジークハルトはアデライドの顎をそっと持ち上げ、その潤んだ瞳を真っ直ぐに見つめた。


「地位など、お前を失う痛みに比べればゴミのようなものだ。……アデ。俺は、お前を王妃にするために剣を振ってきたんじゃない。お前を、幸せにするために生きてきたんだ」


 彼の顔が近づく。


「これからは、俺が。……俺だけが、お前の我儘を聞く。……いいか?」


「……我儘、たくさんあるわよ。朝はゆっくり寝たいし、美味しいものも食べたい。それから……」


 アデライドは、ジークハルトの首に腕を回した。


「……今すぐ、キスしてくれないと、嫌」


 ジークハルトの理性が、かすかに音を立てて崩れた。


「……後悔しても、もう返さないぞ」


 重なる唇。


 それはクロードとの事務的なキスとは全く違う、魂を奪い去るような深く、熱い口づけだった。


 外では、アデライドを失った国が崩壊への足音を立てていたが、この小さな館の中だけは、甘い幸福の香りに満たされていた。




 ◇




 アデライドが夜会から姿を消して、三ヶ月が経過した。


 王宮の空気は、もはや「不穏」を通り越して「末期的」であった。


 執務室の床には、処理しきれない書類が雪崩のように積み重なり、腐った果実のような停滞した匂いが漂っている。


「……だから、マジで無理だって言ってるだろ! なんでこんなに数字ばっかなんだよ!」


 王太子クロードは、乱れた髪を掻きむしりながら叫んだ。


 かつての爽やかなチャラ男の面影はなく、目の下にはどす黒い隈が刻まれている。

 彼が手にしているのは、隣国『ヴォルガンド帝国』からの最終通告だ。


「殿下、帝国の特使が『以前アデライド嬢と口頭で合意していた関税割当が適用されていない。これは宣戦布告と受け取っていいのか』と激怒しております……」

「合意!? 知らねえよそんなの! 書類に書いてねえだろ!」

「……アデライド様が全て『暗号化』して管理されていた、極秘事項ですので……」


 そうなのだ。


 アデライドはこの国の脆弱な行政システムを、自分という「超高性能な計算機」を通すことで無理やり維持していた。


 彼女がいなくなった瞬間、国という巨大な歯車は、噛み合わせを失って火を噴き始めたのである。


 予算は底を突き、騎士団は給料未払いで離反者が相次ぎ、外交は四面楚歌。

 そこに、かつての「真実の愛」の相手、モニカが追い打ちをかける。


「クロード様ぁ……最近全然プレゼントしてくれないじゃないですかぁ。ドレスも新作が買えないし、周りの令嬢に馬鹿にされて……もう、私、耐えられません!」


「うるせえ! 今、国が潰れるかどうかって話なんだよ! お前も少しは働けよ、この穀潰しが!」


「ひっ、酷い! クロード様なんて、ただの『無能な元王子』になっちゃえばいいんだわ!」


 モニカは泣き叫びながら部屋を飛び出した。彼女が愛していたのは「王太子」という財布であって、クロードという男ではなかったのだ。


「ああ……クソっ、全部アデライドが悪いんだ。あいつが黙って仕事をしてれば、俺はこんな思いをしなくて済んだのに……!」


 クロードは、責任転嫁という名の現実逃避に縋ることしかできなかった。


 その頃、王都から遠く離れた隣国との国境付近。

 かつては「不毛の地」と呼ばれた辺境領地は、今や驚異的な発展を遂げていた。


 そこには、豪華な装飾を捨て、動きやすい上質な平民服に身を包んだアデライドの姿があった。


 彼女は今、この領地の「事実上の統治者」として、ジークハルトと共に暮らしている。


「アデ、あまり根を詰めすぎるなと言っただろう。休憩の時間だ」


 背後から温かい腕が回り、アデライドの体を引き寄せた。


 ジークハルトだ。彼は騎士団長の地位を捨てたが、その武勇と誠実さは、この地の領民たちから絶大な信頼を得ていた。


「ジーク。でも、この水路の計算を終わらせちゃいたいわ。これができれば、秋にはこの村に金色の麦畑が広がるもの」

「計算なら、俺が手伝おう。お前に教わった通りにやった、昨日の収支報告はどうだった?」

「……完璧すぎて、可愛げがないくらいだったわ」


 アデライドは、ジークハルトの広い胸に背中を預け、幸せそうに目を細めた。


 王宮にいた頃は、自分がやらなければ世界が終わると思っていた。


 だが今は、自分の隣に、自分を理解し、共に歩んでくれる騎士がいる。


 ジークハルトはアデライドのうなじに顔を埋め、深く息を吸い込んだ。


「……お前が笑っているだけで、俺はこの世の全てを手に入れた気分だ。あんな泥船のような国、もう二度と思い出させない」

「ええ。……でも、向こうはそうもいかないみたいよ」


 アデライドの視線の先には、こちらへ向かってくる数台の豪華な(しかし、手入れが行き届いていない)馬車が見えた。


 王家の紋章が刻まれた、あまりにも場違いな訪問者たち。


「……来たわね。私たちの『過去』が」




 村の広場に、泥に汚れた馬車が止まった。


 中から這い出してきたのは、見る影もなくやつれたクロードと、怒りと焦燥で顔を真っ赤にした国王だった。


「アデライド! やっと見つけたぞ、この不届き者が!」


 クロードはアデライドを見つけるなり、指を差して叫んだ。


「お前がいなくなったせいで、どれだけ俺が苦労したと思ってるんだ! 今すぐ戻れ! 特赦を出してやる、また俺の婚約者にしてやるから、あの山積みの書類を全部片付けろ!」


 アデライドは、冷ややかな、それこそゴミを見るような目でクロードを見つめた。


「……クロード殿下。お久しぶりですわね。相変わらず、ご自分の立場を理解していらっしゃらないようで」


「何だと!? 俺は王太子だぞ!」

「いいえ。国王陛下から伺いましたわ。あなたは既に廃嫡が決まり、次期王位継承権を剥奪されたそうではありませんか」


 横にいた国王が、気まずそうに目を逸らした。


「……アデライド、済まなかった。この愚息の不祥事は重々承知している。だが、国が……このままでは我が国は他国に買い叩かれる。頼む、戻ってきてくれ。ジークハルトもだ。お前がいなくては、騎士団が機能しないのだ!」


 国王の懇願。


 かつてなら、アデライドは義務感から頷いていたかもしれない。


 だが今の彼女の隣には、彼女の肩を強く抱きしめ、守るように立つジークハルトがいた。


 ジークハルトが、一歩前に出る。

 その威圧感だけで、クロードはひっくり返りそうになった。


「陛下。……俺は、アデを道具のように扱うあなた方のもとへ戻すつもりはありません。彼女は今、この地の領主代理として、そして俺の妻として、何より一人の女性として、幸せを享受しているのです」


「妻だぁ!? ふざけるな、アデは俺のものだ!」


 クロードが喚き散らす。


「お前みたいな、ただの筋肉ダルマに何ができる! アデ、俺ら、もう一度やり直そうぜ。お前、俺のこと好きだったろ? あの『別れよ』ってのも、あれはちょっとした冗談っていうか、試しだったんだよ!」


 あまりの言葉の軽さに、アデライドは心の底から呆れ果てた。

 彼女は、ジークハルトの手を優しく解くと、クロードの目の前まで歩み寄った。


「クロード様。……あなたは『俺ら、別れよ』と仰いましたわね」

「そ、そうだけど、それは……!」

「その言葉、一秒たりとも忘れたことはありませんわ。あの日、私はあなたを『粗大ゴミ』と呼びましたが、訂正いたします」


 アデライドは、満面の笑みを浮かべた。王妃教育で培われた、最も美しく、そして最も残酷な微笑み。


「あなたはゴミですらありません。ただの『害虫』です。……私があなたを愛していた? ええ、確かにそんな時期もありましたわね。でもそれは、あなたが『まともな人間』になれるという幻想を愛していただけ。……残念ですが、幻想はあの日、あなたのその薄っぺらな言葉と共に、粉々に砕け散りましたの」


 アデライドは、懐から一通の書状を取り出した。


「これは、この国の宗主国である帝国から発行された、私たちの『住民票』です。私たちは既に、あなたの国の国民ですらありません」


「な……!? 勝手な真似を……!」

「勝手なのはどちらかしら? 国を支える人間を自ら放り出しておいて、困ったら戻れ? ……笑わせないで。こっちから願い下げですわ、この無能!!」


 アデライドの凛とした声が、広場に響き渡った。

 クロードはショックのあまり膝をつき、そのまま泥の中に突っ伏した。


「ああ、そうだ。一つ言い忘れていましたわ」


 アデライドは、去り際にクロードの耳元で囁いた。


「あなたが必死に探している『金庫の予備鍵』。あれ、私が暖炉で溶かしたのよ。……頑張って、手計算で一から予算を組み直してね。……まあ、あなたには無理でしょうけれど」


「あ、あ、あああああ!!」


 絶望の叫びを上げるクロードを置き去りにして、アデライドはジークハルトと共に、自分たちの愛する領地へと戻っていった。




 ◇




 その一ヶ月後、クロードは正式に平民へと落とされた。


 モニカは早々に別の貴族へと乗り換えようとしたが、アデライドを侮辱したという噂が広まり、どの社交界からも追放された。


 彼女は今、下町の安酒場で、泥酔した男たちの相手をしながら、かつての贅沢を夢見て泣き明かしているという。


 国王は退位を余儀なくされ、国はアデライドの助言を得た帝国の保護下に入った。


 実質的な属国となったが、民衆にとっては、無能な王族に支配されるより、アデライドが考案した合理的な行政システムの下で暮らす方が、遥かに幸福であった。




 ◇




 かつてアデライドが夢想した結婚式は、冷たい大聖堂の中、何百人もの貴族たちの計算高い視線に晒されながら行う、政治的な「儀式」だった。


 しかし、実際に彼女がジークハルトと挙げた式は、それとは正反対のものだった。


 場所は、二人が開拓を支えた辺境の村の広場。


 教会の鐘ではなく、村人たちが打ち鳴らす手作りの太鼓と笛の音が響く。


 祭壇は、ジークハルトが森から切り出してきた見事な樫の木の下。


 ドレスは、村の女性たちが一針ずつ「女神の加護を」と願いを込めて縫い上げた、純白だが軽やかなものだ。


「……ジーク、緊張してる?」


 ベール越しに、アデライドが悪戯っぽく囁く。

 隣に立つジークハルトは、かつての近衛騎士団長の面影をどこへやら、耳まで真っ赤にして直立不動でいた。


「……ああ。戦場よりも、王宮の陰謀劇よりも、今が一番、心臓に悪い」


「ふふ、可愛いわね」


 アデライドがその大きな手を握ると、ジークハルトは意を決したように彼女を見つめ返した。


「アデライド。……俺は、お前を王妃にはできなかった。だが、この地の誰よりも、世界の誰よりも、お前を自由に、そして幸せにすると誓う。この命が尽きるまで、俺の剣はお前を守るためだけにあり、俺の心はお前を愛するためだけにある」


 神官の言葉よりも先に紡がれた、あまりにも愚直で、あまりにも誠実な愛の告白。


 村人たちの歓声の中、二人は誓いの口づけを交わした。それは、公爵令嬢でも騎士団長でもない、ただの「アデ」と「ジーク」としての、新しい人生の始まりだった。




 それから、数年の月日が流れた。


 かつて「不毛の地」と呼ばれた辺境は、今や帝国からも注目される「奇跡の農村」へと変貌を遂げていた。


 アデライドが導入した効率的な灌漑システムと、ジークハルトが指導した防犯体制によって、民は豊かに、そして安全に暮らしている。


 そんな村の外れにある、緑豊かな丘の上に建つ一軒の家。

 そこには、二人の愛の結晶である二人の子供たちの笑い声が響いていた。


「お兄ちゃん、待って! それ、私がパパからもらった木剣なんだから!」

「あはは、捕まえてごらんよ! 」


 追いかけっこをしているのは、ジークハルト譲りの黒髪に、アデライドそっくりの勝気で知的な瞳を持つ長男のリュカ。そして、アデライドの美しい金髪を受け継ぎ、幼いながらもジークハルトのような身体能力の片鱗を見せる長女のエルナだ。


「こらこら、二人とも。あまり泥だらけになると、今日のお客様に失礼よ?」


 エプロン姿のアデライドが、テラスから声をかける。彼女の顔には、かつての夜会で見せていた「完璧な仮面」ではなく、穏やかで慈愛に満ちた、心からの微笑みが浮かんでいた。


 そこへ、畑仕事を終えたジークハルトが戻ってくる。

 その肩には、獲りたての立派なカボチャが担がれていた。


「アデ、今日の分だ。……それと、村の入り口に『例の二人』が着いたらしい」


 アデライドは目を輝かせた。


「まあ! 予定より早かったわね。急いで準備しなくちゃ」




 ほどなくして、村の小道を歩いてくる二人連れがあった。


 一人は、がっしりとした体格を地味な旅装束で包んだ、鋭い眼光を持つ男。


 もう一人は、頭に手拭いを巻き、麻のワンピースを着こなした、気品溢れる美女。


 一見すれば「少し裕福な旅の夫婦」にしか見えないが、その正体はこの大陸最強の国家、ヴォルガンド帝国の主――皇帝アルフレートと皇后エレオノーラである。


「やあ、アデ。相変わらずこの村の空気は旨いな。……あと、そこの元騎士団長。そのカボチャ、俺にも一つ分けてくれ。去年のやつは、エレオノーラがいたく気に入ってな」


 皇帝アルフレートが、気さくに手を挙げる。


「陛下、お忍びとはいえ、もう少し威厳を持たれてはいかがですか? 護衛を撒いてまでこんな辺境に来るなんて、宰相閣下がまた泣いていますわよ」


 アデライドが呆れたように言うと、皇后エレオノーラがクスクスと笑った。


「いいのよアデライド。あの人、宮殿にいる時より、ここであなたと『今年の小麦の出来』について議論している時の方が、ずっと生き生きしているんですもの」


 かつて、国を捨てて亡命同然でやってきたアデライドを、その類まれなる知見と誠実さを見込んで受け入れたのが、この皇帝夫妻だった。


 最初は「優秀な駒」としての付き合いだったかもしれない。


 しかし、アデライドがもたらす革新的な内政案と、ジークハルトの圧倒的な武勇、そして何より二人の「裏表のない人間性」に、皇帝たちはいつしか公務を忘れて友情を感じるようになったのだ。


「さあ、立ち話も何ですから。今日はこれから、裏の畑の収穫を手伝っていただきますわよ。陛下も、土に触れれば少しはストレスが解消されるでしょう?」


「ははは! 帝国最強の男に土いじりをさせるとは。……よし、ジークハルト。どっちが早く一列掘り終わるか勝負だ!」


「望むところです、陛下」


 一国の皇帝と、伝説の騎士。


 二人の大男が、子供たちに混じって泥だらけになりながらジャガイモを掘る。


 その横で、アデライドとエレオノーラは、ハーブティーを飲みながら家庭菜園の悩みや、子供たちの教育について語り合う。


 そこには、国境も地位も、かつての屈辱も存在しない。


 ただ、共通の志と信頼で結ばれた、一人の人間としての時間が流れていた。




 夕暮れ時。


 皇帝夫妻を村の宿へと送り出した後(彼らは最後まで「この家に泊めてくれ」と駄々をこねていたが)、アデライドとジークハルトは、丘の上の特等席で沈みゆく夕日を眺めていた。


 子供たちは遊び疲れて、家の中で仲良く昼寝をしている。


「……ねえ、ジーク」


 アデライドが、ジークハルトの肩に頭を乗せた。


「時々、思うの。もしあの日、あの夜会で、私が自分を押し殺して、あの『無能』の言葉を受け流していたら、今頃どうなっていただろうって」


 ジークハルトは、彼女の肩を抱き寄せ、その髪にそっと口づけた。


「……お前なら、きっと一人で国を立て直していただろうな。だが、その瞳に今の輝きはなかったはずだ。そして俺は……一生、物陰からお前の不幸を見守るだけの、抜け殻のような男になっていただろう」


「そうね。……あの日、思いっきり叫んで良かった。『こっちから願い下げですわ!』って」


 アデライドは、自分の掌を見た。かつてはペンのインクで汚れ、書類の山に埋もれていた手。


 今は、土の香りがし、愛する家族の温もりを知っている手。


 かつての婚約者、クロードが今どうしているかは、風の噂で知っている。


 彼はアデライドがいなくなった後の国を回しきれず、結局は帝国への従属を余儀なくされた。


 今は地方の小さな村で、慣れない労働に文句を言いながら、かつての「王太子」という虚飾に縋って生きているという。


 モニカも、贅沢ができなくなった途端に彼を見捨て、別の男を求めて街を彷徨っているらしい。


 だが、アデライドにとって、それはもう「どうでもいいこと」だった。


 恨みすら、もう残っていない。


 ただ、自分を幸せにしてくれた今の環境と、隣にいるこの男に、心からの感謝があるだけだ。


「ジーク。私、明日も、明後日も、百年後も。……あなたの隣で、この景色を見ていたいわ」


「ああ。百年でも、その先でも。俺は何度だって、お前を見つけ出し、お前の騎士になろう」


 沈みゆく太陽が、辺境の地を黄金色に染め上げる。


 それは、かつての王宮のどの金細工よりも美しく、何物にも代えがたい、本物の「黄金の人生」の輝きだった。


 アデライドは、幸せな溜息を一つ吐くと、最愛の夫の胸の中で、静かに目を閉じた。


(――おやすみなさい、私の愛しい世界)


 彼女の唇には、世界で一番幸せな「願い下げ」から始まった、最高のハッピーエンドの微笑みが刻まれていた。


(完)

いかがでしたでしょうか。

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